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『ドッペルゲンガー』(2003)踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃそんそん

黒沢清フィルモグラフィーを眺めていると、『アカルイミライ』(2003)、『ドッペルゲンガー』(2003)、『LOFT ロフト』(2006)の頃は、スクリーンと観客の関係についての模索が顕著に見られる時期だと思う。


今回は『ドッペルゲンガー』について。
この映画に出てくる早崎(役所広司)の作っている介護用人工人体の椅子というのは、映画館の劇場の椅子を表している。
映画館の劇場の椅子、ひいては観客だ。


早崎の研究室で椅子の実験をしている時、あの椅子には早崎が座って、機械調整は助手と思われる男女が行っていたと思うが、あの椅子に座ることによって、あたかもスクリーンに自身の欲望を見出す観客のように、早崎はスクリーンに(なぜなら早崎はすでにスクリーン上にあるから)自身の欲望を出現させたのではないか。

あの椅子に座るという行為が、欲望を出現させるトリガーになっているのではないか。

ドッペルゲンガー』では、由佳(永作博美)の弟もドッペルゲンガーを出現させた者として語られるが、その弟のドッペルゲンガーは由佳の語りの中にしか現れず、スクリーンには登場しない(弟は幽霊のように描かれていて、ドッペルゲンガーが出現しているとわかるような描写はない)。
そして、早崎と同じようにあの椅子に座った君島(ユースケ・サンタマリア)は、椅子に座って以降、欲望のまま傍若無人な振る舞いを始める。



ドッペルゲンガーはいわゆる怪奇現象だが、ごくシンプルに、それを同じ像が二つ出現する現象だとすると、映画において、この現象はどのような効果をもたらすだろうか。
「同じ像が二つ」で思いつく有名な映画は、キューブリックの『シャイニング』(1980)だ。
この映画では、唐突にホテル内の廊下に佇む双子の少女が出てくる。
虚構か現実か(『シャイニング』では狂気か正気かでもある)分からなくなった世界で、同じ像の出現というのは、一気に針が虚構(狂気)に振れることを意味する。
また『エイリアン: コヴェナント』(2017)のデヴィッドとウォルター(マイケル・ファスベンダー一人二役)でも、スクリーンに同じ像が二つ出現することで、彼らが実在性を欠いた存在であることが強調されている。


ネットでは霊能者が見る幽霊に近い像が出てくるとかで有名な『降霊』(1999)に、椅子に座る役所広司ドッペルゲンガーが突如庭に現れる場面がある。
俺が俺を座って(落ち着いた様子で)見ているという不気味なショットだ。
このドッペルゲンガーは、出現後速やかにガソリンがかけられ燃やされてしまうが、『シャイニング』のように、狂気の現れとして描かれている。
それは、画面に映る人物が(もしくは彼自身の)、おかしくなっているかもしれないという底知れぬ不安の出現だった。


ドッペルゲンガー』において、主人公のみにドッペルゲンガーが出現する理由は、小説の「信頼できない語り手」のように、観客に寄る辺のなさを与える効果があるのかもしれない。
彼は大丈夫か。大丈夫じゃないのか。
早崎は、ドッペルゲンガーが出現したことにより、観客の信頼を失い、実在性を欠き、虚構性が高まっている。
ただこれは、早崎Aと早崎A‘が物語の進行につれ混迷を極めるように、スクリーン上に「同じ像が二つ」現れない限り、私たち観客にAとA’を見極める術はないことから、厳密には早崎のみにドッペルゲンガーが出現しているように了解しているだけともいえる。


どちらがどちらか分からない。本当はどちらか、どちらも本当か。などの問いが繰り返されているかのような、この『ドッペルゲンガー』において、本当とはなにか。
おそらくそれは、早崎のドッペルゲンガーと君島が剥き出しにする欲望だろう。


早崎と由佳の男女関係を欲望する者。
君島の死を欲望する者。
観客は、スクリーン上で繰り広げられる欲望合戦が、もう誰のものなのかわからない。
柄本明の突然の最期に至っては、グロテスクな欲望の提示に、疑心暗鬼が生じてしまう。
この欲望だけが確かなもののように、私たちは欲望の果てを見届けるしかない。
欲望する実在である私たち観客の座る劇場の椅子を巡って、映画の登場人物たちは熾烈な椅子取りゲームを行う。
それは、欲望される者から、欲望する者という実在への希求であり、倒錯的な振る舞いのように見える。


やがておもむろに椅子取りゲームから開放された椅子は、阿波踊りのような身振りで諸手を挙げて身をよじり、そのまま崖上から身を投げる。
「アーラ エライヤッチャ エライヤッチャ ヨイヨイヨイヨイ 踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃそんそん…」
そんな掛け声がリフレインする椅子の壮絶なラストシーンである。


我々は開放されたろうか。
開放されたらどうなるだろうか。
早崎AだかA‘だかと由佳が遠ざかってゆく。
私たちは欲望を見るためにここに座っていたのだろうか。



時間ができたので『ドッペルゲンガー』感想を書いてみました。
ドッペルゲンガーを持ち出したのには、もっと理屈があるように思います。
『降霊』は幽霊描写じゃなくて、このドッペルゲンガー出現場面がやたら怖いと思うのは私だけでしょうか。