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『旅のおわり世界のはじまり』(2019年)感想・ネタバレ

黒沢清監督の『叫』(2006年)で、主人公の男(役所広司)がいよいよ前後不覚に陥り、女がすでに死んでいることにふと気がついた時、なぜだか「そりゃそうか」という気持ちになった。
前後不覚になるほど男が苦悩する世界では、とっくに女は死んでいる。それも物語の外でひっそりと死に、私たちには死んだ事実だけが告げられる。
『叫』だけではなく、2000年代の途中まで、黒沢映画に出てくる女は、いつも死臭を漂わせていた。
溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)を見たとき、『叫』を思い出して記事を書いたのだが、それと同時に、シナリオハンティングにパンパン嬢の収容所を訪れた溝口監督が、彼女たちに向かって「皆さんがこうなったのも男の責任です」と言うつもりが高じて「僕の責任です」と言って泣いたという逸話を思い出し、黒沢監督も随分と女という存在を背負い込んでいるのではないかと思っていた。
「女は強い」などという紋切り型の言説を、『LOFT ロフト』(2006年)に出てくる西島秀俊の「プロってそういうもんだろ」並に、全ての責任を自己の外へ転嫁する反射神経でもって口にしたり、創作物に盛り込む人はうんざりするぐらい無数にいるが、「女はすでに死んでいる」と描き切ってしまうほど、女と向き合い、女を背負い込んでいる人はそうはいない。
ずっとそんな気はしていたけれど、「女はすでに死んでいる」ことを『叫』でとうとう暴露した後から、女が生きている世界を撮るための黒沢監督の試行錯誤が始まったような気がしている。


懐かしの流行歌が流れるTV番組で、人一人立つのがやっとの小さな円形舞台の上で、大勢の男性ファンにぐるりと囲まれ、ミニスカートを履いて「なんてったってアイドル」を歌う小泉今日子を見たとき、今では考えられないような危険な状況で歌わされていることにも驚いたが、その状況が一切危なげなく見える小泉今日子の放つ圧倒的なパワーにも驚かされた。例え興奮したファンが彼女に向かって行ったとしても、一蹴りで倒しそうなパワーを彼女は放っていた。なるほど彼女ならいつだって怪物じみた香川照之と戦えるだろうし、『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)の笹野高史小泉今日子なら、ずっと頼りになっただろう。
『リアル~完全なる首長竜の日~』(2013年)では、今にも死にそうな役どころを、その体躯と優れた運動神経でもって、例え死んでいても生きているようにしか見えないのではないかと思われる、どこまでも陽な生命力を放つ綾瀬はるかが演じた。ネタバレすると、死にそうなのはやっぱり彼女ではなかったわけだが、例え其処が彼岸でも、彼女がいる場所が此岸になるような気がした。

『叫』以降に撮られた『トウキョウソナタ』(2008年)や『リアル~完全なる首長竜の日~』で、黒沢監督は、各々の女優が生来持つ生命力を自身の映画に取り込もうとしているようだった。


そして黒沢監督映画に、前田敦子は登場する。
思えば『Seventh Code』(2014年)から、物語に前田敦子が沿うのではなく、前田敦子に物語が沿っていたように思う。そうとは知らず、気づくと私たちはいつも彼女を追いかけ、その先で彼女を知ることが物語になっていく。
『Seventh Code』では、ひたすら危うい彼女を見守っていたつもりが、『旅のおわり世界のはじまり』でも描かれた、彼女に向けられる好奇や庇護の眼差しを利用し、彼女は着々と任務を遂行していた。
たぶん私たちが見守らなくても彼女は世界のどこかで一人で生きていく。ただ私たちは、全ての世界のどこかで一人で生きている彼女を知らなくてはならない。彼女が何を見て聴いて、何を感じ、何を発するのか。そこから私たちは世界を理解しなければならないし、世界はそのようにしてはじめなければならない。

『旅のおわり世界のはじまり』からは、「世界がこのようにあるのは、そうでなければ彼女は世界を観測し得ないから」、「世界が現在のような姿をしているのは、彼女が存在するから」、「今、ここに彼女が存在しているということは、世界は彼女が存在できる環境であったという確かな証拠である」とでもいうような、宇宙論における人間原理に限りなく近い論理を感じる。
世界は彼女に観測され、彼女が感じ表すように存在する。
だから彼女が世界を表したとき、世界ははじまるのである。

まずこの映画のタイトルと、タイトルバックのタイミングについて考えてみて欲しい。
葉子はウズベキスタンに仕事で行っている。だから厳密には旅ではなく出張だが、広義の意味で出張を旅だとし、タイトルにある「旅」が、葉子の出張を示しているのだとすると、タイトルバックのタイミングがおかしなことになってしまわないだろうか。あのタイミングが文字通り、この旅のおわりであって世界のはじまりの瞬間なら、まだ彼女の仕事は終ってないのだから、タイトルにある「旅」と彼女の出張は同義ではないはずである。
タイトルバックがあのタイミングでなければならないわけは、あそこで旅がおわったからで、その旅とは彼女の出張のことではなく、彼女の言う「心の底から湧き上がる」ものを見つけたことによって発せられた、彼女のエモーショナルな声を聴き遂げるまでの、言わば私たちの旅、彼女に連れられて巡った旅のおわりであり、そのようにして知る世界のはじまりだからだろう。

その、世界のはじまりを告げる鐘の音のような「心の底から湧き上がる」エモーショナルな声を具体的なものに置き換えるならば、歌か叫になるだろう。

『旅のおわり世界のはじまり』ラストの葉子と同じように、カメラを見つめて発せられた『叫』ラストの小西真奈美のエモーショナルな声を、あのとき私たちは聴くことが出来なかった。
頭を押さえつけられ、海水に浸され、発することの叶わなかった「心の底から湧き上がる」エモーショナルな声が高地に響いたとき、世界ははじまる。
彼女たちが何を見て聴いて、何を感じ、何を発したか。そこから私たちは世界を理解しなければならないし、世界はそのようにしてはじめなければならない。

「あなたは、私たちのことをどれだけ知っているのですか」
「話し合わなければ、知り合うこともできない」
警察署の係官が葉子に語りかけるとき、取調室は俄かに暗くなり、話者の姿が陰っていく。映画から響く言葉が、誰に向けて発せられているのか、その主体や方向性が不明瞭になっていく。映画と劇場の暗さが限りなく均質になり、内と外が同質空間へと近づいていくことで、言葉がスクリーンの境界面を越えてこちら側に迫って来る。
あの言葉は、葉子にではなく、私たちに向けられているのだ。
現にそこで、通訳をつけて係官と会話をしているウズベク語の分からない葉子に向かって、ウズベク人警察と「話し合」いができなかったからあなたは捕まったのだ、と受け取れる係官の言葉はどこかピントがずれている。だからといって彼の言葉に、ウズベク語を勉強すべきだとか、スマホを駆使すべきといった現実的な打開策を促すようなニュアンスは含まれてはいない。もっと単純なコミュニケーションのあり方について彼は語っているはずである。


映画前半部では、伝統や好奇、庇護の眼差しに晒される葉子の姿が描かれている。船の上でじっと様子を伺う彼女の無言の背中から、彼女がそれらの、彼女を覆う囲いのような眼差しを努めて無視する処世を身につけていることが分かる。このような彼女の佇まいと、街中で話かけて来るウズベク人を無下にかわす彼女の身振りに違いは無い。
見ず知らずの他人の言動に対して、これは親切で、これは好奇だと正しい判別を下すことは可能だろうか。親切のふりをした好奇による危険が彼女の身に降りかからないと言い切れるだろうか。彼女の佇まいや身振りがそれらのことをとっくに知っているゆえだということを、何度も言うようだが私たちは知らなければならない。生きていくために、彼女に与えられた選択肢はそう多くはない。時には加虐的な遊具への搭乗も、好き好んでやっていることにしなくてはならない。ここで安易に庇護に下ることが、巡って自身の行動への制限となり得ることも彼女は知っている。
だから彼女は迷っているのではない。あの道を行くしかないのだ。
そうやって進んだ道の先で、彼女は白ヤギのオクーに遭遇する。そのとき、私たちはヤギに遭遇する彼女をただ見ている。そして、「(憐れな)あのヤギをもう一度草原に戻してやったら、どんなに喜ぶでしょう」という彼女の言葉を聞いて、ヤギと遭遇した彼女が何を思い、何を感じて生きてきたかを、朧げながら知ることになる。
その後、薄暗い異国の街を散々迷って遭遇したかに見えた白ヤギのいる場所まで、彼女はあっさりと撮影クルーを案内している。決して彼女が迷っているわけではないはずのナヴォイ劇場内の移動場面が迷宮的に描かれていることからも、やはり彼女は迷っているのではなく、私たちの目に、彼女の選択する道がまるで迷路のように複雑に見えているだけなのだろう。

ヤギに再会した彼女は、ヤギが雄・雌どちらなのかを気にして飼い主に尋ねている。
「オクー、きみはオスだったのか。じゃあどうしてこんなところに、ずっとつながれっぱなしになってたんだ?自分の力でロープを切って、外に飛び出すこともできたんじゃないのか」ヤギに語りかける彼女の言葉には、迷路のような複雑な道を選択せざるを得ない、女であることの不自由さに対する苦悩が滲んでいる。

映画冒頭では、撮影クルーに遅れをとってついて行くばかりだった葉子だが、白ヤギに対する思いを口にし、白ヤギのいる場所まで彼らを案内するのをきっかけに、いつしか彼らの前を進み始め、遂にはバザールで彼らを置いて先に行ってしまう。そして迷路のような、危うく複雑な道を慎重に進んでいたはずの彼女が、心のままに猫を追いかけ始める。やがて猫を見失い、撮影クルーとはぐれたことに気づいた彼女は、自分が思うように動いてみようと自覚し、意を決したようにカメラを構える。

テムル(アディズ・ラジャボフ)の語ったナヴォイ劇場建設に携った日本兵捕虜にもつながる、葉子が自身と同一視している白ヤギのオクーが、荒野に放たれる贖罪の山羊を模していることから、彼女の進む迷路のような危うく複雑な道とは、彼女が進むことを唯一赦された道に他ならない。
だから彼女が一人でカメラを構え進む道は、赦されない(やがて犠牲になる)かもしれない危険な道である。意を決してその道を進み警察に捕まった瞬間、彼女は心のままに動くことはやはり赦されないことだと悟ったのだろうか。

愛さなければ「生きた心地がしない」という感情に絡め取られることもないように、赦された道を進んで得られる安寧が、心の底から望むことなんてわけがない。いつか失うかもしれないからといって、愛することを辞められないように、たとえ赦されない道でも心の思うままに進んで行きたい気持ちがある。
葉子は意を決して心のままに動き、連れられた警察署からの一連の出来事によって、赦されない事を受け入れる事なんて出来ないと悟ったのかもしれない。

岩尾(加瀬亮)に日本に帰るように言われた葉子だが、恋人の無事を確認し、ウズベキスタンに残る選択をする。そこからの彼女は、心のままに選択し、道のない場所を自由に歩いているように見える。そうやって進んだ先の遠い景色の中に彼女は白ヤギの姿を見つける。
彼女も白ヤギも、何ものの犠牲にはならない。今、ここに彼女と白ヤギが存在しているということが、世界があるという確かな証拠である。

やがて山の上に音楽が流れる。
「心の底から湧き上がる」エモーショナルな歌声が、世界のはじまりを告げている。




職場で中古のペットロボットを飼って?いて、たまにスイッチを入れて動かしてみるぐらいで、とくにどうというものでもないなと、ほぼ無視して仕事をしていたのですが、ある日、一人の女性が、「寒そうだから」とペットロボットにマフラーを持ってきたときのことを、葉子が撮影クルーにヤギの話をする場面を見て思い出しました。あのときの染谷俊太さんのリアクションが、マフラーを見たときの私のリアクションだったわけですが、相手の言動を持て余しつつ、この人こんなこと考えて生きてるんだなと、少しだけ心が動くのを感じたのを覚えています。
テムルがナヴォイ劇場にまつわるいい話をした後の周りのリアクションが、「ふーん」というそっけない相槌から始まるのも凄くよく分かるのですが、なかなかフィクションでは見ないですよね。
猫を追いかける場面も、心のままに動くってどういうことだろうと真剣に考えたら、私も「猫を見つけたら追いかけることなんじゃないか?」となりそうで、ぐっとくるものがありました。


『旅のおわり世界のはじまり』は、作りからして葉子の好きにしたらいい、という感じです。葉子が思うように動いて、その先々で何かしら出来事があって、それらは偶発的な出来事でつながりはないけれど、葉子が感じて消化してつなげていけば、それが物語になっていく。彼女は物語の前に確かに存在している。
幻の怪魚ありきでロケが始まって、結局幻の怪魚が出てこないのも示唆的です。
ささやかなイントロから「愛の賛歌」は始まりますが、途方もない欲望が綴られた歌詞に、彼女がどこまでも解放された(リミットを外した)ことに気づかされます。
あの歌は、山という共鳴空間での壮大なコールアンドレスポンスのコールのような気がするんですよね。彼女はこちらを見ていたし、私たちは彼女に呼びかけられていますね。