みんな映画になる

眠那影俄仁那琉

『LOFT』を書くにあたって、黒沢清の考える「映画」について

『LOFT』を後々一本の記事にまとめるつもりで資料に当たっています。
この映画に関しては、黒沢清監督がデイヴィッド・リンチ監督の『マルホランド・ドライブ』(2001年)をあげて「デイヴィッド・リンチもああいうのをやっているんだから、(自分も)やっていいだろうと思って(『LOFT』を撮った)」的なことを言っているのを読んでしまい、前々から『LOFT』について書くのは大変そうだな、と思っていたところに更に輪をかけて大変そうな気がしています。

この映画では、微妙に置く位置をズラした2台のカメラで同じものを撮影し、ひとつの場面を2台のカメラで撮った映像を時に切り替えながら見せる、という風変わりなことをやっているのですが、なぜこのようなことをしなければならないのかを物語上必然的なこととして語れなければいけないと思っています。

また、この映画を語ると同時に、これは非常に厄介なのですが、黒沢清が映画をどのようなものであると考えているかについて、ある程度明らかにしなくてはなりません。
映画とはなにか、ということです。
その全体像はまだつかめていませんが『LOFT』を見る限り、私たちは予め決まった出来事を見ているわけではなさそうです。それは、撮影された過去の出来事を編集したものを見ているわけではないということです。
彼は、どうも映画というものを、映画館で起こる現象に近いものとして考えているようです。

そもそも彼は映画の最小単位を光の粒、いわゆる光子(フォトン)だと考えているふしがあります。
2015年公開の『岸辺の旅』(2015年)では、監督発案の描写だろうと思っていた場面がことごとく小説由来のもので、かなり小説(湯本香樹実著)に忠実に撮られているのですが、薮内優介(浅野忠信)の行う授業の内容が「相対性理論」から「粒子と波動の二重性」へと変更されています。
東日本大震災以降、あの波を映画で描くとはどういうことか、多分ずっと考えていたのでしょう。
震災をスペクタクルとして描くことの反証として、震災直後に『リアル〜完全なる首長竜の日〜』を撮っていますが、もっと根源的に現象として、あの震災以降に映画が撮るべき「波」を『岸辺の旅』は描き出しています。
粒でもあり波でもある光は質量を持ちません。
そのことについて優介は「どうもこの世界は無から出来ているようです」と語ります。
当然、私たちの世界には質量があります。なので私たちは、このセリフにより、私たちの世界と彼らの世界が異なっていること、優介の言う「この世界」とは、光の集合体である「映画」だということがわかるのです。

私たちは、スクリーンに投影される光を見ているのだから、なるほど映画とは光だと思われたでしょうか。
話はそこで終わりではありません。そんな単純な話ではないのです。
なぜなら黒沢清の映画では、量子力学における光子の振る舞いが映画の原理となるからです。

『岸辺の旅』で優介は、波をどんどん狭めてくと無になる、と語りますが、その無になった波こそ、映画におけるカットとカットの切れ目そのものとして表されています。
『岸辺の旅』では、あるショットに不自然に切れ目が入ります。それは新聞配達をする島影(小松政夫)を瑞希深津絵里)が見送る場面などいくつかの場面で確認できますが、そこでは「微妙に置く位置をズラした2台のカメラで同じものを撮影し、ひとつの場面を2台のカメラで撮った映像を時に切り替えながら見せる」という『LOFT』同様の方法がとられています。
この時『岸辺の旅』では、ショットに存在していた人物が切れ目を通過することで消失します。なぜなら、それは「波」だからです。

波打ちぎわで洗われる小さな小石や貝殻は、波にのまれた瞬間、私たちの目に見えなくなります。そして波が引くと、それらは再び位置を変えて現れたり、消え去ったりします。
私たちにとって、あの震災の波がそうであったように、映画という光の波もそうなのです。
かつてジョルジュ・メリエスがストップ・トリックによってスクリーンに映る人物や物を消失させたり出現させたように、ショットに切れ目が生じた時、私たちはそこに岸辺に生じる波と同様の現象を目撃するのです。


では『LOFT』で初めて試みられた「微妙に置く位置をズラした2台のカメラで同じものを撮影し、ひとつの場面を2台のカメラで撮った映像を時に切り替えながら見せる」という手法にはどのような意図があったのでしょうか。

今、それを考えるために量子力学における「二重スリット実験」や、それをマクロの世界に置き換えた「シュレーディンガーの猫」と呼ばれる思考実験や、それらにまつわる「観測問題」についてそれなりに理解して落とし込もうとしています。