おおよそ現実に存在する女とは思えない『カリスマ』の千鶴と『Cloud クラウド』の秋子。
先日『Cloud クラウド』を見直したのですが、あらためて見てみると「不思議の国のアリス」のような話でした。
さしずめ秋子はチェシャ猫で、実体のない存在のように、消えたり、現れたりします。

ずっと彼女たちを、女を概念化した何かだと思っていたのですが、そこから考えは進まず、ああでもないこうでもないとゆらゆら考えていたのですが、不意にSNSの投稿でラカンの「<女>は男の症候である」という言葉を目にして、そもそも概念だと考えていたのが間違いであると気づかされました。
ただこの症候というか、そもそもラカンについて知識がなく、この思想を理解するのに手間取っていまして、「<女>は男の症候である」という一文から導き出せる部分で、インスピレーションが働いたわけですが、いざ落とし込もうとすると難しいなと思っているところです。
・社会的な枠組みの中に存在する主体である男の症候として<女>がある。
・<女>は症候であるから存在しない。
こういうことですよね?
『Cloud クラウド』で秋子は、資本主義社会において、前提として想定されているところの人間の欲望として描かれていたように思います。
この場合、(資本主義)社会において人間(社会的な枠組みの中に存在する主体)の症候として秋子は描かれている、と言えると思うのです。
『カリスマ』では千鶴がアタッシュケースに入れられた大金を奪う女として描かれていました。
そして、映画終盤の混沌の中で彼女は殺されてしまいます。
これは、ラカンがいう<女>が、社会的な枠組みの中に存在する主体の欠如や欲望の症候としての現れであって、混沌によってこの枠組みが崩れれば、枠組の中で相対化されて生じた欲望は、その価値を失うため、消滅するということなのでしょうか。

そうなら『Cloud クラウド』も秋子は殺されてしまうわけですから、『カリスマ』のような社会的な枠組みが崩れた世界へ移行したともとれるのですが、引っかかるのは、秋子の死に吉井が泣き崩れることです。
いや、結婚まで考えていた女性が死ぬのですから悲しいですよね。それは分かります。
でも吉井に関心があるのではなく、吉井のキャッシュカードに執着する女が死んだという描かれ方をするので、吉井と鑑賞者には、秋子の死に対するギャップがあるわけです。
そしてこれは「吉井ってお人よしだな」という話しではないと思うのです。
勝ち確転売ヤーが資本主義社会の象徴のように描かれいる、それが吉井です。
となると資本主義の権化が秋子の喪失に泣く意味ってなんだろう、となるわけです。
もし吉井が、あの売れるんだか売れないんだか分からない商品に一喜一憂する人生から解放されたかったのなら、これは、資本主義が資本主義から解放されたいのなら、ということと同義です。
そうなら、女を症候としてではなく、社会的な枠組みの中に存在させるしか道はなかったんじゃないか、と思うわけです。
「公共の女」として社会の枠組みの中で透明化しているものを、目に見える形で存在させることができれば、そうすると社会主義っぽくなるんでしょうか、わからないですけど、資本主義は今の形を保つことも、このまま精鋭化していくことも叶わないのではないか、と思うのです。
stevenspielberg.hatenablog.com
症候としての<女>は、資本主義の大前提である欲望や欠如を担っています。
<女>を症候とする限り、この前提は崩れません。
<女>は症候であるから存在しないのです。
なら資本主義の大前提である欲望や欠如は存在しない。
ラカンの思想を援用すれば資本主義の大前提は崩れるのではないか、というようなことをですね、AIに聞いていたらジジェクを読めと言われました。
ジジェクが書いているらしいです。
あの、私はジジェクは伊藤計劃のブログで言及されているのしか知らなくて、本当に分からないので読んでみようとは思っていますが、そう、問題は黒沢清ですよね。
資本主義の大前提と思われた欠如や欲望という症候としての<女>が消える。しかし資本主義は少しも揺らがない。
ということは、もはや資本主義にとって欠如も欲望も意味はないということです。
この映画で、吉井がバイクでフルフェイスのヘルメットを被っていたり、頭に布をかぶせられて連れ去られたり、ラストの照明で吉井の顔がデスマスクみたいに見えてたのって、あれですかね。
マルクスのいう「経済的性格の仮面」の暗喩だったんですかね。
吉井だけではなくて、登場人物はみな、役割・担当があって、経済メカニズムに支配されて、振り回されてて、それが明らかになったところは「金儲けのことだけ考えてればいい」みたいな世界で、暴いても暴いても仮面が続くような中国の変面みたいな実態のないもので、経済システムが映画の真の主人公だったみたいな、ジェットコースタームービーです。『Cloud クラウド』という映画は。おそらく。
もはやこの世には、千鶴も秋子も存在しないはずです。
症候としての<女>は消えた。そして女も存在しない。
では今は、症候もなく、社会的な枠組みの中のもはや誰も主体ですらない世界ということでしょうか。
社会はまさしくCloud(雲)として、主体消滅により、枠組という輪郭を失って漂いながら、実体のないネット空間の差異の操作によって蠢いているかのようです。


