みんな映画になる

眠那影俄仁那琉

車が走行している。人がただ歩いている。

映画には、ほんの数秒ほどの歩行や乗り物の走行を捉えただけの場面がよく挿入されています。
A地点にいる登場人物たちがB地点に行くために車に乗り込み、場面が切り替わるとB地点に車が着いて登場人物たちが降りきても物語はつながりますが、A地点の場面とB地点の場面の間に、登場人物たちの乗った車の走行場面が数秒間挿入されていたりします。

何の話かというと、『クローズEXPLODE』(2014)で登場人物達がバイクに乗って移動する時、走行場面が挿入されないことに違和感を覚えたのですが、なぜ違和感を覚えたのか、それからずっと考えているのです。

以前黒沢清が『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』(1935年)の冒頭の丹下左膳の歩行場面が良いと言っていて、確かにビートを刻むといった調子で、ただの歩行を横移動で捉えた場面ですが、映画に一定のリズムをもたらしています。
思うに、この移動場面が作り出すリズムが、映画を相対化させるのかもしれません。

丹下左膳餘話 百萬兩の壺』は冒頭なので、そうなると予兆めいてもいます。そのまんま物語が始まるという予兆ですが。
『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(2017年)での悦子(夏帆)と真壁(東出昌大)のボーイ・ミーツ・ガール場面の、画面奥から歩いてくる真壁の歩みは、まさしく予兆そのものでした(気配で鏡面を揺らすというジュラシックパークパロディもありましたが)。

先日、『死霊館 悪魔のせいなら、無罪。』(2021年)を見ている時にも車の走行を捉えた移動場面が出てきて、そうなると恐怖も忘れ、数秒間ただ走る車を見ているわけです。
どんな映画でも、ただ歩くのを見ているだとか、ただ走るのを見ているだとか、そんな瞬間があって、そういう場面をよりどころにして映画は語られているのかもしれません。