みんな映画になる

眠那影俄仁那琉

イーストウッドの還元する力

イーストウッドのここ最近の(と言っても10年くらい)作品を見ていて受ける印象は、素描のような、時に思いのままに筆を走らせてみたとでもいった調子の描写で、決して軽くはないアメリカの歴史を語る、というものだった。でもそこにはいつもどこか透明な印象があって、ただこの透明さは決してイノセントなところから来る何かなどではなく、一体何なのかが掴めずにいた。

イーストウッドの特徴って何なのだろうと考えていた時、いつか忘れたが、展覧会でピカソの「道化師(彫刻)」を見た時に、あまりのただの奇天烈な帽子をかぶった人ぶりに、いやまぁそうだけどこんなあからさまに…と狼狽えた記憶がふと蘇った。
自分の中でイーストウッドの映画から受ける印象と、このピカソの「道化師」から受けた印象には、どこか共通するものがある。

たぶんこの透明さは、根源的なものを見た時に感じる印象に最も近い。
彼の映画を見た時、私は今見ているものは根源的な何かだと感じる。
そもそも映画であれ、アメリカの歴史であれ、目に見える根源的ななにかに還元されるようなものだとは思えない。それらが根源的ななにかに還元され、目に見えるものとして提示されたのなら、それは幻影以外のなにものでもないだろう。