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眠那影俄仁那琉

『蛇の道』(2024)とある草原で一対の男女が掴み引くもの

監督:黒沢清

*この記事には『蛇の道』(2024)のネタバレがあります。

レビューなどを見ていると、吉村(西島秀俊)との会話に出てきた、「終わり」という言葉を、小夜子(柴咲コウ)の復讐に対応させて考えている人が多くいる。
吉村の抱える苦しみは死によって解放されるが、小夜子の抱える苦しみは死によって解放されるものではなく、死んで終わりにできない。もしくは、彼女自身が死んで終わりと思えず、死ねない(復讐を続けるしかない)ことをこの場面を用いて表しているのだろうという推測である。

またいくつかのレビューにおいて、最後の小夜子の夫(青木崇高)に対する言葉は唐突であり、言い掛かりや思い込みによるものではないのか、と疑問に感じているものもあった。
伏線のようなものもなく、いきなりあなたが娘を組織に売った、と言い放つのだから、そのように感じる人も当然いると思う。


前回のネタバレ記事で

『叫』の「私は死にました。だからみんなも死んでください」と言う赤い服の女が、家族というものを新たに構築するために復讐しているような、そんな印象の映画でした。

と書いたが、小夜子を『叫』(2006)の赤い服の女(葉月里緒奈)と考えると、上記の推測や疑問に説明がつくように思われる。
赤い服の女が言う「私は死にました。だからみんなも死んでください」が、彼女の本意だとすると、それは殺されたことによって生まれた恨みを晴らすための復讐なのだから、死によって怨みが解消されることはない。
そして、その対象はみんなであるから、当然夫も含まれることになる。

ただ注意して欲しいのは、ここで一足飛びに小夜子は死んでいるだとか、幽霊だと言いたいわけではないということ。

小夜子はアルベール(ダミアン・ボナール)や自分の娘の死を、自分の身にも起こり得たことだと感じ、自分が殺されたかのように感じているのかもしれない。その思いは、似たような事件を見聞きする度に増大し、全ての殺された者の怨みを一身に背負うようになったのかもしれない。
この復讐を終わらせられないと感じ、夫に対してまで嫌疑をかける小夜子は、まるで『叫』に出てくる赤い服の女のようなのである。

「私は死にました。だからみんなも死んでください」
虐げられ、殺された女の怨みは「みんな」へ向けられている。
それはなぜだろうか。
『叫』において、赤い服の女がどうして死んだのか、もしくは殺されたのかサッパリ分からないこと。
また、『蛇の道』(2004)において、子供が殺された理由が曖昧にされていることからも伺えるように、社会的弱者が不遇になる時、往々にしてその理由は社会的弱者の背景に及び、問題の根は辿れないほど広がりを見せていく。
『CURE』(1997)の高部(役所広司)が言うところの「世の中が悪い。そういうことか」なのである。そう、世の中が悪い。
この、世の中が悪いという諦念にも似た結論に抗う行為、それが皆殺しである。

そしてこの世の中の諸悪の根源のような悪しき慣習に対し、黒沢清は財団やNPO、サークルといった言葉を用いる。
これが『クリーピー 偽りの隣人』(2016)になると、西野(香川照之)が所属しているらしい協会だったりする。
復讐者は手始めに財団やNPO、サークルや協会などを当たる。それでも対象者が分からない場合は(分からないわけだが)対象を広げる。こうなると復讐の対象は「みんな」になっていく。

なら『蛇の道』(2004)は皆殺しの復讐劇なのかというと、そうではない。というか、それだけではない。
『叫』のラストでは、おそらく主人公の吉岡(役所広司)だけが許された世界が訪れ、映画は幕を閉じた。彼は罪の意識と共に、罰を与えられなかった故に生じた罪悪感を持ち続けたまま生きていかなくてはならない。
そこには罪が許されたことにより、罪の贖いが許されない世界が広がっていた。

この『叫』ラストに潜む阿闍世コンプレックスが、『蛇の道』(2004)では展開されている。

阿闍世コンプレックスとは、精神科医の古沢平作によって提唱され、その後弟子の精神科医小此木啓吾によって広まった概念である。
小此木による阿闍世コンプレックスのもとになる阿闍世物語は以下である。

韋提希は古代インドの王舎城の王頻婆娑羅の妃であった.そして,その息子,つまり王舎城の王子が阿世である.阿闍世を身ごもるに先立って,その母韋提希夫人はみずからの容色の衰えとともに,夫である頻婆娑羅王の愛が薄れていく不安を抱いた.そして,王子を欲しいと強く願うようになった.思い余って相談した予言者に,森に住む仙人が三年後に亡くなり,生まれ変わって夫人の胎内に宿ると告げられた.しかし,韋提希夫人は不安のあまりその三年を待つことができず,子どもを得たい一念からその仙人を殺してしまった.ところが,この仙人が死ぬときに,「自分は王の子どもとして生まれ変わる.いつの日かその息子は王
を殺すだろう」という呪いの言葉を残した.その瞬間に頻婆娑羅王の妃である韋提希夫人が妊娠した.こうして身ごもったのが阿闍世であった.すでに阿闍世はその母のために一度は殺された子どもなのであった.しかもこの母は,身ごもってはみたものの,おなかの中の胎児である阿闍世の怨み(つまり仙人の呪い)が恐ろしくて,産んでから高い塔から落として殺そうとした.しかし,彼は死なないで生き延びた.ただし,小指を骨折した.そこでこの少年は「指折れ太子」とあだなされた.この少年が阿闍世である.阿闍世はその後すこやかに幸せに育った.しかし,思春期を迎えてから阿闍世は,お釈迦様の仏敵である提婆達多から次のような中傷を受けた.「おまえの母はおまえを高い塔から突き落として殺そうとした.その証拠に,おまえのその折れた小指を見てみろ」と言った(サンスクリット語の Ajatasatru は「折れた指」「未生怨」の両方を意味する).そして阿闍世は自分の出生の由来を知った.この経緯を知って,それまで理想化していた母への幻滅のあまり,殺意に駆られて母を殺そうとする.しかし,阿闍世はその母を殺そうとした罪悪感のために流注という悪病(腫れ物)に苦しむ.「そして,この悪臭を放って誰も近づかなくなった阿闍世を看病したのが,ほかならぬ韋提希その人であった.しかし,この母の看病は一向に効果があがらない.そこで,お釈迦様にその悩みを訴えて救いを求めた.この釈迦との出会いを通して自らの心の葛藤を洞察した韋提希が阿闍世を看病すると,今度は阿闍世の病も癒えた」.そして阿闍世はやがて,世に名君とうたわれるような王になる.

小此木啓吾 : 阿闍世コンプレックス論の展開.阿闍世コンプレックス(小此木啓吾,北山 修編).創元社,東京,p.4-58, 2001

日本の精神分析学の領域では,父子関係の病理を扱うエディプスコンプレックスと対比される母子関係の病理を語る上で,非常に有名かつ有効な概念として受容されている.(中略)この概念の臨床的な意義は次の 2点であろう.

第 1は子供を持つことをめぐる母親の葛藤の説明である.阿闍世の母は自分を守るために,一旦は子供,すなわち阿闍世の誕生を願うが,後になると逆に阿闍世を殺そうとする.このような母親の葛藤は小此木によれば,現代の母親にみられる子供養育の困難と不安や子供を虐待する母親の精神病理を明らかにするという.

第 2は子供の母親に対する葛藤の説明である.それは自分がどのようにして(例えば望まれてか,やむなくかといったような)生まれてきたのかという子供のアイデンティティとも関連する.上述した母の自分に対する態度を知った阿闍世の葛藤は,思春期の子供たちの「なぜ僕を生んだの」という叫びに通じると小此木はいう.

宮司信,森口眞衣「阿闍世コンプレックスという名称に関する一考察」精神神経学雑誌 第 110巻 第10号(2008) 869-886頁

提唱者の古澤は、エディプスコンプレックスに対応する概念として、阿闍世物語の独自解釈を通して、許されることで生まれる罪悪感の存在を指摘した。
この罪悪感は『叫』のラストに見られる、荒廃した世界を一人彷徨う吉岡に通底する罪悪感である。
その後、小此木が発展させた阿闍世コンプレックスに見られる、母と子を巡る葛藤の物語が『蛇の道』(2024)の物語や、そのイメージからは見えてくる。


蛇の道』(1998)では、被害にあったとされる子供の性別は全て女だったが、『蛇の道』(2004)では、被害にあったとされる子供の性別に括りが無くなっている。
他にも、主人公は子供を殺された女になり、クライマックスの行き止まりにいたもう一人の復讐者の妻とそれを慕う子供たちや真の黒幕の女など、1998年版とは多くの違いが見られる。

クライマックスの行き止まりにいたアルベールの妻、ローラを取り囲む子供たちの人種はバラバラだ。まるでセサミストリートに登場する子供のようで、子供という概念を見ているようだった。
そのようなThe子供たちに囲まれるローラは聖母のように見える。
しかし、アルベールによると、この妻が娘を組織に売り、死に至らしめたという。
実際、この場面で繰り広げられるアルベールとの会話の中で、ローラは娘の養育に限界を感じていたことを仄めかし、娘への不満を吐露している。

このThe子供たちは、ラストで不鮮明な映像に映る、布で覆われたものへとイメージを移行させる。そのイメージが記憶の中で可逆的に、同じく布で覆われたものであるシェラフのイメージを塗り替えていく。

そうすると、殺された娘の復讐のために鬼気迫る表情でシェラフを引きずる小夜子もまた、アンビバレントなイメージをまとい始める。
彼女の殺戮が「みんな」へと及んだ時、そこに子供は含まれるのだろうか。彼女は復讐の果てに、真の黒幕の女のように子供を切り刻みはじめるのだろうか。

あの映像を見たと言う小夜子もまた、シェラフに子供のイメージを重ねているはずである。シェラフにドライバーを突き立てることを思い止まった小夜子は、子供を殺せないのかもしれない。


とある森を抜け、草原を駆け抜ける男女は、その間にあるものを掴んでいる。
ここがショッピングモールならばそれは子供だろうし、戦場でも子供だろう。一対の男女の手に引かれるものとは、古今東西において子供である。

ここには女と子供を巡る錯綜したイメージがある。
子供を殺しているのは、女か母親か。小夜子の復讐は、母としてのものなのか女としてのものなのか。
母であり、女であるという都合の良い世界は、もうどこにも存在しない。




例によって、誰もこの映画について子供云々言ってないのですが、私は『蛇の道』(2024)を見て、ついに黒沢清の映画に全面的に子供が出てきたな、と思ったので書いておきます。

黒沢清『蛇の道』(2024)お前は、生涯這いまわり、塵を食らう

監督:黒沢清

*この記事にはネタバレがあります。


キリスト教社会では、蛇は悪の象徴として扱われてきた。
創世記において、蛇はエバとアダムを誘惑し、禁じられていた知恵の実を食べさせ、その結果、エバとアダムはエデンの園から追放されることになる。

3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。」

蛇の道』は、当然フランスの、ひいては世界の宗教事情に配慮がなされていることだろう。
また『蛇の道』というタイトルが、キリスト教社会において、どのような響きを持つタイトルなのか、だいたい見当がつくと思う。

劇中で「蛇のような目だ」と形容される小夜子(柴咲コウ)が、蛇のイメージをまとうのだ。
彼女にかかる呪いとは、終わらない復讐である。
彼女は生涯這いまわり、塵を食らうことになる。
そう、まるでルンバのように。

一方、古来より東アジアでは蛇は女性性の象徴として考えられてきた。伝承や民話の中で語られる蛇は、女の姿をして現れ、その正体は神の化身だったり、神の使いだったりする。
蛇は神聖視され、信仰の対象とされてきた動物でもある。

日仏合作映画である『蛇の道』は自ずと、神に背き呪われた存在となった蛇と、女性性を象徴する神聖な蛇という、蛇の持つ二面性を内包している。

蛇の道』のポスターは、ミナール財団の黒幕と目されるピエール・ゲラン(グレゴワール・コラン)の拉致場面で撮影されている。
これは、緑の中(ゴルフ場)を、男二人が寝袋を引きずり駆けている様子を遠目に捉えた、『蛇の道』(1998年)DVDの再販時のパッケージに採用された場面を踏襲していると思われる。
ポスターを見た時、再販DVDのパッケージデザインを大きく使ってくるのだなと少し不思議に思い、この場面がリメイク版にもあるのだなと思ったわけだが、実際に映画を見て分かったのは、この場面を黒沢清がどうしてもやりたかったということだ。

ゲランは財団が解散した後、念願の田舎暮らしをしている。小夜子とアルベール(ダミアン・ボナール)がゲランの家へ行くと、ゲランは留守だった。そこに猟を教えてもらっていたゲランが丸腰で鉄砲を携えた猟師と共に帰ってくる。小夜子とアルベールは猟師を一旦気絶させ、その間に、自分たちと一緒に来るようゲランを説得し、彼にシェラフへ入るように言い、遠い遠い自家用車の停車場まで、広大な自然の中をゲランの入ったシェラフを引きずって運ぶ。途中、起きてきた猟師に鉄砲で狙われるが、なんとか弾丸をかいくぐって逃走に成功する。

このように、他二人の財団関係者の拉致場面と比べて、嘘でもついているのかと思うぐらい、ゲランの拉致場面は饒舌に語られる。

正直そうまでして、と思った。
蛇の道』をリメイクしたいんじゃなくて、この場面をもう一度撮りたかったのではないのかと思った。
ただ、この映画について考えていて気づいたのは、この場面の、男女がシェラフを掴んで弾丸をかいくぐり、大自然の中を駆け抜けるイメージが、おそらく黒沢清の持つ、現代で成立しうる、もしくは肯定的な、家族のイメージなのだろうということだ。

順を追って映画を見ている私たちは、当然シェラフに今誰が入っているか分かっている。
それは、ラヴァル(マチュー・アマルリック)だったり、ゲランだったり、クリスチャン(スリマヌ・ダジ)だったりする。
ただ、この覆われた者のイメージは、この映画において、映画終盤のスナッフフィルムに映る布で覆われた者とイメージを共にしている。
スナッフフィルムに映る、布で覆われた、おそらく子供。
覆われた者とは、不確定で未分化な胎胞のようだ。

ゲランに案内させ、小夜子とアルベールは、財団に残された資料を入れてある倉庫へ行き、そこで義憤に駆られたアルベールがゲランを殺害する。
その後、ゲランの死体はシェラフに入れられ、車のトランクに入れられる。そこで小夜子はシェラフを開け、前にアジトで横たわるラヴァルの死体にナイフを突き立てたように、ゲランの死体にドライバーを突き立てようとする。が、小夜子は躊躇して思いとどまる。
それはなぜか。
それが布に覆われていたから。それが覆われた者のイメージと重なるからである。

劇中、アルベールは、言葉や行動で小夜子に対する恋愛感情のようなものを見せる、かのように描かれているが、その様は幼い子供が見せる母親への依存に近い。

感情的で不安定なアルベールは『アカルイミライ』(2003)の雄二(オダギリジョー)に近い。共に幼いイメージを持つ。
また、健忘症のような様態を見せるアルベールは『叫』(2006)の吉岡(役所広司)のようだ。彼はショックを受けているが、何にショックを受けているのか忘れている。

冒頭から、不安に駆られ、車中で拳銃を手にするアルベールに「そんなものしまって」と諭す小夜子は母親のようだ。
クリスチャンの拉致場面における、「僕が小夜子を助けた」「そうね、あなたが助けた」というやり取りもそうだ。路駐が警察に見つかり狼狽えるアルベールを一旦落ち着かせ、代わりに対応する小夜子もそうだ。
この復讐は、母と子を思わせる依存関係にある男女の二人組によって行われている。

小夜子がアルベールに気づかれないよう、拉致した元財団メンバーたちにでっち上げを提案する。そうすると次のターゲットがでっち上げられる。そのでっち上げの提案にアルベールが反応する。そして、小夜子がアルベールを問いただす。
その繰り返しにより、なぜか事態は核心へと近づいていく。
「お母さん、怒らないから本当のことを言いなさい」
自己欺瞞を繰り返し、健忘症のような状態に陥り、ショックによるものなのか退行現象が見られる成人男性に対し、小夜子は淡々と母親を演じて見せる。

ユングが提唱した概念に、グレート・マザーと呼ばれるものがある。
ある民族ないしは人種の集団的無意識の中に元型といわれる共通イメージのようなものがあるとし、このグレート・マザーとは、実際の母とは異なる、母の共通イメージのようなもののことをいう。
グレート・マザーは、慈しむもの、包み込んでくれるものというイメージと同時に、包み込むことは呑み込むことに通じ、子どもを独占・束縛しようとする破壊的なイメージももつ。
※こちらのサイトを参照http://rinnsyou.com/archives/307#google_vignette

映画終盤の舞台となる廃遊園地脇の倉庫内の行き止まりで、まるで「岩窟の聖母」に描かれるマリアのような佇まいで子供たちに囲まれ登場するアルベールの妻、ローラ。
おそらくアルベールは、この妻の持つ破壊的な母のイメージ(アルベールが語る妻は、映画で表象される姿と食い違いを見せる)と、小夜子が演じる肯定的な母のイメージに引き裂かれている。
ローラの言い分によると、アルベールは自身の子供もイメージの世界の住人のように捉えている。


もうまったく実態が不明の、子供を切り刻んでいた女。凄まじいメス裁きを見せる女。ローラが心酔し、その後継を担おうとしたが、存在が偉大すぎて?代わりにはなれなかった女とやらは、よく分からない。
財団は子供の臓器を売買していたらしい。しかし、この女のお眼鏡にかなわなかった子供はただ殺害されていたという。
彼らそれぞれの言い分が本当なら、この財団は、インドにおいて19世紀半ばまで存在していたとされているヒンドゥー教の「黒」あるいは「時間」の意を持つ、血と殺戮を好む女神カーリーを信奉し、殺した人間をカーリーへの供物としていた秘密結社、タギーのようなものということだ。

そしてこの女神カーリーのイメージは、不思議と小夜子の黒髪に重なる。

蛇の道』(1998)は、公開の10年前に起こった幼女誘拐殺人事件の影響を少なからず受けていたはずだ。
幼女誘拐殺人事件という、いつまでも繰り返される、偏在する普遍的な事件について。そしてこの事件が、偏在し普遍的である異常性について描かれていた。

主人公が女性になることで、『蛇の道』(2024)は、蛇という両義的な意味を含有する女の道となった。
そこに女の微笑みはない。





特に結論めいたものはないです。今書けるのはこんなものです。書かないと考えが進まないので、とりあえず書いています。

『叫』の「私は死にました。だからみんなも死んでください」と言う赤い服の女が、家族というものを新たに構築するために復讐しているような、そんな印象の映画でした。
赤い服の女には、アルベールの娘も含まれます。

小夜子は、吉村(西島秀俊)を自殺幇助で殺害したわけですが、西島さんはもう黒沢映画に出ないのでしょうか。なら死んだらいいじゃないですか(遠回し)、みたいな言葉に反応してサクッと死ぬというのも、らしいと言えばらしいキャラクターなのですが。
フランスで映画を撮ると、なぜか黒沢清の映画には年配女性が出てきます。
吉村の遺体に付き添う女性もそうです。
ただこの場面、同じ列で見ていた方が、一度シアターから出るため前を横切ってまして、それを避けたりしていて、よく見てなかったという。吉村が2023年4月18日に死亡したらしいことは確認できましたが、それ以降のやりとりがサッパリです。
また考えが進んだら書きます。

黒沢清『蛇の道』(2024)この黒はなんでしょう【ネタバレなし雑感】

監督:黒沢清

日曜日に『蛇の道』を見てきました。
ネタバレにならない程度の雑感を書いておこうと思います。

ネタバレ記事は以下から見れます。
stevenspielberg.hatenablog.com


あらすじは、小夜子(柴咲コウ)のでっち上げの提案から、クリスチャン(スリマヌ・ダジ)の名前が出てきたあたりで前作とは全くの別ものになったと認識しています。
最後の銃撃戦の舞台の行き止まりで、グレート・マザーのようなイメージが出てきた時は、えらい所まで来ちゃってるなと思いました。

『Chime』同様、黒のマスキングイメージが出てきます。
両タイトルともオープニングで出てきます。
『Chime』は天井吊り下げモニターによるマスキングでしたが、『蛇の道』のオープニングでは、フランスの街角に駐車された車・自転車、マンションの扉、工事用のフェンスシートなどが黒、黒、黒、全部黒。そして極めつけは小夜子の黒髪です。
この黒が黒髪でも表現されたことで、オリエンタリズムともこの黒は通底しているんでしょう。
このリドリー・スコット映画と見紛うような黒が、急に黒沢清の映画に頻出しています。
「映画というのは、光の粒のことかもしれない」みたいなことを以前言っていた黒沢監督ですから、黒という光の遮断は由々しき事態なはずです。
廃工場でアルベール(ダミアン・ボナール)がいそいそと消灯したモニターを引っ張ってこちらへ迫って来た時、このままこの真っ黒いモニターがスクリーンを覆ってしまうのではないかと不安になりました。
それからスナッフフィルムがスクリーンを覆うのと、真っ黒いモニターがスクリーンを覆うのと、どちらが怖いだろうかと考え込んでいます。
無による崩壊の危機が迫る、ネバ―エンディングストーリーのファンタージェンみたいで怖いんですよね。なんでしょうか、この黒は。

思えばシュラフも『Chime』に出てきました。
LOFT ロフト』(2005)でもそうですが、シュラフに入ると人は途端に匿名性をまとうというか、不確定な状態である「重ね合わせ」の状態になるというか、公開予定作の『Cloud クラウド』(2024)の予告を見ても、袋マスクだとかフルフェイスヘルメットだとか覆面などがやたら出てきます。
『回路』(2001)から覆面のイメージは出てきていましたが、普遍性とは違う匿名性のような「重ね合わせ」のイメージも頻出してきています。
今回の『蛇の道』のとある映像に最後に映るものもそうです。

この匿名性と、黒色は関係していますかね。いるんでしょうね。
そういえば映画に出てきたルンバも黒色でした。移動する穴みたいな。
あれは『CURE』(1997)の空のまま回る洗濯機の変奏のような感じもしたのですが、まだよくわかりません。
これから思い出しながら細かく見ていきたいと思います。

オールタイムベスト

どういう映画が好きな人が書いている記事なのか、気になる人へ。

f:id:stevenspielberg:20240606140947p:image

『エイリアン』(1979)リドリー・スコット

フィルム・ノワール風でジャンルレスな魅力。それでいて風格は大作然としている。

このエイリアンは怪物ではない。

 

バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)ロバート・ゼメキス

大学生の時にテレビでやっているのを見て、分かっていたはずの面白さに衝撃を受けて、そこからまたアメリカ映画を真剣に見はじめた。

 

『岸辺の旅』(2015)黒沢清

後述するカーペンターの『光る眼』(1995)と同じく、この作品があるとないとでは、後年の黒沢清の評価が変わってくるのではないかと思っている。

 

ハドソン川の奇跡』(2016)クリント・イーストウッド

若干、映像を写真のように記憶することができるのですが、この映画のショットは、頻繁に引っ張り出しては眺めています(頭の中で)。

色味とか、微妙に中心を欠いたショットとか、洗練されてる。

 

『めまい』(1958)アルフレッド・ヒッチコック

メロドラマに対してなのか、自分自身に対してなのか、ヒッチコックの冷めた眼差しが、当時の時代の空気と相まってめくるめく映画。

 

近松物語』(1954)溝口健二

溝口健二黒沢清と同じで運動神経の良い役者が好きなんだろうなってくらい、着物で動く動く。あれよあれよという間に太鼓の音が聞こえてきて、なんか死ぬらしい。みたいな。

 

『ワイルド・アパッチ』(1972)ロバート・アルドリッチ

とある場面で思わず立ちあがった。初めての経験だった。目撃していることを強く印象づけられる。

 

『光る眼』(1995)ジョン・カーペンター

ずっと哀愁を湛えている。そんなつもりで見たわけじゃなかったのに、胸がいっぱいになる。

 

『ナインスゲート』(1999)ロマン・ポランスキー

私は長らく監督とかよくわかんない状態で見ていたため、ポランスキーもよくわかっておらず、初めて見て「この人、天才だな!」とすごく感激した。

 

『戦火の馬』(2011)スティーブン・スピルバーグ

自分でもよく分からないのですが、この映画が好き。もともと馬は好き。

 

悪魔のいけにえ』(1974)トビー・フーパー

音楽の方が格好いいと思ってたけど、この映画を見て映画も格好良いと思った。

 

ゴジラ』(1954)本多猪四郎

オリジナルを見ないまま、70年代以降のゴジラを色々見ていたのですが、これを見てこれが見たかったんだとなりました。

黒沢清『Chime』(2024)妻と『悪魔のいけにえ』と

監督:黒沢清


松岡の妻

『Chime』(2024)の田畑智子演じる、松岡の妻について考えていた。
夕飯(そうめん)を食べている途中で、彼女は空き缶を潰しに家の裏手に行き、そこでけたたましい音を響かせている。一見すると、夕飯を中座して、今やらなくてもいいような行為(しかも爆音)に移る彼女は奇妙に見えるわけだが、この場面をこのように見せる必要について考えていたら、妙に落ち込んでしまった。

というのも、実家での母親の振る舞いを思い出したからだ。
夕食時、母親は忙しそうに動いていて、ゆっくり一緒に食べていた記憶がない。やれ醤油だ、おかわりだ、小皿だ、取り箸だなんだと運んだり下げたりしていたのだろうと思う。
『Chime』においても、あの場面で妻が夕飯を中座し、お茶だマヨネーズだと運んできていたなら、違和感を覚えずに、よくある夕飯場面として見逃していたかもしれない。

真に奇妙なのは、彼女の振る舞いではなく、妻ないしは母親がまともに席について食事も取らず、動き回っていることだろう。
以前から黒沢清の映画では、妻のグラスに夫がビールを注ぎ、それに対して妻が礼を言うという主従の構図は描かれてきてはいた。そのような家族間に横たわる構図に対する違和感が『Chime』では一層ふくらみ、虚ろな爆音となって響いている。

夕飯のシークエンス冒頭、おそらく彼女は準備に忙しく動き回っている。彼女を待っているであろう夫である松岡と息子が無言で着席する食卓を捉えたショットは、彼女をフレーム外に置くことで、ただ茫然と座る二人に鑑賞者が違和感を覚えるよう設計されている。
彼らにとって、彼女が一人忙しく準備をすること。また食事中に何かしらするために中座することは、いつものことだ。そして、彼らにわかっているのは、彼女がいつも中座するということだけ。彼女が中座して、なにをしているのかまでは認知できていないのだろう。だから彼らは、あの空き缶を潰す爆音を認知できていない。

この、認知の埒外とフレームの外という現象には何らかの相関があるのかもしれない。

プロについて語る男

黒沢清の映画において、揚々とプロについて語る男といえば、そう『LOFT ロフト』(2005)の木島(西島秀俊)だろう。松岡は木島の系譜の人間だ。私は「淀みなくヤバいやつ」と心の中で呼んでいる。もしくは、女を殺す時の返り血でシャツが赤く染まっている男=略して「赤シャツの男」だ。

彼が素晴らしいのは、死ですらもクリシェとして捉え、実際に死のうとするところだ。私は常々フィクションで、クリシェを疑わず生きている(ように見える)人物が死を前に狼狽える(ように見える)ことに不満を持っていた(予定調和な物語で「死が怖い」だとか「死ってなんだろう」とか言い出すのにムカついていたともいう)。
だから、木島が「死ってそういうもんだろ」と言い放ち、死のうとしているのを観た時、なんて清々しい人物なんだと感動したのを覚えている。死ですらそういうもん。狂気の一貫性。
黒沢清の映画に出てくる登場人物で一番好きかもしれない。

なので、松岡が転職の面接で「プロってそういうものでしょう」と揚々と語りを終えた時、彼は木島の系譜に連なる人物であると確信した。
そうか、淀みなくヤバいやつ系かと確信した。だから、彼の突然の凶行にも驚かなかったし、凶行時の赤シャツにも合点がいった。そう、彼らは赤シャツの男なのだから。

それなのに、松岡は映画終盤、薄暗くなった食卓で一人しくしく泣いている。
これはどういうことだ。
悪魔のいけにえ』(1974)でレザーフェイスが家の中で動揺し、狼狽えていた場面を思い出す。内面とかあんの?という驚きである。

彼らは子供のようだ。
彼らは自然の中でのびのびと身体を動かす。それがどこか身体を持て余しているように見える。
彼の認知の埒外とやらがどれだけあるのか不明だが、彼らの見ている世界は、かなり心許ないのではないかと思う。
クリシェでは捉えきれない事象や認知の埒外の断片として、フレームの外という現象が彼に迫っている。
『Chime』の不可解さは、彼らが世界に感じる恐怖の現れなのかもしれない。

黒沢清新作映画『Chime(チャイム)』(2024) がレンタルできます。

黒沢清監督作『Chime』(約45分/4K/2chステレオ/英語字幕付き)は、以下サイトで視聴できます。

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500円(税込)/3日間見放題

※レンタル料金・期間は、 ライセンス購入者により設定が異なります。

 

★「Chime」特典コンテンツメイキング「料理人たち」(約63分/1080p/2chモノラル/英語字幕付き)は、以下サイトで視聴できます。

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