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『最後の決闘裁判』(2021年)感想・ネタバレ

監督:リドリー・スコット


カルージュ(マッド・デイモン)、ル・グリ(アダム・ドライバー)、マルグリット(ジョディ・カマー)、それぞれの視点で事実は描かれるが、それぞれの真実は異なる。真実を社会に問えば、その社会構造における弱者の主張する真実は当然ないがしろにされる。およそ600年前も今もそれは変わらない。おそらく600年後もそうだろう。

ただこの映画において、その弱者はマルグリットのみを指すのではない。



三章に渡り、それぞれの視点で描かれた様々な出来事がなぜ決闘という殺し合いに収斂したのか。ル・グリがマルグリットに恋慕して彼女を襲ったことが全ての原因なら、事態をここまで遡る必要はないだろう。

第一章のカルージュ視点では描かれなかった彼の惨めな姿が、ル・グリやマルグリットの章で描かれている。
感情的になり、攻撃的になり嘲笑されるカルージュ。彼自身の章でも、すでに倒れている敵を執拗に殴打することや騎士の称号が授けられる時の居心地の悪い沈黙を、彼は認識しつつもその理由を自身に問うことができない。

カルージュとル・グリの章の冒頭で描かれる戦闘におけるカルージュの判断(あらゆる規範の中から最適解を導くこと)の誤りからこの映画は二度始まる。

カルージュは自分には予め決められた道があると思っている。でもその道にたどり着けない。そのことに対する焦りや怒りからル・グリに対してカインコンプレックスを募らせていく。そして彼は自身の心を問うことなく、規範に則ってル・グリを殺害する機会を得る。
妻のマルグリットが襲われた事実は、彼にとって好機でしかない。愚鈍な男が俄然はりきってピエールやル・グリを出し抜いて計画を遂行していく。

最初の戦闘での、敵に襲われている民衆を助けるという彼の判断が、もし彼の正義感からくるものだったのなら、彼は心のままに生きる限り間違う。でも彼はそのことを問わない。あらゆる規範の中で彼は思考することをやめ、激しい感情だけを募らせていく。
なぜならカルージュは規範の奴隷だから。


三者の視点描写においてカルージュの章は、ル・グリやマルグリットの章より恣意的な印象が強い。都合の悪い場面は編集で切られ、事実の誤認があり、それは認識の違いの範疇を超えている。
このことを単純にカルージュという人物の認知の歪みだとしてはいけない。この恣意性こそ、勝者の論理である。史実は勝者のカルージュの視点を正当化し、それが人々の歓声へとつながる。ここに矛盾はない。

ただ、決闘を見ていることしかできない現代の鑑賞者に重ねられるマルグリットには違和感しかない。この真実と巻き起こる事態との乖離は一体なんなのか。
歓声の中でマルグリットは離人感に襲われている。
事態はいつも真実と乖離している。
カルージュと違い、真実から世界を見ようとするマルグリットには受け入れがたい光景が目の前に広がっている。

この分裂病的事態を引き起こすのは、歴史の勝者が抱える矛盾にある。

カルージュの真実は彼の認識の外にある。ル・グリを殺害・排除することで、彼は自身を正当化した。このことは史実からル・グリの振る舞いが葬られ、排除されたことと=である。

「決闘における勝者は、強者であるがゆえに権利を得るのではなく、神々が彼の権利を認めて敵に打ち勝つ力を与えてくれたからこそ権利を得ると考えられていたのである」(村上淳一『「権利のための闘争」を読む』岩波書店1986年61頁)だそうだが、この映画を観る限り、勝ち馬に乗る論理を教義に取り込んだ宗教が力を持ったとしか思えない。

力が規範になる。規範が思考に取って代わる。規範から外れると排除される。排除されないように力を得ようとする。このループが歴史を作り、あらゆる真実を形骸化させていく。
なぜ真実を見つめることができないのか。それは恐怖故なのか弱さ故なのか。

史実にマルグリットの視点を加えることで、歴史の真実を見つめているのは誰なのか、強靭なまなざしを持ちえたのは誰なのかをこの映画は伝えている。




映画を観ている最中は『アメリカン・スナイパー』(2014年)や『わらの犬』(2011年※ペキンパーを観ていない)を思い出していました。

本文では盛り込めませんでしたが、やはり最後のショットの加虐性・残酷さ、あのようなショットを加虐的に見せるセンスと監督自身の視点の表し方が好きです。

この映画を今日的なフェミニズム問題の語りに落とし込んだレビューを多く見かけましたが、リドリー・スコット監督は昔から女性の描き方がフラットで先入観を感じさせないので、今日的なフェミニズムに関する問題は監督の中で自明なことでありことさら取り上げるべきこととして認識されていないと思うんですよね。なんというか、この映画もいつものリドリー・スコット監督の女性の描き方です。