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眠那影俄仁那琉

『アカルイミライ』(2003年)少女の夢が増える時

監督:黒沢清

この映画は、社会に染まりきって何の疑問も持たず安寧に暮らす上の世代に反発を抱いていた若者が、友人の父親と関わることで少しずつ反発心が瓦解し、彼らに続いてこの社会で生きていくのも悪くないと、自身を取り巻く世界を受け入れる萌芽を描いているのだろうか。
所謂、若者のモラトリアム期の脱却を描いた青春映画だろうか。

では、アカクラゲとはなにか。
若者の反発心が具象化したものか。
守(浅野忠信)はこれを飼いならし、少しずつ真水に慣らし、この社会に解き放とうとしていた。それを雄二(オダギリジョー)は引き継いだ。
それは地下へと放たれ、伝播し、都市の河川に現れて人々を刺し、やがて元いた海へと帰っていった。
彼らは反発心を抱え、それにより凶行へと走るが、そのような激しい反発心はやがて海へ流れていくかのように消えていったということだろうか。

「昔から、俺は眠るとよく夢を見る。それは、いつも決まって未来の夢だった。夢の中で、未来は明るかった。希望と、それから平和に満ち溢れていた。だから俺は眠るのが楽しかった。ついこの間までのことだ」
夢について語る映画冒頭のモノローグ。
映画ラストのタイトルバック後の撮影クルーの映り込みや、徐々に白濁していく画面の演出を見るに、この映画は全て夢として描かれている。
映画中盤、眠る雄二の場面に守の自殺場面が夢のように挿入されるが、眠りから覚めた雄二にその夢をみた素振りはみられない。自殺直前に守はカメラ目線で「じゃあな」と夢を見ている者に語りかける。これは、映画の終わりが本当の目覚めの時であり、目覚めてから(映画が終わってから)この夢を見ていた主体は「じゃあな」という、守の最期の言葉を夢で見たと思い出すことを示唆した場面である。
また、守の「お前はお前の見る夢を信じろ」という言葉も、今は夢を見ている最中であり、今ここで見ているものを信じろ、と語りかけているのである。

では、若者のモラトリアム期の脱却を描いた青春映画を夢オチとして描くとはどういうことか。この映画を全て夢として描く必然性はどこにあるのか。

それを探るためにはまず、この夢を見ている主体について考えなければならない。

「少女がアカクラゲに刺されて昏睡状態に陥っている」ことを伝えたニュースを見た雄二は、工場の屋根に登りテレビのアンテナを破壊し、その場に居合わせた有田(藤竜也)に「ここからは何も見えないことが分かりました。俺、何してたんでしょう。「行け」の合図はとっくに出ていたのに」と告げる。
その場面までの雄二は、無気力な日々から脱却し、仕事に精を出しており、情緒も安定しているようだった。
この映画が若者のモラトリアム期の脱却を描いているのなら、ここで映画が終わっても事足りるはずである。彼は目の前の日々を受け入れて暮らし始めた。イラついてもいない。

しかしそうはならない。本人曰く「俺、何してたんでしょう」なのだ。仕事に精を出す日々を穏やかに過ごすなんてどうかしていたと言わんばかりである。
この場面から、目覚めを思わせるラストへ一気に物語が進行することから、守の「行け」とは目覚めを意味しており、「待て」とは夢を見ている状態を意味していることが分かる。

「少女がアカクラゲに刺されて昏睡状態に陥っている」というニュースがなぜ目覚めの契機となるのか。
理由は単純だ。
あなたがTVを見ていたら、あなたが昏睡状態に陥っているというニュースが流れてきたらどうだろう。「あ、これは夢だな」とあなたは思うはずである。
雄二は、この夢を見ている主体は、少女なのである。
このことは、おしぼり工場の社長宅へ雄二が鉄パイプを持って忍び込んだ時に、暗闇を見つめる雄二の眼差しが一瞬カメラ目線になったことからも説明できる。
この時、カメラは切り返さないため、雄二が何に目線を合わせたのか不明なまま場面は切り替わってしまう。しかしその後、雄二は留置所にいる守に「俺もさ、行ったんだよ。すぐ後で、CD取り返しに。ついでに殺しときゃよかった」と語るところの「ついでに殺しときゃよかった」者とは藤原家の娘のことを指している。雄二はあの時、娘を目撃した。その時の娘の視点ショットが雄二のカメラ目線なのである。
夢見る眼差しはカメラと重なり、私たち鑑賞者の目線と重なる。その夢見る目線が、娘の視点ショットと重なっている。
この夢を生きている主体は雄二である。その雄二と相対した時、優位になる目線とは、雄二より高次の存在、すなわち夢見る主体そのものである。

藤原家に雄二と守が招かれた時、藤原家を後にして振り返った守が「嵐がくる」と呟いた。
その「嵐」とは一体なんのことだったのか。
守が藤原夫妻を殺すことだろか。藤原家を振り返り「嵐がくる」と呟いた守が「嵐」そのものとして藤原家を再び訪れる、なんてことがあるだろうか。
「本当は俺の方が捕まっていたのかもしれないんです。それを防ぐために守さん先回りして手を打った、俺はそう思ってます」
守の自殺後に雄二が有田に告げる言葉と、雄二として夢を生きる夢見る主体が少女であることから、藤原家に訪れる「嵐」とは、少女による両親の殺害である。
雄二が鉄パイプを持って藤原家へ忍び込んだ時、暗がりに血まみれの少女が佇んでいた。その後、守が藤原家を訪れて少女を解き放ち、犯人として代わりに捕まった。

白い服を着てアンダーパスを画面の向こうへ遠ざかるショットを最後に少女は姿を消す。
鑑賞者は、無言で両親に従う少女とこの白い服で走り去る少女しか見ていないが、そこには血まみれの少女が隠され仄めかされている。
この少女は、本当はアカクラゲのように赤く、アカクラゲが地下へ解き放たれたようにアンダーパスの奥へと消える。そしてクラゲは有性生殖をおこなうため単体では繁殖しないことから、あの増殖は伝播によりもたらされたものであることが分かる。

この映画は、若者のモラトリアム期の脱却を描いた青春映画ではない。
アカクラゲは若者の反発心の具象化ではない。

男ではなく女、大人ではなく子供であるところの少女とは、社会の中でどのような位置づけがなされているだろうか。あるいは社会的な位置づけが希薄な存在だろうか。
社会的な位置づけが希薄であるとはどういうことだろうか。
それは彼女たちがこの社会において非生産的な存在であることを意味する。

『観察者の系譜』や『知覚の宙吊り』で知られるジョナサン・クレーリーは著書『24/7』(24時間週7日開店営業状態の世界を意味するタイトル)の中で睡眠について次のように語る

「睡眠は、生産時間と流通と消費において計り知れないほどの損失をもたらす、まったく無用で本来的に受動的なものであるという点で、24/7の世界の要求にはつねに適合しないだろう。睡眠に費やされる人生の莫大な部分は、シミュレートされた必需品の泥沼から逃れているため、現代資本主義の飽食に対する公然たる侮辱のひとつでありつづけている。睡眠は、資本主義によって私たちから時間が奪い取られることに対する断固とした妨害なのである。人間の生にとって見たところ削減できない必要性のほとんどすべて―飢え、渇き、性的欲望、近年は友情に対する欲求など―が、商品化され金融化されたかたちでつくり直されているが、睡眠は、植民地化されたり抑制されたりできない人間の欲求や休止期間という理念を、利潤の巨大エンジンに突きつけるため、グローバルな現在における不都合な例外や危険な場所でありつづけている。」

睡眠と夢を不可分な事象とすると、少女が眠り夢を見ること。
それだけのことが現代資本主義社会では不都合な例外となり危険な場所を作り出している。
少女が夢見る不都合な例外であり危険な場所、それが『アカルイミライ』である。
そして夢見る少女とはアカクラゲであり、それが伝播することは、この社会に不都合な例外と危険な場所を増やすことに他ならない。

これは革命の物語である。
アカクラゲとして可視化した夢見る少女は、『アカルイミライ』において伝播する。『アカルイミライ』によって伝播する。そうして、現代資本主義社会にとって不都合な例外と危険な場所は広がっていく。
やがて彼女は目覚めるだろう。
再び夢を見るために。