みんな映画になる

眠那影俄仁那琉

わからないという希望について

「モダンラブ・東京」『彼を信じていた十三日間』
監督:黒沢清

農水省役人(國村隼)の「それ前にも聞かれました。私ちゃんとお答えしましたけど、憶えてらっしゃらない」という場面をどう見たかでこの物語の解釈は違ってくる。
黒沢清作品をそれなりに見てきた者なら、ここはぐっと正気になって「いや、答える前に場面が切り替わったので、忘れているんじゃなくて、そもそもそんな場面は無かった」と、突っ込まなくてはならないのだろう。

この場面は、鈴木洋二(ユースケ・サンタマリア)の「想像つかないから無だなんて乱暴だよ」という台詞と呼応している。
そしてこの時、篠原桃子(永作博美)は洋二のこの言葉に多分思い至っている。
(あのように追い詰めて、返答に窮したはずの役人がその後ちゃんと答えていた)
彼女は映像作品の物語の登場人物であり、またこの物語には彼女が知らない(認識していない)場面というものが出てこない。なので彼女は私たちと同じものを見て聞いている。私たちが役人の返答場面を見ていないから知らないように、彼女にもその記憶はない。その共通の事実に思い至ればよい。
無だと思っていたところに、なにかがあるのだ。

無だと思っていたところに、なにかがあるという桃子の思い至りには、二重の意味がある。
存在しなかったはずの場面の指摘により、無と認識すらしていなかった(桃子の記憶になかった)ものへの気づき。もう一つは、逆説的な言い回しになるかもしれないが、役人を追い詰める彼女のクリシェ的な言動が場面の切り替わりを招いて、彼が「ちゃんとお答えした」ことを消してしまったという気づき。

無かどうかはわからないのだから「死んだら無」というのはクリシェだ。
いや、「死んだら無」というクリシェが死を無にしているのではないか。
こうなると、クリシェが色々なものを無にしていく気がしてくる。
救済センター職員の「ああいう人」という曖昧な言い回し。そうやって洋二を既定しなければ、彼を存在させ続けることが出来るような気がしてくる。
この社会で既定されない存在を認識するのは難しいが、洋二は既定されない存在であるがゆえに、あのように私たちの前に姿を現す。既定されてしまえば、彼は弱者や敗者などといったクリシェにたちまち捉えられてしまい、あのような彼は無になるだろう。
「そうなんだよね。僕は鈴木洋二じゃない。不動産会社の社長でもない。今救済センターで寝泊まりしてる。ホームレスだ」
私には、桃子が救済センターや屋外の集合場所で見たような、虚ろで粗野な印象のホームレスたちと洋二が同じだとは思えない。あのホームレスたちは、クリシェとしてホームレスを視覚化したものだ。あのように形容することで無になるもの、それが洋二だ。
クリシェで既定したら、それらは無になっていく。
「死んだらどうなるかなんて誰もわからないって言ったの、洋二さんじゃないですか。私もそう思います。でも、私は今生きてますけど。やっぱり明日どうなっているかわかりません。一時間先も、一分先も。じゃあ、おんなじですよね。希望は今にだってあります」
わからなくなることが希望になるのなら、一時間先も一分先もわからない今にも希望はあるのだと桃子は言う。
なにものも既定せずわからない今を生きている。それが桃子の希望になる。

洋二は姿を消して波になった。
川に入り朝焼けを望む桃子から場面は切り替わり、彼女は職場のデスクに座っている。そこに風が吹く。それからまた場面が切り替わり、彼女は家でPCに向かっている。その背後の窓辺でカーテンが風に揺れ、彼女は微笑む。
そんな風に画面は波打つ。桃子はそこに洋二の存在を感じているのだろう。