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黒沢清の黄色についてメモ

黒沢清映画の黄色についてです。
ツイッターで、モダンラブ・東京『彼を信じていた十三日間』の黄色(壁・マグカップ)と『回路』の黄色(ミチの部屋・車)の共通点をあげていた人がいて確かにと思ったのですが、じゃあその黄色ってどういう意味があるんだろうと考えています。

その少し前に、『彼を信じていた十三日間』と宮沢賢治の「やまなし」を並べて考えていたので(最後の黄色いマグカップがプカッと浮いてくるのと、やまなしがトブンと川に落ちてくるイメージに近いものを感じた)、宮沢賢治の作品に登場する色の研究から黄色の解釈を引っ張ってこれないか色々見ていて、こういうのを見つけました。

(引用元:九州大学学術情報リポジトリ「「黄いろのトマト」について」黄, 英)
ある年、実る季節になると、赤い実が出来るはずのレッドチェリーの中の一本に黄色の実が出来た。ペムペルとネリはそれがただの変種であることを知る由もなく、「ギザギザの青黒い葉の問から、まばゆい」くらい光るのを見て、それを「黄金」だと思いこんだ。
大塚常樹は「賢治は詩の『亜細亜学者の散策』の中で、黄金には、資本主義的ないわゆるお金と、 仏様の身体の色に使われる聖なる黄金(古金)の二つあると述べています。(中略)つまるところ『黄色のトマト』もこの二つの黄金の対比を書いた作品」だと指摘した。

賢治の「黄いろのトマト」の黄色から「資本主義的ないわゆるお金」の解釈は文脈的に理解できますが、「仏様の身体の色に使われる聖なる黄金(古金)」は、ちょっとよくわからないですね。文芸的だなということがわかるぐらい。
でも黄色=黄金はありそうです。いわゆる光。映像における光の暗喩となるものは何か考えたら黄色が一番ありそうです。