映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『神々のたそがれ』(2013年)感想・ネタバレ

監督:アレクセイ・ゲルマン

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メタルなど、手数の多い激しめの音楽を聴いていると、決って快い睡魔に襲われるのですが、同じ現象が鑑賞中に起こりました。
映画を観ていて退屈で眠ってしまうということがそもそもなく、何をしていても眠ったであろう疲れた状態であったために眠ってしまうか、今回のように映画に誘われて眠ってしまうか、のどちらかです。
どちらにしろつまらないわけでも退屈なわけでもないのに、抗えずに眠ってしまいます。
休日の正午に観始めたのですが、開始1時間程で眠ってしまい、結果休日の午後を寝て過ごしてしまいました。翌日も休日であったため、夕方から続きを観始めたのですが、30分程観たところでやはり眠ってしまいました。その翌日は仕事に行って、次の日も仕事だったのですが、夜中の2時から続きを観始めました。眠ってしまうことは最早折込済みだったので、眠くなったら一時停止をして寝る、というのを3回繰り返し、明け方の6時過ぎにようやく観賞を終えることができました。
何の波長が合ってしまったのか分からないのですが、普段眠気自体をあまり自覚する事がないので、疲れましたが面白い体験でした。なので不眠になったらソフトを是非買おうと思っています。

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映画冒頭にナレーションがあり、舞台が地球とは別の惑星であること。文明が地球より800年ほど遅れていること。この惑星にルネッサンスの萌芽があるという理由で地球から研究者が派遣されていること。実際はルネッサンスの萌芽など認められず、大学が襲われたり、賢者が処刑されたり、と知識が疎んじられていることなどの説明がありますが、その後は延々と寄りの映像と断片的な台詞の連続です。
眠気を誘発した一因として、この映画での神の視点ともいえる、寄りの映像の連続があります。どこにどれだけの人が居て、何をしているのか分からないくらい寄って撮られた場面が177分ある映画の半分以上を占めます。画面の中の人々は、カメラ目線で頻繁に話し掛けてくるのですが、何の話をしているのか、会話なのか独り言なのか分からないことを言っています。
地球とは別の惑星ということですが、異世界の景色はありませんし、所謂エイリアン的な見た目の者も、そのような振舞いもありません。惑星の人々は無邪気なような、怠惰なような印象の者ばかりで、まるでヒエロニムス・ボスの描く群集の中に手持ちカメラで突っ込んだかのようです。
そして色んな死体、また裸体や泥や血や排泄物や唾や痰や奇声や吹出物や創傷や食べ物や飲み物やなんやかやが絶えず出てきます。最初は気持ち悪いと思って観ていたのですが、あまりににも出てくるので、一々反応してられなくなり、それら全ての物が直ぐに平板化して慣れてしまいます。
たまに引きの映像があり、それはちゃんと固定カメラで撮られていて美しいので、美しいものが撮れないわけではないようなのですが、滅多に美しいものを見せて貰えない映画です。

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映画が始まって暫くすると、ドン・ルマータなる男が出てきます。そして、この男は神の子であるとされている、との説明があります。その後頻繁にルマータは出てきて、どうも彼がこの映画の中心的人物であり、神の子である彼もまた神であるらしいことが何となく分かってきます。惑星の人々には信仰心がなく、そのためドン・ルマータの言動に超越的なものは見られないのですが、惑星の人々と彼との関係性から彼が神であると推察することが出来ます。惑星の人々はドン・ルマータを意識していて、一方的に話しをしたり、言い寄ったり、殺そうとしたり、助けようとしたりします。そして惑星の人々は、ルマータに関する噂話をします。
彼は神らしい。彼は人を殺さないらしい。殺さないかわりに耳を削ぎ落とすらしい。
この噂話がクライマックスの振りになっており、ルマータは彼が助けて匿った賢者の策略に嵌って大虐殺を行なうことになります。私の記憶が確かならば、虐殺の様子は捉えられておらず、ルマータが怒りにより変身(獣のお面を被る)した後すぐに、死屍累々たる街の様子が映し出され、その中にへたり込んだルマータを子供が発見する場面になっていたように思います。ぬかるみに座り込んでいるルマータを子供が発見し、そのぬかるみの周りに、僕、日本の鎧兜のようなものを身につけた者(ルマータ曰く実務者)、預言者たちが集います。そこでルマータは心底疲れ果てた様子で、預言者に向かって、
「今回のこと(大虐殺)をお前は本に書くだろうが、俺が疲れていることは必ず書けよ。」と訴えます。
神は疲れているのです。

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人々に信仰心が芽生えていない状況で、影響力のない神が人々を救うためには、愚か者の群れの中から愚かでない者を探し出して生き延びさせるぐらいのことしか出来ないのかもしれません。そしてそれも徒労に終わり、神は疲れ果てます。
でもこの大虐殺によって、この後ルマータの影響力は高まるでしょう。寄りの映像からは、混沌や、その中における神の力のままならなさ以上に、虐殺の容易さを感じさせられます。あの画面の中から賢者(に見えない)を探し出して助けて匿うのは大変ですが、次々と現れる隙だらけの愚か者たちを手当たり次第殺していくのは難しくないことのように思えます。
ルマータは、人々を救うことに失敗し、感情のままに容易い大虐殺を行ったにも関わらず、この大虐殺を預言者は本にして広め、やがてルマータの力は知れ渡り、奇蹟として次々と二次創作がなされ、ルマータは後の世で超越的な存在として認識されてしまうのです。多分。

神様、異星人説。異星人、未来人説。などのオカルト系SF設定であるにも関わらず、地道に死体や裸体や泥や血や排泄物や唾や痰や奇声や吹出物や創傷や食べ物や飲み物や断片的な台詞を積み重ねて、結果疲れ果てる神の姿を見せています。クライマックスの大虐殺にカタルシスを感じるようにも描かれておらず、人が殺される瞬間は周到に避けられています。人の言動が帰結するのを見せず、目を引くものを大量に出して平板化させ、ルマータと共に観客が疲労するよう仕向けていると感じました。途中、扉を開けて出て行くルマータの肩にフクロウが飛び乗り、ルマータが手で払うと再び飛び乗るという奇蹟がありましたが、引きの美しい場面もそうですが、そういうのは本当に少しだけの体感型映画です。
これは皮肉ではなく、興味深い試みの数々によって、スクリーンの境界面を超え、みんなを疲れさせることに成功しています。

『雨月物語』(1953年)を観ました。

監督:溝口健二


初めて溝口健二監督の映画を観ました。
言い訳ではないのですが、子供の頃から集中すると音が聞こえなくなる質で、ついつい一番見やすい洋画の字幕版に流れていってしまって邦画を全然観ていないのです。

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黒沢清監督作品についてブログで記事を書く際に、大体頭の中で書くことを決めてから本などに当たっているのですが、『叫』(2006年)でも『岸辺の旅』(2015年)でも、この『雨月物語』に言及した文章があったので、観ないとなぁ、とは思っていました。

どれも幽霊譚なのですが、『岸辺の旅』は、画面の奥から行灯を順に灯していく演出や、岸辺が舞台として頻繁に登場するところが似ています。『叫』には、それよりも多くの共通点が見受けられました。どちらも主人公と主人公に関わる二人の女が出てきますが、映画の最後にある幽霊のモノローグが入れ替わっています。『雨月物語』を観ていて『叫』を観たら、そっちのモノローグ?!と驚いただろうと思います。私は順番が逆だったので、普通はそうだよな、こっちのモノローグだよな、と思いました。そもそも幽霊のモノローグで映画を終わろうとするのが凄い発想です。黒沢監督はわかります。溝口監督が既にやっているので前例があるし、いいだろう、と思うのはわかります。問題は溝口監督ですよね。なんの問題だかわかりませんが。

そもそもモノローグって映画内の人物は誰も耳にしない、こちら(観客)に向けて発せられている言葉です。『雨月物語』の死んだ妻のモノローグは、残された夫に対するものとして語られていますが、観客が抱くであろう「あなた(妻)はそれでよかったのか」という思いに答えたものになっています。対して『叫』のモノローグは、みんなに向けて発せられた死者の総意とでもいうような不気味なものでした。これは、『雨月物語』に出てくる、そもそもの動機が不明な死霊の女のモノローグとしても機能する言葉です。わたしとあなた(『雨月物語』においては妻と夫)、という関係性の中から発せられる言葉は物語の延長線上で理解することが出来るのですが、わたしとみんな、になると途端にわからなくなりますね。幽霊の言動が物語の延長線上で理解することが出来ないのは、幽霊がみんなを相手にしているからなのかもしれません。そもそも、こちらも一括りに幽霊としてしまうのですから、あちら(幽霊)も一括りにみんな(生者)としていてもおかしくないように思います。だから『叫』では、「私は死にました。だからみんなも死んでください」という言葉なのかもしれません。モノローグとは、みんなに向けて発せられる前提の言葉だから、みんなと相対しているもの(幽霊)が、みんなに向けた言葉を発するのが道理にかなっているのかもしれません。

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つらつらと思いついたことを書いていたら、長くなりました。
雨月物語』の感想を書いておきます。
すごく面白かったです。観ているだけで楽しい映画でした。
印象に残っているのは、主人公夫婦とその子供と弟夫婦が、船で陶器を売りに旅立つのですが、その途中に湖上で海賊にやられた船頭に出会い、この船旅が危険だと判断した夫が、妻と子供を岸に下して家に帰って待つように指示する場面です。十日前後したら自分も戻る、と言って船を出す夫に、妻は岸辺に沿って見送りながら「気をつけてくださいね」と大きな声で2回言います。一旦の別れの場面を描いているのですが、その岸辺の妻と子供を捉えたショットが長いために、観ている者は、これが今生の別れだと気づかされます。母親に負ぶわれながら子供も「お父ちゃーん」って3回言うんですよ。もう凄く悲しい場面です。そのショットが終わらないことがどんどん悲劇を確定的なものにしていきます。

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他にも、若狭という姫の死霊が主人公の前で、姫の乳母の琵琶一本に合わせて歌と舞を披露する場面があるのですが、その場面に途中から鼓と笛と男の歌声が重なります。重なった後もしばらくそのままなので、雰囲気を出すための演出かと思ったら、若狭が急に怯えだし、「この声は、亡くなった父の声なんです」と言うので、そっちにも聞こえていたのか、と驚きました。その後も凄くて、ゆっくりカメラが左に移動して何があるのかと思ったら床の間に据えられた鎧兜がドーン!途切れない鼓と笛と男の歌声に合わせて琵琶を持った乳母がゆっくりと立ち上がり、家にまつわる忌まわしい過去を語り出す。というのがですね、光と音の巧みな演出で流れるように繋がっていきます。
陶工の夫が金儲けにとりつかれて妻と共にろくろを回す(そういえば『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990年)にもろくろが出てきましたね)場面も、抜け出せない執着の中をぐるぐると焦燥感に追われる気持ちにさせられます。わけのわからない夫の焦燥感に翻弄される妻に子供が2回ほどまとわりついて、より一層ままならない焦燥感が掻き立てられます。

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他にも色々あるのですが、『叫』との共通点で興味深いのは、主人公の妻が死んで幽霊になった後に夫の前に現れた場面で、色々あった長旅に疲れ切った夫は、妻と再会後すぐに眠ってしまうのですが、その後にも妻の幽霊はその場面に居続けて、行灯を灯して針仕事を始めます。妻の幽霊は夫の幻ではないのです。『叫』でも幽霊であるはずの春江が、一人で外を歩く場面がありました。黒沢監督は水の中の世界という道理をつけていましたが、溝口監督がこのような描写をしたのはなぜなのでしょうか。このように描いた理由はわからないのですが、とても感動する場面です。妻が幻として夫の視覚の世界にいるわけではなく、見えているのに、視覚の外の世界が表現されているから感動するんでしょうか。ちょっと今のところわからないですが、妙に感動します。
翌朝、村の者に妻が落ち武者に殺されていたことを聞かされた夫は、昨晩会った妻が座っていた囲炉裏に近づき、不思議そうな面持ちで昨晩見た妻の背中があったであろうあたりに手をあてる仕草をします。死霊の若狭が主人公の背中に縋り付いて執着する様を表していたように、また、その背中に魔除けの文字を施し、若狭の執着を断ち切ったことから、この仕草に夫の妻に対する執着が見えて悲しくなります。
すごく面白く、観ているだけで楽しい映画なのですが、悲しくなる映画です。

『叫』(2006年)感想・ネタバレ

監督:黒沢清


黒沢清監督作品については色々とこのブログで書いていますが、『叫』は観ていませんでした。いいタイトルです。まるで名作古典映画のようです。
コンクリの壁から葉月里緒菜さんがコンニチハしている写真をどこかで見て、コメディなのかなと思っていたのですが違いました。

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あらすじを書いておきます。

まず、殺人が起こります。被害者の死因は、海の水を大量に飲んだことによる溺死。その後に地震が起こったことで、湾岸沿いの殺人現場は液状化し、過去と現在が同じぬかるみに浮かび上がります。
事件を担当する刑事の吉岡登は、ぬかるみを探索し、過去とも現在ともつかない遺留品を次々と見つけ、それらが自分に関連するものばかりだったため大いに混乱します。
もしかしたら自分に関係があるのかもしれない女の遺留品の吊るされた赤いワンピースを見て怯える吉岡。彼はその後、赤いワンピースを着た見知らぬ女の幽霊に付きまとわれ始めます。
幽霊は、「どうしてあたしと一緒にいてくれなかったんですか」と、訴えてくるのですが、吉岡には身に覚えがありません。
幽霊は俺と何か関係があるのか、俺は何かやったのか、と吉岡は悩みます。精神科医の高木は、「幽霊の声は、真実の声です」と言い、恋人の春江は「そんなことどうだっていいじゃない。今の私たちに関係ない」と言います。
被害者の赤いワンピースの女の身元は分からないまま、海の水を大量に飲ませる、という同様の手口により、男子高校生が殺害されます。行方不明になっていた男子高校生の父親、佐久間昇一を吉岡が偶然見つけ取調べると、「全てを無しの状態にする」ために息子を殺害をしたと供述します。最初に殺害された赤いワンピースの女とは無関係で、犯行手口はたまたま重なっただけであったことがわかります。
再び同様の手口による犯行が起こり、容疑者の女、矢部美由紀が指名手配される中、最初に殺された女の身元が判明します。それは吉岡の知らない女で、犯人は女の元婚約者でした。
これで赤いワンピースの女のことは片付いたかに思われましたが、再び赤いワンピースの女の幽霊が吉岡の前に姿を現します。
幽霊は、「ずうっと前あなたは私を見つけて私もあなたを見つけた」「ずうっと待ち続けて誰からも忘れられて死んだ」と、吉岡に訴えます。
お前は最初に殺された女じゃないのか。お前はいったい誰なんだ。
吉岡はどうしても真実をやり過ごすことが出来ず、何とか過去の記憶からその女の人影らしきものを思い出します。
その後、吉岡はまたしても偶然、恋人を殺害した容疑で指名手配中の矢部美由紀を見つけます。
矢部美由紀も佐久間昇一と同様に「急にみんな無しにしたくなって」恋人を殺害したと言います。そして吉岡の、赤いワンピースの女の幽霊を知っているか、との問い掛けに頷き、「誰も私に気づいていない私は世界から忘れられる目の前にいる人が全然私をみていない」という彼女の気持ちがこっちに流れ込んできたみたいだった、と言うのでした。
吉岡は古い記憶を頼りに、湾岸沿いの黒いアパートに辿り着きます。そこには誰かが存在した様々な痕跡と共に、窓の外を見つめる赤いワンピースの女の幽霊の後姿がありました。
「やっと来てくれたのね」
「あなただけ、許します」
彼女は振り向くことなく、その言葉を残して吉岡の前から消えてしまいます。
幽霊の存在に悩まされることのなくなった吉岡は、ある時ふと家の棚の上にポリタンクが置いてあることに気づき、そのポリタンクで海水を運んだことに思い当たり、その海水を器に張り、春江を溺死させたことを思い出します。
家の隅の部屋には、いつからそうだったのか、器に顔を埋めたまま白骨化した春江の死体が横たわっていました。
その真実に愕然とする吉岡。
その場に姿を現した春江は、「恨んだってしょうがない。登には登の未来があるんだし、だからもう忘れて、私のこと」と言い、衝動的に自殺を図ろうとした吉岡を思い留まらせるのでした。
「君も、俺を許すというのか」
吉岡はまたしても許され、春江は消えてしまいます。
吉岡は、ボストンバッグに春江の骨を詰め、湾岸沿いに佇む黒いアパートへ赴き、そこにあった骨もバックに詰めていきます。ふと気配を感じて振り向くと、そこには風にそよぐ赤いワンピースがあるのでした。
吉岡はボストンバッグを携え、車道を歩いて行きます。走る車も人もなく、街は荒廃しています。
その景色に幽霊の声が重なります。
「私は死にました。だからみんなも死んでください」
そして映画は、音も無く叫ぶ春江の姿を捉えて終わります。


この映画に出てくる光と風の演出は、水の中を表しています。
最初の殺人場面の光の反射、佐久間昇一の取調室や、警察署内の光の散乱、吉岡と春江が過ごす室内の様子を窓ごしに捉えたショットには、水面の光が窓ガラスに映っています。
漂うようにゆれるシート、警察署内の電灯。赤いワンピースの女の幽霊の髪は、まるで水の中にいるかのようにスローモーションでなびいています。
「この間みたいな地震があと何回か続いたらこの辺みんな元の海に戻るんじゃないの」と、吉岡は言います。
吉岡の言うように、この映画に出てくる犯人たちは、地震により、元の海の中に戻ってしまっているようです。その一人である矢部美由紀は、地震に遭った直後に恋人の小野田を殺害するため、海の水を採取しようと湾岸沿いまで車を走らせますが、水の中にいるために車の後方に渦が生じています。これは、水の中をモーターで推進する時に生じる現象です。
犯人たちはこれらのことに皆無自覚のようですが、全てを無かった状態にするために、海水を用いて溺死させる、という殺害方法を用います。
海底都市があるのなら、きっとそこには溺死という、殺害方法も死因も存在しないでしょう。
海の中では存在しない殺害方法で、赤い服の女と同じ様に、「誰も私に気づいていない。私は世界から忘れられる。目の前にいる人が全然私を見ていない」状態にする、つまり海の中にいる状態にすることが、全てを無しの状態にするということなのでしょうか。
海の中では存在しない殺害方法で死んだ春江は、殺された・死んだ、という真実が消え、海の中の状態となり、同じ状態の吉岡と春江の周りには、湾岸沿いだろうが、駅の改札口だろうが、二人の他に誰もいません。
そして、彼らと状態を同じくする犯人は、吉岡だけに見つけられます。この時もまた、犯人と吉岡の他に誰もいません。吉岡がいなければ、彼らは誰にも気づかれず世界から忘れられ、全てを無しの状態にしたのかもしれません。


この映画は劇中で年代を指定していません。その場合、劇中の年代は大体公開年ぐらいだと推定していいと思うのですが、赤い服の女が湾岸フェリーから目撃された15年前あたりに、東京湾地震がなかったか調べたらありました。1992年の2月2日に東京湾の南部で震度5の地震が発生しています。東京では1987年以来の大きな地震だったようです。黒沢清監督が年をはっきりさせる場合、他の作品を見る限り実際の事象や出来事に呼応させているので、赤い服の女が水の中の状態になったのは、この地震が原因のようです。公開の約半年前にも1992年以来の大きな地震が発生しており、春江が半年前に死亡していることと重なるのですが、流石に撮影、編集などの作業工程を考えると無いと思うのですが、重なってしまっていることに黒沢監督の運命というか宿命というか、そういうものがあるのかもしれない、と作品を超えたところにまで思いが及んでしまいます。

観てからあまり間を置いていないので、色々考えている途中なのですが、話の元ネタになっているのは、ゲームの「ドラゴンクエストエデンの戦士たち」(2000年)とアンデルセン童話の「人魚姫」(1836年)なんじゃないのかな、と今のところ思っています。
ドラクエ7はやっていないのですが、Wikiによると、黄・赤・緑・青色の「不思議な石板」とよばれるアイテムを台座に揃えて過去の時代の1地方に赴き、過去の時代でのイベントをクリアして封印を解けば、現在においてその地方の陸地が出現するらしく、遺留品もそうですが、それ以外でもこの黄・赤・緑・青色の物がよく出てくる映画です。過去の場所(黒いアパート)に行って主人公が許されて、その後家に帰ると今まで気づかなかったものが出現しているところも似ています。海底都市も出てくるようです。
「人魚姫」は、春江が自分の飲み物に何か入れていた場面があったのと、水と空気の界面に阻まれて声が聞こえない、王子や他の人々に消えたことが気づかれないなど、理解の助けになりそうな要素があるような気がしています。

水の中ゆえに、赤いワンピースの女の幽霊が瞬きをしないことや、車の後方の渦もそうですが、春江の赤い柄模様のワンピースに、初めは黒いカーディガンを羽織らせ、次に白いカーディガン、最後はカーディガンを脱ぐ、などの水の中を意識した(水深が下がるほど赤い色は見えにくくなる)細かい演出。そして、『絞殺魔』を意識した犯人逮捕場面の長回し。魅力的なロケーション。格好良い冒頭の殺害場面!相変わらず見所だらけの映画でした。何よりハラハラさせられたのが、様子がおかしく、怒り出す吉岡に熱いコーヒーポッドを持たせたまま同僚の宮地とやりとりさせる場面です。刺激をしないように吉岡をなだめながら、そっとコーヒーポッドを奪う宮地。怒っている吉岡よりなにより、熱いコーヒーポッドをいつかぶちまけるんじゃないかとハラハラさせられます。こういう演出はもっと色んなところで仕掛けられるべきです。

時代が違えば映画監督だったかもしれない人 浮世絵師:小林清親(1847~1915年)

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冐雪我軍援威海衛之堅壘図

リュミエール兄弟により映画が発明される1895年以前に、映画のようなものを志向した人は世界中にいたのでしょうが、浮世絵師の小林清親はその一人だと勝手に思っています。

アジア歴史資料センター大英図書館共同インターネット特別展「描かれた日清戦争~錦絵・年画と公文書」http://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/gallery/gallery001.html
で、小林清親の「冒弾雨単身開玄武門」「平壌激戦我軍大勝利之図」や、その弟子の田口米作 (1864-1903)による「大雪ヲ冒シテ我将校単身敵地ヲ偵察之図」「斉藤少佐之恩愛二促テ捕虜軍内之実ヲ吐ク図」など、映画のワンシーンのような戦争絵を見ることが出来ます。大判3枚続きのビスタサイズに近い縦と横の比率も、まるでスクリーンのようです。

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冒弾雨単身開玄武門

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平壌激戦我軍大勝利之図

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大雪ヲ冒シテ我将校単身敵地ヲ偵察之図

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斉藤少佐之恩愛二促テ捕虜軍内之実ヲ吐ク図

小林清親は、1876年に版元の松木平吉から版行した「東京名所図」シリーズで、「光線画」と呼ばれる手法が受けて人気を博した絵師です。
この「光線画」について清親は、遠近、明暗、陰影に注意して描くもの、と絵画教本『教化適用 毛鉛画独稽古 附教授法』(1895年)の中で説明しています。
「光線画」という聞き慣れない名称の由来は諸説あるようですが、wikiに「当時市中にガス灯が灯りはじめ、人々が光は線条をなすのに気づいたため「光線」という言葉が流行したと言われる。」とあり、この流行にあやかり版元が名付けた説があるようです。
実際、清親の絵はJ・J・エイブラムスより光源が意識されています。
また、水平線を画面中央より下に置き、目線を意識した構図がとられていることが多く、まるでカメラを固定したショットのように見えます。これは他の錦絵風景画には無い特徴のようです。
しばしば、西洋の印象派を引き合いにして語られることもある清親の「光線画」ですが、ここまでは日本における写実的な絵の先駆者といったところかと思います。
しかし、清親には写実的に対象を捉えるのみならず、その変化、あるいは動きの表現にまで意識が及んでいたのではないかと思わされる節があります。

以下、田淵房枝(2015).小林清親の「光線画」をめぐって:その表現の成立と展開の一試論 人文論究,64/65(4/1):59-77より引用
「風景における色の移り変わりは、時間の経過、天候の変化によって起こるという点も大きいが、清親はそれすら作品で表現しようとした可能性もある。現存するスケッチ帳には、夜空の月と、それにかかる雲を連続で写生している箇所がある。時間の経過で次々に変化していく色彩を研究する意味も感じとれる。加えて清親の風景版画作品には、摺違いが数多く確認されている。両国の大火の際には、作品自体が非常に人気で何度も重版をおこなったようであるが、刻々と変化する炎の様子をこの摺違いによって表現しているように見える」
記述にある両国の大火とは、1881年の錦絵「両国大火浅草橋」のことで、論文中に摺違いの4枚が示されているのですが、これが本当に変化の表現ならば、映画のコマをバラして世に送り出し、いくつかの摺違いを見た者の頭の中で動きにしようとしたとも考えられます。

浮世絵師という職業自体、版元の依頼を受けて彫師や摺師といった技術者とやり取りして作品を、しかも複製品を世に送り出すわけですから、映画監督とよく似ています。浮世絵で描かれる、時事や風景、気象や風俗など、その時代の他の視覚的な表現形態ではあまり見られないモチーフも映画と重なります。

小林清親は、「両国大火浅草橋」を世に送り出した1881年以降画風を変え、「光線画」を捨てた、と言われているようですが、それ以降に作成された戦争絵を見る限り、変わらず遠近、明暗、陰影は意識されています。これら戦争絵は、スケッチを元にした「光線画」とは違い、伝え聞いた戦況から絵師がその様子を想像して描くそうなのですが、その中に、戦場をカメラで撮影する場面を描いた、「我軍牛荘城市街戦撮影之図」があります。

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我軍牛荘城市街戦撮影之図

戦況を伝える戦争絵において、このような場面を描いた錦絵は他にはありません。この絵から分かるのは戦況ではなく、写真の登場が清親に与えた影響の大きさです。清親が「光線画」を捨てたとされる理由のいくつかに、写真の登場について書かれたものはなかったのですが、理由として充分考えられると思います。
カメラで撮影する者を捉えた目線は、まるで監督のようでもあり、その先の景色が見えながら、今一歩時代が届かなかった清親を表しているようにも見えます。

『絞殺魔』(1968年)憚られる映画

監督:リチャード・フライシャー


実際にあった事件(ボストン絞殺魔事件)をもとに、犯人逮捕から約3年後に封切られた映画です。

女性ばかりを狙った猟奇的な絞殺事件がボストンで連続して起こり、刑事と検事が捜査をして犯人を捕まえるのですが、犯人は犯行時の記憶を持っておらず、検事が犯人の記憶を引き出していく、というストーリーです。

かなり書いてしまいますので、まだ観ていないなら是非観て楽しんでから、読んで楽しんで貰えたらいいなと思います。

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予備知識で分割画面を使用した映画というのは知っていて、どういう効果を生むのだろうか?と懐疑的に観ていたのですが、左画面に薄暗い部屋に横たわる死体目線。右画面に、第一発見者になるであろう人たちの死体発見までの様子が映し出される場面が3度あり、その3度目に、それまでにはあった第一発見者の死体発見時の悲鳴が無く、お笑いでいうところの天丼を微妙に外された気持ちになったところで、この分割画面による死体発見場面が楽しいことに気づかされます。この2つの画面を同時に観る楽しさは、絶対喜ぶプレゼントを渡して、相手がプレゼントを確認して喜ぶまでを見ている感覚とほとんど同じです。

刑事たちは、怪しい奴に片っ端から当たりますが捜査は難航します。そこで上層部から能力を見込まれて検事が捜査隊の指揮官としてやってくるのですが、刑事たちにとっては素人の偉いさんなわけで、当然距離をとります。そこで検事はどうしたかというと、今回も空振り、捕まえた奴はイカれてて、かつ暴れる、という刑事たちのフラストレーションが相当高まっているであろうタイミングで、その見当違いの容疑者をぶん殴ってみせるのです。その後、刑事は笑顔で「規則で殴っては駄目なんですよ」と言い、それに対して検事は「(素人だから)知らなかったものでね」と返すのですが、このやり取りから、刑事と検事の間に既にそれまでとは違った関係性が出来ていることがわかります。
拳一発により、検事が切れ者だとわかり、刑事たちとの関係性がわかり、その関係性が変わったことまでもわかるのですが、そのことが拳一発でわかるように映画が組み立てられていたことに、拳一発で気づくのです。

このワンアクション、ワンカットでわかる、変わる、という見せ方は他にもあります。
映画前半部におよそ思いつく限りの猟奇殺人者像が列挙されていまして、それっぽい人が軽快なテンポでどんどん出てくるのですが、ふとブルーカラーな雰囲気をまとった男が、ケネディ暗殺事件のニュースが流れるテレビを沈痛な面持ちで見つめているカットが出てきた瞬間、もう間違いなくこいつが犯人だろうと、どういうわけか確信出来るのです。
異常な犯罪を、一見そうとは思えぬ人物が行っていた、というのは今では珍しくない犯人像だと思いますが、その多くは、一見そうとは思えぬ人物として見せるために、穏やかさや優しさなどのポジティブな振る舞いをことさら強調するため、かえって白々しさが生じてしまい、その白々しさゆえに、こいつが犯人なのではないかという疑いを抱いてしまいます。しかし、『絞殺魔』では悲しんでいるというネガティヴな状態を選択したことで、それまでテンポの良い刑事モノとしてあった映画の進行に悲しみという静かな停滞が起こり、その変化に対する気づきが、こいつが犯人であるという確信を生じさせています。

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この映画は猟奇殺人を描きながら、殺人場面は出てきません。暴力場面もほとんど無いのですが、犯人が女の衣類を破きながら、それを紐代わりにして女をベッドに括りつけていく場面があります。足を縛り、手を縛りという行為を、犯人は一連の作業として手慣れた様子で行っていきます。衣類をビリビリと破くと、その後縛るために必ず木製のベッドの淵にナイフをドンと刺して両手を使える状態にするのですが、これら一連の動作と音が、女の髪の毛を引っつかんで殴る、殴られて倒れた女を力で引き寄せてまた殴る、などの行為を想起させるリズムと音のため、手慣れた様子で女をベッドに縛り付ける行為が直接的な物凄い暴力に感じられます。
暴力の雰囲気や暴力のようなものは、暴力を受けている感覚に近く、こんな感じで殺されました、と見せられるよりも、暴力に対する距離を取り難くさせるため、本当に怖いと思わされます。
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犯人逮捕の場面もとてもリズミカルな長回しで必見です。ピタゴラ装置のように、仕掛けの展開でリズムがつくられていて、犯人があれよあれよという間に確保されるのが見ていて楽しいです。

この逮捕は、世間を騒がす絞殺魔としてではなく、住居侵入強盗未遂の疑い程度だったのですが、犯人の言動に奇妙なものがあり、取り調べが難航する内に絞殺魔の疑いが浮上し、検事たちが取り調べることになっていきます。
全ての条件が絞殺魔と合致するにも関わらず、犯人が犯行時の記憶を持っておらず、二重人格者であることがわかり、検事は対話によって絞殺犯の人格を呼び出す試みを始めます。
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この映画の凄いところは、この後の展開が、彼が本当に犯人なのか、猟奇的な事件を起こす犯罪者とはどのような人間か、などといった興味には行かずに、自分が猟奇殺人犯だと知ったら彼はどうなるのか?という好奇心に近い問いに向かって進んでいくところです。
検事は、それが残酷な好奇心であることを認識しながら、医者に止められても、犯人が記憶を蘇らせ自覚するように促して行きます。
それで最後は、犯行時の記憶が蘇り、犯行を自覚したと思われる犯人が、事実を受け入れられなかったのか、防衛本能なのかわかりませんが無になってしまい、こうなることを予想していたであろう検事が、犯人の名前を虚しく呼びかける声が響いて終わります。
適切な例えでないことは承知していますが、ネット動画で、水が張られたタライと綿あめを受け取るアライグマが映し出された瞬間に湧き上がった好奇心を思い出しました。アライグマは当然、受け取った綿あめをタライで洗おうとするのですが、タライに入れた綿あめは一瞬で消えてしまい、見ていて虚しくなりました。

検事の好奇心に同調しながら、犯人が無になった瞬間、こうなることはわかってたのに、と虚しくなり、かつての好奇心が罪悪感に取って代わるのです。

この映画は、単純な見る楽しさに満ち溢れています。実際にあった事件を描いた映画がこんなに楽しくていいのだろうか、と思うと同時に、事件から時を置かずして映画化されていることを思うと、当時この映画を見た人は、事件に対する好奇心を満たそうという思いを少なからず持って鑑賞したと思うのですが、この結末には相当ショックを受けたのではないでしょうか。事件に対する好奇心を満たすために見世物として存分に楽しませつつ、好奇心そのものを自覚させ、その好奇心の残酷さを見せつけています。
このような映画を確信的に撮れるリチャード・フライシャー監督は相当な手練です。

『キングスマン』(2015年)感想・ネタバレ

監督:マシュー・ヴォーン


公開から間があいてしまいましたが鑑賞してきました。
大したネタバレ記事ではありません。ほとんど感想記事です。

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あらかじめアクションの舞台となる場所を幾つかのアングルで見せておいて、アクション場面では主体となる人物や視点にカメラをある程度固定すれば、早くて複雑なアクションも位置や動きが追えて楽しめるというお手本のような映画でした。
エグジーの釈放場面の作品のテイストに合わせたカットを割らない短縮した見せ方や、生体認証すると音楽が同時に鳴って、生体認証したりしなかったりが音楽で分かる見せ方。仕込みを出してくるタイミングなど、狙った見せ方がことごとくはまってます。

本当にどうでもいいのですが、『キック・アス/ジャスティス・フォーエバー』(2013年)でゲロをCGで見せたことに納得できず、ずっとわだかまりを抱えていたので、今回のCGじゃないゲロ場面に感動しました。

説明も省けて意外性も見せられるキャスティングも良かったです。
キック・アス』(2010年)でのニコラス・ケイジの浮き方が好きなのですが、あれは狙ったのでしょうか。狙っていたとしたら、コリン・ファースは似た役どころなので、もしかしたら狙いよりはまっちゃったんじゃないのかと思ったのですが、ニコラス・ケイジの浮き方の方が想定外だったのかもしれません。

『岸辺の旅』(2015年)優介の授業について

監督:黒沢清


前回の記事で書いた、この映画の波について、もう少し書きます。
映画を観てないとわからないと思います。

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優介は、とある村で授業をしています。それは、彼らを存在させている映画についての授業であり、映画という、彼らの世界についての授業です。その授業で優介は、映画の原子について語っています。彼らの世界を構成する原子とはいったいどのようなものなのかが語られています。前々回の記事『鑑定士と顔のない依頼人』(2013年)の中で、光の要素の無いものは映画のメタファーになりえないと書いたのですが、それは光が無ければ映画が存在しないからです。映画は光で出来ています。質量を持たない光の粒の集合体が波打つことで映画は存在します。
また前回の記事で、死者が消失する時にカットが割られていると書きました。そして、そのカットとカットの境目に波があると書いたわけですが、この波とは、優介の授業の中で語られている波です。優介が語った、波をどんどん狭めていって無になった波。それが、カットとカットの境目そのものなのです。
なので、優介の言う「どうもこの世界は無から出来ているようです」とは、映画の原子は無であり、映画は無から出来ているようだ、と語っているわけです。映画を存在させる光と波は、原子レベルの小さな粒(そのもの、単体)では無であり、その無が集り出来ているのが映画だと言っているのです。
そして確かに、カットとカットの境目という波の原子である無が、この映画の中にはあるのです。アングルの変化により、そこには何も無いのにあるとわかるのです。しかもこの映画の波の原子は物語と有機的に結びついています。他のどの波よりも強く結びついています。

当たり前ですが、映画は宇宙の理により存在しています。そこから逃れて存在するものはありません。そして宇宙には、まだ判明していない暗黒物質や暗黒エネルギーが存在すると考えられています。まだ判明していない未知の物質やエネルギーが、映画を広げたり、進めたりするかもしれない。私は映画の始まりに立ち会えて幸せだ、と優介は言うのです。優介は、彼の世界である映画だけではなく、映画と私たちの世界を内包する宇宙について、肯定と希望を語り授業を終えます。


映画は、私たちの世界とは事象のあり方が違う別世界です。その別世界の原子を示し、宇宙の理によって存在している2つの世界の繋がりを示し、それを肯定するという、凄まじいスケールの映画なんですよね。それを可能にした物語も凄いですが。
まだ理解出来ていないショットもあるので、しばらく思い出しつつ、間を空けてまた観ようかな。