みんな映画になる

眠那影俄仁那琉

『反撥』(1965年)を見ました。

監督:ロマン・ポランスキー

この映画に影響を受けている映画が色々思い浮かびました。

恋人と上手くいかず、仕事中に控室に籠って怒りながら泣く同僚に、それらしい言葉を掛けてみるもその言葉は同僚に響かず、仕事に戻るよう呼び出された同僚が去った後、ボンヤリと腰を掛けているキャロルの向かいに無造作に置かれた椅子に、窓からみるみる光が差し、椅子が明るく照らされたことでゴミが目につき、気になったキャロルが神経質な手つきで座面を払う場面が印象的でした。
シチュエーションと行動のギャップが表されている場面です。

こういう内容で、子供時代の写真が度々映されるところは、『イット・フォローズ』(2014年)にその影響がうかがえます。ただ、『イット・フォローズ』は性愛のトラウマをうかがわせる演出として過去写真を用いていたのに対し、『反撥』はキャロルに抱くギャップを明らかにするために過去写真が用いられているようです。

キャロルの見た目が、22歳のカトリーヌ・ドヌーヴでなければ、キャロルのシチュエーションと行動のギャップに違和感はないでしょう。
例えば、キャロルがあの写真に映る10歳前後の少女だとしたら、姉の旅行について姉がうんざりするぐらいたずねたり、身だしなみを整える行為がブラッシング程度だったり、コーヒーにたっぷり砂糖を入れたり、姉が居ないと食事の用意もままならなかったり、頼まれごとを忘れたり、チャップリンの映画でバカ笑いすることに違和感はないのかもしれません。

たしかに彼女は働いていて、美しい見た目の大人の女性に見えます。
ただ行動にギャップがある。それは10歳前後の少女のような振る舞いに見えます。
彼女の自己像や、これぐらいの年齢の女性がどの程度性愛を受容しているものなのかは分かりませんが、彼女自身も自身を取り巻くシチュエーションにギャップを感じているようです。
このギャップが彼女を蝕んだのは確かですが、そのきっかけとなったのは、おそらく街中を歩いている時に、道路工事作業員の男にかけられた「姉ちゃん、一発やらないか」の言葉でしょう。
これは私の考え方ですが、ぎりぎりまで水が入ったコップに一滴の水を入れるとザッと水が溢れます。何かを決壊させるには何気ない一押しで充分なのだろうと思うのです。
夜な夜な聞こえる姉の嬌声より、街中での不意の一言の方が、彼女の精神を決壊させるのに相応しいと思えます。

ただ、この映画は、精神的に幼いキャロルが性愛を受け入れられずに精神を崩壊させていく様を描いているわけではありません。
そのように描いているように見えて、なんとなく冷静になってみると、キャロルが10歳前後だろうが、22歳ぐらいだろうが、ここに出てくる男の行動に違いは無かったかもしれないということです。
10歳前後の少女に卑猥な声かけをしたり、真剣にくどいたり、無防備な姿に欲情したかもしれないということです。
ずっと性的な扱いに晒されて、ここへきてかけられた不意の一言で耐えていたものがとうとう決壊したかのようです。

全ての道は黒沢清に通ず「得体の知れない相手に感情があるかもしれない」

リドリー・スコット監督の『エイリアン』(1979年)に好きな場面がありまして、逃げるリプリー(シガーニー・ウィーバー)を通路の先でエイリアンが静かに待ち伏せしているところなのですが、得体の知れない相手に知性があるかもしれない恐ろしさの演出が、初期リドリー・スコットフィルム・ノワール的モノトーンの画面と相まってフリッツ・ラング『M』(1931年)のようなサイコスリラー味を帯びています。

 

この「得体の知れない相手に知性があるかもしれない」という恐ろしさについて漠然と考えている時に以下の論文を読んで、私は「大航海時代」をすっかり忘れていたなと気づかされました。

 

オンライン映画学術批評誌CineMagazineNet!№3(1999年)掲載の論文「怪物と航海――『エイリアン』論」今井隆介

http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN3/text2.html

 

『エイリアン』についての理解が私と論者では異なるのですが、「第1章 『エイリアン』はいかに解釈されてきたか」における『エイリアン』にまつわる「フロイト学派的な性をめぐる分析」批判や、「精神分析ポスト構造主義的分析では、やはり理論が優先されて、作品の部分的細部が理論に奉仕するためにだけ取り上げられた結果、極論に走りがち」という論者の見解には大いに頷けます。

しかし論者は、「第2章 恐ろしい「他者」との遭遇」において、未開の地を航海する者たちの逸話『ハノニスの航海』や、「珍奇な動物の捕獲という『エイリアン』のテーマ」から類似の物語として『キングコング』の場面に言及しながら、その状況を「「他者」との遭遇」だと結論づけています。

確かに、『エイリアン』は航海時代における「他者」との遭遇」による恐怖を描き出しています。

ただ、私はその後の『プロメテウス』(2012年)や『エイリアン:コヴェナント』(2017年)を見たというアドバンテージがあるものの、それを差し引いても航海によって遭遇した「他者」に対する恐怖とジェンダーの問題は切り離せないと考えています。

大航海時代」の航海日誌やその後のレポートなどにより、「他者」との遭遇」による恐怖が成文化されたことで、人類(植民地側)は恐怖を共有した。あるいは、未知の旅は、未知の恐怖との遭遇も伴っていたのでしょうか。ここで航海者たちが感じた恐怖は、ずっと昔から女性が抱いてきた恐怖です。

なので、リプリーが戦えたのは「エイリアン」との遭遇で湧き起こる恐怖が既知のものだったからに他なりません。

 

 

これを書いていてふと、『旅のおわり 世界のはじまり』(2019年)が『エイリアン』に似ていることに気がつきました。そもそもプロットが似ています。あの猫を追いかける展開はいったいどこから来ているんだと思っていたのですが『エイリアン』な気がします。

『エイリアン』との比較評論みたいなのがあるんじゃないか(そんなものは無かった!)と検索してみたら黒沢清のインタビュー記事がヒットしました。

 

PINTSCOPE 黒沢清監督 インタビュー

「女も男も、不必要にニコニコしなくていい。だってそれは芯の強さの表れなのだから」

https://www.pintscope.com/interview/kiyoshi-kurosawa/

 

リプリーについて語っていますね。猫にも言及しています。

ここで是非ともインタビュアーの方には「葉子が猫を追いかける展開は『エイリアン』からきているんですね」と断定的に問いかけていただきたかったです。

 

『旅のおわり 世界のはじまり』では、葉子の存在がリプリーであり異邦人「エイリアン」でもあり、旅により「他者」との遭遇」を経験する葉子を通して、葉子という「他者」に感情があるかもしれないと、私たちが気づくことではじまる世界を描き出しています。

『ドッペルゲンガー』を見た後のメモ①

監督:黒沢清

以下は『ドッペルゲンガー』を反芻しながらのとりとめのないメモです。

早崎が最初に自身のドッペルゲンガーに遭遇する喫茶店の場面の切り返しが変だった。
夕飯を食べていてナイフを床に落とし、それを拾うために屈んだことで、向こうの席に何かを見つけた様子の早崎から、向こうの席を映すカットに切り変わるが、早崎の視点ショット(に限りなく近いショット)になるかと思いきや、早崎の背面越しに向こうの席が見えるショットになっていた。いつもこういう違和感にどういう意図があるのか探るところから考えていく。
劇場での鑑賞を想像すると、自分の前の席に座っている人の背面越しにスクリーンを見ていて、それを模したようなショットにも思える。
だいたい早崎の開発している医療用人工人体からして椅子。
『降霊』に出てきたドッペルゲンガーは椅子に座っていた。
とりあえず椅子を暫定的に映画館の椅子、または観客の暗喩としておく。

由佳(永作博美)の弟は時系列的にドッペルゲンガーなのか幽霊なのか微妙。
『回路』を見るに、黒沢清の撮る幽霊は触れる。触れることをもってして幽霊とドッペルゲンガーを区別することはできない。
由佳の弟は、最終的に早崎のドッペルゲンガーに葬られたようだが、真偽のほどははっきりしない(由佳には、弟はアメリカへ行ったと言ってある)。幽霊なら殺されない、ドッペルゲンガーなら殺されるのかどうかはわからない。
映画冒頭、ホームセンターの駐車場に停めている車のルームミラー越しに弟は映されている。遠ざかる弟に由佳は話しかけるが、弟は聞こえているようだが返事をしない。一度由佳に向って手を払うようなしぐさをした時、ルームミラー越しではない弟の姿が映されていたような(これは弟の着ていた英字Tシャツの文字の映り方で確認できないか再度確認)。
その後車で家に帰ると、車より先に家に帰っていてTVで台風のニュースを見ている弟に由佳は驚く。弟に声を掛けた後、夕飯を作っていたら警察から電話がかかり、弟さんが自殺されましたとの連絡が入るので、ホームセンターで会った弟が自殺直前の本当の弟の姿で、家にいるのが弟のドッペルゲンガーなんだろうけど、これだと自殺した弟の幽霊が家にいるとの違いがわからない。
助手の高野(佐藤仁美)は、早崎に由佳の弟がドッペルゲンガーに会ったから自殺したかのように話すが、弟はドッペルゲンガーにどの時点で会ったのか。会ってない。

助手の高野が言うように、ドッペルゲンガーに会うと自殺する(死ぬではなく自殺すると言っている)のだとすると、最終的にこの映画で自殺するのは人工人体の椅子。
由佳の弟のドッペルゲンガーが出現→弟の自殺、早崎のドッペルゲンガーが出現→人工人体の椅子の自殺とこうなる。これはどういう法則か。

あとは、早崎が君島を川の下に突き落とした時や、階段を転がる玉が止まった時、人工人体が崖から落ちた時など、帰結点で聞こえそうな音がしない。見えないところの音をつけていない。主に映画後半部だが、帰結点の音が無いことで、文章でいうところの句読点の消失のような印象を受ける。
椅子の奪い合いは『カリスマ』の後半に似ている。
画面分割の意図は全然わからない。

『ドッペルゲンガー』を忘れていませんか。

ネットで『ドッペルゲンガー』(黒沢清監督2003年)を検索したらコメディ/ファンタジーに分類されてたんですが、『パディントン』と同ジャンルなんですか?

モダンラブ・東京『彼を信じていた十三日間』の主演キャストが永作博美さんとユースケ・サンタマリアさんだったので、久しぶりに『ドッペルゲンガー』に言及している人を見かけたりして、忘れていたわけではないのですが、公開当時に見て以降、改めて見直していなかったなと思い、少し気にかけていたら、画面分割で切り返しみたいなことをやってたような?とか、『降霊』にも役所広司ドッペルゲンガーいたよなとか気になりだして、もうちゃんと見直したほうがいいんじゃないかと思いソフトを購入しました。
まだ届いていません。

公開当時「CURE撮った人の映画なんだから」と自分を励ましながら見た記憶があり、本当にサッパリわからなかったのですが、今ならいけそうな気がします。

最近書くのが気晴らしになっているので、『ドッペルゲンガー』については、メモのようなものを書いていって最終的にまとめようと思っています。

好きな映画

スピルバーグ 未知との遭遇ロストワールド 、戦火の馬

トビー・フーパー 悪魔のいけにえ

フェリーニ カサノバ

ドライヤー 吸血鬼

ベルイマン 沈黙

イーストウッド ハドソン川の奇跡

カーペンター マウス・オブ・マッドネス、光る眼

ソクーロフ マザー・サン

ヒッチコック めまい

リドリー・スコット エイリアン

ポランスキー ナインスゲート、ゴーストライター

杉井ギサブロー 銀河鉄道の夜

 

とりあえず今思いついたものをあげました。

好きな監督はカーペンターとポランスキーです。

黒沢清の黄色についてメモ

黒沢清映画の黄色についてです。
ツイッターで、モダンラブ・東京『彼を信じていた十三日間』の黄色(壁・マグカップ)と『回路』の黄色(ミチの部屋・車)の共通点をあげていた人がいて確かにと思ったのですが、じゃあその黄色ってどういう意味があるんだろうと考えています。

その少し前に、『彼を信じていた十三日間』と宮沢賢治の「やまなし」を並べて考えていたので(最後の黄色いマグカップがプカッと浮いてくるのと、やまなしがトブンと川に落ちてくるイメージに近いものを感じた)、宮沢賢治の作品に登場する色の研究から黄色の解釈を引っ張ってこれないか色々見ていて、こういうのを見つけました。

(引用元:九州大学学術情報リポジトリ「「黄いろのトマト」について」黄, 英)
ある年、実る季節になると、赤い実が出来るはずのレッドチェリーの中の一本に黄色の実が出来た。ペムペルとネリはそれがただの変種であることを知る由もなく、「ギザギザの青黒い葉の問から、まばゆい」くらい光るのを見て、それを「黄金」だと思いこんだ。
大塚常樹は「賢治は詩の『亜細亜学者の散策』の中で、黄金には、資本主義的ないわゆるお金と、 仏様の身体の色に使われる聖なる黄金(古金)の二つあると述べています。(中略)つまるところ『黄色のトマト』もこの二つの黄金の対比を書いた作品」だと指摘した。

賢治の「黄いろのトマト」の黄色から「資本主義的ないわゆるお金」の解釈は文脈的に理解できますが、「仏様の身体の色に使われる聖なる黄金(古金)」は、ちょっとよくわからないですね。文芸的だなということがわかるぐらい。
でも黄色=黄金はありそうです。いわゆる光。映像における光の暗喩となるものは何か考えたら黄色が一番ありそうです。

黒沢清の切り返しショットについてのメモ

『岸辺の旅』(2015年)から、急にどうしたんだと戸惑うぐらいの頻度で切り返しショットを多用している黒沢監督です。
ずっと気になってはいたのですが、ザックリと、黒沢清はスクリーン(あるいは画面)をハーフミラー(あるいは水)の機能を持ったものと考えているのだから、切り返しで登場人物はいわゆる鏡側を見ているはずだ、ぐらいの理解に留めておいたのですが、『彼を信じていた十三日間』がまさしくその通りな表現だったので、少し考えが前に進みました。

『彼を信じていた十三日間』の嵐の前の焚火を挟んだ切り返しショットでは、洋二の存在が桃子の希望になるのだから、彼女はあんな風に必死に説得するように自分にも言い聞かせてるわけなんだろうと合点しました。相対しているのは洋二であり自分でもあるという両義的な表現ということです。
スクリーン(あるいは画面)の鏡面という機能だけを抜き取って考えるのは間違いで、ガラス面側あってのスクリーンの鏡面側ということをよくよく考えなくてはいけません。
洋二はスクリーンの鏡面側そのものになったかのようなラストの描写ですが、彼はスクリーンの鏡面側そのものだったという、昔話の変身譚でいうところの正体が判明する描写ともいえるわけです。

自分で書いててなんですけど、変身譚として『彼を信じていた十三日間』を書くのも面白そうですね。変身譚は日本と西欧で変身する者の性別の逆転が顕著な気がするので、そこらへんもふまえてなんか書けそうですよね。

話が逸れました。
そもそもスクリーンをハーフミラー(あるいは水)の機能を持ったものと黒沢清が考えているとはどういうことか説明をしないといけないのだと思うのですが、この説明をしようとすると途方もなく長くなります。
黒沢清は『黒沢清、21世紀の映画を語る』の中で、水の中を死角と言っています。地上から見えるのは表面ばかりで、確かに水中はすぐそこにあっても見えません。
全編水中を思わせる描写の『叫』(2007年)や、『アカルイミライ』(2003年)のクラゲ、
水中からミイラが引きあげられる『LOFT』(2006年)、滝つぼの向こうからやって来る『岸辺の旅』(2015年)など、水にまつわる黒沢作品は枚挙にいとまがないわけですが、そうやって水の中が見えるなり水の中から出てくるなりして描かれるものとは社会の死角に存在するものです。水のように当たり前に私たちの世界にありながら、彼らは水面のようなものに阻まれて水中のような死角に存在しています。
なぜこのようなことが起きるかというと、彼らがいる場所が暗いからです。
だから、彼らのいるところより暗い場所(劇場)で、そこに水面と同じ機能を持つ枠(スクリーン)を備えれば見る側と見られる側の逆転が起こり、こちらかあちらを見ることができると黒沢清は考えているのだと思っています。
そのような存在を単なる好奇心にしろ、怖いもの見たさにしろ、何か別の理由にしろ、見ようとし、見えるようにするのが映画なんだと黒沢清の映画を見ていると思います。

『彼を信じていた十三日間』で桃子の語る「同じですよね」という言葉は、鏡面に映っていたものが水中のものなんだという気づきでもあるのだと思います。
こちらでもあちらでもない「同じですよね」ということ。そしてそれは、切り返しショットにより、目の前にあるし、あなたでもあるということです。



「全編水中を思わせる描写の『叫』(2007年)」では、あまりに乱暴なので過去の『叫』記事を再アップしました。