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『スパイの妻〈劇場版〉』(2020年)感想・ネタバレ

監督:黒沢清

『スパイの妻』を見て、黒沢清監督の映画をそれなりに真剣に見てきた人はなにが気になっただろうか。
そんなことが気になる。
とにかく、私は色々気になった。

主演の二人のクラシカルなスタイルの演技は今までの黒沢映画には無かった試みだ。あの演出をどう捉えるべきか。
演じていることを強調するメタ演技か。あの演技は性差も強調される。だから、主演の二人は演じ合っている男と女、ということか。

文雄(坂東龍汰)の宿泊する旅館へ聡子(蒼井優)が赴いた時、軍部の見張りなどは見当たらなかったのに、文雄に「見張られている」と告げられた後に旅館を出ると不自然なほど見張りの(だと思われる)男たちがたむろしているのはなぜか。聡子の認知が映画に影響するのか。亡命がバレて軍に捕らえられ、自主制作映画を観る時にその場では鳴っていない「かりそめの恋」の歌が流れるのも、彼女の過去の記憶が映画に影響した場面か。

度々窓の外が逆光で見えなくなっているのはなぜか。逆光で外が見えない、終盤の外が空襲は対比か。
窓の外が見えるように彩度調整を行うと、聡子側は見えないくらい暗いことの暗示か。そのまま撮ったら暗すぎて見えない聡子を見せるために彩度調整した結果、窓の外が逆光になってしまうことを表した描写なのか。実はめちゃくちゃ暗いところに彼女はいるのか。

聡子に与えられている情報と鑑賞者に与えられている情報がほぼ等しいこと。単純に証拠フィルムや映画を鑑賞する描写の多さ。前述の推察やのぞき穴の空いた木箱(カメラ・オブスクラ)の中にいる聡子が見つかる描写などから(旅館の見張り人の出現も、知ったら見えるようになるという鑑賞あるあるかも)、聡子は鑑賞者の暗喩か。

この映画が暴いたものとはなにか。731部隊の非道な実験の実態か、聡子か。
731部隊の実態が映るはずのスクリーンの前に立ちはだかり絶叫し卒倒する聡子。
色味も薄く、スクリーンに溶けるように消える優作(高橋一生)。聡子が鑑賞者なら優作とは一体何者なのか。

空襲の場面で聞こえるのが、女の悲鳴と子どもの泣き声なのはなぜか。


ということで、箇条書きでとりあえず疑問点を書いた。ひとまず現時点の頭の中のものを出して、書きながら考えていこうと思う。


上記の疑問点や簡単な推測とは別に、『スパイの妻』を見るまでに、関係あるのかないのかは不明だが、下記の情報が私には入っていた。

カイエ・デュ・シネマ」(2019年12月号)より
黒沢清が選ぶ2010年代ベスト10

1.マリアンヌ(ロバート・ゼメキス、2016)
2.ゴーストライター(ロマン・ポランスキー、2011)
3.ホーリー・モーターズ(レオス・カラックス、2012)
4.運び屋(クリント・イーストウッド、2018)
5.ブリッジ・オブ・スパイ(スティーヴン・スピルバーグ、2015)
6.バルバラ セーヌの黒いバラ(マチュー・アマルリック、2017)
7.さらば、愛の言葉よ (ジャン=リュック・ゴダール、2014)
8.フライト(ロバート・ゼメキス、2012)
9.ゼロ・グラビティ(アルフォンソ・キュアロン、2013)
10.レヴェナント: 蘇えりし者(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、2015)


全部は観ていないのであれだが、分かる範囲でトップ10の内、『スパイの妻』と同じくスパイ映画が『マリアンヌ』『ゴーストライター』『ブリッジ・オブ・スパイ』と三つある。これはたまたまなのか。にしては多いような気もするし、多いからといってどうということでもないのだけれど、黒沢監督はスパイ映画に注目しているのかな?という印象は受ける。
私はこのトップ10を知って、とりあえず観ていなかった『マリアンヌ』と『ホーリー・モーターズ』を続けて観た。そして『ホーリー・モーターズ』も途中まで、これもスパイ映画か?と思って観ていた。結果、違った。結果、とてもメタ的な映画だった。そのことが先に観た『マリアンヌ』とあいまって、非常にスパイ映画について、引いては『スパイの妻』について考えさせられる契機となる。



『マリアンヌ』、ご覧になっただろうか。
(以下ネタバレします。『マリアンヌ』に関しては、「新潮」(2021年 02 月号)掲載の黒沢監督の講演「戦時下の生を描く」の中で言及があるらしいです。)
この映画の衝撃はなんといっても最後の最後、マリアンヌ自身が読み上げる、夫に宛てた手紙に書かれた署名にある。
最後のシークエンスは、窓際に飾られている家族写真から、マリアンヌの死から数年経ったことがわかるのだが、窓枠越しに夫と成長した娘の姿が遠くに見えると(まるで死んだはずのマリアンヌが室内から家族の様子を眺めているような)、そこに自身の死を予期して書いていたと思われる夫に宛てた手紙を読み上げるマリアンヌ自身の声が重なるという、死者の目線のようなショットに死者の声が重なる不思議なシチュエーションが描かれている。
すでに死んだ女性の、夫に向けた声がスクリーンの内世界ではなく外世界に聞こえるラストは『雨月物語』(1953年)を思い起こさせる。そんなことを思いながら観ていた。そして最後の最後に「マリアンヌ」と彼女が署名を読み上げた瞬間、へ?となった。
彼女はマリアンヌではないことがバレて死ぬことを予期してこの手紙を書いているはずだ。なのに手紙の署名が「マリアンヌ」。いや、わかる。ここでいきなりそれまでなんの言及もなされていない彼女の本名とやらが読み上げられたら、それこそ「へ?」だ。彼女がマリアンヌを演じ、マリアンヌとして生きた歳月こそ自身の生と感じていた証、それが「マリアンヌ」という署名の読み上げにより明らかになる。そういうことだ。
では最後に署名読み上げがなかったら、どうだったろう。マリアンヌを演じたマリアンヌではない女性の声として聞いていたかもしれない。このマリアンヌを演じた女性、彼女の正体、マリアンヌ以前の彼女とでもいうべき描かれなかった存在。マリアンヌとして登場し、マリアンヌとして生きて死んだ彼女とは何者だったのか?ということを考えていくと、その存在のあまりの不在ぶりにより、マリアンヌを演じたマリオン・コティヤールと不在の存在が直結してしまう。
この「マリアンヌを演じたのはマリオン・コティヤール」としか認識できないこと。
これは、スパイ映画以外の映画、たとえば『プリティ・ウーマン』(1990年)で「ビビアンを演じたのはジュリア・ロバーツ」となにが違うのか。『西鶴一代女』(1952年)で「お春を演じたのは田中絹代」となにが違うのか。いや、違わない。なにも違わない。こうなると、スパイという設定が奇妙に透明なものに思えてくる。
思考に飛躍があると思われるかもしれないが『マリアンヌ』に見るスパイという設定の透明性は、「映画」という概念とスパイという概念が重なるがゆえに起こるのではないか。
スパイという「世界を変えるために誰かを演じ、暗躍する」存在は、そのまま映画というものを現していると言えないだろうか。そう考えると、全ての映画はスパイ映画に思えてくる。


だから『スパイの妻』において、福原夫妻は初めから演じている。
あの福原夫妻に見られるクラシカルなスタイルの、演じていることを強調するかのような演技は、彼らが世界を変えるために暗躍していることの証左に他ならない。
そして、映画においてスパイという設定が透明なものなら、この映画のタイトルは実質『妻』だ。ただの妻。
マリアンヌを演じた女性の、マリアンヌとして生きた歳月が映画になったのは、彼女が「スパイの妻」だったからだろうか。彼女が「ただの妻」だったなら果たして映画になっていただろうか。
そんなことを思うと『散歩する侵略者』(2017年)の中で描かれた「の」という言葉の概念が思い出される。
『マリアンヌ』は「の」が意味するところの所属にあたる「スパイの妻」であるのに対し、『スパイの妻』は一見所有の「スパイ(である夫)「の」妻」を意味しているようだが違うのだ。彼女は、聡子は、スパイなのだ。『妻』である聡子は、映画として描かれ始めた時点で逆説的にスパイになり、所属を意味する「スパイの妻」となる。そうして「スパイの妻」となったことにより、ただの妻は映画になるのである。


『スパイの妻』を見ていてまず思ったのが、なぜ夫の優作側に確実にあるスリルとサスペンスをこの映画は撮らないのか、だった。
たとえば731部隊施設への潜入の様子であったり、草壁弘子(玄理)と優作の関係性がうかがえる場面があってもいいのではないか。劇中において彼の思惑により計画は進行し、それに伴って見えないところで事件が起こっているようなのだが、肝心の彼のスパイ活動とその周辺描写は驚くほど少ない。
その代わりにこの映画では、会社の金庫の番号を聡子が空で覚えてしまうまでテイクを重ねる自主制作映画の撮影の様子や、聡子がフィルムの取り違えを起こす原因となる、二つのフィルムの冒頭に建物の外観を捉えた同じショットを編集して取り付けるなどといった優作(がやったと思われる)の、ただの妻を映画の主役に仕立てるための裏工作ともとれる一連の行動が映し出されている。
バスの中での亡命の誘いの耳打ちもそうかもしれない。優作は聡子を誘惑し、鼓舞する。
この映画におけるメタ的な彼の暗躍と、あのスクリーンに溶けて消えるような、姿が淡く霞んでいく彼をとらえた最後のショット。そして聡子の「お見事!」の絶叫を思うに、彼は映画の概念に限りなく近い何者かだったのではないかと考えている。
黒沢清映画の系譜でいうところの『CURE』(1997年)の伯楽陶二郎、もしくは『岸辺の旅』(2015年)の薮内優介に連なる人物だろう。

あの聡子の「お見事!」は、スパイ映画然とした優作側のストーリーの中で赤い服を着て死んだ草壁弘子の死。いわば過去の数多の映画の中で運命的なドラマとして描かれた女の死。それは自主制作映画として撮られたスパイ映画の中で聡子が演じた女の死の回避とその方法が、彼女にとって想像だにしなかった出来事であったことにより発せられた言葉である。
彼女は自分が最後に死ぬと思っていた。
ただの妻である自分が映画の主役に躍り出たからには、最後に死というドラマが用意されていると覚悟していたのである。だからいよいよ屋敷を後にする段になって赤い服を纏うのである。
用意された死というドラマは、それが起こるタイミングで予め用意された自主制作映画が上映され、スパイを演じる彼女の死がスクリーンに映し出されることにより果たされ、回避されたのである。いわば映画内映画に女の死というドラマを肩代わりさせたのである。
なぜこのようなことが可能となるのか。それは、これが映画だから。
優作が731部隊の非道な実験の実態を映したフィルムの冒頭部分を、聡子が女スパイを演じる自主制作映画フィルムに編集し取り付け聡子を撹乱させたように、この映画の然るべきタイミングに然るべき別映画(自主制作映画)を差し込むという、映画内映画編集とでも呼ぶべき所業によって、聡子は死ぬことなく映画的ドラマを完遂させ、映画が纏う女の死という運命を映画によって断ち切ったのである。


この記事の冒頭の疑問と推測で簡単に触れたように、聡子は鑑賞者と重ねられている。
旅館の外にいる見張り役が突如出現するように、彼女の認知と鑑賞者の視覚は重なっているし、彼女が思い出せば「かりそめの恋」のレコードの音が聞こえてくるのである。
彼女は私と同じ劇場という暗い場所に身を置いている。だから彼女を映そうとすると窓が逆光のように白飛びしてしまう。そしてその劇場の暗さは、彼女を取り巻く世界の暗さを表している。
彼女が生きた1940年という時代。まず、彼女には参政権が無い。彼女には意思があったが、女の意思が簡単には認められなかった時代である。
私は、黒沢清監督作『叫』(2006年)の「赤い服の女」(葉月里緒奈)を思い出す。黒い箱のようなアパートにかつていた女。「どうしてあたしと一緒にいてくれなかったんですか」と、訴えてくる女。(この台詞は聡子の「つかまることも、死ぬことも怖くはありません。私が怖いのはあなたと離れることです!」と呼応しているのだろうか。)「誰も私に気づいていない私は世界から忘れられる目の前にいる人が全然私をみていない」という恐怖に溺れた女。劇場(黒い箱)という映画の死角でひっそりと消えた名もなき女。彼女は不在の存在である「マリアンヌを演じた女」でもある。

扉の外の神戸大空襲の災禍の景色に女の悲鳴と子どもの鳴き声が響くのは、それが彼女を取り巻く世界の景色だから。
その景色に阪神淡路大地震が重なり、景色が海辺へと移り変わることで、2011年の東日本大震災へと、時代を超え、女の見えない災禍が可視化される実際の災禍の景色と結びつけられ、続いていく。
ただの女になった聡子には、もう撮るべきものがないとでもいうように、彼女から遠ざかるカメラに追い縋り、聡子は必死に波打ち際を走っている。彼女もまた「誰も私に気づいていない私は世界から忘れられる目の前にいる人が全然私をみていない」恐怖に慄いている。すぐ横は海。波にさらわれればたちまち彼女の姿は水の中という死角へと再び消え去ってしまうだろう。
かつて、世界の死角に聡子はいた。世界の死角を暴こうとカメラが彼女に向けられた時、見せるべきものを何も持たない彼女はスパイという透明な設定をまとった。
劇中の彼女の、熱に浮かされ高揚していくかのような言動は、ひとえに存在を亡き者にされる恐怖からくるものだ。彼女は彼女ができる限りで劇的に、そこにスペクタクルが存在するかのように振る舞ったのだ。

ついに聡子は力尽き、波打ち際に倒れ込み慟哭する。そしてカメラは、動きを止めた彼女から非情にも逸れていく。
その先に現れたテロップは、彼女が
「ずうっと待ち続けて誰からも忘れられて死んだ」りしなかったことをささやかに告げてくれている。

聡子はちゃんと存在した。確実に存在した。なぜなら私は彼女と一緒に、この映画を観たのだから。



キネマ旬報1位おめでとうございます。