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眠那影俄仁那琉

全ての道は黒沢清に通ず「得体の知れない相手に感情があるかもしれない」

リドリー・スコット監督の『エイリアン』(1979年)に好きな場面がありまして、逃げるリプリー(シガーニー・ウィーバー)を通路の先でエイリアンが静かに待ち伏せしているところなのですが、得体の知れない相手に知性があるかもしれない恐ろしさの演出が、初期リドリー・スコットフィルム・ノワール的モノトーンの画面と相まってフリッツ・ラング『M』(1931年)のようなサイコスリラー味を帯びています。

 

この「得体の知れない相手に知性があるかもしれない」という恐ろしさについて漠然と考えている時に以下の論文を読んで、私は「大航海時代」をすっかり忘れていたなと気づかされました。

 

オンライン映画学術批評誌CineMagazineNet!№3(1999年)掲載の論文「怪物と航海――『エイリアン』論」今井隆介

http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN3/text2.html

 

『エイリアン』についての理解が私と論者では異なるのですが、「第1章 『エイリアン』はいかに解釈されてきたか」における『エイリアン』にまつわる「フロイト学派的な性をめぐる分析」批判や、「精神分析ポスト構造主義的分析では、やはり理論が優先されて、作品の部分的細部が理論に奉仕するためにだけ取り上げられた結果、極論に走りがち」という論者の見解には大いに頷けます。

しかし論者は、「第2章 恐ろしい「他者」との遭遇」において、未開の地を航海する者たちの逸話『ハノニスの航海』や、「珍奇な動物の捕獲という『エイリアン』のテーマ」から類似の物語として『キングコング』の場面に言及しながら、その状況を「「他者」との遭遇」だと結論づけています。

確かに、『エイリアン』は航海時代における「他者」との遭遇」による恐怖を描き出しています。

ただ、私はその後の『プロメテウス』(2012年)や『エイリアン:コヴェナント』(2017年)を見たというアドバンテージがあるものの、それを差し引いても航海によって遭遇した「他者」に対する恐怖とジェンダーの問題は切り離せないと考えています。

大航海時代」の航海日誌やその後のレポートなどにより、「他者」との遭遇」による恐怖が成文化されたことで、人類(植民地側)は恐怖を共有した。あるいは、未知の旅は、未知の恐怖との遭遇も伴っていたのでしょうか。ここで航海者たちが感じた恐怖は、ずっと昔から女性が抱いてきた恐怖です。

なので、リプリーが戦えたのは「エイリアン」との遭遇で湧き起こる恐怖が既知のものだったからに他なりません。

 

 

これを書いていてふと、『旅のおわり 世界のはじまり』(2019年)が『エイリアン』に似ていることに気がつきました。そもそもプロットが似ています。あの猫を追いかける展開はいったいどこから来ているんだと思っていたのですが『エイリアン』な気がします。

『エイリアン』との比較評論みたいなのがあるんじゃないか(そんなものは無かった!)と検索してみたら黒沢清のインタビュー記事がヒットしました。

 

PINTSCOPE 黒沢清監督 インタビュー

「女も男も、不必要にニコニコしなくていい。だってそれは芯の強さの表れなのだから」

https://www.pintscope.com/interview/kiyoshi-kurosawa/

 

リプリーについて語っていますね。猫にも言及しています。

ここで是非ともインタビュアーの方には「葉子が猫を追いかける展開は『エイリアン』からきているんですね」と断定的に問いかけていただきたかったです。

 

『旅のおわり 世界のはじまり』では、葉子の存在がリプリーであり異邦人「エイリアン」でもあり、旅により「他者」との遭遇」を経験する葉子を通して、葉子という「他者」に感情があるかもしれないと、私たちが気づくことではじまる世界を描き出しています。