『ドッペルゲンガー』(2003)について先日書いたが、 その後、批評をネットで見ていたら、大場正明氏のHPに、カルチャー雑誌「Cut」の連載で掲載した『ドッペルゲンガー』 評を、抜粋のうえ加筆したものがあったので読んだ。
https://crisscross.jp/html/a10to017.htm
そこに過去のインタビューで『ドッペルゲンガー』 について黒沢清が次のように言っていた、とある。
「もう完成してますが、公開はまだ先のことで、ずばりコメディですね。ふざけた映画です。 境界は露骨に絡んできますね。これはコメディだから成立した映画なんですけど、ひとつだったものがふたつに割れる。まさにドッペルゲンガー( 分身)なんですけど、最終的にそのふたつが融合する。でも、もとに戻るのかというと全然戻らない」
黒沢の映画が語られる時、よく「境界」という単語が使われる。
インタビューの流れもあるだろうが、ここでは黒沢本人も「境界」という単語を使っている。
黒沢はJホラー界隈で撮っていた時期があり、 その頃の作品は今でも根強い人気があるためホラーのイメージがあ るのか、この境界を、この世とあの世の境界と想定して語る人が多いように思うが、そんなオカルトめいた、あるんだかないんだか分からない境界について考えたところで埒が 明かないと私は思う。
映画を見ていると、こちらとは違う世界が目の前に広がっているように感じる。
その時、あちらとこちらという境界が生じている。
ドッペルゲンガーという現象によって、早崎もあちらとこちらに分かれる。あちらの早崎、こちらの早崎という具合に。
前回の記事で「椅子に座ることによって、あたかもスクリーンに自身の欲望を見出す観客のように、早崎はスクリーンに( なぜなら早崎はすでにスクリーン上にあるから) 自身の欲望を出現させたのではないか」と書いたが、私たち鑑賞者と映画の間にある境界を、『ドッペルゲンガー』 は早崎の分裂という現象を用いて疑似的に再現しているのではな いか。
そしてそれは「最終的にそのふたつが融合する。でも、もとに戻るのかというと全然戻らない」のである。
ということは、映画を見ると「最終的に映画と鑑賞者は融合する。 でも、映画が終わって、 鑑賞者は映画を見る前に戻るかというと全然戻らない」ということではないのか。
前回の記事で、鑑賞者を欲望する者と書いたが、『 ドッペルゲンガー』の登場人物たちの欲望は、あたかも鑑賞者の欲望のように提示されている。
あの露悪的な欲望にのってものらなくても、見たら融合するのだろう。
この融合という言葉には、内容如何を問わず、 意思の介入も許さない、不可抗力な雰囲気が漂っている。
2003年の『ドッペルゲンガー』公開当時なら、 そうは言っても融合したような、してないようなと半信半疑に受け止めていたかもしれないが、2011年の東日本大震災で津波の映像を見すぎて見れなくなってしまった経験から、見ることが自身の身に作用を及ぼすことはもう知っている。
そう、見てしまったら、見る前には全然戻らない。