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眠那影俄仁那琉

『CURE』の考察、断片たち

監督:黒沢清

いつまで考えているんだと思われているかもしれませんが、『CURE』についてまた書きたいなと思い、過去に書いていたらしい『CURE』につての断片的な文章やメモを見つけたのでUPします。
私は映画を簡潔に書きたくないので、これはその抵抗の一環です。
今の自分の理解とは異なることも書いていますが、私の考えの一貫性などはどうでもよいのです。

その一

『CURE』とはまったく関係のない文章を読んでいて、呪物化という言葉に目が止まり、不意にこれだという思いに至ったため、久しぶりに『CURE』について書きます。
高部の妻文江(中川安奈)の最期に映し出された様子をいったいどのように言語化するのが適切かずっと分からなかったのですが、あれは呪物化されたとするのが適切だろうという思いに至り、これだとなったわけです。
あの妻の最期の様子に関して、「高部が殺したか否か」といった考察を目にするのですが、一言で殺したとしてしまうには、あまりにも特異な様子です。血を流して倒れている映像があそこで差し込まれていたら「高部が殺したか否か」も分かるのですが、謎病院で大きな台車のようなものに直立した格好で胸元を×に切られた状態でくくりつけられて移動している?様子をただ「殺された」としてしまうと、あの描写から見える多くのものが抜け落ちてしまいます。
そして、言い表す言葉があると見えてくるものがあり、それを探していた自覚はなかったのですが、呪物化という言葉を目にして急にそこに思い至ったのです。
ただ呪物化という言葉を、民俗学だか文化人類学だかでどのような意味合いで使われているのか調べようとしていたところ、これまた『資本論』(カール・マルクス著)の中に呪物化という言葉が出てくるという文章に目が止まり、

その二

・「超人」ヴィジョン:ニーチェという問題 宮原浩二郎
ゲーテ 親和力 ベンヤミン批評
・万華鏡の破砕のあとに ベンヤミンによる永劫回帰弁証法的イメージ
・メシア論
・∞
・映画の構造 ループしている
・間宮は解放ではなく、個人が内面化した規範を強めている
ツァラトゥストラ 邪教
・妻の呪物化 猿の呪物化 猿は妻のメタファーか
・映画という永劫回帰 高部は「超人」に
・間宮はニヒリストかテロリストか
・ファミレスの場面は全ての後か、前か
・全部思い出したか、なら終わりだ。全部思い出す←この映画を全部思い出す。なら死ぬのは分かっているな、の意味。その後間宮の無限大ジェスチャー永劫回帰の意味。
・忘却し、繰り返される映画 高部は最後忘却したのか。
マックス・ヴェーバー「カリスマ」

要確認
・ウェイトレスの殺害は事件は、冒頭のホワイトボードになかったか?
・妻の文江はXに切られていたか。よく見る。彼女の死体が全殺人のイメージなら、あの映画の冒頭は彼女の死体が映ったところ。もしくは潜在的なイメージとして映画に共有されている。

その三

ずっと『CURE』(1997年)の軌道上にいながら、衛星のようにぐるぐると周回を続けるばかりで肝心なところをいつもつかみ損ねている感覚があったが、とある文章の中の、不意に目にとまった単語が『CURE』と結びつき、その結び目をほどこうとしているうちに『CURE』の核心とも思える数々の事物についても見えてきたので、一度頭の中を整理するつもりで書いておく。

間宮はなにをしているのか
『CURE』の考察や解説とされる記事を読むと、かなりの確率で登場人物が抱えるストレスを催眠術的なものを用いて間宮が解放したために殺人が起こるとしているものに出くわすが、本当にそうだろうか。
個人的な感覚として、ストレスが解放されたらストレス解消のための行動(『CURE』においては殺人)は起こさないと思うし、医者の宮島(洞口依子)に対する催眠行為の前段階的な描写に見られる「女のくせに」のような煽りともとれる間宮の口ぶりからは、逆にストレスを喚起させているかのような印象を受ける。ストレスを喚起させているというか、正確には、そもそも『CURE』でストレスとして描かれているものは社会規範を内面化したために生じているので、間宮は社会規範の内面化を強化しているように見える。
この社会規範の内面化が行き過ぎたために起こってしまった事件を私たちはニュースで目にすることがあるが、『CURE』で発生している事件は、単純に社会規範の内面化が意図的に強化されて一時的に今までは受け流せていた事柄に我慢ができなくなり、殺害するに至ったというわけではないようだ。落ち着いているように見える殺害時の犯人の様子からもそれはうかがえるだろう。

過去の『CURE』の記事を読めるようにしました。