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黒沢清の切り返しショットについてのメモ

『岸辺の旅』(2015年)から、急にどうしたんだと戸惑うぐらいの頻度で切り返しショットを多用している黒沢監督です。
ずっと気になってはいたのですが、ザックリと、黒沢清はスクリーン(あるいは画面)をハーフミラー(あるいは水)の機能を持ったものと考えているのだから、切り返しで登場人物はいわゆる鏡側を見ているはずだ、ぐらいの理解に留めておいたのですが、『彼を信じていた十三日間』がまさしくその通りな表現だったので、少し考えが前に進みました。

『彼を信じていた十三日間』の嵐の前の焚火を挟んだ切り返しショットでは、洋二の存在が桃子の希望になるのだから、彼女はあんな風に必死に説得するように自分にも言い聞かせてるわけなんだろうと合点しました。相対しているのは洋二であり自分でもあるという両義的な表現ということです。
スクリーン(あるいは画面)の鏡面という機能だけを抜き取って考えるのは間違いで、ガラス面側あってのスクリーンの鏡面側ということをよくよく考えなくてはいけません。
洋二はスクリーンの鏡面側そのものになったかのようなラストの描写ですが、彼はスクリーンの鏡面側そのものだったという、昔話の変身譚でいうところの正体が判明する描写ともいえるわけです。

自分で書いててなんですけど、変身譚として『彼を信じていた十三日間』を書くのも面白そうですね。変身譚は日本と西欧で変身する者の性別の逆転が顕著な気がするので、そこらへんもふまえてなんか書けそうですよね。

話が逸れました。
そもそもスクリーンをハーフミラー(あるいは水)の機能を持ったものと黒沢清が考えているとはどういうことか説明をしないといけないのだと思うのですが、この説明をしようとすると途方もなく長くなります。
黒沢清は『黒沢清、21世紀の映画を語る』の中で、水の中を死角と言っています。地上から見えるのは表面ばかりで、確かに水中はすぐそこにあっても見えません。
全編水中を思わせる描写の『叫』(2007年)や、『アカルイミライ』(2003年)のクラゲ、
水中からミイラが引きあげられる『LOFT』(2006年)、滝つぼの向こうからやって来る『岸辺の旅』(2015年)など、水にまつわる黒沢作品は枚挙にいとまがないわけですが、そうやって水の中が見えるなり水の中から出てくるなりして描かれるものとは社会の死角に存在するものです。水のように当たり前に私たちの世界にありながら、彼らは水面のようなものに阻まれて水中のような死角に存在しています。
なぜこのようなことが起きるかというと、彼らがいる場所が暗いからです。
だから、彼らのいるところより暗い場所(劇場)で、そこに水面と同じ機能を持つ枠(スクリーン)を備えれば見る側と見られる側の逆転が起こり、こちらかあちらを見ることができると黒沢清は考えているのだと思っています。
そのような存在を単なる好奇心にしろ、怖いもの見たさにしろ、何か別の理由にしろ、見ようとし、見えるようにするのが映画なんだと黒沢清の映画を見ていると思います。

『彼を信じていた十三日間』で桃子の語る「同じですよね」という言葉は、鏡面に映っていたものが水中のものなんだという気づきでもあるのだと思います。
こちらでもあちらでもない「同じですよね」ということ。そしてそれは、切り返しショットにより、目の前にあるし、あなたでもあるということです。



「全編水中を思わせる描写の『叫』(2007年)」では、あまりに乱暴なので過去の『叫』記事を再アップしました。