みんな映画になる

眠那影俄仁那琉

黒沢清『Chime』日常のおわり世界のはじまり

昨日夕方、同僚に飲み物を貰ったので明日にでも飲もうと職場の冷蔵庫に入れたのだが、今日見るともうない。職場の冷蔵庫は来客用のペットボトルのお茶を冷やす他の使われ方をしていないので取り違え云々はありえない。
ということは、窃盗。
思えば、以前も同じことがあった気がする。
何度か冷蔵庫に入れた飲み物が気づいたら無くなっていて、その度に、家に持って帰ったのだろうか、飲んだのを忘れたのだろうかと曖昧にしていたが、盗まれていたかもしれないわけだ。
よし、今度からはちゃんと名前を書こう。そうしよう。

昔、映画館でアルバイトをしていた時も度々窃盗があって、パンだとか、化粧品だとかが盗まれるというのを聞いたことがあった。あの人がやっている、というのも聞いた。その人とは挨拶を交わすぐらいで話したことはなかったが、愛想の良い人だったと記憶している。

何が言いたいかというと、怖いのだ。
今日もいつも通り働いてきた。みんないつも通りだった。会議では談笑もした。
でも誰かが盗みを働いている。

これだけ書いといてあれだが、この記事は黒沢清『Chime』について書こうとしている。

『Chime』には、決定的なことがあったことだけわかっている(実際にその場面を見せてさえいる)けれど、常に決定的なことを含んでいる日常、それが常態化しているいつも通りの生活を見ている怖さがある。

飲み物を盗まれた私の怖さには、「冷蔵庫に入れていた飲み物が何度か無くなっているのですが、どなたか心当たりありませんか」と起こったことをありのまま告げることで、いつもの職場の雰囲気が変わってしまうのではないかという怖さが含まれている。
身近に盗人がいるという怖さより、こっちの怖さの方が大きいかもしれない。

思えば世の、声を上げた被害者側が往々にしてバッシングに遭うのも、この恐怖を刺激してしまうからではないのか。
あなたが被害を訴えなければこんななことにはならなかった。大事にするな。黙っていれば丸く収まるといったテンプレな言葉、こんな言葉がテンプレだと思えるぐらい、この感覚は蔓延している。
バッシングをする人間には、被害者が被害を訴えるという行為が、日常を破壊する恐るべき行為に見えているのだろう。
ということは私含め多くの人にとって、日常には加害行為が含まれるということだ。

そう考えると『Chime』は、日常を描いている。
おそらくいつもの食卓風景と加害場面が等しく並列しているように見えるのも、そういうわけなんだろう。そしてこのどこまでもどこまでもこれらが並列していく感じは、息子のインフィニティキューブにも表れている。
「料理人、松岡卓司の日常」的な、ひと昔もふた昔も前のセンスのサブタイトルが思い浮かぶが、彼が異常だとか、異常な人の日常を取り出して見せているというわけではなく、私たちの日常とはそういうものという厳然たる事実があるだけだ。

ピンポーン
予期せぬチャイム音は日常に緊張をもたらす。
そんなふうに『Chime』は、日常にチャイム音が鳴る。被害者の沈黙によって保たれているギリギリの日常に、チャイム音という訪れだけが告げられ、不意に日常が緊張に晒される。
松岡は、それまで鳴っていた不可解な音に気づいていた。ラストシークエンスの玄関チャイムの音に狼狽えるのは、おそらく全部聞こえていたからだ。

訪れだけが告げられていたそれが、とうとう来た。ラストのあれは、そういう高まりだろう。
そうして訪れたもの。それが、日常。
あの時、松岡が外に出て目にした、日常。
多くの人にとって識閾下にあり、知覚されない日常を、松岡は知覚したのではないだろうか。
それは日常のおわりを意味するかもしれないが、世界のはじまりかもしれない。






劇場公開がされてレビューを見ると、みんな狂ってるみたいな言い回しが目立ちますけど、日常の認識が狂っているのであって、人は狂っていないんじゃないですか。
田代のような人を狂ってるとか、松岡の妻を狂ってると言ってしまうのは、不用意というか危うすぎませんか。
『Chime』が昔の黒沢清っぽいというレビューも見ましたが、確かに昔の悪意というか怒りが滲んだアイロニカルな感じを思い出します。
今はそんなにないですけど、ひと昔前は黒沢清の映画レビューには、驚くほどの怒りを滲ませて綴られたものが少なくなかったのですが、このアイロニカルな感じが、おそらく馬鹿にしやがって!みたいな、なんかスイッチを押してしまっていたのだと思います。
『Chime』はレビューを書こうとすると、かなり言葉を選ぶタイプの映画だと私は思います。