隠喩やメタファーという言葉を使用することに抵抗があるのですが、理由は黒沢清について書く際に「映画の中に現れる水面はスクリーンの暗喩である」というのが実は不正確であることに起因しています。
「水面はスクリーンのメタファーである」もそうですが、本当は「映画の中に現れる水面は原初のスクリーンである」が正しく言いたいことなのに、それが分かりにくいというのと、明暗で隔てられる窓ガラス(LOFTや降霊)や半透明の遮蔽物もスクリーンなわけですから、これらはなんと言うのが適切か?と考えていたら、ただただ力が及ばないために煩雑になるだけのような気がして思っているところをそのまま正確に文章化できないでいます。
「黒沢清は映画のスクリーンをハーフミラーと同様の機能を持ったものと考えている」みたいな書き方でなんとかしのごうとしていましたが、『回路』において「開かずの間」の起源をカメラ・オブスクラと呼ばれる自然発生した映画館みたいなものとして描いたことをよくよく考えると、映画館自体、ほとんど自然物を人工化した装置であり、太古より存在し続けていたなにかを1895年にリュミエール兄弟が形にして見せたのが映画かもしれず、そうするとスクリーンというものを何か固定の概念のようにして、その暗喩である・メタファーであると書くのは違うのではないかという思いを強くしているところです。
だから逆なんでしょうね。
スクリーンは水面のメタファーであり、明暗で隔てられる窓ガラスや半透明の遮蔽物のメタファーなんですよね。
そしてこのように正確に書こうとすると、どこにも概念など無いことに気づきます。
水面にも明暗で隔てられる窓ガラスや半透明の遮蔽物にも概念などない、ただそれを見つめるしかないなんて、まるで『散歩する侵略者』のラストみたいです。