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眠那影俄仁那琉

『フェイブルマンズ』(2022)力が欲しいか ならばくれてやる

監督:スティーヴン・スピルバーグ
ネタバレしてます。

面白いと思いながら観ていたが、同時になんでこの映画が面白いんだろうかとも思っていた。
スピルバーグの自伝的映画で、尚且つ彼自身が撮ったというメタ情報がなくても面白い映画だった。

伊藤計劃が『宇宙戦争』について、映画冒頭のただの親子のキャッチボールを暴力的に見せるスピルバーグの演出について触れていたが、そんな風に、ただ変わり者のおじさんが家に訪ねて来るだけのことを、やたら運命的な出来事のように描くし、家族でキャンプしているだけなのに、一見キャンプに見える何かであるようにそれは描かれている。
今スクリーンに映る出来事と、その見え方に不自然な点はない。
それらはとても自然なのに、それが自然に見えることが、そもそもおかしいような、そんな感覚に見ていると襲われる映画だった。

たぶんこの映画は、
「子供の頃から映画を撮り続けて、映画の持つ力や映画が現実にもたらす影響に、否応なく気づいていった。それは、家族との出来事と不可分な気づきだった。
だからいつか、その力を使って家族を描かなくてはならないと思った。」
ということなのだろうと思う。
言葉にすると、なるほどそういうことかと思うかもしれないが、その時にスピルバーグにおける「映画の力」とやらが、途方もないことが最大の魅力であり、問題であるかもしれない。

「まるで黄金」のようにサミーが撮ったスクールカーストで言うところのジョックな彼は、「俺の足が速いのは練習したからだ」とサミーに訴える。
彼は自己像との相違に反発したのではなく、あつらえられたように自身が映し出されたことに反発したのだ。
それは映画の持つ、運命的で神話的な「見た目(という力)」に対する反発だろう。
中心に据えられた者は価値のあるなにかになる。選ばれし者となる。
まるで自分自身が自分のものではないような、運命の作用する選ばれし者であるかのような漠然とした不安に彼は襲われたのだろう。

自分のもとを去り、アリゾナへ行った妻の写真を見つめる父親を色味の無い天井をバックに捉えた煽りのショットは中心を無くし、父親の姿は実態と影に分裂し、離人的な様相を呈している。
なにかを目撃した人が、盲目的に深い悲しみに捉えられる一瞬を、こんな風に撮れる力。
その実態に見える姿ですら光の痕跡でしかなく、それを同じく光の痕跡である影と左右に分裂したように同等に捉えることで、その人の存在すら危うくしてしまう。

このように少しあげただけでも、この映画が描く「映画の力」は非常に危険なものだ。
これを2時間以上かけてこんこんとやっている。
これはもう大変危険ななにかだと言わざるを得ない。
家族との出来事を描きながら、この「映画の力」が地響きのように轟いている、それが『フェイブルマンズ』だ。
あなたはスピルバーグプロパガンダ映画を撮ったらと考えたことはあるだろうか。
私はある。