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黒沢清『Chime』(2024) それはフレームの外にある

監督:黒沢清

主人公の松岡(吉岡睦雄)は料理教室の先生をしている。
そこに幻聴や妄想としか思えないことを訴える田代(小日向星一)という名の生徒がいる。
人間の声ではない、叫び声のような、チャイムの音が聞こえると彼は言い、その音をなにかのメッセージだと感じているようだ。
松岡はそれに対し「犬の遠吠えかなにかですか」と応じる。

この田代の訴えが、この後に映画で聞こえるあらゆる音の前振りになっている。
この映画からは、画面の中に音源を特定することができない、いわゆるオフの音、フレーム外の音が頻繁に聞こえる。
そして、チャイムのような音が初めて聞こえた時、松岡はわずかに反応しているように見えるのだが、はっきりとはわからない。

以降、これらの音に登場人物たちはほとんど反応を見せないが、一箇所だけフレーム外の音に登場人物が反応する場面がある。
行方不明になった生徒の女性が料理教室に来ていて、松岡を待っていると女性スタッフに告げられ、二人で教室へ行く場面である。
行ってみると、彼女はいなかった。
そして、松岡と女性スタッフ以外は誰もいない教室にフレーム外の音が鳴る。
二人はそれぞれ、フレーム外を見て叫ぶのだが、なにを見たかはわからない。
フレームの外には、田代の頭の中のように、こちらからは伺い知れないなにかがあるらしい。
いや、ここまでの松岡の行動を見て、ここで登場人物たちがフレームの外になにを見たのか想像することは容易い。
ただそういうことではないのだろうと思う。
ここで促されているのは、画面に映っていないものを想像することではなく、画面のフレーム外という現象への気づきだろう。

映画の世界と私たち鑑賞者の世界には境界がある。境界があるはずである。境界がなければおかしい。
ジュラシック・パーク』を見て、こちらの、鑑賞者の世界にも生きている恐竜がいるとは思わない。生きている恐竜はあちら側、映画の世界のものである。そこには境界がある。
では、映画のフレーム外とは、あちら側かこちら側か。
こちらからは見えなくて、あちらにはなにかが見えているなら、あちら側か。
こちらには聞こえていて、あちらにはなにも聞こえていないようなら、こちら側か。
そうすると、結局どちら側なのか。
判別のつかないフレーム外という現象が『Chime』には起こっている。


画面の外にあるのは音だけではない。
料理教室はたびたび回転灯のような光に照らされる。
この光は電車の風切り音のような音とともに明滅することもあるが、音を伴わず明滅することもある。この光は、料理教室の窓のブラインドが下りていても見えるから、窓の外からの光ではない。光源は教室の内部にある。けれど光源はフレームの外にあるようで特定することができない。

フレーム外の音は、どんなに登場人物たちが反応していても、反応に音を重ねた可能性があり、劇伴との明確な線引きは難しい。
では光ならどうか。彼らを照らす光が、あちら側のものではないなんてことはないだろう。
なら、フレーム外はある。
あちら側でもない、こちら側でもない、もしくは、あちら側でもある、こちら側でもある、フレーム外という現象は確実にある。

映画終盤、フレーム外にあったはずの回転灯がフレーム内で光り出す。
その時、なにが起こるのかは、あなたの目で確かめて欲しい。



『Chime』どこまで書いていいのかというのもあり、今書けるのはここまでです。
まだまだ書くとは思いますが、今後の劇場公開の規模などを考慮して、あらすじや細部を明かすような記事は有料記事にする予定です。
あと、私の所有している『Chime』はレンタル開始日(5/12(日)だと思われる)よりレンタルします。

黒沢清『Chime』(2024)のヤマを張ってる。

『Chime』(2024)のヤマを張ってる。
映画のヤマを張るとはなんだろうと思われるだろうが、これをよくやってしまう。

小出しにされているあらすじを読む限り、主人公が講師をしている料理教室に統合失調症のような症状を訴える生徒がいる、というところまでしかわからない。
これが黒沢監督曰く「この世に確実に存在するであろう摩訶不思議な恐怖」を描いた作品らしい。

まず、統合失調症黒沢清が扱ってきた題材と関係のありそうなものがないか調べていたら、「シュレーバー回想録―ある神経病者の手記」(2002)に辿り着いた。
そこからシュレーバーについて調べていく内に、エリアス・カネッティ「群衆と権力」(1960)でパラノイア患者と権力者は共通する価値体系を持つとしてシュレーバー症例が取り上げられていることがわかり、気になったので「エリアス・カネッティ『群衆と権力』の軌跡―群衆論の系譜と戯曲集を手がかりに」(2020 樋口恵著)を読んでいる(原著は厳しいと判断)。
シュレーバー回想録」も「『群衆と権力』の軌跡」も絶版だったが、なんとか入手して読んでいる。読んでいるが、いったい何をやっているんだろうとも思う。

ただシュレーバーは興味深いし、カネッティの思想は読んでみると、黒沢清の映画を理解する上で必要な知識だった。
黒沢清の映画を調べていると、結構な確率でファシズムやナチズムに関わりの深い思想家の論考に行きつく。

『ドッペルゲンガー』(2003)2 見てしまったら、見る前には全然戻らない。

ドッペルゲンガー』(2003)について先日書いたが、 その後、批評をネットで見ていたら、大場正明氏のHPに、カルチャー雑誌「Cut」の連載で掲載した『ドッペルゲンガー』 評を、抜粋のうえ加筆したものがあったので読んだ。

https://crisscross.jp/html/a10to017.htm

そこに過去のインタビューで『ドッペルゲンガー』 について黒沢清が次のように言っていた、とある。

「もう完成してますが、公開はまだ先のことで、ずばりコメディですね。ふざけた映画です。 境界は露骨に絡んできますね。これはコメディだから成立した映画なんですけど、ひとつだったものがふたつに割れる。まさにドッペルゲンガー( 分身)なんですけど、最終的にそのふたつが融合する。でも、もとに戻るのかというと全然戻らない」

 

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黒沢の映画が語られる時、よく「境界」という単語が使われる。

インタビューの流れもあるだろうが、ここでは黒沢本人も「境界」という単語を使っている。

黒沢はJホラー界隈で撮っていた時期があり、 その頃の作品は今でも根強い人気があるためホラーのイメージがあ るのか、この境界を、この世とあの世の境界と想定して語る人が多いように思うが、そんなオカルトめいた、あるんだかないんだか分からない境界について考えたところで埒が 明かないと私は思う。

 

映画を見ていると、こちらとは違う世界が目の前に広がっているように感じる。

その時、あちらとこちらという境界が生じている。

 

ドッペルゲンガーという現象によって、早崎もあちらとこちらに分かれる。あちらの早崎、こちらの早崎という具合に。

前回の記事で「椅子に座ることによって、あたかもスクリーンに自身の欲望を見出す観客のように、早崎はスクリーンに( なぜなら早崎はすでにスクリーン上にあるから) 自身の欲望を出現させたのではないか」と書いたが、私たち鑑賞者と映画の間にある境界を、『ドッペルゲンガー』 は早崎の分裂という現象を用いて疑似的に再現しているのではな いか。

そしてそれは「最終的にそのふたつが融合する。でも、もとに戻るのかというと全然戻らない」のである。

ということは、映画を見ると「最終的に映画と鑑賞者は融合する。 でも、映画が終わって、 鑑賞者は映画を見る前に戻るかというと全然戻らない」ということではないのか。

 

前回の記事で、鑑賞者を欲望する者と書いたが、『 ドッペルゲンガー』の登場人物たちの欲望は、あたかも鑑賞者の欲望のように提示されている。

あの露悪的な欲望にのってものらなくても、見たら融合するのだろう。

この融合という言葉には、内容如何を問わず、 意思の介入も許さない、不可抗力な雰囲気が漂っている。

2003年の『ドッペルゲンガー』公開当時なら、 そうは言っても融合したような、してないようなと半信半疑に受け止めていたかもしれないが、2011年の東日本大震災津波の映像を見すぎて見れなくなってしまった経験から、見ることが自身の身に作用を及ぼすことはもう知っている。

そう、見てしまったら、見る前には全然戻らない。

『ドッペルゲンガー』(2003)踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃそんそん

黒沢清フィルモグラフィーを眺めていると、『アカルイミライ』(2003)、『ドッペルゲンガー』(2003)、『LOFT ロフト』(2006)の頃は、スクリーンと観客の関係についての模索が顕著に見られる時期だと思う。


今回は『ドッペルゲンガー』について。
この映画に出てくる早崎(役所広司)の作っている介護用人工人体の椅子というのは、映画館の劇場の椅子を表している。
映画館の劇場の椅子、ひいては観客だ。


早崎の研究室で椅子の実験をしている時、あの椅子には早崎が座って、機械調整は助手と思われる男女が行っていたと思うが、あの椅子に座ることによって、あたかもスクリーンに自身の欲望を見出す観客のように、早崎はスクリーンに(なぜなら早崎はすでにスクリーン上にあるから)自身の欲望を出現させたのではないか。

あの椅子に座るという行為が、欲望を出現させるトリガーになっているのではないか。

ドッペルゲンガー』では、由佳(永作博美)の弟もドッペルゲンガーを出現させた者として語られるが、その弟のドッペルゲンガーは由佳の語りの中にしか現れず、スクリーンには登場しない(弟は幽霊のように描かれていて、ドッペルゲンガーが出現しているとわかるような描写はない)。
そして、早崎と同じようにあの椅子に座った君島(ユースケ・サンタマリア)は、椅子に座って以降、欲望のまま傍若無人な振る舞いを始める。



ドッペルゲンガーはいわゆる怪奇現象だが、ごくシンプルに、それを同じ像が二つ出現する現象だとすると、映画において、この現象はどのような効果をもたらすだろうか。
「同じ像が二つ」で思いつく有名な映画は、キューブリックの『シャイニング』(1980)だ。
この映画では、唐突にホテル内の廊下に佇む双子の少女が出てくる。
虚構か現実か(『シャイニング』では狂気か正気かでもある)分からなくなった世界で、同じ像の出現というのは、一気に針が虚構(狂気)に振れることを意味する。
また『エイリアン: コヴェナント』(2017)のデヴィッドとウォルター(マイケル・ファスベンダー一人二役)でも、スクリーンに同じ像が二つ出現することで、彼らが実在性を欠いた存在であることが強調されている。


ネットでは霊能者が見る幽霊に近い像が出てくるとかで有名な『降霊』(1999)に、椅子に座る役所広司ドッペルゲンガーが突如庭に現れる場面がある。
俺が俺を座って(落ち着いた様子で)見ているという不気味なショットだ。
このドッペルゲンガーは、出現後速やかにガソリンがかけられ燃やされてしまうが、『シャイニング』のように、狂気の現れとして描かれている。
それは、画面に映る人物が(もしくは彼自身の)、おかしくなっているかもしれないという底知れぬ不安の出現だった。


ドッペルゲンガー』において、主人公のみにドッペルゲンガーが出現する理由は、小説の「信頼できない語り手」のように、観客に寄る辺のなさを与える効果があるのかもしれない。
彼は大丈夫か。大丈夫じゃないのか。
早崎は、ドッペルゲンガーが出現したことにより、観客の信頼を失い、実在性を欠き、虚構性が高まっている。
ただこれは、早崎Aと早崎A‘が物語の進行につれ混迷を極めるように、スクリーン上に「同じ像が二つ」現れない限り、私たち観客にAとA’を見極める術はないことから、厳密には早崎のみにドッペルゲンガーが出現しているように了解しているだけともいえる。


どちらがどちらか分からない。本当はどちらか、どちらも本当か。などの問いが繰り返されているかのような、この『ドッペルゲンガー』において、本当とはなにか。
おそらくそれは、早崎のドッペルゲンガーと君島が剥き出しにする欲望だろう。


早崎と由佳の男女関係を欲望する者。
君島の死を欲望する者。
観客は、スクリーン上で繰り広げられる欲望合戦が、もう誰のものなのかわからない。
柄本明の突然の最期に至っては、グロテスクな欲望の提示に、疑心暗鬼が生じてしまう。
この欲望だけが確かなもののように、私たちは欲望の果てを見届けるしかない。
欲望する実在である私たち観客の座る劇場の椅子を巡って、映画の登場人物たちは熾烈な椅子取りゲームを行う。
それは、欲望される者から、欲望する者という実在への希求であり、倒錯的な振る舞いのように見える。


やがておもむろに椅子取りゲームから開放された椅子は、阿波踊りのような身振りで諸手を挙げて身をよじり、そのまま崖上から身を投げる。
「アーラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ 踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃそんそん…」
そんな掛け声がリフレインする椅子の壮絶なラストシーンである。


我々は開放されたろうか。
開放されたらどうなるだろうか。
早崎AだかA‘だかと由佳が遠ざかってゆく。
私たちは欲望を見るためにここに座っていたのだろうか。



時間ができたので『ドッペルゲンガー』感想を書いてみました。
ドッペルゲンガーを持ち出したのには、もっと理屈があるように思います。
『降霊』は幽霊描写じゃなくて、このドッペルゲンガー出現場面がやたら怖いと思うのは私だけでしょうか。

黒沢清の映画に出てくる赤い服の女について

いわゆる黒沢清映画的なものといえば半透明の遮蔽物ですが、
他にも、車のシーンでのスクリーン・プロセス(窓の外の景色を合成しているようなやつ)や、鬱蒼とした草木、アクションシーンで跳躍する段ボールなど、黒沢清あるある言いたい。

ということで今回は、黒沢清あるある、赤い服の女について書きます。

黒沢清監督はとてもロジカルに映画を作るので、上記のあるあるには、多分それぞれ始まりのような、成り立ちのようなものがフィルモグラフィーの中に提示されているはずだと考えていました。

長い間、赤い服の女の始まりは『CURE』(1997)の文江の最期の姿だと思っていたのですが、『修羅の極道 〜蛇の道〜』(1998)のコメットさんの最期の姿を見て、こちらの方が分かりやすいと感じました。
コメットさんは最期、新島に切られて血しぶきにまみれ、着ていた白いブラウスが血で赤く染まって赤い服の女になります。

赤い服の女とは、男の加害により着ていた服が真っ赤に染まるほどの血を流した、それほどの血が流れたということは、おそらくその女は死んだ、ということを意味します。
しかし、これは必ずしも血を流した女だけを意味しません。
なぜなら、寝ている人、気絶している人、毒殺されて倒れている人がスクリーンに映った時、私たちはそれがどの状態の人かを判別できないからです。
見ただけでは死は判別できない。なので、殺されて死んだ女を表象するには、服が赤く染まるほどの血を流したかのような赤い服の女でなくてはならないのです。

その後に撮られた『降霊』(1999)に、ファミレスの男性客にまとわりつく赤い服の女の幽霊が出てきますが、それはただ赤い服を着ている女の幽霊というわけではなく、男に殺された女という意味を持ちます。

『叫』(2007)の冒頭では、男によって水の中に頭を沈められて溺死する女が出てきますが、女はすでに赤い服を着ています。
あれは「冒頭の殺害シーン」という定型場面に赤い服の女の意味を重ねた場面です。
そうすることによって、世で繰り返される数多の「男に殺される女」を表現できます。赤い服の女(殺されて死んだ女)を殺害することで、女が何度も殺されてきたことを表しています。

『叫』役所広司は女の赤い服を着て横たわる死体を見て、『CURE』の役所広司クリーニング屋に吊るされた赤いワンピースを見て、女を殺したデジャブに苛まれます。

「赤い服の女」殺されて死んだ女の表象は、黒沢清映画において、男の原罪を顕現させる起爆剤として機能しています。

『蛇の道』復讐するは我にあり

黒沢清蛇の道』のセルフリメイクに関する新情報が解禁されました。
主演:柴咲コウ、ダミアン・ボナール

哀川翔が演じた役が柴咲コウになっています(たぶん)。
stevenspielberg.hatenablog.com
こちらの記事で『蛇の道』について書いてますが、内容からすると、やはり新島(哀川翔)とコメットさん(砂田薫)の両義性の対比は印象的なので、そうなるとコメットさんはどうなるのか気になります。

男性の表象としてのビデオシネマの主役である哀川翔を、映画から浮いた超越的な存在として扱うことで、本来なら加害者側の性でありながら、少女を救おうとする存在として描いています。
主役ありきのビデオシネマの制約を逆手に取り、イニャリトゥの『レヴェナント: 蘇えりし者』(2015年)などは顕著ですが、加害者側に加害者を見せるために被害者を加害者側に演じさせる、みたいなことになっているわけです。このことによって、被害者とこちら側という高慢なまなざしを封じ、どこまでもこちら側の物語として描いています。
この世界で少女が救われるなんてことはないのだから、新島だって終わることのない地獄のループに自ら落ちて、そこから出ることはできません。
そしてこの物語を、セカンドバック小脇に挟んで、レンタルビデオ屋でとりあえず哀川翔が出ているビデオを手に取る層に見せるのです。

そんな哀川翔の両義性を担保する存在として、「ヤクザの女」という両義性を持った存在のコメットさんは配置されていました。
最後にコメットさんを殺すのは新島で、コメットさんの白いブラウスが赤く染まって、最終的に彼女は「赤い服の女」(黒沢清映画の死んだ女の象徴)になるので、彼女を殺した新島は間違いなく加害者でもあるのです。

その哀川翔柴咲コウになったということは、コメットさんはどうなるのでしょうか。
柴咲コウに統合されるのか。「赤い服の女」として映画の中を彷徨うのか。すっかり姿を消してしまうのか。
やっぱり統合して、『バトル・ロワイヤル』(2000年)で相馬光子を演じた柴咲コウさんに杖でシャキーンとやって欲しいです。

車が走行している。人がただ歩いている。

映画には、ほんの数秒ほどの歩行や乗り物の走行を捉えただけの場面がよく挿入されています。
A地点にいる登場人物たちがB地点に行くために車に乗り込み、場面が切り替わるとB地点に車が着いて登場人物たちが降りきても物語はつながりますが、A地点の場面とB地点の場面の間に、登場人物たちの乗った車の走行場面が数秒間挿入されていたりします。

何の話かというと、『クローズEXPLODE』(2014)で登場人物達がバイクに乗って移動する時、走行場面が挿入されないことに違和感を覚えたのですが、なぜ違和感を覚えたのか、それからずっと考えているのです。

以前黒沢清が『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』(1935年)の冒頭の丹下左膳の歩行場面が良いと言っていて、確かにビートを刻むといった調子で、ただの歩行を横移動で捉えた場面ですが、映画に一定のリズムをもたらしています。
思うに、この移動場面が作り出すリズムが、映画を相対化させるのかもしれません。

丹下左膳餘話 百萬兩の壺』は冒頭なので、そうなると予兆めいてもいます。そのまんま物語が始まるという予兆ですが。
『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(2017年)での悦子(夏帆)と真壁(東出昌大)のボーイ・ミーツ・ガール場面の、画面奥から歩いてくる真壁の歩みは、まさしく予兆そのものでした(気配で鏡面を揺らすというジュラシックパークパロディもありましたが)。

先日、『死霊館 悪魔のせいなら、無罪。』(2021年)を見ている時にも車の走行を捉えた移動場面が出てきて、そうなると恐怖も忘れ、数秒間ただ走る車を見ているわけです。
どんな映画でも、ただ歩くのを見ているだとか、ただ走るのを見ているだとか、そんな瞬間があって、そういう場面をよりどころにして映画は語られているのかもしれません。