監督:デヴィッド・ロバート・ミッチェル
※ネタバレしています。

ハリウッドの「原作もの」「懐古趣味」映画に対するカウンタームービーなんだろうなと思いながら観ていました。
どの場面も文章にすると、おそらく一ミリも面白くない。
でも、映画になると面白いという場面の連続です。
異変が起こった後のリビングで行われる家族会議場面なんて、何の情報も持っていない家族4人が動きもなく話しているだけなので、本来ならまったく面白くない。この家族の関係性なり、それぞれがこの状況をどう理解しているかを説明するための場面です。それを、文章には書けないスプリット・ディオプターを用いたトリッキーな面白ショットでつなぐ。
家の2階の小さい窓から見える、ひたすら毛むくじゃらな何かを驚愕した面持ちで見守る家族の顔芸。いけ好かない隣人が屋根上で翼竜に襲われる様を、まるで映画を観るように窓フレーム越しに眺める場面なども文章では面白くならないでしょう。
この映画は「原作もの」ではないから因果は描かれず、フリとオチのみで構成されています。
因果なら、街に異変が起こって大変な状況になっているのに、相変わらず夫婦喧嘩をする父と母の声を自室で泣きながら聞いている姉が自暴自棄になって、危険な外に飛び出すのでしょうが、これはフリなので、因果としては繋がらずに、自室でヘッドホンをつけて音楽を聴いていて夫婦喧嘩が聞こえていなかった弟が、行方不明だった飼い犬の姿を庭に見つけて、思わず外に飛び出します。
フリとオチでいいのです。理由なんていらない。滑らかに場面がつながれば、因果が描かれなくても、立ち止まることなく流れるように鑑賞できてしまう。
物語を追う必要はありません。前に見た場面で外のプールにいた、ウナギみたいな蛇みたいなウツボみたいな大きくて白いうねうねしたやつ。という前提情報があるだけで、あれがなんなのかまったく分からなくても、「また出た」というだけで、受け入れてしまえる場面を追っていけばいいのです。
「懐古趣味」に則った1982年という設定にいたっては、まず、オリジナル脚本でも企画が通りやすいでしょう。
そして、みんなが良く知っている、80年代のサバービア映画に出てきた「問題を抱えた家族」を出すことで、流れやオチの検討がつくので、これまた細かい説明なしに効率よく場面を見せていけるわけです。
『グレムリン』もそうですが、前提の説明が省略された『グレムリン2 新・種・誕・生』(1990)の方がテンポ良くて面白いと言われたりするので、そういう意味で「懐古趣味」として登場する、かつてのサバービア映画に出てきた「問題を抱えた家族」を、前提説明がすでになされた登場人物として利用し、テンポを優先させています。
デヴィッド・ロバート・ミッチェルは、『イット・フォローズ』(2014)でも、家族写真などの人物写真を頻繁に使っていた印象があるのですが、登場人物のバックグラウンドなり、簡単な説明をセリフに入れる代わりに、棚の上に飾られた写真なり壁に飾られた写真なりで見せることで、人物に効果的な厚みを出していました。
あの状況でもアン・ハサウェイ扮する母親が、ポラロイドカメラを手荷物として持ち歩いている様子から、この映画は『イット・フォローズ』で、いかにも映画学校主席のような映画を撮っていたデヴィッド・ロバート・ミッチェルが、意味内容をかなぐり捨てて開き直って撮っているわけでもないようです。
ラストの執筆する母親の傍らに置かれた『オークストリートの異変』という本ですが、あれがオチのように見えてしまうというところにこそ、立ち止まらなくてはならないのだと思います。
この映画がここまでずっとフリとオチで進んできたのだとしたら、あの本もまた、オチのひとつに過ぎないのではないか。そう疑ってみたほうがいい。
この映画の原作小説は絶対面白くない。文章で書かれても全然面白くないはずです。だから売れないし、映画化なんてしない。
なぜなら、お姉ちゃんはナイフで凶暴なガチョウみたいな恐竜と、お父さんはハンマーで毛むくじゃらのティラノサウルスみたいな恐竜と渡り合うのに、グエムルの主人公の妹みたいな思わせぶりな弟の弓は、まったく仕事をしません。
どうですか、こんな話。そもそも本になりますか。
だからラストは、壁に貼られたユアンマクレガーのあのポラ写真と、本のどちらを取るか、観客に委ねられた逆説的な選択オチです。
母親は小説を書いていましたが、それはやはりフリで、あの本はオチに過ぎない。今まで観てきた映画を信じるなら、あの本が原作だという因果はないのです。




