監督:黒沢清
*この記事にはネタバレがあります。
キリスト教社会では、蛇は悪の象徴として扱われてきた。
創世記において、蛇はエバとアダムを誘惑し、禁じられていた知恵の実を食べさせ、その結果、エバとアダムはエデンの園から追放されることになる。
3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。」
『蛇の道』は、当然フランスの、ひいては世界の宗教事情に配慮がなされていることだろう。
また『蛇の道』というタイトルが、キリスト教社会において、どのような響きを持つタイトルなのか、だいたい見当がつくと思う。
劇中で「蛇のような目だ」と形容される小夜子(柴咲コウ)が、蛇のイメージをまとうのだ。
彼女にかかる呪いとは、終わらない復讐である。
彼女は生涯這いまわり、塵を食らうことになる。
そう、まるでルンバのように。
一方、古来より東アジアでは蛇は女性性の象徴として考えられてきた。伝承や民話の中で語られる蛇は、女の姿をして現れ、その正体は神の化身だったり、神の使いだったりする。
蛇は神聖視され、信仰の対象とされてきた動物でもある。
日仏合作映画である『蛇の道』は自ずと、神に背き呪われた存在となった蛇と、女性性を象徴する神聖な蛇という、蛇の持つ二面性を内包している。
『蛇の道』のポスターは、ミナール財団の黒幕と目されるピエール・ゲラン(グレゴワール・コラン)の拉致場面で撮影されている。
これは、緑の中(ゴルフ場)を、男二人が寝袋を引きずり駆けている様子を遠目に捉えた、『蛇の道』(1998年)DVDの再販時のパッケージに採用された場面を踏襲していると思われる。
ポスターを見た時、再販DVDのパッケージデザインを大きく使ってくるのだなと少し不思議に思い、この場面がリメイク版にもあるのだなと思ったわけだが、実際に映画を見て分かったのは、この場面を黒沢清がどうしてもやりたかったということだ。
ゲランは財団が解散した後、念願の田舎暮らしをしている。小夜子とアルベール(ダミアン・ボナール)がゲランの家へ行くと、ゲランは留守だった。そこに猟を教えてもらっていたゲランが丸腰で鉄砲を携えた猟師と共に帰ってくる。小夜子とアルベールは猟師を一旦気絶させ、その間に、自分たちと一緒に来るようゲランを説得し、彼にシュラフへ入るように言い、遠い遠い自家用車の停車場まで、広大な自然の中をゲランの入ったシュラフを引きずって運ぶ。途中、起きてきた猟師に鉄砲で狙われるが、なんとか弾丸をかいくぐって逃走に成功する。
このように、他二人の財団関係者の拉致場面と比べて、嘘でもついているのかと思うぐらい、ゲランの拉致場面は饒舌に語られる。
正直そうまでして、と思った。
『蛇の道』をリメイクしたいんじゃなくて、この場面をもう一度撮りたかったのではないのかと思った。
ただ、この映画について考えていて気づいたのは、この場面の、男女がシュラフを掴んで弾丸をかいくぐり、大自然の中を駆け抜けるイメージが、おそらく黒沢清の持つ、現代で成立しうる、もしくは肯定的な、家族のイメージなのだろうということだ。
順を追って映画を見ている私たちは、当然シュラフに今誰が入っているか分かっている。
それは、ラヴァル(マチュー・アマルリック)だったり、ゲランだったり、クリスチャン(スリマヌ・ダジ)だったりする。
ただ、この覆われた者のイメージは、この映画において、映画終盤のスナッフフィルムに映る布で覆われた者とイメージを共にしている。
スナッフフィルムに映る、布で覆われた、おそらく子供。
覆われた者とは、不確定で未分化な胎胞のようだ。
ゲランに案内させ、小夜子とアルベールは、財団に残された資料を入れてある倉庫へ行き、そこで義憤に駆られたアルベールがゲランを殺害する。
その後、ゲランの死体はシュラフに入れられ、車のトランクに入れられる。そこで小夜子はシュラフを開け、前にアジトで横たわるラヴァルの死体にナイフを突き立てたように、ゲランの死体にドライバーを突き立てようとする。が、小夜子は躊躇して思いとどまる。
それはなぜか。
それが布に覆われていたから。それが覆われた者のイメージと重なるからである。
劇中、アルベールは、言葉や行動で小夜子に対する恋愛感情のようなものを見せる、かのように描かれているが、その様は幼い子供が見せる母親への依存に近い。
感情的で不安定なアルベールは『アカルイミライ』(2003)の雄二(オダギリジョー)に近い。共に幼いイメージを持つ。
また、健忘症のような様態を見せるアルベールは『叫』(2006)の吉岡(役所広司)のようだ。彼はショックを受けているが、何にショックを受けているのか忘れている。
冒頭から、不安に駆られ、車中で拳銃を手にするアルベールに「そんなものしまって」と諭す小夜子は母親のようだ。
クリスチャンの拉致場面における、「僕が小夜子を助けた」「そうね、あなたが助けた」というやり取りもそうだ。路駐が警察に見つかり狼狽えるアルベールを一旦落ち着かせ、代わりに対応する小夜子もそうだ。
この復讐は、母と子を思わせる依存関係にある男女の二人組によって行われている。
小夜子がアルベールに気づかれないよう、拉致した元財団メンバーたちにでっち上げを提案する。そうすると次のターゲットがでっち上げられる。そのでっち上げの提案にアルベールが反応する。そして、小夜子がアルベールを問いただす。
その繰り返しにより、なぜか事態は核心へと近づいていく。
「お母さん、怒らないから本当のことを言いなさい」
自己欺瞞を繰り返し、健忘症のような状態に陥り、ショックによるものなのか退行現象が見られる成人男性に対し、小夜子は淡々と母親を演じて見せる。
ユングが提唱した概念に、グレート・マザーと呼ばれるものがある。
ある民族ないしは人種の集団的無意識の中に元型といわれる共通イメージのようなものがあるとし、このグレート・マザーとは、実際の母とは異なる、母の共通イメージのようなもののことをいう。
グレート・マザーは、慈しむもの、包み込んでくれるものというイメージと同時に、包み込むことは呑み込むことに通じ、子どもを独占・束縛しようとする破壊的なイメージももつ。
※こちらのサイトを参照http://rinnsyou.com/archives/307#google_vignette
映画終盤の舞台となる廃遊園地脇の倉庫内の行き止まりで、まるで「岩窟の聖母」に描かれるマリアのような佇まいで子供たちに囲まれ登場するアルベールの妻、ローラ。
おそらくアルベールは、この妻の持つ破壊的な母のイメージ(アルベールが語る妻は、映画で表象される姿と食い違いを見せる)と、小夜子が演じる肯定的な母のイメージに引き裂かれている。
ローラの言い分によると、アルベールは自身の子供もイメージの世界の住人のように捉えている。
もうまったく実態が不明の、子供を切り刻んでいた女。凄まじいメス裁きを見せる女。ローラが心酔し、その後継を担おうとしたが、存在が偉大すぎて?代わりにはなれなかった女とやらは、よく分からない。
財団は子供の臓器を売買していたらしい。しかし、この女のお眼鏡にかなわなかった子供はただ殺害されていたという。
彼らそれぞれの言い分が本当なら、この財団は、インドにおいて19世紀半ばまで存在していたとされているヒンドゥー教の「黒」あるいは「時間」の意を持つ、血と殺戮を好む女神カーリーを信奉し、殺した人間をカーリーへの供物としていた秘密結社、タギーのようなものということだ。
そしてこの女神カーリーのイメージは、不思議と小夜子の黒髪に重なる。
『蛇の道』(1998)は、公開の10年前に起こった幼女誘拐殺人事件の影響を少なからず受けていたはずだ。
幼女誘拐殺人事件という、いつまでも繰り返される、偏在する普遍的な事件について。そしてこの事件が、偏在し普遍的である異常性について描かれていた。
主人公が女性になることで、『蛇の道』(2024)は、蛇という両義的な意味を含有する女の道となった。
そこに女の微笑みはない。
特に結論めいたものはないです。今書けるのはこんなものです。書かないと考えが進まないので、とりあえず書いています。
『叫』の「私は死にました。だからみんなも死んでください」と言う赤い服の女が、家族というものを新たに構築するために復讐しているような、そんな印象の映画でした。
赤い服の女には、アルベールの娘も含まれます。
小夜子は、吉村(西島秀俊)を自殺幇助で殺害したわけですが、西島さんはもう黒沢映画に出ないのでしょうか。なら死んだらいいじゃないですか(遠回し)、みたいな言葉に反応してサクッと死ぬというのも、らしいと言えばらしいキャラクターなのですが。
フランスで映画を撮ると、なぜか黒沢清の映画には年配女性が出てきます。
吉村の遺体に付き添う女性もそうです。
ただこの場面、同じ列で見ていた方が、一度シアターから出るため前を横切ってまして、それを避けたりしていて、よく見てなかったという。吉村が2023年4月18日に死亡したらしいことは確認できましたが、それ以降のやりとりがサッパリです。
また考えが進んだら書きます。