この記事はAIとの対話をもとに、加筆・編集したものです。
監督:黒沢清

序 「見るなの禁止」話型と『蛇の道』
民話の話型に「見るなの禁止」というものがある。禁じられた視線によって異類と人間の関係が断絶するという構造を持つこの話型は、「鶴の恩返し」をはじめ、世界各地に類話を持つ。その一つである「母の眼玉(蛇女房)」は、佐々木喜善の採集記録『聴耳草紙』の五六番に収められており、他の類話とは異なる特徴的なモチーフを持つ。それは、異界へ帰る際に蛇女房が子どものために目玉を置いていくという挿話である。子どもがそれをしゃぶって大きくなるが目玉をしゃぶりつくしてしまい、父親が異界へ赴いてかつての女房であった蛇にもう片方の目玉をもらいに行く、という展開を持つこの話は、「見ること」というテーマを「触れること」へと読み替えることで、話型の核心に潜む問いを別の角度から照らし出している。
黒沢清の『蛇の道』(2024)は、自身の旧作(1998)のリメイクであり、主人公が男性(哀川翔)から女性(柴咲コウ)へと変更されている。劇中で「蛇のような目だ」と形容される小夜子(柴咲コウ)は、蛇のイメージをまとう存在として描かれる。また映画には、自律走行型掃除機のルンバが印象的に登場し、創世記の蛇が「生涯這いまわり、塵を食らう」と呪われる場面との照応が見て取れる。この映画を「母の眼玉(蛇女房)」の話型と重ね合わせ、さらに視線・接触・黒というモチーフを通じて読み解くことで、映画が概念化への抵抗という主題をいかに形式的に実現しているかを考察する。
一 視線が異界を存在させる
「見ること」から「触れること」へ
「見るなの禁止」話型において「見ること」はタブーの核心にある。視線が境界を破るのではなく、視線が境界そのものを生成するという点が重要である。見ないことが異界と現世の未分化な状態を守っており、見ることによって二つの世界が決定的に分割される。
しかし「母の眼玉(蛇女房)」(聴耳草紙所収)の話は、「見ること」という視覚的行為を「触れること」という身体的接触へと読み替えることで、話型の論理を変容させている。目玉をしゃぶるという行為は、乳児が乳首を含むのと同じ原初的な接触であり、視線という遠隔的接触から口・皮膚という直接的接触への移行を示している。母の身体の一部を文字通り体内に取り込むこの行為は、「見ること」よりもはるかに深い、融合に近い接触である。
視線を接触として捉える思想は哲学史・科学史において広く見られる。古代ギリシャの流出説(エンペドクレス)では、目から視線の炎が流れ出て対象に触れることで見えるという発想であり、視覚を物理的接触として捉えていた。
メルロ=ポンティは『見えるものと見えないもの』において、「肉(chair)」という概念を提示した。「肉」とは、見る者と見られるものを共に成り立たせている、世界と身体に共通の存在の素材のことである。これは、見ることと触れることが、同じ身体的経験の二つの現れ方であるという考えに基づいている。私たちは通常、視線が外側から対象を捉える、いわば対象を突き刺すようなものだと思いがちだ。しかし彼によれば、見る者はすでに世界の内側にあり、見るとは視線が対象に包まれるような経験であるという。
また量子力学の観測問題においては、観測行為が観測対象の状態を確定するという意味で、見ることは対象への物理的干渉として理解される。
多世界解釈と異界の存在様式
「母の眼玉(蛇女房)」の話を量子力学の多世界解釈と重ねると、三つの段階が見えてくる。第一段階は未分化(重ね合わせ)の状態であり、異界と現世が未分離のまま、蛇女房は現世に棲んでいる。第二段階は視線による確定(分離)であり、男が見た瞬間に世界が分岐し、蛇女房は蛇として確定されて異界へ押し返される。この観測による確定は不可逆である。そして第三段階として、分離した二つの世界が視線を介さずに、目玉という視線の媒体を介して繋がり直す段階が訪れる。
重要なのは、第三段階が未分化への回帰ではないという点である。
「母の眼玉(蛇女房)」では、母の目玉を体内に取り込んだ息子が異界を訪ねると、盲目の人間の姿をした母が現れ、二人は連れ立って現世へ行き、共に暮らすところで物語は幕を閉じる。
異界と現世は、盲目という状態と目玉という物質を媒介にして両者が相関する。
これは量子もつれの構造に似ている。かつて相互作用した二つの系が、分離後も非局所的な相関を持ち続けるように、蛇女房と子どもは目玉という相互作用の痕跡を通じて繋がり続ける。分離を保ちながら相関するという第三の存在様式において、目玉は「視線という接触の物質的痕跡」として機能している。
ロラン・バルトは写真論において、写真を「光の物理的な痕跡」として論じ、「それはかつてあった」という概念を提示した。写真が光の接触を物質に固定するように、目玉は「視線そのものを物質として手渡している」と読むことができる。子どもがそれをしゃぶることで、不在の母の視線を身体に取り込む。この読みにおいて、「母の眼玉(蛇女房)」の盲目は単なる喪失ではなく、視線という権力から自由になることであり、その自由になった異界の存在の視線が、一体的な世界を眼差しているかのような終わりを迎えるのである。
二 小夜子という蛇
蛇の二面性と主人公の性別変更
『蛇の道』(2024)が日仏共同製作であることは、映画が内包する蛇のイメージの二面性と不可分である。キリスト教社会において蛇は悪の象徴であり、創世記においてアダムとエバを誘惑し禁断の知恵の実を食べさせ、「生涯這いまわり、塵を食らう」という呪いを受けた存在である。一方、東アジアの伝承において蛇は女性性の象徴であり、神聖視され信仰の対象となってきた動物でもある。映画は自ずとこの二面性を内包している。
1998年版から2024年版への主人公の性別変更は、この二面性の問題と深く関わる。1998年版では新島(哀川翔)が数多の世界を見る超越的な存在として復讐を繰り返していたが、2024年版では「蛇のような目」を持つ小夜子が見る主体として現れる。「母の眼玉(蛇女房)」では蛇は見られる側にいたが、この映画では蛇が見る側になっている。この反転は、見ることと見られることの非対称性の解体、あるいは蛇が異界から現世へ渡り視線の主体になったという読みを可能にする。
ルンバと這う者のイメージ
映画に印象的に登場するルンバは、創世記の蛇の暗喩として機能している。常に床を這い、塵を食らい(吸い込み)、自律的に動き、しかし目を持たない。目を持たずに這い回るルンバは盲目の蛇女房と重なる。視線を失った異界の存在が現世を這い回り、塵という物質的な痕跡を収集し続ける。
「母の眼玉(蛇女房)」との接続においてルンバが示唆するのは、小夜子の復讐が回復を目指していないという点である。喪失を回復しようとするのではなく、喪失の痕跡を物質として這い集め続ける行為として復讐が描かれる。蛇女房が世界を書き換えることなく目玉を渡し盲目となったように、小夜子は蛇の位置で地を這い続ける。
三 概念化への抵抗としての復讐
子どもの抽象化というアイロニー
映画において殺された娘は名前もなく薄く描かれる。これは欠陥ではなく意図的な描き方である。映画が子どもを薄く描くのは、社会がすでに子どもをそのように扱っているからだ。戦争や紛争の報道において、子どもの犠牲が概念として語られるとき、子どもは自動化されたイデオロギー闘争の部品として利用される。映画の形式が社会の子どもの扱いを映している。これがアイロニーの核心である。
アルベール(ダミアン・ボナール)は娘の死を自己弁護の道具として使い、復讐という行為で自分の罪悪感を処理しようとする。子どもを概念化することで自分を正当化するこの姿勢に対し、小夜子は映画ラスト近くで「あなたが一番嫌い」と言い放つ。この言葉は最も近くにいた者が最も純粋に概念化の構造を体現していたことへの告発である。小夜子の復讐は娘への愛という動機を超えており、復讐という行為により、子どもが概念化され続けることに抗い続けている。
しかし小夜子は概念化への抵抗として一貫しているわけではない。そしてその矛盾こそが、この映画における小夜子の核心である。映画の中で小夜子は容疑者を殺害した遺体をシュラフに入れる。シュラフとは覆うことで匿名化し道具として扱う容器であり、その行為において小夜子は概念化する構造の側に立っている。しかし彼女はそのシュラフを開け、中にナイフを突き立てようとして、結局できずにナイフを捨てる。映画終盤に現れるスナッフフィルムの中の、無造作に布にくるまれた殺された子どものイメージは、このシュラフのイメージと重なっている。覆われた者の前でナイフを捨てるという一瞬の躊躇において、小夜子の内なる概念は錯綜し、戸惑っている。小夜子は容疑者をシュラフに入れる者でありながら、覆われた者にナイフを刺せない者でもある。この矛盾は解消されない。解消されないまま抱えられていることが、小夜子を触媒やスティグマという概念に還元できない理由であり、彼女自身の概念化への抵抗として描かれている。
「みんな」への告発と家父長制
黒沢清の『叫』(2006)において赤い服の女が発する「私は死にました。だからみんなも死んでください」というモノローグは、固有名を持たず「女の幽霊」として概念化される存在が、概念化した側全体を「みんな」として告発する言葉である。私たちが幽霊と呼ぶのだから、幽霊は「生きているものみんな」を恨む。
「見るなの禁止」に関する論考において、世間における「みんな」とは家父長的な体制側を意味するという指摘があった。
『叫』のモノローグの丁寧語にも、家父長的な体制下における社会的な属性をうかがわせるものがある。
映画ラスト、小夜子は日本にいる夫とのモニター通信で「娘を売ったのはあなたね」と告げる。この告発に対応する伏線や証拠は映画中に一切存在しない。世間では唐突な言いがかりとして受け止められているこの場面は、しかしその唐突さこそが証拠として機能している。証拠を持てない被害を生む構造への告発は、一切の仄めかしなく唐突に語られることで、事実の言語ではなく構造の言語として機能する。唐突さそのものが、証拠を持てないという構造そのものを体現している。
「見るなの禁止」話型において禁忌を課す権力は男の側にある。蛇女房が「見るな」と言っても、見る権力を持たない彼女はその禁忌を維持できない。家父長制とは見る権力を独占する構造である。小夜子が「蛇のような眼」だと眼差しを指されることは、見られる側が見る側になったという転倒である。
夫への告発はモニター越しに、すなわち構造のレイヤーを通じてなされる。構造のレイヤーを介して構造そのものを告発するという逆説が、この場面の形式的意味である。
モニターというレイヤー
被害にあった子どもも、夫も、モニター越しに登場する。直接対面ではなくモニターを介するということは、映画のスクリーンの内側に別のスクリーンが入れ子になることを意味する。観客は映画を見ながら、映画の中でモニターを見ている人物を見ている。子どもは構造を通過した像としてのみ存在し、夫は構造の向こう側にいる。モニターは構造というレイヤーを表す装置として機能している。
しかしモニターは両義的である。概念化の道具として機能する一方、消灯した黒いモニターは概念化を拒否する。レイヤーであることが同時に直接視線の暴力を遮断する。蛇女房の目玉のように、接触を物質として媒介する装置でもある。ホワイトフラッシュの後、モニター越しに夫への告発が語られるのは、構造のレイヤーを通じて構造そのものを告発するという、この映画の最も深い逆説の実現である。
四 黒という形式
黒塗りのテキストとして
映画のオープニングでは、フランスのとある路地に黒い車・黒い自転車、黒いマンションの扉、黒い工事用のフェンスシートなどが意図的に配置され、そこに黒髪の小夜子の後ろ姿が現れる。この画面は一種の黒塗りされたテキストとして読むことができる。黒塗りされた公文書は内容を隠蔽するが、隠蔽されていることは見える。欠如が欠如として可視化されている。路地の黒いものたちは何かを隠しているのではなく、隠されているという事実を可視化している。
概念化とは欠如を埋める操作である。名前のない子どもに「犠牲者」という概念を与え、複雑な構造を「悪の組織」に還元する。概念は欠如を不可視にすることで機能する。これに対して、欠如を欠如として示すことが概念化への抵抗となる。娘が薄く描かれるのも同じ論理であり、娘を「復讐の動機」という概念で描くことを拒否しながら、具体的に描くこともしない。説明しないことで、説明できないことを示す。
光にとっての黒、映画にとっての黒
光にとって黒とは吸収される場所である。白は光をすべて反射するが、黒は光をすべて吸収して返さない。見るという行為は対象から反射した光が目に届くことで成立するため、黒いものは視線を受け取ったまま吸収し、見ることを成立させない。小夜子の黒髪は向けられた視線を反射せず吸収することで、概念化しようとする視線を受け取ったまま返さない。蛇女房は見られることで傷ついたが、小夜子の黒は視線そのものを吸収することで概念化を拒否する。
映画は本来、プロジェクターが光を放射し、白いスクリーンがその光を反射し、観客の目に届くという連鎖によって成立する。映画とは光の放射と反射のメディアである。しかし画面の中に黒が配置されるとき、そこだけ光が返ってこない。映画が「ここは見せない」と宣言し、見せるメディアが見せないことを見せる。反射のメディアが吸収を映す。黒沢清自身が「映画というのは、光の粒のことかもしれない」と述べていたことを思い出せば、この映画における黒という光の遮断は、映画というメディアへの作家自身による内側からの問い直しとして理解される。
概念化への抵抗をテーマとして語ろうとすれば、それ自体が概念化になる。語ることはすでに概念化だからである。だから抵抗をテーマとして語らずに実現しようとすれば、画面の構成そのものが抵抗にならなければならない。黒を配置すること、被写界深度を浅くすること、娘を薄く描くことは、語らないことで語るという形式的必然の結果である。
ここで「母の目玉(蛇女房)」の盲目と、映画における黒塗りが同じものの二つの表れであることに気づく。「見るなの禁止」話型において蛇女房は見られることで傷つき、盲目になる。盲目とは視線を吸収して返さない状態であり、見ることを手放しながらも存在し続ける状態である。映画における黒塗りも同様に、視線を吸収して返さない領域として画面に存在し続ける。盲目の母が目玉を持たないまま現世へ来て息子と共に暮らすように、黒塗りは見せる力を持たないまま画面に存在し続ける。小夜子の黒髪はその接点に立っている。盲目の母が盲目という状態を身体に刻んで現世へ戻るように、小夜子は黒髪という盲目の刻印を身体に持ちながらフランスの街を歩いている。「蛇女房」の話型と映画の形式は、盲目と黒塗りという同じ論理の上で重なっている。
被写界深度の浅さとの差異
映画には無視できない程度で被写界深度の浅い場面が登場する。これは黒とは質の異なる形式的操作である。黒は視線を受け付けない。被写界深度の浅さは視線を受け付けながらぼける。前者がメディア論的な抵抗であるとすれば、後者は視線の認識論的限界の露呈である。被写界深度の浅い画面では、ピントの合った部分のみが確定した存在として現れ、ぼけた部分は観測によって確定されることを免れたまま画面の中に留まり続ける。映画ラスト近くでアルベールが小夜子に見ることを強要したスナッフフィルムが不鮮明であったように、子どもはこのぼけた部分にいる。概念として確定されることを、画面の形式そのものが拒否している。
五 ホワイトフラッシュと告発の形式
黒から白への反転
映画ラストの場面への切り替わりにホワイトフラッシュが使われている。映画における通常の場面転換(暗転、カット、フェード)とは異なるこの選択は、それまでの黒の論理との対比において意味を持つ。黒が光を吸収して返さないものであるとすれば、ホワイトフラッシュは光が一瞬すべてを飲み込む過剰な露出による消去である。黒が欠如の保存であるとすれば、白はその吸収が臨界点に達した瞬間の放出である。
写真のフラッシュが対象を照らして像を固定するように、ホワイトフラッシュはそれまでの黒を一瞬照らす。しかし照らされた後に現れるのは確定された答えではなく、構造という照らしても照らしても輪郭の定まらないものである。フラッシュが強ければ強いほどその後の闇が深くなる。蛇女房が最後の目玉を渡す瞬間に対応するとすれば、ホワイトフラッシュは蛇女房が完全に盲目になる瞬間であり、異界が現世への視線をすべて手放す瞬間である。
結 黒の横断的テーマへ
黒沢清はこの時期、黒というモチーフを複数の作品に横断させている。『Chime』(2024)のオープニングでは天井から吊るされた消灯したモニターが料理教室という日常空間に置かれ、『蛇の道』(2024)では路地・黒髪・消灯モニターとして移動する黒が展開し、新作『黒牢城』ではタイトルそのものが黒を冠している。米澤穂信の原作小説『黒牢城』において、黒牢城とは黒々とした闇のような何者も出られぬ牢のような、何者も寄せつけぬ城のようなものであり、憂き世そのものを暗示すると著者は述べている。憂き世という牢の黒が、映画というメディアの中に持ち込まれる。
「蛇女房」の話は「見るなの禁止」話型において、見ることを触れることへと読み替え、視線が生み出した分離を物質的な接触が引き継ぐという構造を持っていた。『蛇の道』(2024)はその構造を映画の形式として実現している。概念化への抵抗は語られるのではなく、黒として画面に置かれる。視線を吸収して返さない黒が、見せることを自らの存在条件とする映画というメディアの内側から、見せることの論理を侵食する。
小夜子は背を向けて立っている。その黒髪は向けられる視線を吸収して返さない。見ることで確定しようとする力が、そこで吸収される。
黒は視線の持つ力への抵抗である。しかし映画において黒は、観客を映画という異界において盲目の存在に変貌させ、現世へと押し返す力となる。
黒の増殖は映画を浸食し、やがて映画を消滅させかねない諸刃の色である。
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