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『レヴェナント:蘇えりし者』(2015年)感想・ネタバレ

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ


公開中に観ようと思っていて、なんだかんだで忘れていてアマプラ特典にラインナップされていたので先日観ました。
映画館で観れば良かった!

エマニュエル・ルベツキの撮影が凄まじかったですね。冒頭からアクションはスピルバーグ、夢の中などはタルコフスキーという感じ。
空にかかる月を、本当に地上から見るみたいに小さく映すことに感動しました。

物語に関しては、名だたる賞を受賞した話題作ということもあり、それなりに作品評が出尽くしているのかなと思ったのですが、私の感想と近いものが見当たらなかったので書いています。
(※以下文では白人という人種の俗称を使用しますが、主にそれはアメリカ大陸への入植者を意味する言葉として使用しています。)



まず思ったのが、本来なら主人公グラス(レオナルド・ディカプリオ)の悲しみや怒りは、ネイティブアメリカンの抱えるものなのではないかということです(劇中でもそのことに言及するかのように似た境遇のポーニー族のヒクク(アーサー・レッドクラウド)が登場する)。しかし、この映画はネイティブアメリカンの抱える悲しみや怒りを体現する者を白人俳優に演じさせています。
主人公のヒュー・グラスにはモデルとなる実在の人物がいて、『レヴェナント』は彼の逸話をベースにして作られた物語ですが、グラスの逸話はアメリカ西部開拓時代のビックリ人間的なもので、『レヴェナント』の根底に流れる重苦しさとは様相が違いますし、アメリカでは有名なグラスの罠猟師という職業が、『レヴェナント』ではグラスの敵役として登場するフィッツジェラルドトム・ハーディ)に設定されていることや、フィッツジェラルドの最期が、実在のグラスと同じくアリカラ族による殺害であることが気になります。


いくつかのレビューで、この映画は「信仰の回復」を描いていると書かれていました。この映画には宗教的なモチーフが散見され、タルコフスキーを思わせる表現も見られることから、そのように読み解いたのでしょうが、「信仰の回復」を本当に描いているのだとしたら、それは道義的に許されることなのでしょうか。
ネイティブアメリカンの抱える悲しみや怒りを白人俳優に体現させてキリスト教「信仰の回復」を描いているのだとしたら、それはすごく身勝手だし、いやネイティブアメリカンの教えに目覚めるのだ、としても劇中でずっとグラスはネイティブアメリカンの教えと思われる妻の言葉を受け入れて生きる糧にしている様子なのでこれまたピンときません。
どちらにしてもイニャリトゥ監督はそのような映画は撮らないはずですし、その内容ならディカプリオもあそこまで頑張れないだろう、という本編から外れたところから推測して、仮定として導き出した主題が、「キリスト教が内包する欺瞞」について描いているのではないか、でした。
ネイティブアメリカンの抱える悲しみや怒りを白人俳優に体現させても道義的に問題ない主題というのはすごく限られてくると思うのですが、「キリスト教が内包する欺瞞」なら当事者は白人で、その犠牲者はネイティブアメリカンであり白人自身でもあると思うのです。
グラスの息子ホーク(フォレスト・グッドラック)の容貌に白人の特徴がない(劇中に「混血」という台詞はある)ことなども、彼がキリスト教の欺瞞による紛うことなき犠牲者という表象の現れなのではないでしょうか。
前述したグラスとフィッツジェラルドの錯綜した設定や、グラスは熊に喉をやられてほとんどしゃべれないのに対して、フィッツジェラルドは劇中最もしゃべる役であることや、カメラにかかるグラスの息(この映画では、「息」が生命を維持するための行動の最小単位のように語られ、重要な意味を持つ)が雪山を望む空に流れる雲につながり、それがフィッツジェラルドの吐くタバコの煙につながるなどの描写から、二人は分かちがたい存在として描かれています。


そのフィッツジェラルドは、様々なタイミングで都合よくキリスト教の教えを持ち出します。グラスを殺そうとした時もそうですし、彼を見捨てたことに苦悩するブリッジャー(ウィル・ポールター)に掛ける言葉もそうです。彼にとっての信仰は、欲望を遂げるために思考を停止させてくれる都合のよいものです。それはヒククを「野蛮人」として殺害した他の入植者と同じであり、西部開拓時代にネイティブアメリカンを「野蛮人」として迫害したキリスト教徒たちの振る舞いそのものとして描かれています。
またネイティブアメリカンにやられたと語るフィッツジェラルドの頭部の損傷は、その見た目から聖職者が頭頂部の髪の毛を円形状に剃る「トンスラ」と呼ばれる髪型を暗に模したものであり、その見た目からも「キリスト教が内包する欺瞞」を体現する人物として描かれています。
(「トンスラ」参照サイトhttps://www.pauline.or.jp/chripedia/mame_Tonsure.php
そうすると映画終盤でアンドリュー・ヘンリー(ドーナル・グリーソン)がフィッツジェラルドに頭頂部の皮を剥がされている意味も見えてきます。
この映画はいわゆる復讐もので、ヘンリーは一見すると主人公の味方側のように見えてしまう立ち位置の人物ですが、「トンスラ」を模してみせることで、彼もまた「キリスト教が内包する欺瞞」を体現する者の一人であることが示されています。



対するグラスは、彼らの欺瞞を暴く者として蘇えります。彼らは自身の加虐性をキリスト教の教えのもとに黙殺していますが、それを自覚している彼らの内なる分身がグラスなのです。なぜなら、西部開拓時代にネイティブアメリカンに相対し、その時なにをし、なにを思ったのか、それを知るのは彼ら自身だからです。
映画終盤フィッツジェラルドはグラスに「お前と俺は話がついていた。お前も分かってるだろ、あの山で起きたことは神がすべて知っている」と語りかけます。それに対しグラスは「話など、ついていなかった」と答えます。フィッツジェラルドは、見殺しにした自身の内なる声に追いつかれ、自己欺瞞を暴かれていきます。


グラスの夢の中に廃墟となった教会が登場し、そこに佇む黒山羊がやがて息子のホークとなり、抱きしめると「木の幹」になる場面があります。黒山羊という犠牲の象徴が息子となりやがて「木の幹」となる。
この映画において、「木の幹」は重要な意味を持ちます。
〈嵐が吹きすさぶ時に…〉〈木の前にたつといい〉〈揺れる枝を見ると 木が倒れそうに思える〉〈でも 幹を見ると びくとも動かない〉
これは、グラスが瀕死状態の時に見た夢の中で聞く妻の言葉ですが、この言葉を単純に解釈するならば、「木の幹」は困難に見舞われた時にも決して揺るがないものの例えのようです。
ではグラスがフィッツジェラルドに「お前は俺の息子を殺した」と告げる時、それは何を意味するのでしょうか。フィッツジェラルドはホークを殺害することによってなにを失ってしまったのでしょうか。「キリスト教が内包する欺瞞」に目を背け、キリスト教の教えのもとに欲望を遂げた時、彼らはなにを失ってしまったのでしょうか。
おそらくそれは、尊厳や誇りといったものなのではないでしょうか。
そしてそれは西部開拓時代においてキリスト教の教えのもとに働いた蛮行により、彼らがネイティブアメリカンから奪ったものであり、彼ら自身が犠牲にしたものでもあり、それらはすでに失われてしまい戻ってはこないのです。


そして最後のあの印象的なラストショット、グラスのカメラ目線をどう解釈するかですが、これを読み解くには、前述のフィッツジェラルドの台詞と、フィッツジェラルドがブリッジャーに語る父親のエピソードがヒントになります。

小賢しい見方で恐縮ですが、そもそも長尺の割に台詞が極端に少ない映画において、劇中で語られるエピソードというものは、もう絶対に重要な話なのです。
「親父は飢え、気が変になり(中略)親父は信仰に目覚めた。親父が言ってた“その瞬間-神を見つけた”と、だがなんと-その神は…リスだった。そう、よく太ったリスだ」
飢えた極限状態の時に最も渇望する食料が目の前に現れたことで神を感じたという、ご都合主義的信仰を語るエピソードですが、このフィッツジェラルドの語る父親の“神を見つけた”というシチュエーションは、ラストシークエンスのグラスに重なります。
ラストシークエンスのグラスは、それまで夢の中で見ていた妻の姿の幻覚を見ます。そのような極限状態にあるグラスが、それまで幻覚を見ていた方向からまるでなにかを見つけたようにカメラがある方に目線を移し、カメラを見つめます。そこで画面は暗転し、グラスの息をする音が響いて映画は終わります。


ラストショットの解釈の前に、この映画を観て何より驚いたカメラの存在感について書いておかなければなりません。この映画はカメラの存在を隠しません。隠さないどころか、フィクション映画にあるまじきレベルでカメラがその存在を主張しています。
この映画では、カメラに息がかかったり、湯気がかかったり、雪がついたり、血しぶきがついたりするのですが、グラスとフィッツジェラルドの決闘の長回し場面のレンズにつく血しぶきを見ると、わざわざCGでレンズに血しぶきをつけていることがわかります(血しぶきはワンカット中にカメラレンズについては消えるを繰り返す)。


なぜこのようにカメラの存在を『レヴェナント』が強調するかというと、この物語には目撃者が必要だからです。
キリスト教が内包する欺瞞」を暴く者としてグラスは蘇えりました。そして彼は死に物狂いで欺瞞を暴きました。
フィッツジェラルドの「お前と俺は話がついていた。お前も分かってるだろ、あの山で起きたことは神がすべて知っている」という台詞の中で語られる「神」とは誰でもない私たちのことです。あの山で起きたこと、二人しか知らないことを私たちは観ていました。
あのラストショットは、グラスが極限状態の中、最も渇望する目撃者をそこに見つけた瞬間を描いています。私たちはグラスにとっての「太ったリス」であり「神」なのです。
私たち鑑賞者をそのような存在として位置づけることで、彼の最後の眼差しは、その「神」が信じるに足る存在であるか否かの問いかけでもあるようです。
自分自身を信じることができるか。
自分自身を信じるところから尊厳や誇りが生まれるのだと言いたいのかもしれません。





彼らが尊厳や誇りを失くしているが故に、幽霊のような者としてグラスが描かれているのを見ると、イーストウッドの『ミスティック・リバー』(2003年)を思い出します。
グラスに対して息子を「もっと男らしい奴に育てるべきだったな」というフィッツジェラルドの台詞から、尊厳や誇りとアメリカの男性性のようなものにはなにか齟齬があるんですかね。イーストウッドの『アメリカン・スナイパー』(2014年)でもそんな感じの描き方をしていたような。