宮沢賢治「やまなし」について
はじまりの文:小さな谷川の底を写した二枚の青い幻灯です。
おわりの文:私の幻灯はこれでおしまいであります。
話のはじまりとおわりに、幻灯(写真や絵)について書かれた文がありますが、物語には時間の経過があり、2つのシークエンスがつなげられています。
一枚ではなく、二枚あることで編集点があることや、そもそも無くても成立するように思われる、幻灯だと記すはじまりとおわりの文など「先生、つまりこれは映画でしょう」待ちなのではないかと勘繰りたくなるお話です。
「やまなし」に登場する謎の言葉「クラムボン」については様々な説があるそうです。
様々な説があるのならひとつぐらい勝手なことを言ってもいいだろうということでもないのですが、私は「クラムボン」が五月のシークエンスのみに出てくることや、蟹兄弟の様子から、「クラムボン」は当初かなり幼い弟蟹が泡につけた呼び名(造語)だろうと勝手に考えています。
「クラムボン」は泡であり息でもあるのです。息は生命と結びつきます。弟蟹はまだそうした意味関連付けが不明瞭ながら、本能的に連続的にのぼり消えていく「クラムボン」が生命に関わる何かだと分かっています。
吐く息が泡となって目に見えるというのが、やはり谷川の底と地上の大きな違いだと思うのです。
十二月のシークエンスの冒頭のセリフは弟蟹の「やっぱり僕の泡は大きいね。」なのですが、この唐突な「やっぱり」は五月のシークエンスの謎言葉「クラムボン」にかかっていて、セリフで2つのシークエンスをつなげています。
泡であり息であるものを、かつて「クラムボン」と名付けて読んでいた幼い子供が大きくなり、それを「泡」と言うまでに成長したことが冒頭のセリフからうかがえます。
「クラムボン」という曖昧な粒を見つめていた子供は、粒々の行く先の水面を見つめるようになり、時がたち、水面の向こうの存在に触れ、天体の光の中いま眠りにつこうとしている。
成長とともに世界が拡張されていく様を、泡として目に見える息を基調にし、谷川の底の蟹たちの日々の営みを通して描いています。
蟹の兄弟と父親は谷川の底から上を向いて、水面がまるでスクリーンであるかのように、そこに様々なものを見ます。
谷川の底は暗く、水面は明るいのです。
このシチュエーションは映画館に似ています。
暗いところで、観客はスクリーンを見つめている。そこに様々なものが映っては消えていく。
地上から水面へ何かが落ちると、それらは見えなくなります。水中という死角へと消えていきます。そのようにして私たちの死角へと消えていくものが谷川の底からは見えるのです。
私たちが水面と呼ぶものの裏側、水中から見上げる水面こそがスクリーンであり、暗闇という物理的に死角となる空間が映画館です。
映画は夢である。
映画は窓である。
映画は鏡である。
映画は水面である。
スピルバーグや黒沢清は結構全部当てはまる描写が頻出する印象です。これに「映画は寝物語である」が加わったらスピルバーグでしょうか。
カーペンターの『ゼイリブ』(1988)の眼鏡はどこに入るでしょうか。あれは箱眼鏡の一種のようなので窓&水面でしょうか。
黒沢清はスピルバーグより夢成分が弱く、水面成分が強い監督です。観客は水中にいるのだから、すでに死んでいる可能性があります。