みんな映画になる

眠那影俄仁那琉

『蛇の道』(1998年)あなたのためなら、永遠の迷路に閉じ込められても構わない

監督:黒沢清

『CURE』(1997)では、映画というメディアをニーチェ永劫回帰の思想と同様のものとして捉え、『CURE』という映画を生きる主人公の高部(役所広司)がメタ的に自身の存在を認識し肯定することで超人化し、ニヒリズムを超克するという内容だったが、オリジナルビデオ映画『蛇の道』(1998)では、映画同様VHSの繰り返すという特性にVHS固有の上書きという特性が加わることで、物語は何度も「改変」しながら「繰り返す」所謂多世界タイムループものとなっている。

Vシネにおける哀川翔の存在の偏在ぶりをもって、多世界ものと言ってもいいかもしない。

この世界では、よく似た設定の哀川翔が、数多のVHS内物語世界に存在している。

 

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娘を凌辱して殺害し、その様子を撮影して販売した組織の根絶やしを目論む新島(哀川翔)は、蛇の道は蛇とばかりに、同じく娘を凌辱され殺害された組織内の男、宮下(香川照之)の復讐に、自身の事情を明かさないまま協力する。

物語の中で、彼らのファーストコンタクトと思われる場面が中盤と最後に出てくるが、微妙にその様子は改変されている。

憔悴した様子の宮下は、とある路地に足を踏み入れる。この路地は、後にも先にもどこまでも続いているように見え、朝方なのか夕方なのか分からない光が差している。地面に落書きがあり、ある方向へ向かって落書きが増えていく。宮下はそちらの方向へなんとなく進んで行く。よく見ると落書きは何かの数式のようだ。

中盤パターン:視線の先には地面にしゃがみこんだ男と女の子がいて、男が地面に数式を書き込んでいる。彼らの側へ行き、宮下は立って数式を見下ろしている。そこへ新島が声をかける「あんたも興味あるの」

宮下「あ、いや」

新島「まぁ、普通そうだよな」

最後パターン:宮下はしゃがんで数式を見つめている。そこへ新島が声をかける「あんたも興味あるの」

宮下「あ、いや」

ただならぬ新島の眼差しに戸惑う宮下。

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新島は目的を持って宮下の復讐に協力するが、その出会いは偶然のようだ。数式に導かれ、宮下から新島へ近づいているように見える。犯罪行為も含む復讐に協力する男は、相手に警戒されないために偶然出会わなければいけないのかもしれない。もうこの時点で何度かコンタクトが試みられている節がある。

殺された娘の復讐という、二度とない出来事を遂行しているはずの新島の行動や判断には淀みがない。淀みがないことがおかしい。

誰も知らない有田の居場所を唐突に突き止める新島。

繰り返しを強調するように、最初の大槻(下元史朗)の拉致誘拐と有田の拉致誘拐の道程は、もう一度同じ場面が間違って流れたのかと見紛うほど同じである。

そして、何度も繰り返す娘のビデオ映像と語られる犯行内容。これだけはどんなに繰り返しても改変されない。復讐劇における不変の出来事。固定された悲劇。

この物語はなかなか完成せず、繰り返し改変が試みられている復讐劇の1パターンに過ぎないのかもしれない。今は第何稿目なのだろうか。シナリオは完成しないまま、撮影が始まってしまっている。

誰も知らない有田の居場所を新島が唐突に突き止めるという破綻を残したまま。

大槻(下元史朗)の拉致誘拐のト書きを有田の拉致誘拐場面に援用したまま。

詳細な設定描写の無い場面は全て草木を配置し、空間指定の無い場面は妙に間延びしている。

 

いったいシナリオはどうなっているのかと訝しむほどの違和感は、全て多世界ループものという設定がクリアにする布石となっている。

シナリオが何らかの文章作成ソフトで書かれているとするならば、新島や新島が講師をしている塾の塾生達が書いているのは、プログラミング言語に相当する何かだろう。

新島の「駄目だ駄目だ、それじゃぁ空間が裏返って時間が逆に流れることになる。それじゃぁ世界中が無茶苦茶になるぞ。お前は神様じゃないんだから」という塾でのセリフも、そう考えると合点がいく。

彼らは物語世界のプログラミング言語に相当する何かを書き換えることで物語の改変を行っている。

塾生達は皆それぞれの物語世界の住人で、物語を書き換える術を新島に学び、自身の物語を書き換えている。

プログラミングは改変され実行される。この物語における草木の配置の多さや、空間の間延びに感じる違和感は、物語が自然言語で書かれていないことで生じる違和感なのかもしれない。

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新島は組織を根絶やしにして、宮下に娘のスナッフフィルムを見せるという極限の拷問を課し、復讐という目的を達成したかに見える。

がしかし、最後に再びファーストコンタクトの場面が出てくるということは、もう一度改変を施し、事態をやり直しているようだ。

今回の復讐『蛇の道』の何がいけなかったのだろうか。

 

復讐を遂げたかに見える物語展開の最後にファーストコンタクト(別パターン)が挿入されたことで、この物語は実は復讐劇ではないのではないか、という疑念が生まれる。

塾生たちは自身の物語の書き換えを行っていると書いたが、そうするとあの8歳の女の子も物語の書き換えを行っているわけだ。

一体どんな物語の書き換えを行っているのか、と思うだろうか。これは考えなくても明らかだろう。彼女は新島と宮下の娘と同じ8歳の女の子、というだけで説明は充分為されている。彼女は凌辱され殺害されてしまう自身の物語の書き換えを行っているはずだ(改変を行えるということは、一命は取り留めるのかもしれない)。

新島はそれに協力している。

そして最後に改変され、もう一度やり直しが行われたということは、今回も彼女は被害に遭うのだろう。塾から帰る彼女と宮下との意味深長な暗がりでの遭遇と、その場面における宮下の表情を見るに、彼女を加害する犯人は宮下であることが仄めかされている。

新島が宮下を特別視し、自身の監視下に置いているのはそのせいかもしれない。

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新島は何度も物語をやり直し彼女を救おうとしているが、今回も彼女を救うことはできなかった。

 

このようなメタ的な構造の分岐を繰り返す多世界ループものの主人公には、哀川翔こそ相応しいと思うが、来年公開のフランス撮影リメイク版はどうなるのだろうか。

 

イーストウッドの還元する力

イーストウッドのここ最近の(と言っても10年くらい)作品を見ていて受ける印象は、素描のような、時に思いのままに筆を走らせてみたとでもいった調子の描写で、決して軽くはないアメリカの歴史を語る、というものだった。でもそこにはいつもどこか透明な印象があって、ただこの透明さは決してイノセントなところから来る何かなどではなく、一体何なのかが掴めずにいた。

イーストウッドの特徴って何なのだろうと考えていた時、いつか忘れたが、展覧会でピカソの「道化師(彫刻)」を見た時に、あまりのただの奇天烈な帽子をかぶった人ぶりに、いやまぁそうだけどこんなあからさまに…と狼狽えた記憶がふと蘇った。
自分の中でイーストウッドの映画から受ける印象と、このピカソの「道化師」から受けた印象には、どこか共通するものがある。

たぶんこの透明さは、根源的なものを見た時に感じる印象に最も近い。
彼の映画を見た時、私は今見ているものは根源的な何かだと感じる。
そもそも映画であれ、アメリカの歴史であれ、目に見える根源的ななにかに還元されるようなものだとは思えない。それらが根源的ななにかに還元され、目に見えるものとして提示されたのなら、それは幻影以外のなにものでもないだろう。

『フェイブルマンズ』(2022)力が欲しいか ならばくれてやる

監督:スティーヴン・スピルバーグ
ネタバレしてます。

面白いと思いながら観ていたが、同時になんでこの映画が面白いんだろうかとも思っていた。
スピルバーグの自伝的映画で、尚且つ彼自身が撮ったというメタ情報がなくても面白い映画だった。

伊藤計劃が『宇宙戦争』について、映画冒頭のただの親子のキャッチボールを暴力的に見せるスピルバーグの演出について触れていたが、そんな風に、ただ変わり者のおじさんが家に訪ねて来るだけのことを、やたら運命的な出来事のように描くし、家族でキャンプしているだけなのに、一見キャンプに見える何かであるようにそれは描かれている。
今スクリーンに映る出来事と、その見え方に不自然な点はない。
それらはとても自然なのに、それが自然に見えることが、そもそもおかしいような、そんな感覚に見ていると襲われる映画だった。

たぶんこの映画は、
「子供の頃から映画を撮り続けて、映画の持つ力や映画が現実にもたらす影響に、否応なく気づいていった。それは、家族との出来事と不可分な気づきだった。
だからいつか、その力を使って家族を描かなくてはならないと思った。」
ということなのだろうと思う。
言葉にすると、なるほどそういうことかと思うかもしれないが、その時にスピルバーグにおける「映画の力」とやらが、途方もないことが最大の魅力であり、問題であるかもしれない。

「まるで黄金」のようにサミーが撮ったスクールカーストで言うところのジョックな彼は、「俺の足が速いのは練習したからだ」とサミーに訴える。
彼は自己像との相違に反発したのではなく、あつらえられたように自身が映し出されたことに反発したのだ。
それは映画の持つ、運命的で神話的な「見た目(という力)」に対する反発だろう。
中心に据えられた者は価値のあるなにかになる。選ばれし者となる。
まるで自分自身が自分のものではないような、運命の作用する選ばれし者であるかのような漠然とした不安に彼は襲われたのだろう。

自分のもとを去り、アリゾナへ行った妻の写真を見つめる父親を色味の無い天井をバックに捉えた煽りのショットは中心を無くし、父親の姿は実態と影に分裂し、離人的な様相を呈している。
なにかを目撃した人が、盲目的に深い悲しみに捉えられる一瞬を、こんな風に撮れる力。
その実態に見える姿ですら光の痕跡でしかなく、それを同じく光の痕跡である影と左右に分裂したように同等に捉えることで、その人の存在すら危うくしてしまう。

このように少しあげただけでも、この映画が描く「映画の力」は非常に危険なものだ。
これを2時間以上かけてこんこんとやっている。
これはもう大変危険ななにかだと言わざるを得ない。
家族との出来事を描きながら、この「映画の力」が地響きのように轟いている、それが『フェイブルマンズ』だ。
あなたはスピルバーグプロパガンダ映画を撮ったらと考えたことはあるだろうか。
私はある。

『ドライブ・マイ・カー』の音声配信をアップしました。

この映画の印象について話しています。

 

『ドライブ・マイ・カー』誠実な物語は嘘のような顔をしている。

https://stand.fm/episodes/63dcae8815041fa66860dc3b

ただ共有するということ『ドライブ・マイ・カー』(2021)

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監督:濱口竜介

共有するとはどういうことか、そのことについてずっと考えているような映画だった。

家福(西島秀俊)は、音(霧島れいか)がSEX後に語る物語(語り終えた後、音は物語を忘れてしまう)を共有していると思っていた。それは形(脚本)にするまでは夫婦ふたりだけのもので、二人だけのつながりを表すものだと家福は思っていた。

ただこの夫婦は、約17年前(映画の始まった時点で)に4歳の娘を亡くしているのだから、本来なら二人のつながりを表すものは娘だったはずで、その代替としてこの物語はある。それは、この夫婦がそう捉えていたというわけではなく、物語の構造として、本来なら子供がいるだろうところに音が語る物語がある。

娘の法要後に車の中で家福と音が子供について話す場面がある。音は家福の気持ちを聞くが、家福は音の気持ちを尊重すると答える。多分、家福は子供を亡くしてから、自分の思うところを音に話していない。

そして家福は、音の不貞行為を知りながら、見て見ぬ振りをしている。

その理由について、良好な夫婦の関係を壊したくないと家福は言うが、本当はそのことに向き合うと、子供の死に向き合わざるを得なくなってしまうのが怖いのだ。そしてその本当のところを家福は自分自身にも分からないように覆い隠してしまっている。

音の不貞行為は、自傷行為だ。その根本には子供の死がある。

家福は音と二人で物語を共有していることを心の拠り所にしていた。でもそれは違った。音は関係を持った相手にも物語を語っていた。

SEXをすると子供が生まれるように、SEXをすると物語が生まれる。音は奔放なSEXをくり返すことによって、その度に亡くした子供(生まれるはずの子供)という喪失に向き合い、喪失を埋めるように物語を語る。

音は家福と物語を共有したいのではなく、この喪失を共有したい。

この物語に、雌が複数の雄と偽りの交配を繰り返すヤツメウナギが登場し、主人公の女子高生が「前世はヤツメウナギだった」と告げると、家福はそこに音の抱える喪失の片鱗を感じとり、物語を忘れたふりをする。

「話がある」と言った音の話が、不貞行為のことにしろ、別れ話にしろ、この夫婦にとって子供の話は避けては通れない。だから家福はあの日、すぐに家に帰ることができなかった。

そうやって、悲しみから目を逸らしている内に家福は音を失ってしまう。

ただ、たとえ音が突然死ななくても、長生きしたとしても、この夫婦の抱える問題は時間が解決するわけではない。

あの夜、遅くまで家福の帰りを待っていた音が待ちくたびれて寝てしまい、翌朝「昨夜はごめん。話ってなんだったの?」と家福が聞けば「たいしたことじゃないから、もういいよ」と音がこたえ、そんな風にしてずっと二人は同じように喪失を共有しないまま終わったかもしれない。

 

2年後

家福は取り返しのつかなかった人生のその後を生きている。

家福にその自覚はあるだろうか。多分ないだろう。彼は音の死後からワーニャを演じることができなくなっている。彼はワーニャのようには取り返しのつかなかった人生を認められない。だからワーニャのあけすけな後悔に自分を差し出すことができない。

音の不貞行為を目撃した時、家福は分裂した。もう一人の家福は姿見に映る鏡像となり、家福自身によって覆い隠されてしまった。

そのもう一人の自分は、もう一人のワーニャ、音の不倫相手である高槻耕史(岡田将生)として、家福の目の前に再び現れる。

高槻という人物は率直な感覚を口にし、刹那的な感情を行動原理としている。

高槻は家福に近づき音の話をしようとするが、分かり合えるとでも思っているのかと、家福は高槻を拒絶する(この場面には、経験にまつわる感情を避ける家福と、経験によって感情を募らせている家福の分裂も重ねられている)。

2人は同じ経験をしていても感情を共有することはできない。なぜだろうか。

不倫された夫と、その妻の不倫相手という感情的な反発があるからだろうか。高槻と家福は、故人とそもそもの関係性が違い、他人と身内という立場の違いがあるからだろうか。

いや、私たちが共有できるのは経験までで、そもそも感情は共有できないからだろうか。

家福の用いる独特なセリフ読みの稽古は、それを物語るように、そもそも感情は共有できないというところから出発しているように思える。

シナリオに空白がある。各々はその空白を埋めるのみ。空っぽの時間と空間に自身を差し出すのみ。

何度もセリフをくり返すことで、そこから意味・感情は漂白され、セリフにそれらが固定されることはない。そうやってくり返しても残るもの、もしくは、くり返された先に出てくるものが現れるという、ある種の純化が成されることで、普段の生活と変わらない即興に近い場を発現させることを目論んでいるのだろう。

演じる役やそのセリフをどう感じているか、その感情の共有はしない。そもそもできない。各々が舞台で出てくるものを発現させ合う。

ただ感情は共有できないかもしれないが、シナリオは共有できる。

同じように、ドライブも共有できる。

たとえ音の運転であっても快くは思っていなかった家福にとって、もしかしたら感情の共有ぐらい不可能だったかもしれない愛車の共有を渡利みさき(三浦透子)は可能にした。

それはひとえに、先述のセリフ読みの稽古でいうところの、車で眠る母の送迎という、くり返しによって残ったもの、もしくは、くり返された先に出てきたものによる。

もし音が生きていたら、家福は音にみさきをどう語っただろうか。

みさきが娘と同じ歳なこと。なぜ運転が上手いのか。彼女の過去や現在を、家福は音にどう語っただろうか。

多分、それは音の望んだ喪失の共有だったろうと私は思う。

もし家福がみさきとドライブを共にすることで、自身の抱える喪失とそれに伴う感情を認めることができたのなら、それは、いつも死んでしまった音に生前と同じように、日々の出来事を語り掛けていたからだろう。音だったらどう言うだろうと。

「もし僕が君の父親だったら、」そんな風にみさきの話に応える家福と、音も話しがしたかったと思う。

 

以下追記です。2023/02/02

みさきという人物は、家福の亡くなった娘と同じ歳で、視力に不安のある家福の替わりになるぐらい車の運転が上手く、彼女もまた取り返しのつかない過去に囚われているという、家福にとって嘘みたいに都合の良い存在かもしれない。

 

私は彼女をこう考えている。

そもそも人生に家福が迎えた2年後などない。人生は取り返しのつかないまま終わる。

けれどもし、何かが起こって、取り返しのつかなかった人生をせめて受け入れることができるのだとしたら、それはたとえばどんな物語になるのだろうか。

どんな物語なら、あるはずのない2年後を語れるのだろうか。

みさきという人物の設定がありえなければありえないほど、この2年後はありえなさを増す。存在しないはずの2年後を語るには、みさきの存在は果てしなく物語(フィクション)になっていく。

この映画は、初めから喪失(空白)を物語で埋めていた。

そして喪失の根本には死んだ娘がいる。死んだ娘が物語になり、更なる喪失を迎え、2年後に渡利みさきとして家福の前に現れたんだと。

 

ラストのシークエンスに家福の姿はない。

みさきはリラックスした様子で犬を連れてドライブをし、買い物をする。

家福にとってみさきの存在がありえないように、みさきにとってもまた、家福の存在はありえなかったのではないか。

父親の苗字が多い土地になんとなく留まる母子家庭で育ったみさきの前に、みさきと同じ歳の娘がいた男が、特技であるドライバーとして彼女を必要としており、彼もまた、取り返しのつかない過去に囚われている。

2年後の、ありえない家福の物語が終わり、そこからどれくらい経ったのだろうか、さらにありえないみさきの物語がはじまる。ありえない物語の先にはもっとありえない物語があるのだろう。

 

 

ドライブ空間は劇場空間の隠喩としても用いられます。そのことを表すように、2年後を描く冒頭が、死んだ女(音)の声が吹き込まれたカセットテープの音と、それに合わせてセリフを言う家福の声が、走る車を俯瞰でとらえたショットに重ねられています。

走る車を俯瞰でとらえたショット内空間から、聞こえるはずのない車内の音が聞こえ、その音がまるで車内であるかのように劇場内に響いているわけですから、劇場空間とドライブ空間を同一のものと捉える演出がされています。

 

この物語は、取り返しのつかなかった人生のその後を描いており、『雨月物語』(1953)や『叫』(2006)などの終わりから始まる物語という印象です。

雨月物語』も『叫』も、死んだ女の語りが、モノローグとしてスクリーンに映る空間ではなく劇場内に響いて終わります。

私は家福が『雨月物語』や『叫』の主人公のように、取り返しのつかない人生を自ら招いたとは思いませんが、ただ、家福自身が苦しいのなら、どうにもならなかったにせよ、なんとか生きていくためにどんなことができるか、そのことについてこの物語は模索しています。

 


喪失なのか空白なのかわからない時と場所があり、そこに誰かが意図せずとも身を差し出すことで、世界はつながる。

人はただそこにいるだけで何かをつなげているのかもしれないし、たとえ分かり合うことができなくても、ただそこにいて同じものを見るだけで、共有はできるということなのかもしれません。

音声配信します。

stand.fmにて本日21:00より音声配信します。

 

#1 映画『アカルイミライ』について考えたこと 夢編

https://stand.fm/episodes/63ca2714f3b001339a59de3f

#2 映画『アカルイミライ』について考えたこと 革命編

https://stand.fm/episodes/63ca42dbbe4bfda700390521

#3 映画『アカルイミライ』について考えたこと 雑感

https://stand.fm/episodes/63ca48dbce1670b2aedbfbb3

 

今年の目標達成しました。

なんとなく喋って、編集で間をつめました。

色々頑張るとハードルが上がるので音声クオリティは低いです。

映画は水面である。宮沢賢治の「やまなし」

宮沢賢治「やまなし」について

はじまりの文:小さな谷川の底を写した二枚の青い幻灯です。
おわりの文:私の幻灯はこれでおしまいであります。

話のはじまりとおわりに、幻灯(写真や絵)について書かれた文がありますが、物語には時間の経過があり、2つのシークエンスがつなげられています。
一枚ではなく、二枚あることで編集点があることや、そもそも無くても成立するように思われる、幻灯だと記すはじまりとおわりの文など「先生、つまりこれは映画でしょう」待ちなのではないかと勘繰りたくなるお話です。

「やまなし」に登場する謎の言葉「クラムボン」については様々な説があるそうです。
様々な説があるのならひとつぐらい勝手なことを言ってもいいだろうということでもないのですが、私は「クラムボン」が五月のシークエンスのみに出てくることや、蟹兄弟の様子から、「クラムボン」は当初かなり幼い弟蟹が泡につけた呼び名(造語)だろうと勝手に考えています。
クラムボン」は泡であり息でもあるのです。息は生命と結びつきます。弟蟹はまだそうした意味関連付けが不明瞭ながら、本能的に連続的にのぼり消えていく「クラムボン」が生命に関わる何かだと分かっています。
吐く息が泡となって目に見えるというのが、やはり谷川の底と地上の大きな違いだと思うのです。
十二月のシークエンスの冒頭のセリフは弟蟹の「やっぱり僕の泡は大きいね。」なのですが、この唐突な「やっぱり」は五月のシークエンスの謎言葉「クラムボン」にかかっていて、セリフで2つのシークエンスをつなげています。
泡であり息であるものを、かつて「クラムボン」と名付けて読んでいた幼い子供が大きくなり、それを「泡」と言うまでに成長したことが冒頭のセリフからうかがえます。

クラムボン」という曖昧な粒を見つめていた子供は、粒々の行く先の水面を見つめるようになり、時がたち、水面の向こうの存在に触れ、天体の光の中いま眠りにつこうとしている。
成長とともに世界が拡張されていく様を、泡として目に見える息を基調にし、谷川の底の蟹たちの日々の営みを通して描いています。

蟹の兄弟と父親は谷川の底から上を向いて、水面がまるでスクリーンであるかのように、そこに様々なものを見ます。
谷川の底は暗く、水面は明るいのです。
このシチュエーションは映画館に似ています。
暗いところで、観客はスクリーンを見つめている。そこに様々なものが映っては消えていく。
地上から水面へ何かが落ちると、それらは見えなくなります。水中という死角へと消えていきます。そのようにして私たちの死角へと消えていくものが谷川の底からは見えるのです。
私たちが水面と呼ぶものの裏側、水中から見上げる水面こそがスクリーンであり、暗闇という物理的に死角となる空間が映画館です。

映画は夢である。
映画は窓である。
映画は鏡である。
映画は水面である。
スピルバーグ黒沢清は結構全部当てはまる描写が頻出する印象です。これに「映画は寝物語である」が加わったらスピルバーグでしょうか。
カーペンターの『ゼイリブ』(1988)の眼鏡はどこに入るでしょうか。あれは箱眼鏡の一種のようなので窓&水面でしょうか。
黒沢清スピルバーグより夢成分が弱く、水面成分が強い監督です。観客は水中にいるのだから、すでに死んでいる可能性があります。