映画を書くと頭が疲れる

鉄は固まってから削れ

黒沢清『黒牢城』(2026)あの地下牢の地面のうねり

監督:黒沢清
※ネタバレしています。

あの地下牢の地面のうねり。

あれは黒田官兵衛(菅田将暉)を起点として起こる波の波紋が、荒木村重(本木雅弘)を起点として起こる波の波紋と干渉したことで生じた干渉縞である。
起立する村重を中心にして座した家臣たちが一斉に平伏する場面では、地下牢のうねる地面と同じように、家臣たちの丸めた背中が村重の足元にうねりとなって広がっている。

官兵衛が信長の使者として有岡城に訪れたタイミング、官兵衛の死を信長に知らせるタイミング、それらのタイミングは常にずれ事は上手く行かない。
タイミングのずれとは、一方が山(波の頂点)のとき、他方が谷(波の底)にあるということだ。そのことで村重と官兵衛という2つの起点は逆位相となり、籠城という物理的に行きも退きもできない宙づり状態の有岡城内で、2つの起点が生じ、波がぶつかり合い、あの城の中に「中央暗線」として、数多の黒が現れているのである。

黒田官兵衛と荒木村重の足元に広がる波の干渉によって生じる干渉縞と、主に城内の者の装束としていくつも生じる黒色から分かるのは、有岡城に意思を持った2つの点が在ることで、ムーヴメントが起こったということである。


この籠城は勝利のための時間稼ぎである。
家臣が民が、籠城という物理的に行きも退きもできない宙づり状態の中にある。
そこに怪事件が次々と現れる。いたずらに家臣や民を疑心暗鬼に陥れ、混沌を招くわけにはいかない城主の村重は対処に迫られる。
怪事件に人々は「天」と「罰」を持ち出す。村重と官兵衛は、その「天」と「罰」の間にあるものを探り合うのである。

「行けば極楽 退けば地獄(進めば極楽、退けば無間地獄)」
戦国時代の石山合戦で一向宗の門徒たちが掲げた言葉には、行くと退くの間で圧殺された凡夫の営みがある。
あるいは、「行けば生き残れる 退けば死ぬ」なのかもしれない。
そうすると、千代保(吉高由里子)が言うように、退くにも生き残る道はあるかもしれない。
ならば、死という地獄は存在するが、極楽は生きることそのものかもしれないのである。

この映画で、ヨーロピアンビスタが採用されたわけは、縦移動への最適化によるものだろう。
天国と地獄に挟まれた凡夫たちの中つ国を描くためには、カメラは縦移動をして上にも下にも行きながら、中央を示さなくてはならない。
そして、多用されるハイアングル。鑑賞者には天井が隠されている。映されない上には、天でも極楽でもなく、どこまでも続く茫漠とした広がりがあるのだ。
足元に平伏する家臣に囲まれ佇む村重は、憂い顔で茫漠とした広がりを見つめている。

「申虎(とらさる)」の事件。
瓦林能登入道(吉原光夫)は雷に打たれて絶命する。これぞあの時代の天罰なのではないだろうか。しかし村重も官兵衛も千代保も郡十右衛門(オダギリジョー)もそのことに狼狽えたりはしない。
そしてカメラは静かに石垣に刺さる刀を映すのである。「これが避雷針になりました」と言わんばかりである。

カメラが天罰を「刀が避雷針になった出来事」として静かに示すとき、それは現在から過去を検分する視線である。この映画の語り口は、一貫してそのような現在地からの振り返りとして構成されている。

この映画に出てくる二つのフラッシュバックは、今そこの語りから引き起こされた、登場人物が想起したフラッシュバックとは思えない。
長島一向一揆を語る千代保につながれた、座り込み人形を必死で拭う千代保の姿は、劇中で一向一揆を初めて語る千代保のずっと後に出てくる千代保の姿である。このフラッシュバックは、彼女の想起として機能していない。
もう一つのフラッシュバック。安土城に仕える侍女たちが留守中に外出したことに激怒し、織田信長が処刑した事件は史実であり記録された出来事として、現在から振り返ることができるものである。
このことから、これらのフラッシュバックは、今そこの登場人物によるものではなく、今ここ(現在の鑑賞者)からの振り返りとして、過去の戦国時代を想起したものと考えられる。
私たちが、まだ見ぬはずの「座り込み人形を必死で拭う千代保の姿」もすでに過去の出来事なのである。しかしそれは、記録には残されていない。だが虐殺はあった。そしてその生き残りが、その恐怖を思い出さないわけはないのである。

この二つを同列の現在地からのフラッシュバックとして示すことで、荒木村重と黒田官兵衛が起こしたムーヴメントの性質が見えてくる。それは記録されなかった選択、すなわち城を捨て逃げること。
ここに至るまでの干渉が、あの時、荒木村重と黒田官兵衛が同時にいた城の中で起こった。その歴史のブラックボックスをこの映画は描いているのかもしれない。
それは、「行けば極楽 退けば地獄(進めば極楽、退けば無間地獄)」とされた世の中に確かに存在した中つ国であり、歴史の死角であった。

有岡城は、指輪物語でフロドが滅びの山の火口へ落として破壊した「一つの指輪」のように、歴史を変えるために捨てられたのかもしれない。
城を捨て逃げるという、凡夫になり生き続けるという村重の中つ国への志向は遂げられた。
その事実が、その道を照らしている。

『クリーピー 偽りの隣人』(2016)について2

犯罪を報じるニュースを見ていると、悪人に見えている社会や経験則があり、それで彼らは社会の境界域をハックしていると感じます。

『ドラゴン・タトゥーの女』(2011)のラスト近くで、マーティンがミカエルに言うセリフなどからも、悪人の方が世の中をよく理解しており、人々の慣習を上手くハックしていて、しばしばそれは真理のように感じることがあります。

「質問させてくれ。どうして人は自分の本能を信じないのだ?悪い予感がしたり、だれかが自分のすぐ背後を歩いている感じがしたり……。君も悪い予感がしたのに、家の中に戻った。私が強制したか?私がしたことと言えば、一杯すすめただけだ。自分の苦痛への恐れより、他人を不快にさせる恐れの方が強いなんて信じがたいことだ。だが、実際そうなのだ。みんないつも自分からやって来る。」

クリーピーで西野(香川照之)のやっていることもまさにこれで、人々の慣習をハックして欲望を遂げる男として描かれています。
それに対し、西島秀俊演じる高倉は、警察を退職し大学教授になった男で、いわゆる特権階級的な地位にいる男です。

この二人の「失礼な行動」は対照的で、西野の康子(竹内結子)に対する失礼な行動は、力関係で優位に立つための行動で、いわばハッキング的なあえての行動なのに対し、高倉の早紀(川口春奈)に対する行動は、特権階級者による不遜な行いです。
この対比により、社会に対するそれぞれの解像度の違いが明らかになります。

この非対称性は、単なる性格の違いではなく、二人が社会をどの方向から見ているか、つまり視座の構造の違いから生じています。

以前、キュビズムについて考えていて、具象と抽象のどこに位置する運動なのか、これは具象から抽象に向かっているのか、抽象から具象に向かっているのか、などと考えていたのですが、社会における摩擦が生じる出来事にも、視座の衝突が起こっていて、トップダウン(抽象 → 具象)的か、ボトムアップ(具象 → 抽象)的かで、かなり見えるものが違うのだろうと思います。

トップダウン(抽象 → 具象)的な視座の高倉は、あらゆる対象者からパターンを読み取ろうとしています。
彼の理解は統計的で、慣習的です(慣習的である ≒ 統計的に多数派である)。

この抽象から具象を見ようとするトップダウン型の視座は、統計的に例外視される異常犯罪者やサイコパスと呼ばれる存在を、自身が把握できていないことを認識できていません。
彼らは、統計におさまらない存在を、異常犯罪者やサイコパスだとカテゴライズすることで、彼らを了解したつもりになっています。ではその実態とは何かと問われても、それは異常犯罪者でありサイコパスであるという堂々巡りの思考停止に陥り、統計的に例外的な個別の個体が認識できないのです。

それに対し、西野は慣習をハックしながら生活するどこまでも個別の個体です。
多くのトップダウン(抽象 → 具象)的な視座の者にとって、個別の個体は認識されない死角に存在します。

それは、西野の問題ではなく、高倉のような人間の社会に対する認識の問題なのです。
高倉にはなかなか認識されない個別の個体の悪行は、少女や妻にとっては明らかです。
彼女たちはその悪行を目の当たりにしても、表沙汰には出来ない無力な存在として描かれています。
この高倉の認識の遅れは、映画的な構造としても機能しています。

映画『ジョーズ』(1975)の序盤で、物語の主人公であるマーティ・ブロディ警察署長(ロイ・シャイダー)が、ビーチの特等席(特設の見張り台のような椅子)に座り、海水浴客で賑わう海をじっと監視している場面があります。
サメが人を襲い、ビーチは混乱するのですが、そのビーチの混乱が喧騒によるものなのか恐怖によるものなのかがブロディ署長には分からず、事態の把握に遅れます。

ここでは、「観客が知っている事実」と「登場人物が知っている事実」にタイムラグを作ることによって、不安や緊張、ハラハラする感情を生み出す法則として知られる「サスペンスの定理」と呼ばれる手法が用いられているのですが、クリーピーでも同様に、高倉の認識の遅れによるサスペンスが生じています。

ジョーズにおけるブロディ署長は、「サメが来るかもしれない」という強迫観念に囚われたパラノイアとして語られることがある人物ですが、高倉の西野に対して言う「おまえはサイコパスだ」という台詞には、ひどく慣習的な硬直化したパターン思考が露わになっており、表面的にはブロディ署長と似た偏執狂的人物に見えます。

しかしクリーピーが単なるサスペンスと異なるのは、この認識の遅れが解消された後にこそ、より深い問いが現れる点です。

映画ラスト、ひどく慣習的な硬直化したパターン思考に陥っていると思われた高倉は西野に操られていませんでした。西野のハックが効いていなかったのです。
このことは、高倉が特権的で幸せな思考停止状態ではなかったことを意味しています。
それは、覚醒ではなく欺瞞です。
高倉は殺されるような事態に陥らない限り、自身を特権的な地位におき、思考停止が許される存在であり続けようとしていたのです。

クリーピーのラストは表面的には、異常な隣人に翻弄された夫婦の勝利のように見えるかもしれません。
しかし、「個を犠牲にすることで、全体を守る」ために捧げられた康子という生贄の叫びにより、高倉の抱擁という欺瞞は告発されたのです。


最後まとめるのが面倒くさくなって駆け足になりましたが、クリーピーは以前に詳しく書いているので、こちらもどうぞ。
stevenspielberg.hatenablog.com

『近畿地方のある場所について』(2025)あなたのナラティブに最適化された怪異

監督:白石晃士
※ネタバレあり

2025年における2chのオカ板みたいな話は、今はもう陰謀論として遡及的に読み解かれていくのがリアルなのだと思う。

ホラー映画の洋館のように撮られる出版社ビルの陰鬱なショット。
尤もらしく現れた、それらしい者のお告げに従い行動するも、なにも起こらないことが悲劇となる昔ばなし「まさるさま」。
「行方不明の友達を探しています」というSNSでの呼びかけで怪異への変容を見せ、おそらくバズる女。

ドラキュラ映画におけるドラキュラ城のような、呪いの源泉であり、獲物をおびき寄せる機能を持つ出版社ビルには、千紘(菅野美穂)が用意した資料が仕掛けられてある。出版社という一次資料の発信場所である情報の砦は、彼女により意図的に情報が集められている。
千紘は失くした子どもを取り戻すための生贄を必要としている。
子どもを蘇らせてもらうために、「ましろさま」の元まで生贄となる者を連れて行かなくてはならないのだ。

佐山(夙川アトム)には逃げられて失敗したが、小沢(赤楚衛二)がひっかかった。
千紘は、つながりがあるかのように見える資料群によって「自分で真実に辿り着いた」と思わせて生贄を取り込む。
与えられた情報をつないで、自分で何かを発見したと錯覚させること。これは陰謀論の最も効果的な伝播方法でもある。説得して信じ込ませるより、自分で気づくという強固な確信を生じさせ、生贄を誘導する。

「まさるさま」はお告げに従い、正しく信じ、正しく行動したが報われない。
何に従ったのか、何を信じたのか。それを問わずに、欲望だけで出来事をつないで行動した者の空疎な悲劇が描かれている。
この悲劇は、小沢が辿る悲劇と同質である。
「それっぽさ」やタイミングが一時的な確信を呼ぶだけで、その背後に必然性など存在しないのだ。

千紘は、わが子を失ったという個人的なナラティブを「怪異」という強大な物語に接続することで、自らの狂気を正当化している。彼女にとって怪異は崇拝する対象ではなく、目的を果たすための装置に過ぎない。

彼女は、かつてこの地で起きた「死んだ少年と赤い服の母親」という子を亡くした母親の悲劇を、時代を超えて繰り返される普遍的なナラティブであると見なしている。その普遍性に自分自身を投影し、自らも怪異の一部として組み込まれることで、死んだ子を取り戻すという奇跡を再現しようとするのだ。

個人に最適化されたアルゴリズムによって、「行方不明の友達を探しています」と呼びかける千紘の映像がSNSで流れてきた時点で、不特定多数の個人の視線は彼女のナラティブに紐づけられる。

失くした子どもを生かし続けるために、赤い服の女も千紘も生贄を求め続けている。
その時、陰謀論におけるイデオロギー戦争のような、あるいは個人的な悲劇や喜劇を晒すことによってバズろうとするような、ナラティブによるバトルが生じている。

千紘はラスト、変貌した顔と「子どものようなもの」を晒す。そこにメッセージとしての意味など存在しない。ただ圧倒的な異常を見せつけることで、不安と恐怖を社会へ直接注入する行為はテロに近い。
彼女は社会を疑う人々を増殖させ、怪異をネットのアルゴリズムに乗せて最適化していく。
こうして、怪異の再生産サイクルが生まれ、生贄は生産され続ける。

千紘は社会を破壊しようとしているわけではない。ただ子どもを存在させ続けたいだけである。しかしその個人的な欲望の追求が、構造的に社会を破壊する行為と完全に一致している。
悪意がなくても社会は破壊される。むしろ悪意がないからこそ止まらない。

現代のメディア環境で社会不安を増幅させている者の多くは、社会破壊を目的としていない。
バズりたい、売りたい、信じてほしい、仲間がほしい。
それぞれの個人的な動機が集積した結果として、社会の信頼基盤が壊れていく。

そこに奇岩がある。
私たちは素朴に、この奇岩について思いを巡らし様々な解釈をしている。
すべてのはじまりは、こんな風だったのかもしれない。

テキストに確信はあるか――AIと書いた黒沢清『蛇の道』論について

昨日公開した「蛇女房、そして盲目の黒色について 黒沢清『蛇の道』(2024)をめぐる考察」について、AIとの会話がどのように行われ、テキストをどう編集したのか書いておく。

『蛇の道』については、すでに「はてなブログ」で3本近く記事を書いているが、まだ気になっていたのは、画面の中の黒の配置や、被写界深度の浅いショットなど、見ることを拒んでいる、疎外しているような表現についてだった。

黒沢清は、「見るなの禁止」と呼ばれる話型を、手を替え品を替え繰り返し用いている(『CURE』の青ひげ。事態の遮断から、見てはならないものが明らかになっていく『LOFT ロフト』『叫』など)。
なので、『蛇の道』(2024)の主人公の男から女への変更に「見るなの禁止」の話型である「蛇女房」が絡んでくるのではないかという思いがずっとあって、藤崎康彦著「ミソジニーの観点から見る日本文化の深層」や、小畠純一著「「見るなの禁」をめぐる河合隼雄と北山修の理論を比較検討」、北山 修と橋本雅之による本『日本人の〈原罪〉』などを読んでいた。

ただ、あまり考えがまとまらず、一旦置いていたのだが、「蛇女房」のもとの話しにあたってみようと思い、佐々木喜善の採集記録『聴耳草紙』を手にした。そこに「母の眼玉」という「蛇女房」の変奏的な話しがあり、主人公の蛇女が最終的に盲目になるという展開が、この話型において示唆的な内容だと感じたので、AIとの対話を通して、この物語について理解を深めてみようと試みたのが最初である。

最初は「見るなの禁止」の話型についてAIと確認した。「母の眼玉」の盲目という、他の「見るなの禁止」の類話に見られないモチーフについて、「「見るなの禁止」の話型において盲目とはどういう意味を持つと考えられるか」「この話は、「見ること/見られること」を接触に置き換えているか」などについて訪ねた。
また、そこから展開し、「視線を触覚として捉える思想はあるか」をたずね、その際、射程を物理学まで伸ばすよう伝えた。そこで、流出説やメルロ=ポンティの「肉」の概念など、「母の眼玉(蛇女房)」と『蛇の道』をつなぐことができる概念について知ることができた。

AIが「母の眼玉」の物語の展開を物理学の観測になぞらえてきたので、「多世界分岐と捉えたらどうなるか」など、異界と現世の存在様式に着目する方向で話を広げてもらった。
この際の異界と現世は、私の頭の中で映画と現実と読み替えながら話しを進めた。

「母の眼玉」における視線とそれを媒介する目玉への理解と、それによって引き起こされる異界と現世の存在様式について粗方まとまってきたところで、私のテキスト「黒沢清『蛇の道』(2024)お前は、生涯這いまわり、塵を食らう」「『蛇の道』(2024)とある草原で一対の男女が掴み引くもの」に、今までの話しを接続できるか試みてもらい、すり合わせの作業を行い、だいたいまとまってきたところでテキストを生成してもらった。

出てきたテキストには、論をつなぐためのいくつかの弱いテーマが配置されていたので、それらは全て削除した。
また、持ち込んだ概念などは、自分が理解した形に書き換えた。言い回しなども、自分の理解と齟齬がある部分は書き換えた。
最後に異界と現世を、映画と現実に読み替えた際に見えてきたところを結論として書き換えた。

これで自分の思っていたものが形になったと思う。

stevenspielberg.hatenablog.com

蛇女房、そして盲目の黒色について 黒沢清『蛇の道』(2024)をめぐる考察

この記事はAIとの対話をもとに、加筆・編集したものです。

監督:黒沢清

序 「見るなの禁止」話型と『蛇の道』

民話の話型に「見るなの禁止」というものがある。禁じられた視線によって異類と人間の関係が断絶するという構造を持つこの話型は、「鶴の恩返し」をはじめ、世界各地に類話を持つ。その一つである「母の眼玉(蛇女房)」は、佐々木喜善の採集記録『聴耳草紙』の五六番に収められており、他の類話とは異なる特徴的なモチーフを持つ。それは、異界へ帰る際に蛇女房が子どものために目玉を置いていくという挿話である。子どもがそれをしゃぶって大きくなるが目玉をしゃぶりつくしてしまい、父親が異界へ赴いてかつての女房であった蛇にもう片方の目玉をもらいに行く、という展開を持つこの話は、「見ること」というテーマを「触れること」へと読み替えることで、話型の核心に潜む問いを別の角度から照らし出している。

黒沢清の『蛇の道』(2024)は、自身の旧作(1998)のリメイクであり、主人公が男性(哀川翔)から女性(柴咲コウ)へと変更されている。劇中で「蛇のような目だ」と形容される小夜子(柴咲コウ)は、蛇のイメージをまとう存在として描かれる。また映画には、自律走行型掃除機のルンバが印象的に登場し、創世記の蛇が「生涯這いまわり、塵を食らう」と呪われる場面との照応が見て取れる。この映画を「母の眼玉(蛇女房)」の話型と重ね合わせ、さらに視線・接触・黒というモチーフを通じて読み解くことで、映画が概念化への抵抗という主題をいかに形式的に実現しているかを考察する。

一 視線が異界を存在させる

「見ること」から「触れること」へ

「見るなの禁止」話型において「見ること」はタブーの核心にある。視線が境界を破るのではなく、視線が境界そのものを生成するという点が重要である。見ないことが異界と現世の未分化な状態を守っており、見ることによって二つの世界が決定的に分割される。
しかし「母の眼玉(蛇女房)」(聴耳草紙所収)の話は、「見ること」という視覚的行為を「触れること」という身体的接触へと読み替えることで、話型の論理を変容させている。目玉をしゃぶるという行為は、乳児が乳首を含むのと同じ原初的な接触であり、視線という遠隔的接触から口・皮膚という直接的接触への移行を示している。母の身体の一部を文字通り体内に取り込むこの行為は、「見ること」よりもはるかに深い、融合に近い接触である。

視線を接触として捉える思想は哲学史・科学史において広く見られる。古代ギリシャの流出説(エンペドクレス)では、目から視線の炎が流れ出て対象に触れることで見えるという発想であり、視覚を物理的接触として捉えていた。
メルロ=ポンティは『見えるものと見えないもの』において、「肉(chair)」という概念を提示した。「肉」とは、見る者と見られるものを共に成り立たせている、世界と身体に共通の存在の素材のことである。これは、見ることと触れることが、同じ身体的経験の二つの現れ方であるという考えに基づいている。私たちは通常、視線が外側から対象を捉える、いわば対象を突き刺すようなものだと思いがちだ。しかし彼によれば、見る者はすでに世界の内側にあり、見るとは視線が対象に包まれるような経験であるという。
また量子力学の観測問題においては、観測行為が観測対象の状態を確定するという意味で、見ることは対象への物理的干渉として理解される。

多世界解釈と異界の存在様式

「母の眼玉(蛇女房)」の話を量子力学の多世界解釈と重ねると、三つの段階が見えてくる。第一段階は未分化(重ね合わせ)の状態であり、異界と現世が未分離のまま、蛇女房は現世に棲んでいる。第二段階は視線による確定(分離)であり、男が見た瞬間に世界が分岐し、蛇女房は蛇として確定されて異界へ押し返される。この観測による確定は不可逆である。そして第三段階として、分離した二つの世界が視線を介さずに、目玉という視線の媒体を介して繋がり直す段階が訪れる。
重要なのは、第三段階が未分化への回帰ではないという点である。
「母の眼玉(蛇女房)」では、母の目玉を体内に取り込んだ息子が異界を訪ねると、盲目の人間の姿をした母が現れ、二人は連れ立って現世へ行き、共に暮らすところで物語は幕を閉じる。
異界と現世は、盲目という状態と目玉という物質を媒介にして両者が相関する。

これは量子もつれの構造に似ている。かつて相互作用した二つの系が、分離後も非局所的な相関を持ち続けるように、蛇女房と子どもは目玉という相互作用の痕跡を通じて繋がり続ける。分離を保ちながら相関するという第三の存在様式において、目玉は「視線という接触の物質的痕跡」として機能している。

ロラン・バルトは写真論において、写真を「光の物理的な痕跡」として論じ、「それはかつてあった」という概念を提示した。写真が光の接触を物質に固定するように、目玉は「視線そのものを物質として手渡している」と読むことができる。子どもがそれをしゃぶることで、不在の母の視線を身体に取り込む。この読みにおいて、「母の眼玉(蛇女房)」の盲目は単なる喪失ではなく、視線という権力から自由になることであり、その自由になった異界の存在の視線が、一体的な世界を眼差しているかのような終わりを迎えるのである。

二 小夜子という蛇

蛇の二面性と主人公の性別変更

『蛇の道』(2024)が日仏共同製作であることは、映画が内包する蛇のイメージの二面性と不可分である。キリスト教社会において蛇は悪の象徴であり、創世記においてアダムとエバを誘惑し禁断の知恵の実を食べさせ、「生涯這いまわり、塵を食らう」という呪いを受けた存在である。一方、東アジアの伝承において蛇は女性性の象徴であり、神聖視され信仰の対象となってきた動物でもある。映画は自ずとこの二面性を内包している。

1998年版から2024年版への主人公の性別変更は、この二面性の問題と深く関わる。1998年版では新島(哀川翔)が数多の世界を見る超越的な存在として復讐を繰り返していたが、2024年版では「蛇のような目」を持つ小夜子が見る主体として現れる。「母の眼玉(蛇女房)」では蛇は見られる側にいたが、この映画では蛇が見る側になっている。この反転は、見ることと見られることの非対称性の解体、あるいは蛇が異界から現世へ渡り視線の主体になったという読みを可能にする。

ルンバと這う者のイメージ

映画に印象的に登場するルンバは、創世記の蛇の暗喩として機能している。常に床を這い、塵を食らい(吸い込み)、自律的に動き、しかし目を持たない。目を持たずに這い回るルンバは盲目の蛇女房と重なる。視線を失った異界の存在が現世を這い回り、塵という物質的な痕跡を収集し続ける。
「母の眼玉(蛇女房)」との接続においてルンバが示唆するのは、小夜子の復讐が回復を目指していないという点である。喪失を回復しようとするのではなく、喪失の痕跡を物質として這い集め続ける行為として復讐が描かれる。蛇女房が世界を書き換えることなく目玉を渡し盲目となったように、小夜子は蛇の位置で地を這い続ける。

三 概念化への抵抗としての復讐

子どもの抽象化というアイロニー

映画において殺された娘は名前もなく薄く描かれる。これは欠陥ではなく意図的な描き方である。映画が子どもを薄く描くのは、社会がすでに子どもをそのように扱っているからだ。戦争や紛争の報道において、子どもの犠牲が概念として語られるとき、子どもは自動化されたイデオロギー闘争の部品として利用される。映画の形式が社会の子どもの扱いを映している。これがアイロニーの核心である。

アルベール(ダミアン・ボナール)は娘の死を自己弁護の道具として使い、復讐という行為で自分の罪悪感を処理しようとする。子どもを概念化することで自分を正当化するこの姿勢に対し、小夜子は映画ラスト近くで「あなたが一番嫌い」と言い放つ。この言葉は最も近くにいた者が最も純粋に概念化の構造を体現していたことへの告発である。小夜子の復讐は娘への愛という動機を超えており、復讐という行為により、子どもが概念化され続けることに抗い続けている。
しかし小夜子は概念化への抵抗として一貫しているわけではない。そしてその矛盾こそが、この映画における小夜子の核心である。映画の中で小夜子は容疑者を殺害した遺体をシュラフに入れる。シュラフとは覆うことで匿名化し道具として扱う容器であり、その行為において小夜子は概念化する構造の側に立っている。しかし彼女はそのシュラフを開け、中にナイフを突き立てようとして、結局できずにナイフを捨てる。映画終盤に現れるスナッフフィルムの中の、無造作に布にくるまれた殺された子どものイメージは、このシュラフのイメージと重なっている。覆われた者の前でナイフを捨てるという一瞬の躊躇において、小夜子の内なる概念は錯綜し、戸惑っている。小夜子は容疑者をシュラフに入れる者でありながら、覆われた者にナイフを刺せない者でもある。この矛盾は解消されない。解消されないまま抱えられていることが、小夜子を触媒やスティグマという概念に還元できない理由であり、彼女自身の概念化への抵抗として描かれている。

「みんな」への告発と家父長制

黒沢清の『叫』(2006)において赤い服の女が発する「私は死にました。だからみんなも死んでください」というモノローグは、固有名を持たず「女の幽霊」として概念化される存在が、概念化した側全体を「みんな」として告発する言葉である。私たちが幽霊と呼ぶのだから、幽霊は「生きているものみんな」を恨む。
「見るなの禁止」に関する論考において、世間における「みんな」とは家父長的な体制側を意味するという指摘があった。
『叫』のモノローグの丁寧語にも、家父長的な体制下における社会的な属性をうかがわせるものがある。

映画ラスト、小夜子は日本にいる夫とのモニター通信で「娘を売ったのはあなたね」と告げる。この告発に対応する伏線や証拠は映画中に一切存在しない。世間では唐突な言いがかりとして受け止められているこの場面は、しかしその唐突さこそが証拠として機能している。証拠を持てない被害を生む構造への告発は、一切の仄めかしなく唐突に語られることで、事実の言語ではなく構造の言語として機能する。唐突さそのものが、証拠を持てないという構造そのものを体現している。

「見るなの禁止」話型において禁忌を課す権力は男の側にある。蛇女房が「見るな」と言っても、見る権力を持たない彼女はその禁忌を維持できない。家父長制とは見る権力を独占する構造である。小夜子が「蛇のような眼」だと眼差しを指されることは、見られる側が見る側になったという転倒である。
夫への告発はモニター越しに、すなわち構造のレイヤーを通じてなされる。構造のレイヤーを介して構造そのものを告発するという逆説が、この場面の形式的意味である。

モニターというレイヤー

被害にあった子どもも、夫も、モニター越しに登場する。直接対面ではなくモニターを介するということは、映画のスクリーンの内側に別のスクリーンが入れ子になることを意味する。観客は映画を見ながら、映画の中でモニターを見ている人物を見ている。子どもは構造を通過した像としてのみ存在し、夫は構造の向こう側にいる。モニターは構造というレイヤーを表す装置として機能している。
しかしモニターは両義的である。概念化の道具として機能する一方、消灯した黒いモニターは概念化を拒否する。レイヤーであることが同時に直接視線の暴力を遮断する。蛇女房の目玉のように、接触を物質として媒介する装置でもある。ホワイトフラッシュの後、モニター越しに夫への告発が語られるのは、構造のレイヤーを通じて構造そのものを告発するという、この映画の最も深い逆説の実現である。

四 黒という形式

黒塗りのテキストとして

映画のオープニングでは、フランスのとある路地に黒い車・黒い自転車、黒いマンションの扉、黒い工事用のフェンスシートなどが意図的に配置され、そこに黒髪の小夜子の後ろ姿が現れる。この画面は一種の黒塗りされたテキストとして読むことができる。黒塗りされた公文書は内容を隠蔽するが、隠蔽されていることは見える。欠如が欠如として可視化されている。路地の黒いものたちは何かを隠しているのではなく、隠されているという事実を可視化している。

概念化とは欠如を埋める操作である。名前のない子どもに「犠牲者」という概念を与え、複雑な構造を「悪の組織」に還元する。概念は欠如を不可視にすることで機能する。これに対して、欠如を欠如として示すことが概念化への抵抗となる。娘が薄く描かれるのも同じ論理であり、娘を「復讐の動機」という概念で描くことを拒否しながら、具体的に描くこともしない。説明しないことで、説明できないことを示す。

光にとっての黒、映画にとっての黒

光にとって黒とは吸収される場所である。白は光をすべて反射するが、黒は光をすべて吸収して返さない。見るという行為は対象から反射した光が目に届くことで成立するため、黒いものは視線を受け取ったまま吸収し、見ることを成立させない。小夜子の黒髪は向けられた視線を反射せず吸収することで、概念化しようとする視線を受け取ったまま返さない。蛇女房は見られることで傷ついたが、小夜子の黒は視線そのものを吸収することで概念化を拒否する。

映画は本来、プロジェクターが光を放射し、白いスクリーンがその光を反射し、観客の目に届くという連鎖によって成立する。映画とは光の放射と反射のメディアである。しかし画面の中に黒が配置されるとき、そこだけ光が返ってこない。映画が「ここは見せない」と宣言し、見せるメディアが見せないことを見せる。反射のメディアが吸収を映す。黒沢清自身が「映画というのは、光の粒のことかもしれない」と述べていたことを思い出せば、この映画における黒という光の遮断は、映画というメディアへの作家自身による内側からの問い直しとして理解される。

概念化への抵抗をテーマとして語ろうとすれば、それ自体が概念化になる。語ることはすでに概念化だからである。だから抵抗をテーマとして語らずに実現しようとすれば、画面の構成そのものが抵抗にならなければならない。黒を配置すること、被写界深度を浅くすること、娘を薄く描くことは、語らないことで語るという形式的必然の結果である。
ここで「母の目玉(蛇女房)」の盲目と、映画における黒塗りが同じものの二つの表れであることに気づく。「見るなの禁止」話型において蛇女房は見られることで傷つき、盲目になる。盲目とは視線を吸収して返さない状態であり、見ることを手放しながらも存在し続ける状態である。映画における黒塗りも同様に、視線を吸収して返さない領域として画面に存在し続ける。盲目の母が目玉を持たないまま現世へ来て息子と共に暮らすように、黒塗りは見せる力を持たないまま画面に存在し続ける。小夜子の黒髪はその接点に立っている。盲目の母が盲目という状態を身体に刻んで現世へ戻るように、小夜子は黒髪という盲目の刻印を身体に持ちながらフランスの街を歩いている。「蛇女房」の話型と映画の形式は、盲目と黒塗りという同じ論理の上で重なっている。

被写界深度の浅さとの差異

映画には無視できない程度で被写界深度の浅い場面が登場する。これは黒とは質の異なる形式的操作である。黒は視線を受け付けない。被写界深度の浅さは視線を受け付けながらぼける。前者がメディア論的な抵抗であるとすれば、後者は視線の認識論的限界の露呈である。被写界深度の浅い画面では、ピントの合った部分のみが確定した存在として現れ、ぼけた部分は観測によって確定されることを免れたまま画面の中に留まり続ける。映画ラスト近くでアルベールが小夜子に見ることを強要したスナッフフィルムが不鮮明であったように、子どもはこのぼけた部分にいる。概念として確定されることを、画面の形式そのものが拒否している。

五 ホワイトフラッシュと告発の形式

黒から白への反転

映画ラストの場面への切り替わりにホワイトフラッシュが使われている。映画における通常の場面転換(暗転、カット、フェード)とは異なるこの選択は、それまでの黒の論理との対比において意味を持つ。黒が光を吸収して返さないものであるとすれば、ホワイトフラッシュは光が一瞬すべてを飲み込む過剰な露出による消去である。黒が欠如の保存であるとすれば、白はその吸収が臨界点に達した瞬間の放出である。

写真のフラッシュが対象を照らして像を固定するように、ホワイトフラッシュはそれまでの黒を一瞬照らす。しかし照らされた後に現れるのは確定された答えではなく、構造という照らしても照らしても輪郭の定まらないものである。フラッシュが強ければ強いほどその後の闇が深くなる。蛇女房が最後の目玉を渡す瞬間に対応するとすれば、ホワイトフラッシュは蛇女房が完全に盲目になる瞬間であり、異界が現世への視線をすべて手放す瞬間である。

結 黒の横断的テーマへ

黒沢清はこの時期、黒というモチーフを複数の作品に横断させている。『Chime』(2024)のオープニングでは天井から吊るされた消灯したモニターが料理教室という日常空間に置かれ、『蛇の道』(2024)では路地・黒髪・消灯モニターとして移動する黒が展開し、新作『黒牢城』ではタイトルそのものが黒を冠している。米澤穂信の原作小説『黒牢城』において、黒牢城とは黒々とした闇のような何者も出られぬ牢のような、何者も寄せつけぬ城のようなものであり、憂き世そのものを暗示すると著者は述べている。憂き世という牢の黒が、映画というメディアの中に持ち込まれる。

「蛇女房」の話は「見るなの禁止」話型において、見ることを触れることへと読み替え、視線が生み出した分離を物質的な接触が引き継ぐという構造を持っていた。『蛇の道』(2024)はその構造を映画の形式として実現している。概念化への抵抗は語られるのではなく、黒として画面に置かれる。視線を吸収して返さない黒が、見せることを自らの存在条件とする映画というメディアの内側から、見せることの論理を侵食する。
小夜子は背を向けて立っている。その黒髪は向けられる視線を吸収して返さない。見ることで確定しようとする力が、そこで吸収される。
黒は視線の持つ力への抵抗である。しかし映画において黒は、観客を映画という異界において盲目の存在に変貌させ、現世へと押し返す力となる。
黒の増殖は映画を浸食し、やがて映画を消滅させかねない諸刃の色である。

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Analysis of Kiyoshi Kurosawa’s Journey to the Shore (2015): The Atomic Theory of Cinema and the Rhythm of the Void

Abstract
This analysis reposition’s Kiyoshi Kurosawa’s Journey to the Shore not merely as a supernatural melodrama, but as a profound exploration of Cinematic Atomism. By interpreting the protagonist Yusuke’s lecture on the universe as a meta-commentary on the medium of film, the author argues that the "tide" in the movie represents the microscopic oscillation between "existence" and "nothingness" (the void between cuts). This critique elevates the film to a cosmic scale, where the boundaries between life and death are governed by the same physical laws as light and waves.


Key Analytical Pillars
1. The "Shoreline" as a Liminal Fluctuation
The journey of Mizuki and the deceased Yusuke is synchronized with the lunar cycle and the ebb and flow of the tide. They exist only on the "Shoreline"—the volatile boundary between the living (Utsushiyo) and the dead (Tokoyo). Their inability to remain in one place stems from the nature of this boundary: it is a shifting line that only exists through constant change.

2. The "Wave" as the Mechanism of Disappearance
The author identifies a revolutionary use of the "cut" in Kurosawa’s editing. When a deceased character vanishes, the transition is mediated by a metaphorical "Wave."

Wave-Particle Duality: Much like small fragments washed away on a beach, the dead appear and disappear according to the rhythm of these "Waves" (cinematic cuts).
The Fear of Erasure: Mizuki’s panic when a distant island vanishes reflects the existential dread that the same "Wave" that swallowed the landscape has also reclaimed Yusuke.
3. The Atomic Theory of Cinema: "Light, Waves, and Nothingness"
In the pivotal scene where Yusuke teaches a class, the analysis suggests he is explaining the very fabric of the filmic world.

The Atom of Film: Film is composed of massless photons (light) that fluctuate in waves. Yusuke’s statement that "the world is made of nothingness" refers to the atomic level of cinema—the literal void that exists between frames and cuts.
The Intersection of Cuts: The "Wave" that Yusuke describes (narrowed down until it becomes nothing) is the "cut" itself. Cinema is a collection of these "nothings" (voids) that, when gathered, create the illusion of a world.
4. Performance as an Anchor: The Fictional vs. The Real
The film balances two contrasting acting styles to navigate this "cosmic" scale.

Tadanobu Asano: Provides a "physical persuasion" that feels grounded in reality, making the presence of a ghost undeniable.
Eri Fukatsu: Represents a "purified fiction." Her stylized performance and the film’s theme music act as a crucial anchor, preventing the audience from being overwhelmed by the harrowing nature of loss and instead guiding them toward a "forward-looking mourning."
Conclusion: A Cosmic Affirmation
Journey to the Shore is a monumental work that demonstrates how cinema—though a world of different physical laws—is still governed by the logic of the universe. By acknowledging the "Dark Matter" or "Dark Energy" of film (the unknown forces that move and expand the medium), Kurosawa offers a message of hope. The film is an affirmation of the connection between our world and the "other side," unified under the grand architecture of light and waves.

 

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