みんな映画になる

眠那影俄仁那琉

たぶん誰も気にしていない

ずっと『Cloudクラウド』(2024)の奥平大兼の衣装はこれでいいのか、と気になっています。

『Cloudクラウド』は、登場人物の属性がなんとなくわかるような、あえて記号的な衣装が採用されているように思うのですが(それに加えて、それぞれの属性がホームレスになったバージョンの衣装といった趣がある。岡山天音演じる三宅のみホームレスを直接意識したもの)、奥平大兼演じる佐野の、おそらく「地方の若者」を感じさせる衣装だけかなり古い感じがします。
ファーつきフードのミリタリージャケットを地方の若者が来ていたのはいつだったでしょうか。平成初期くらい?
地方の若者が着るファーつきフードのミリタリージャケットが、物語が進むにつれ、本物の軍服に見えてくる的な狙いがあったのだと思うのですが、やはりファーつきフードのミリタリージャケットは古すぎると思う。

『ハドソン川の奇跡』でアーロン・エッカートが電話の受話器をとるショットについて

監督:クリント・イーストウッド

覚えているでしょうか。
アーロン・エッカートがホテルのベッドに腰かけて鳴った電話の受話器をとる、あのショットです。

まず、アーロン・エッカートスニッカーズを食べながら一点凝視しているような様子でホテルのベッドに座っています。その状態でちょっと間があってから、ベッド脇の電話が鳴って、アーロンが手を伸ばして受話器をとるのですが、このショットがフェルマーの原理みたいで印象に残っています。

これは、最短時間で受話器をとるショットだということに気づかせてくれるショットです。

気をつけていただきたいのは、電話に出る場面(シークエンス)ではなく、受話器をとるショットだということです。
電話に出る場面のイメージは、電話が鳴って、ショットが切り替わって、電話にでた者が映しだされます。
受話器をとるショットは、俳優が電話の受話器をとるアクションをおさめています。

例えば、どんな受話器をとる場面があるでしょうか。

使い勝手はよさそうだが、雑然とした台所に大きな紙袋を抱えたチャニング・テイタムが大きな犬と一緒に入って来て、まとわりつく犬を邪魔くさそうに構いながら、紙袋に入っているものを忙しく冷蔵庫に入れているところに電話が鳴り、犬に向かって人差し指を口に当て「静かに」のポーズをして見せながら移動し、まだ中のものを出しきっていない紙袋を台所の隅に無造作に置いたかと思うと、紙袋の中に手を入れ、そこから洗剤の容器みたいなものを取り出し、それを開けて一口飲んでから受話器をとる。

みたいなショットを想像したでしょうか。
それで電話の後にシークエンスが切り替わったりすると、受話器をとるだけをめちゃくちゃくどい演出で見せてきたなと気づいたりします。別に嫌いじゃないですが。

対して『ハドソン川の奇跡』はどうでしょう。
アーロン・エッカートは、まるでこの後電話が鳴ることがわかっているかのように、手を伸ばせばすぐ受話器がとれる位置に腰を下し、スニッカーズを噛み締めながらじっとしているのです。
そして電話が鳴り、アーロンは受話器をとります。

第一印象で、これはアリなのか?と思いましたし、短いショットなのでセーフかもしれないだとか、省エネなのかなとも思いました。
説明的とも違うように思います。無駄な演出はしなくてもいいということなのかもしれません。
それが結果的にフェルマーの原理を思い起こさせる、予言的なショットになっています。
ただ予言的もなにも、電話が鳴って受話器をとるというショットを撮りたいがための、最小の演出が、非常にメタ的な、未見であることを未知であることのように錯覚させることを放棄しているかのようなショットになっていて、非常に印象的でした。

この絵本がすごい!

わけあってひたすら絵本を読んでます。

「あたごの浦」再話 脇和子/絵 大道あや福音館書店

とても解放感のある絵本です。
讃岐の昔話なのですが、昼ではなく夜。陸ではなく海という、人の日常から少しだけ浮遊した設定が効いているように思います。
タコが陸にあがって浜辺近くの畑のナスを食ってたところにタイがやってきて「こらこら、おたこ、おまえはそこで、なにをしよんや」「へえ、おなすびちぎって、食べよります」という導入から気が抜けています。
この気の抜けた物語に、力強い大道あやの絵がとても合っていて、ともすれば取るに足らないと切り捨てられてしまいそうな世界観を肯定しています。まるで太鼓判のような絵です。


「だいふくもち」田島征三 作(福音館書店

まさかまさかのラストを迎えます。
怠け者の男の家の床下に300年も住みついているという大福餅に呼びかけられ、言われるままに小豆をやると、小豆を食べた大福餅が次々と小さな大福餅を産むという、取りあえず一旦受け入れるけどよくわからんという始まりから、なぜか最後はアポカリプスのような事態になります。
ラストの絵は完全に終末です。
そうなると、大福餅の設定も単為生殖を行う知的生命体のように思えてきます。


「りんご だんだん」作・写真 小川忠博(あすなろ書房

りんごがどうなっていくか、346日間撮り続けた写真で見る絵本です。
同じ腐っている状態でも、パッと見で一線を越えたと感じる瞬間があって面白いです。
おそらくコンセプトは九相図です。
様々なものを同時に観察した結果のりんごなのかもしれませんが、りんごの高い象徴性と相まって、物質的な意味で死んだらどうなるのかを想像させます。
なんでも最後は黒っぽいサラサラのものになるのかもしれません。


ゆでたまごまーだ」絵 井上洋介/文 神沢利子ポプラ社

神沢利子が書いた絵本を読むと、強烈に子どもの時の感覚がよみがえります。
起きてる間は連想、連想ひたすら連想で、寝てるときは死んでるんです。
このとりとめのない感覚を保持したまま人は生きていけるものなのでしょうか。
井上洋介の描く、形を一から捉えようとして真剣に書いてたらこうなったかのような、一見不安定な輪郭線がウーフの奔放でやわらかい感覚をよく表しています。
ウーフは井上洋介の絵以外考えられません。


「がいこつさん」五味太郎 作(文化出版局

死者の異邦人感。
場違いな世界にいる心許なさにまったくよりそわない文体がクールです。
絵本を読んでいると、読み終わりに、絵も文も完全に閉じないというか、物語の終わりが、世界の終わりではないことがいつもそれとなく提示されます。世界を閉じてしまわないことを多くの絵本作家が大事にしていると感じます。
でも、五味太郎は絵本の終わりに世界を閉じてしまいます。
「がいこつさん」では、がいこつの目の黒い塗りつぶしを「そこは目ではなく穴です」と言う文章が何度か出てきます。「なくしたものみつけた」では、その穴をどんどん掘って行くことで、時間がさかのぼり、過去の自分に出会います。
五味太郎が穴と称した黒は、五味太郎を象徴する色でもあります。
彼の絵本の世界には黒という穴がいくつも開いていて、物語の結末で世界を閉じても、世界は閉じ切れないものであることを表しているかのようです。

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『破墓/パミョ』(2024)結局大丈夫な映画

監督:チャン・ジェヒョン
ネタバレしています。

韓国映画の露悪的な感じもないし、土着的な題材を用いたホラーによくある、倫理的にどうなのかと思うような描写もない、何事もやりすぎない映画です。

やりすぎないと言っても、私は『アポカリプト』(2006)のようなゴア描写は大丈夫です。
犬が死ぬのも大丈夫です。
ただ、『ペット・セメタリー』(1989)は受けつけませんでした。
赤ちゃんがトラックに轢かれるという導入がもう無理で鑑賞をやめました。

というように、みなさん大丈夫なラインと大丈夫じゃないラインがあると思うのですが、『破墓/パミョ』は、このラインをあえて刺激しつつ、結局大丈夫というのを繰り返し、安心という快感情をエンタメにしています。

犬も出てきます。
赤ちゃんも出てきます。
おばあちゃんも出てきます。
やられるんじゃないか…というハラハラがありつつ、やられない。
飼い犬がそこにいるのに、やられるのは養豚場の豚です。
赤ちゃんのハラハラ演出は音によるもので、当の赤ちゃんはベッドで寝てるか泣いているかです。
怪異が起こり、おばあちゃんの様子がおかしくなりますが、これはただ体の具合がすぐれなかっただけでした。
ホラーのハラハラと倫理のハラハラを二重奏のように組み合わせ、結果大丈夫というのを繰り返しています。

国を裏切って高い身分を得、大金持ちになった者の子孫の当主はやられてもいいが、その妻や子どもまでやられるのは見たくないのです。
日本を陰陽師や戦国武将だった鬼という、現代から遠く離れた存在として描くことで、悪として描くことに対する倫理の軋轢を減じています。

先祖代々、当主が怪異に見舞われている大金持ちの一族が、大日本帝国軍に与し国を売った者の末裔で、その怪異の源には、この国の力を削るために穿たれた日本の鬼がいて、国の未来のためには、今この楔を抜かなくてはならないのだといったチェ・ミンシク演じるサンドクの抱く大義名分にも、大衆を安心させる時代劇的作りを感じました。

怪異に立ち向かうサンドクの動機が、娘の結婚資金から、この国の子どもたちの未来のためといった広がりを見せ、登場人物が義理人情でつながり協力して戦い、家族のようになっていく様は、まるで浪曲のようだと思いました。

ユ・ヘジン演じるキリスト教の葬儀師ヨングンが、国の裏切り者として死に、邪悪な存在と成り果てた男に、軍歌なのかトロットなのか、祖国を思う歌で見送る(火葬する)場面とかコテコテです。


オカルト好きとしては、棺桶が縦に埋まってるというのが、一番グッときました。
縦に埋まってたらなにがまずいのかわかりませんが、なぜかこれはマズいぞと思わされます。
経を身体に書けば、書いてあるところは狙われないという展開に、耳を引きちぎられる芳一フラグが立ったとも思ったのですが、それはフラグではありませんでした。

黒沢清『彼を信じていた十三日間』とりとめのない感想

監督:黒沢清
作品詳細:『モダンラブ・東京~さまざまな愛の形~』エピソード5「彼を信じていた十三日間」

昨日の記事に入れ込めなかったとりとめのない雑感です。

The Forest at Pontaubert(1881)Georges Seurat

初見では、ミント色のダイハツムーヴキャンバスが出てきたことに一番驚きました。
街でも目立つタイプの車種とは意外なチョイスだなと思ったのですが、『彼を信じていた十三日間』を見た後に、この車を街で見かけると、作品を思い出すことがしばしばあって、その度にまさかミント色のダイハツムーヴキャンバス(かわいらしい車)を見て黒沢清を想起する日が来るとは…という、妙な驚きを感じています。

記事を書くために見直してみて思ったのですが、結構怖いです。
ユースケ・サンタマリア演じる洋二の、黒沢清が度々やる演出ですが、最初の場面のカフェでタメがなく急に登場する感じとか怖いです。
この登場では顔面を画面に急に出すという、まるでアメリカの殺人鬼映画の途中に差し込まれるジャンプスケア演出を初手に持ってくるようなことをしていて、この登場は殺人鬼のそれなんだけどという恐ろしさがあり、以降は洋二の顔を捉えることを避ける演出と相まって、得体の知れなさが予兆となって積み重なっていく怖さがありました。
「そうなんだよね。僕は鈴木洋二じゃない。不動産会社の社長でもない。今救済センターで寝泊まりしてる。ホームレスだ」と、かりそめの正体を告白する場面も彼は背後から映されています。
その上、ここでの台詞の響きは環境音を排したアフレコっぽくなっていて(この演出は多かった)、いったいこの声はどこから聞こえているんだという不安を抱かせます。
随所に、ファンタジーなのか、不用意な女が殺される過程なのか、そこら辺を曖昧にする演出があり、おそらく永作博美演じる桃子もその危うさを自覚しており、殺されるかもしれないという不安の中で「死んだらどうなるかなんて誰もわからないって言ったの、洋二さんじゃないですか。私もそう思います。でも、私は今生きてますけど。やっぱり明日どうなっているかわかりません。一時間先も、一分先も。じゃあ、おんなじですよね。希望は今にだってあります」という台詞が出てきたことがわかるのです。
見ているぶんには、いつ桃子が洋二に殺されてもおかしくないように見えるので、もしかしてこれはメメント・モリなのかもしれないなと思いました。

ラストの、川に入っている洋二に一切カメラが寄らない感じがすごく寂しいですよね。ちょっとぐらい寄ってくれと思うのですが、そうやって安心させてくれないのがらしい感じがします。
ずっと寄らないのが不穏だったのに、最後は寄らないのが物悲しくなるのはなぜなのでしょうか。

桃子に10年分のデータを出すように言われていた同僚役の俳優の方が、若い時の西島秀俊さんによく似ていました。

ユースケさんの歩き方に特徴を持たせてましたね。
少し足が曲げにくい人の歩き方をしていました。カフェで電話をかけるために外に出る時やコンビニに行くと言って部屋を出る時はサッと歩くのですが、それ以外では違和感のある歩き方をしていました。
洋二がホームレスだとわかると、あぁ確かに歩き方が…と思うのですが、自分の中にいったいどんなクリシェがあるのやらと思わされます。

黒沢清「彼を信じていた十三日間」という変身譚について

監督:黒沢清
作品詳細:『モダンラブ・東京~さまざまな愛の形~』エピソード5「彼を信じていた十三日間」

Twilight on the Sound, Darien, Connecticut
(1872)John Frederick Kensett

ユースケ・サンタマリア演じる洋二が波に変形し、黒沢清の代名詞の一つである、レースカーテンという半透明の遮蔽物となって風に揺れてみせるという場面一つを抜き出してみても、もう少し語られないといけない作品だろう。

ラストで洋二の姿が消え、マグカップだけが浮かび上がってくるという描写は、物体としての洋二の姿が、消えたか、変形したことを表している。

そして、その後の桃子の場面に見られる、パソコンの画面から吹いてくる風や、レースカーテンの揺れに何かを感じ取る桃子の様子から、洋二は消えたのではなく、波に変形したことがうかがえる。

この物語は所謂、変身譚や変形譚と呼ばれる物語の形態をとっている。

おそらく呪いによって人間にされていた洋二が、桃子と恋に落ちて、本来の姿を取り戻す話しであり、この物語におけるその呪いとはクリシェである。

前回、この作品に触れた記事でも書いたが、國村隼演じる農水省役人の「それ前にも聞かれました。私ちゃんとお答えしましたけど、憶えてらっしゃらない」という、やり手の女ディレクターが鋭い質問で役人を追い詰め、役人が答えに窮したところで場面が切り替わるというドラマ的なクリシェをひっくり返すような場面で、そのことに気づかなくてはならない。
その後の現場で背中を向けたまま表情を見せない桃子を、“バリキャリが仕事で失敗して落ち込んでる。これがプライベートをますます顧みるきっかけになる”というようなクリシェとして見てはならない。

それが呪いであり、そんなものは捨てなくてはならないのだ。

「想像つかないから無だなんて乱暴だよ」
死んだら無になるという桃子の言葉に対する洋二の言葉のように、私たちは時に乱暴に想像できないことをクリシェとして飲み込んでしまう。
プロってそういうもの。人間ってそういうもの。というように。
そしてホームレスってそういうもの。とでもいうような、救済センターで描かれるホームレスの粗野な振る舞いや、茫漠とした様子。

桃子は長い下り坂の向こうの、いくつかのよく似た人のシルエットの中から洋二を見つけ出す。
ここら辺の描写は、変身譚と相まってイングランドスコットランド国境に発するバラッド『タム・リン』を想起させる。
主人公の女性は、妖精の騎士の一団の中から、すっかり姿形の変わった恋人と思われる者を見つけ出し、その者を白馬から引きずり降ろし、強く抱き留める。その後、彼女の腕の中で、それは姿形を目まぐるしく変え続けるが、彼女は彼を信じて抱き続けるのである。

見分けのつかない集団の中から洋二を見つけ出し、彼を生かし続けるために、わからないことをわからないままにして洋二と向き合う桃子。
ホームレスや自殺志願者というクリシェに絡めとられることなく、洋二を存在させ続けるためには、彼を何者ともせず、わからないままにしておかなくてはならない。
桃子はわからないままでいることに希望があるのだと言う。

わからないままでいるという、桃子のクリシェからの解放によって、洋二にかけられていた呪いは解かれ、彼は本来の姿である波となり、あらゆる場所に偏在する存在となる。

波ってなんだ、と思われるかもしれないが、波について力説している『岸辺の旅』(2015)の優介の講義から推察するに、波とは映画のことだろう。

波という、概念としての映画になったとすると、洋二は、萩尾望都『スター・レット』(1978~1979)の「レッド・星」のような、『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)で「円環の理」になった鹿目まどかのような、偏在する大いなる存在になったかのようだが、そうなると変形譚になるのだろうか。
でも、あくまで波になった後の洋二は、桃子の側に偏在しているので、クリシェの呪いから解放された桃子の元に映画は訪れるという変身譚とするのが自然なような気がする。

映画と人間の女の恋物語を変身譚として描くとは、ロマンチックが過ぎるのではないかという気もするが、ユースケ・サンタマリア演じる洋二に亡命者のような悲壮な陰りがあって、案外これは急を要する恋物語なのではないかと思わずにはいられない。

安部公房の「人魚伝」を読んだら、黒沢清の『叫』がもっとわかるのかもしれない

Odilon Redon「Siren Coming out of the Waves, Dressed in Flames, plate 4 of 8 from “Les Origines”」1883

安部公房と境界』の著者、岩本知恵さんのインタビュー記事に、

安部公房においては、彼のホモソーシャル的・ミソジニー的な言動が、批判的に捉えられることがあります。しかし少なくとも作品の中には、歴史的な「男性性」を批判的に捉える視線を見出すことができます。

と書いてあって、これはヒッチコックもそうだな、と思ったわけです。

黒沢清『カリスマ』(1999)について書いた記事で安部公房に言及していたのですが、そんなことはすっかり忘れて、岩本さんの論文を読めばヒッチコックを理解する道筋が見えるのではと思い、公開されている論文を4本読んだのですが、その中に「未完の関係性のために. —安部公房「人魚伝」論」(2020)というのがありまして、
未完の関係性のために

これがなんかめちゃくちゃ『叫』(2006)を彷彿とさせる内容で、そう言えば『叫』には「人魚姫」の要素があると思っていて、『叫』について書いた記事の中にもそう書いたのですが、アンデルセンの「人魚姫」を読んでもピンとこなくて、『叫』と「人魚姫」について何も書けていなかったのですが、安部公房の「人魚伝」からなら何か書けるのかもと思って、とりあえず「人魚伝」のあらすじを読んでみました。
以下のサイトにあらすじがあります。※ネタバレしてます。
http://moon.cool.coocan.jp/KoboAbe-s1.htm

この内容にかなり驚いています。
早く読まなければいけないと思い、図書館で予約しました。
いや、人魚もそうですが、ドッペルゲンガーも出てくるしミイラも出てくるし、警察も出てくる。
「人魚伝」は「砂の女」と同じ1962年の作品だそうで。
小説をあまり読まないのですが、流石に「砂の女」は読んでます。
ただ、あとは「赤い繭」と「カンガルー・ノート」ぐらいで、安部公房を読んでないので、ちょっとしばらく読んでみようと思います。