みんな映画になる

眠那影俄仁那琉

より正確に書くようにします(新年の抱負その2)

隠喩やメタファーという言葉を使用することに抵抗があるのですが、理由は黒沢清について書く際に「映画の中に現れる水面はスクリーンの暗喩である」というのが実は不正確であることに起因しています。
「水面はスクリーンのメタファーである」もそうですが、本当は「映画の中に現れる水面は原初のスクリーンである」が正しく言いたいことなのに、それが分かりにくいというのと、明暗で隔てられる窓ガラス(LOFTや降霊)や半透明の遮蔽物もスクリーンなわけですから、これらはなんと言うのが適切か?と考えていたら、ただただ力が及ばないために煩雑になるだけのような気がして思っているところをそのまま正確に文章化できないでいます。
黒沢清は映画のスクリーンをハーフミラーと同様の機能を持ったものと考えている」みたいな書き方でなんとかしのごうとしていましたが、『回路』において「開かずの間」の起源をカメラ・オブスクラと呼ばれる自然発生した映画館みたいなものとして描いたことをよくよく考えると、映画館自体、ほとんど自然物を人工化した装置であり、太古より存在し続けていたなにかを1895年にリュミエール兄弟が形にして見せたのが映画かもしれず、そうするとスクリーンというものを何か固定の概念のようにして、その暗喩である・メタファーであると書くのは違うのではないかという思いを強くしているところです。

だから逆なんでしょうね。
スクリーンは水面のメタファーであり、明暗で隔てられる窓ガラスや半透明の遮蔽物のメタファーなんですよね。
そしてこのように正確に書こうとすると、どこにも概念など無いことに気づきます。
水面にも明暗で隔てられる窓ガラスや半透明の遮蔽物にも概念などない、ただそれを見つめるしかないなんて、まるで『散歩する侵略者』のラストみたいです。

あけましておめでとうございます

映画について書いているのは副業にできないのかと聞かれました。noteで小銭稼ぐようなのじゃなくてなにかないのかと。
どういうのがお金になりそうか聞かれたので、配信作品の網羅的な紹介だろうと答えたら、ならそれをこれからは音声SNSでやろうよと言われたのですが、書いているのは考察系だからと答えたら、なら対話形式でやろうよと言われてそのままにしていたのですが、今日スクワットをしていて、ふと今なんか聞けたらいいんだろうなと思ったので音声配信を今年の目標にします。

Twitterアカウントを新設しましたが、Search Suggestion Banをくらっているので検索で出てきません。もう鍵アカだと思って今は呟いています。バンが解除されたら、このブログの記事をツイッター仕様にして呟こうと思います。

ひとつの形をもたない乙女たち JEUNES FILLES SANS UNIFORME

ゴダール『新ドイツ零年』(1991)には「ひとつの形をもたない乙女たちJEUNES FILLES SANS UNIFORME」というものが出てくると高木繁光氏の論文に書いてある。
「ひとつの形をもたない乙女たちJEUNES FILLES SANS UNIFORME」は、無名であるがゆえに、すべての民衆でありうる者、反復的に歴史上に現れてはまた去る複数的主体、幽霊的な主体の複数性において、ある時代ある場所に現れ、また逃れ去る等と書かれている。
これは黒沢清アカルイミライ』(2003)のアカクラゲの解釈と一致する。

とあるツイート

最近この方と同じようなことを考えていたのですが、考えた末にみうらじゅん的手法に思い至って、みうらじゅんはちがうし、できないしと思っています。

 

『CURE』の考察、断片たち

監督:黒沢清

いつまで考えているんだと思われているかもしれませんが、『CURE』についてまた書きたいなと思い、過去に書いていたらしい『CURE』につての断片的な文章やメモを見つけたのでUPします。
私は映画を簡潔に書きたくないので、これはその抵抗の一環です。
今の自分の理解とは異なることも書いていますが、私の考えの一貫性などはどうでもよいのです。

その一

『CURE』とはまったく関係のない文章を読んでいて、呪物化という言葉に目が止まり、不意にこれだという思いに至ったため、久しぶりに『CURE』について書きます。
高部の妻文江(中川安奈)の最期に映し出された様子をいったいどのように言語化するのが適切かずっと分からなかったのですが、あれは呪物化されたとするのが適切だろうという思いに至り、これだとなったわけです。
あの妻の最期の様子に関して、「高部が殺したか否か」といった考察を目にするのですが、一言で殺したとしてしまうには、あまりにも特異な様子です。血を流して倒れている映像があそこで差し込まれていたら「高部が殺したか否か」も分かるのですが、謎病院で大きな台車のようなものに直立した格好で胸元を×に切られた状態でくくりつけられて移動している?様子をただ「殺された」としてしまうと、あの描写から見える多くのものが抜け落ちてしまいます。
そして、言い表す言葉があると見えてくるものがあり、それを探していた自覚はなかったのですが、呪物化という言葉を目にして急にそこに思い至ったのです。
ただ呪物化という言葉を、民俗学だか文化人類学だかでどのような意味合いで使われているのか調べようとしていたところ、これまた『資本論』(カール・マルクス著)の中に呪物化という言葉が出てくるという文章に目が止まり、

その二

・「超人」ヴィジョン:ニーチェという問題 宮原浩二郎
ゲーテ 親和力 ベンヤミン批評
・万華鏡の破砕のあとに ベンヤミンによる永劫回帰弁証法的イメージ
・メシア論
・∞
・映画の構造 ループしている
・間宮は解放ではなく、個人が内面化した規範を強めている
ツァラトゥストラ 邪教
・妻の呪物化 猿の呪物化 猿は妻のメタファーか
・映画という永劫回帰 高部は「超人」に
・間宮はニヒリストかテロリストか
・ファミレスの場面は全ての後か、前か
・全部思い出したか、なら終わりだ。全部思い出す←この映画を全部思い出す。なら死ぬのは分かっているな、の意味。その後間宮の無限大ジェスチャー永劫回帰の意味。
・忘却し、繰り返される映画 高部は最後忘却したのか。
マックス・ヴェーバー「カリスマ」

要確認
・ウェイトレスの殺害は事件は、冒頭のホワイトボードになかったか?
・妻の文江はXに切られていたか。よく見る。彼女の死体が全殺人のイメージなら、あの映画の冒頭は彼女の死体が映ったところ。もしくは潜在的なイメージとして映画に共有されている。

その三

ずっと『CURE』(1997年)の軌道上にいながら、衛星のようにぐるぐると周回を続けるばかりで肝心なところをいつもつかみ損ねている感覚があったが、とある文章の中の、不意に目にとまった単語が『CURE』と結びつき、その結び目をほどこうとしているうちに『CURE』の核心とも思える数々の事物についても見えてきたので、一度頭の中を整理するつもりで書いておく。

間宮はなにをしているのか
『CURE』の考察や解説とされる記事を読むと、かなりの確率で登場人物が抱えるストレスを催眠術的なものを用いて間宮が解放したために殺人が起こるとしているものに出くわすが、本当にそうだろうか。
個人的な感覚として、ストレスが解放されたらストレス解消のための行動(『CURE』においては殺人)は起こさないと思うし、医者の宮島(洞口依子)に対する催眠行為の前段階的な描写に見られる「女のくせに」のような煽りともとれる間宮の口ぶりからは、逆にストレスを喚起させているかのような印象を受ける。ストレスを喚起させているというか、正確には、そもそも『CURE』でストレスとして描かれているものは社会規範を内面化したために生じているので、間宮は社会規範の内面化を強化しているように見える。
この社会規範の内面化が行き過ぎたために起こってしまった事件を私たちはニュースで目にすることがあるが、『CURE』で発生している事件は、単純に社会規範の内面化が意図的に強化されて一時的に今までは受け流せていた事柄に我慢ができなくなり、殺害するに至ったというわけではないようだ。落ち着いているように見える殺害時の犯人の様子からもそれはうかがえるだろう。

過去の『CURE』の記事を読めるようにしました。

10代の頃、好きだった映画

フレディ・M・ムーラー「山の焚火」

ジョン・ダイガン「キャメロット・ガーデンの少女」

パトリス・ルコント「タンデム」

北野武ソナチネ」「キッズ・リターン

アッバス・キアロスタミ「友達のうちはどこ?」

ケン・ローチ「ケス」

バズ・ラーマンダンシング・ヒーロー

高橋陽一郎「水の中の八月」

塚本晋也悪夢探偵2」

フランク・ヴァン・パッセル「小便小僧の恋物語