監督:濱口竜介
共有するとはどういうことか、そのことについてずっと考えているような映画だった。
家福(西島秀俊)は、音(霧島れいか)がSEX後に語る物語(語り終えた後、音は物語を忘れてしまう)を共有していると思っていた。それは形(脚本)にするまでは夫婦ふたりだけのもので、二人だけのつながりを表すものだと家福は思っていた。
ただこの夫婦は、約17年前(映画の始まった時点で)に4歳の娘を亡くしているのだから、本来なら二人のつながりを表すものは娘だったはずで、その代替としてこの物語はある。それは、この夫婦がそう捉えていたというわけではなく、物語の構造として、本来なら子供がいるだろうところに音が語る物語がある。
娘の法要後に車の中で家福と音が子供について話す場面がある。音は家福の気持ちを聞くが、家福は音の気持ちを尊重すると答える。多分、家福は子供を亡くしてから、自分の思うところを音に話していない。
そして家福は、音の不貞行為を知りながら、見て見ぬ振りをしている。
その理由について、良好な夫婦の関係を壊したくないと家福は言うが、本当はそのことに向き合うと、子供の死に向き合わざるを得なくなってしまうのが怖いのだ。そしてその本当のところを家福は自分自身にも分からないように覆い隠してしまっている。
音の不貞行為は、自傷行為だ。その根本には子供の死がある。
家福は音と二人で物語を共有していることを心の拠り所にしていた。でもそれは違った。音は関係を持った相手にも物語を語っていた。
SEXをすると子供が生まれるように、SEXをすると物語が生まれる。音は奔放なSEXをくり返すことによって、その度に亡くした子供(生まれるはずの子供)という喪失に向き合い、喪失を埋めるように物語を語る。
音は家福と物語を共有したいのではなく、この喪失を共有したい。
この物語に、雌が複数の雄と偽りの交配を繰り返すヤツメウナギが登場し、主人公の女子高生が「前世はヤツメウナギだった」と告げると、家福はそこに音の抱える喪失の片鱗を感じとり、物語を忘れたふりをする。
「話がある」と言った音の話が、不貞行為のことにしろ、別れ話にしろ、この夫婦にとって子供の話は避けては通れない。だから家福はあの日、すぐに家に帰ることができなかった。
そうやって、悲しみから目を逸らしている内に家福は音を失ってしまう。
ただ、たとえ音が突然死ななくても、長生きしたとしても、この夫婦の抱える問題は時間が解決するわけではない。
あの夜、遅くまで家福の帰りを待っていた音が待ちくたびれて寝てしまい、翌朝「昨夜はごめん。話ってなんだったの?」と家福が聞けば「たいしたことじゃないから、もういいよ」と音がこたえ、そんな風にしてずっと二人は同じように喪失を共有しないまま終わったかもしれない。
2年後
家福は取り返しのつかなかった人生のその後を生きている。
家福にその自覚はあるだろうか。多分ないだろう。彼は音の死後からワーニャを演じることができなくなっている。彼はワーニャのようには取り返しのつかなかった人生を認められない。だからワーニャのあけすけな後悔に自分を差し出すことができない。
音の不貞行為を目撃した時、家福は分裂した。もう一人の家福は姿見に映る鏡像となり、家福自身によって覆い隠されてしまった。
そのもう一人の自分は、もう一人のワーニャ、音の不倫相手である高槻耕史(岡田将生)として、家福の目の前に再び現れる。
高槻という人物は率直な感覚を口にし、刹那的な感情を行動原理としている。
高槻は家福に近づき音の話をしようとするが、分かり合えるとでも思っているのかと、家福は高槻を拒絶する(この場面には、経験にまつわる感情を避ける家福と、経験によって感情を募らせている家福の分裂も重ねられている)。
2人は同じ経験をしていても感情を共有することはできない。なぜだろうか。
不倫された夫と、その妻の不倫相手という感情的な反発があるからだろうか。高槻と家福は、故人とそもそもの関係性が違い、他人と身内という立場の違いがあるからだろうか。
いや、私たちが共有できるのは経験までで、そもそも感情は共有できないからだろうか。
家福の用いる独特なセリフ読みの稽古は、それを物語るように、そもそも感情は共有できないというところから出発しているように思える。
シナリオに空白がある。各々はその空白を埋めるのみ。空っぽの時間と空間に自身を差し出すのみ。
何度もセリフをくり返すことで、そこから意味・感情は漂白され、セリフにそれらが固定されることはない。そうやってくり返しても残るもの、もしくは、くり返された先に出てくるものが現れるという、ある種の純化が成されることで、普段の生活と変わらない即興に近い場を発現させることを目論んでいるのだろう。
演じる役やそのセリフをどう感じているか、その感情の共有はしない。そもそもできない。各々が舞台で出てくるものを発現させ合う。
ただ感情は共有できないかもしれないが、シナリオは共有できる。
同じように、ドライブも共有できる。
たとえ音の運転であっても快くは思っていなかった家福にとって、もしかしたら感情の共有ぐらい不可能だったかもしれない愛車の共有を渡利みさき(三浦透子)は可能にした。
それはひとえに、先述のセリフ読みの稽古でいうところの、車で眠る母の送迎という、くり返しによって残ったもの、もしくは、くり返された先に出てきたものによる。
もし音が生きていたら、家福は音にみさきをどう語っただろうか。
みさきが娘と同じ歳なこと。なぜ運転が上手いのか。彼女の過去や現在を、家福は音にどう語っただろうか。
多分、それは音の望んだ喪失の共有だったろうと私は思う。
もし家福がみさきとドライブを共にすることで、自身の抱える喪失とそれに伴う感情を認めることができたのなら、それは、いつも死んでしまった音に生前と同じように、日々の出来事を語り掛けていたからだろう。音だったらどう言うだろうと。
「もし僕が君の父親だったら、」そんな風にみさきの話に応える家福と、音も話しがしたかったと思う。
以下追記です。2023/02/02
みさきという人物は、家福の亡くなった娘と同じ歳で、視力に不安のある家福の替わりになるぐらい車の運転が上手く、彼女もまた取り返しのつかない過去に囚われているという、家福にとって嘘みたいに都合の良い存在かもしれない。
私は彼女をこう考えている。
そもそも人生に家福が迎えた2年後などない。人生は取り返しのつかないまま終わる。
けれどもし、何かが起こって、取り返しのつかなかった人生をせめて受け入れることができるのだとしたら、それはたとえばどんな物語になるのだろうか。
どんな物語なら、あるはずのない2年後を語れるのだろうか。
みさきという人物の設定がありえなければありえないほど、この2年後はありえなさを増す。存在しないはずの2年後を語るには、みさきの存在は果てしなく物語(フィクション)になっていく。
この映画は、初めから喪失(空白)を物語で埋めていた。
そして喪失の根本には死んだ娘がいる。死んだ娘が物語になり、更なる喪失を迎え、2年後に渡利みさきとして家福の前に現れたんだと。
ラストのシークエンスに家福の姿はない。
みさきはリラックスした様子で犬を連れてドライブをし、買い物をする。
家福にとってみさきの存在がありえないように、みさきにとってもまた、家福の存在はありえなかったのではないか。
父親の苗字が多い土地になんとなく留まる母子家庭で育ったみさきの前に、みさきと同じ歳の娘がいた男が、特技であるドライバーとして彼女を必要としており、彼もまた、取り返しのつかない過去に囚われている。
2年後の、ありえない家福の物語が終わり、そこからどれくらい経ったのだろうか、さらにありえないみさきの物語がはじまる。ありえない物語の先にはもっとありえない物語があるのだろう。
ドライブ空間は劇場空間の隠喩としても用いられます。そのことを表すように、2年後を描く冒頭が、死んだ女(音)の声が吹き込まれたカセットテープの音と、それに合わせてセリフを言う家福の声が、走る車を俯瞰でとらえたショットに重ねられています。
走る車を俯瞰でとらえたショット内空間から、聞こえるはずのない車内の音が聞こえ、その音がまるで車内であるかのように劇場内に響いているわけですから、劇場空間とドライブ空間を同一のものと捉える演出がされています。
この物語は、取り返しのつかなかった人生のその後を描いており、『雨月物語』(1953)や『叫』(2006)などの終わりから始まる物語という印象です。
『雨月物語』も『叫』も、死んだ女の語りが、モノローグとしてスクリーンに映る空間ではなく劇場内に響いて終わります。
私は家福が『雨月物語』や『叫』の主人公のように、取り返しのつかない人生を自ら招いたとは思いませんが、ただ、家福自身が苦しいのなら、どうにもならなかったにせよ、なんとか生きていくためにどんなことができるか、そのことについてこの物語は模索しています。
喪失なのか空白なのかわからない時と場所があり、そこに誰かが意図せずとも身を差し出すことで、世界はつながる。
人はただそこにいるだけで何かをつなげているのかもしれないし、たとえ分かり合うことができなくても、ただそこにいて同じものを見るだけで、共有はできるということなのかもしれません。