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眠那影俄仁那琉

黒沢清の映画に出てくる赤い服の女について

いわゆる黒沢清映画的なものといえば半透明の遮蔽物ですが、
他にも、車のシーンでのスクリーン・プロセス(窓の外の景色を合成しているようなやつ)や、鬱蒼とした草木、アクションシーンで跳躍する段ボールなど、黒沢清あるある言いたい。

ということで今回は、黒沢清あるある、赤い服の女について書きます。

黒沢清監督はとてもロジカルに映画を作るので、上記のあるあるには、多分それぞれ始まりのような、成り立ちのようなものがフィルモグラフィーの中に提示されているはずだと考えていました。

長い間、赤い服の女の始まりは『CURE』(1997)の文江の最期の姿だと思っていたのですが、『修羅の極道 〜蛇の道〜』(1998)のコメットさんの最期の姿を見て、こちらの方が分かりやすいと感じました。
コメットさんは最期、新島に切られて血しぶきにまみれ、着ていた白いブラウスが血で赤く染まって赤い服の女になります。

赤い服の女とは、男の加害により着ていた服が真っ赤に染まるほどの血を流した、それほどの血が流れたということは、おそらくその女は死んだ、ということを意味します。
しかし、これは必ずしも血を流した女だけを意味しません。
なぜなら、寝ている人、気絶している人、毒殺されて倒れている人がスクリーンに映った時、私たちはそれがどの状態の人かを判別できないからです。
見ただけでは死は判別できない。なので、殺されて死んだ女を表象するには、服が赤く染まるほどの血を流したかのような赤い服の女でなくてはならないのです。

その後に撮られた『降霊』(1999)に、ファミレスの男性客にまとわりつく赤い服の女の幽霊が出てきますが、それはただ赤い服を着ている女の幽霊というわけではなく、男に殺された女という意味を持ちます。

『叫』(2007)の冒頭では、男によって水の中に頭を沈められて溺死する女が出てきますが、女はすでに赤い服を着ています。
あれは「冒頭の殺害シーン」という定型場面に赤い服の女の意味を重ねた場面です。
そうすることによって、世で繰り返される数多の「男に殺される女」を表現できます。赤い服の女(殺されて死んだ女)を殺害することで、女が何度も殺されてきたことを表しています。

『叫』役所広司は女の赤い服を着て横たわる死体を見て、『CURE』の役所広司クリーニング屋に吊るされた赤いワンピースを見て、女を殺したデジャブに苛まれます。

「赤い服の女」殺されて死んだ女の表象は、黒沢清映画において、男の原罪を顕現させる起爆剤として機能しています。