映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『A.I.』(2001年)について

監督:スティーヴン・スピルバーグ


3千年紀の始まりに公開された、母の愛を求める少年型ロボットの冒険物語について、私はまだ何も理解していない。
この映画は、「ピノキオ」がストーリーの下敷きになっていると言われているが、それがカルロ・コッローディ著『ピノッキオの冒険』(1883年)なのか、ディズニー映画『ピノキオ』(1940年)なのかも分からない。なんとなくピノキオっぽい話だとしても、映画冒頭に登場する童話が『ロビンフッドの冒険』なのは、どういうわけなのだろうか。


この映画の何が分かって何が分からないのかについて、一度整理をしておきたいとずっと思っていた。書いたら考えるし、それで少しは整理できると思う。

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まず、この映画の冒頭と終盤と最後に、なぜスペシャリスト(2000年後に出てくる半透明の宇宙人みたいな進化したロボット)のナレーションが入っているのかについて書いておく。
映画終盤の2000年後の未来で、スペシャリストが氷の地表を掘り進めてデイビッドを発掘し、デイビッドが保持する記憶を人類の遺産として収集していることから、このナレーションの意味は、発掘映像を元にスペシャリストがディレクションし、人類に関する映像資料として製作されたものであると考えることが出来るだろう。
この映画は、スペシャリストがディレクションした2000年前の過去の物語なのである。
この物語は、スペシャリストのいる時代から語られているので、人間が登場する時代の年代は不明である。発掘されたデイビッドを起点に2000年という時間の経過だけが明確な、考古学的時間表現が成されている。
昔々、Once upon a timeに相当する 2000年前の昔、温暖化が進み、地表が減少し、人口調整が成され、資源を必要としないロボットが活躍した時代の物語が語られている。


人の夢想から生まれた虚構はかつて人々に消費され、人々が消え去った遥か未来にただ一体が残される。その虚構が人類の記憶を保持する資料的価値を持った存在となる。しかし、その虚構は価値ある存在などではなく、ただ一人に愛されることを望む。

この、「人の夢想から生まれた虚構であり記録媒体」として描かれるデイビッドが、私には映画に思えて仕様が無い。
何と言っても、デイビッドの最初の記憶が企業ロゴというのが映画らしい。映画本編前には、必ず企業ロゴが入る。
他にもデイビッドは、映画のように需要を見込んで供給されようとしている。そして各劇場に配給されるフィルムのように、大量の複製が製造される。また、ほうれん草を食べて溶けるデイビッドの顔は、映画フィルムが映写機のランプ熱で溶ける様に良く似ている。調整された湿温度で数百年の保存が可能である映画フィルムなら、冷凍状態で2000年ぐらいの保存が可能なのかもしれない。

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このようなデイビッドの特性を見ると、彼は映画というより、映画フィルムとして描かれているように思える。だとすると、固有の形態をそれぞれ持つロボットは、目視で識別する事が出来る映画フィルムという謂わばアナログ記録媒体で、同じ形態で記憶を共有するスペシャリストは、デジタル記録媒体なのかもしれない。
彼らが本質的には同じ、映画を記録する媒体であることを示すかのように、デイビッド登場場面における、縦長のスクリーンのような四角い扉の逆光の中を進むデイビッドのシルエットは、スペシャリストの形態と酷似している。

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デイビッドや、その他のロボットたちが映画フィルムだと思われる描写はいたるところにある。資料でも廃棄物でもない映画フィルムは、ジゴロ・ジョーの左胸にあるようなシリアルナンバーで管理され、各劇場に送られ上映(使用)される。
管理者不明のロボット(ジゴロ・ジョー)や、一本の映画フィルムとして繋がっていない不完全なもの(継ぎ接ぎのロボットや欠損したロボット)、古すぎて需要の無いもの(旧型のロボット)などは廃棄される運命にある。
そうしたロボットたちは森に潜んでいる。森の空き地に廃棄物が投棄されると、それらは一斉に集まり、捨てられた部品を漁り、欠損したり動かなくなった部品に代わり使えるものがないか物色する。そして、ロボットの破壊を見世物にするジャンク・フェアの開催者の捕獲から身を潜めている。
この、ジャンク・フェアの主催者であるジョンソン=ジョンソン卿は、光る月の気球に乗り、気球に設置されたモニターを見ながら、メガホンでロボット捕獲の指示を出す。地上でロボットを追い掛けるバイクは赤色と青色に光り、ロボットを捕獲する磁石は緑色に光っている。さながらジョンソン=ジョンソン卿は、虚構を映し出す映画フィルムに赤・青・緑(光の三原色)の光を当て、それらを観客に見せつける映画監督のようである。

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人が物のように死ぬ映画や、面白おかしく頭や腕が吹き飛んだり、突飛な死に方を見世物にしている映画はある。そこで傷つき破壊されるのは、それら虚構の存在であり、そこにある痛みや死は、見せ掛けであって本当ではない。虚構だからこそ痛みや死を面白おかしく見せることができるわけだが、ジャンク・フェアのシークエンスのラストでは、デイビッドのような、とびきり愛情のこもった、この世に2つとない特別な虚構を、虚構であるという理由で、残酷に扱うことに抵抗を示す人々の様子が描かれている。



とびきりの愛情を込めて、亡くした息子そっくりにデイビッドを製造したホビー教授もまた映画監督のようである。
息子を亡くした悲しみを、普遍的な人間の悲しみと捉え、そこに商機を見出し、デイビッドの複製を大量に製造し改良を重ねている。「ダーリン」と名付けられた少女型ロボットというバージョン違いも生み出している。このようなホビー教授の振る舞いは、ロボット製造会社の開発者というより、同じモチーフを繰り返し描く映画監督に似ている。

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この映画は一見、母の愛を求める少年型ロボットの冒険物語を描きながら、個別の物としての映画フィルムの運命や可能性について描いているのだろうか。
そう考えてみると、すぐにでも上記の解釈だけでは説明出来ないショットの数々が頭に浮かぶ。
例えば、映画冒頭のシークエンスの最後で、女性型ロボットは化粧をしている。その次のショットで、ヘンリーとモニカ夫妻が車に乗って登場する。この時、モニカは車中で化粧をしている。なぜショットを跨いで、女性型ロボットとモニカが化粧で繋がれているのか。
壁面に童話の絵が描かれている施設で低温睡眠するマーティンと、童話がモチーフの遊園地で凍りつき、機能休止するデイビッドの符合は何を意味するのか。またこの時、マーティンの眠る低温睡眠室の天井は、一本の柱を中心に円形の放射線状に骨組みが張られていて、海中で凍るデイビッドの乗るヘリコプターには、これまた円形の放射線状である観覧車の骨組みが覆いかぶさっている。これらの形状は、映画フィルムのリールによく似ている。

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他にもある。それらをいちいち書いていたらきりがないので、まずは、現代の医療では治せない疾患があり、未来の医療に希望を託して低温睡眠状態にあるマーティンに、モニカが「ロビンフッドの冒険」を読み聞かせる場面について考えてみたい。



マーティンが眠るカプセル内部に音声を伝える機器を、モニカは慣れた手付きでカプセルに装着する。そして折り目のついたページを開き、本を読み始める。本は「ロビンフッドの冒険」。モニカは、文中の「ロビン・フッド」と書かれた箇所を「マーティン」と読み替えている。
ロビン・フッドは、中世イングランドの伝説上の義賊、英雄視されたアウトローである。シャーウッドと呼ばれる、コモン・ロー(神の法)の埒外の森を住処にしている。中世においてアウトローとは、「市民としての死」の宣告を受けた者であり、市民に狩られる対象であった。法の埒外にいる者を狩ることは罪では無く、市民はアウトローを見つけ次第、狩ってもよいとされていたのだ。
この映画において、生まれながらに「市民としての死」の宣告を受け、神の法の埒外の森に置き去りにされ、森を彷徨い、人間に狩られるアウトローは、「ロビンフッド」に読み替えられたマーティンではなく、ロボットのデイビッドである。
スピルバーグ監督映画には、世間一般でいうところの乱暴者としてのアウトローでは無く、いつもこの、「市民としての死」の宣告を受けた、法の埒外にいるアウトローが出てくる。
宇宙人も恐竜もナチス党政権下のユダヤ人も未来の犯罪者も空港で国籍を失う者も戦渦の馬も、皆アウトローである。

スピルバーグはホビー教授のように、アウトローを繰り返し描く。手を加えながら。バージョン違いを生み出しながら。ホビー教授にとってのそれは、デイビッドである。そして、スピルバーグにとってのそれは、この映画でロビン・フッドに読み替えられた、マーティンなのではないかと思う。
どう見ても、アウトローとして描かれているのはデイビッドであるにもかかわらず、マーティンがスピルバーグの描くアウトローとはどういうことか。
モニカがマーティンに読み聞かせた、ロビン・フッドとデイビッドの符合や、低温睡眠するマーティンとデイビッドの符合から、その理由を考えてみたい。



マーティンは、不治の病に冒され、眠る子供として登場する。彼の病が治療出来るのは、いつか分からない未来においてである。モニカは、マーティンが眠る施設に到着するなり音声装置を睡眠カプセルに装着し、折り目の付いた本を広げ、おもむろに本の読み聞かせを始める。彼女の様子を見るに、もう何度も彼女はこの行為を繰り返している。
そしてマーティンは、回転するリールのような天井の下で、童話の絵が描かれた壁面に囲まれながら、童話を聞いている。
この時、マーティンはどんな夢を見ているのだろうか。
きっと彼の夢には、唯一の外部情報であると思われる、モニカが読み聞かせる童話からの影響があるだろう。
そして、病に冒された男の子は、もちろん健康になりたいだろう。
もし病気の男の子が、健康体をロボットのような完璧な身体であることだと解釈し、童話のような夢を見ていたら、それはきっと、デイビッドの冒険物語にとても近いものになるのではないだろうか。

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マーティンは夢の中で、ロビンフッドになり、ピノキオの運命を辿ったのだろうか。

人間もロボットも夢の中の虚構だから、モニカと女性型ロボットは、同一のものであるかのように化粧で繋がれるのだろうか。デイビッドは、鏡やステンレスに反射した像(虚構の像)として頻繁に映し出されるが、モニカやヘンリーもまた反射した像となり、スクリーンに映し出されている。



この映画が公開された時、デイビッド役のハーレイ・ジョエル・オスメントの天才子役ぶりが話題になった。ロボット役だから、彼は瞬きをしないで演技をしている、と言われていた。
確かにデイビッドは、生理現象としての瞬きをしない。それは、ロボットだからなのだろうか。昔からある、子供向けの人形だって瞬きをするのに、人間そっくりに作られたロボットが瞬きをしないものなのだろうか。瞬きだけじゃない、デイビッドは、眠る振りさえしない。
とにかくデイビッドは、目を瞑らない。
この不自然なデイビッドの設定は、デイビッドがマーティンという眠る少年(目を閉じた少年)と対照の関係であることを示していると考えられないだろうか。


実は、デイビッドは一度だけ瞬きをする。それは、2000年後のシークエンスの途中にある。真っ白い画面に、デイビッドの二つの瞳だけが浮かび、その瞳が一度だけ瞬くのだ。
この時、マーティンは果てしなく長い眠りから目覚める。
目覚めた後のシークエンスは、映像の質感がそれまでとは変わり、少しざらついていて、色味が濃くなっている。かつての家で目覚めたデイビッド(マーティン)が、名前を呼ぶ声の方へ行くと、そこにはブルー・フェアリーがいる。ブルー・フェアリーがいるということは、この場面は、スペシャリストが作り出した仮想現実のような場所なのだろう。ブルー・フェアリーに、デイビッドは、本当の人間の子供にして欲しいと願う。復元した夢の記憶の中で、本当の人間の子供が言う、「本当の人間の子供にして欲しい」という願いに、一瞬戸惑ったようなスペシャリストの姿が差し込まれている。

スペシャリストは、眠る少年の果てしない夢を採取した。
そして、目覚めた彼の、本当の人間の子供にして欲しいという願いを聞き、マーティンがデイビッドとして生きている事を知った。
スペシャリストは、人間を復元して、過去に起こったありとあらゆる人類の記録が、宇宙時間の中に記録されていることを知り、それを採取した。しかし、復元した人間は、目覚めて眠りにつくまでの時間しかもたず、意識が薄れると、その存在は暗闇の中に消えてしまい、実験は失敗したと語る。
彼らは、マーティンが目覚めるまで、人類から夢の記憶を採取することが出来なかったのだ。
夢の記憶を持つマーティンは、スペシャリスト曰く、人類のかけがえのない記憶バンクであり、人類の優秀性を示す証なのである。

スペシャリストは、マーティンが認識している自己であるデイビッドの願いを聞き入れ、デイビッドの夢の中の母であるモニカと過ごす最後の一日を見せる。
それは、マーティンが蘇った一日なのだろう。彼は、本当は、本当の人間の子供だった。デイビッドの願いは、本当の人間の子供の願いだった。母への愛も、本当の人間の子供の愛だった。
だから、夢は虚構ではないのだ。
マーティンは、モニカとの一日を終える。暗闇に存在した少年は、暗闇の中で、母から愛の言葉を聞き、“夢の生まれる所へ”と旅立って行く。

そしてこれは、スペシャリストが語る、人類の夢にまつわる、昔々のおとぎ話なのである。

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映画の記録媒体が、アナログからデジタルへ移行する時代に、スピルバーグは、アナログ記録媒体が見た夢を、デジタル記録媒体が物語る映画を撮った。
全ては、「夢の生まれる所」から始まる。それは、人の見る夢から始まる。複製されるロボットの少年は、本当の少年の夢から生まれる。そのことが、逆説的にロボットの少年を本物にする。少年の夢見る少年は、本当の少年の夢として存在している。そして、人類の素晴らしさの証として夢は映画となって存在し、それは受け継がれていくのだ。





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このタイトルロゴも、改めて見てみると意味深ですね。少年のシルエットが二つあってネガポジ反転してる。

スピルバーグは、映画のデジタル記録媒体について、キューブリックと話したりしてたんですかね。
書いていて思ったのですが、『ブレードランナー』(1982年)に似ていますね。夢にまつわる円環の物語だし、雨降ってないのにルージュ・シティーは水浸しだし、スピナーを思わせるヘリの場面なんかも、分かっていて真似てる感じがします。そこは触れておかないといけないと思ったのでしょうか。
レディ・プレイヤー1』(2018年)を見て、『レディ・プレイヤー1』について書く前に、『A.I.』を書いとかなくてはいけない気がして書きました。『BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』(2016年)も、確かこんな話しでした。
ずっとロビン・フッドは、スピルバーグが描くアウトローの雛形だと思っていたので、ロビン・フッドが出てくるこの映画は大きな課題だったんですが、今書けるのは、こんなもんです。
この映画の後に、リドリー・スコットが『ロビン・フッド』(2010年)を撮っているんですよね。『A.I.』を見て、ロビン・フッドの意味に気づいたのでしょうか。スピルバーグのど真ん中を、俺が撮ってやるよ的な?リドリーは相当スピルバーグを意識してるとは思うんですが、どうなんでしょう。
あとテディ、あの熊、何なのでしょう。カメラ的な何かなのかなと思うんですが、ちょっと今のところ分からないです。