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『未知との遭遇』と『CURE』、そして『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』について

今、集中してスピルバーグ監督作品を観ているのですが、全監督作品観賞の道は険しいです。『1941』(1979年)や『カラー・パープル』(1985年)や『オールウェイズ』(1989年)あたりに手が伸びないです。逆に『未知との遭遇』(1977年)や『A.I.』(2001年)は何度か観ています。去年からスピルバーグ全監督作品観賞計画は進行しているのですが、もう5月。今年中に観たいです。そもそも、このブログもスピルバーグ作品について書こうと思って立ち上げたのですが、観賞が進まないので最近みた映画の事ばかり書いてしまっています。

このような前置きにしたのは、今回スピルバーグについて少しだけ書くからです。
というのも先日『CURE』(1997年 黒沢清監督)を久しぶりに、本当に十数年ぶりに観たのですが、『CURE』が『未知との遭遇』に似ていることに驚きました。少し調べてみたのですが、この事について書いているものが見当たらなかったので、これだけ似ているのだから誰か書いてもいいだろうと思いまして、今回は
未知との遭遇』と『CURE』、そして『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』について
と題して書いておこうと思います。

まずは、『未知との遭遇』と『CURE』の類似点について整理していきます。
両作品ともに未知の存在が間接的な方法を用いてコミュニケートすることにより物語が進行します。


未知との遭遇』ではUFOが、光と5音を用います。
『CURE』では間宮がライターの火と流れる水を用います。
彼らの発する光と音を受け取った者達は、共通の欲求をともなった幻影を持ちます。『未知との遭遇』ではデヴィルズ・タワーのイメージと、そこへ行きたいという欲求。『CURE』ならば、×印と殺意です。

この2つの映画は、未知の存在から言語以外の間接的な方法で一方的に、共通の欲求をともなった幻影を授けられた者達が幻影を表現し、欲求を満たすことで、未知の存在の発する光と音が、彼らに何を与えたのかが分かるという構造を持っています。鑑賞者は、それらを授けられた者の行動により、はじめて未知の存在の不可解な様子の意図を確認することが出来るのです。
以下に、物語を構成する要素を整理します。

(誰が)未知の存在が、(何を)共通の欲求をともなった幻影を、(どのように)音と光を用いて、(誰に)複数人に授ける物語。

未知との遭遇』におけるデヴィルズ・タワーのイメージと、そこへ行きたいという欲求。『CURE』における、×印と殺意。未知の存在は、これらの共通の欲求をともなった幻影をなぜ授けたのでしょうか。
未知との遭遇』では、授けられた欲求と幻影に導かれたロイが、デヴィルズ・タワーへ行き、UFOのマザーシップ(だと思われるもの)に乗り込んで終了します。
『CURE』では刑事の高部が、間宮のようにライターの火や流れる水を用いずに、他者に欲求をともなった幻影を授けることが可能になったことが仄めかされて終了します。
両作品ともに、共通の欲求をともなった幻影は複数人に授けられますが、そのことにより直接的もしくは間接的に導かれ、次の行動なり状況なりに移行するという変化が訪れる者がいます。そして、次の行動なり状況なりに移行するという変化が訪れた(と思われる)時点で映画が終了するところも同じです。
これらをふまえると、この2つの映画は、

(誰が)未知の存在が、(なぜ)誰かを変えるために、(何を)共通の欲求をともなった幻影を、(どのように)音と光を用いて、(誰に)複数人に、授ける物語といえます。

以上の前置きをふまえまして、これから『未知との遭遇』と『CURE』において描かれる未知の存在について、また『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の聖櫃について書いていきたいと思います。

まず、『未知との遭遇』と『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の両方を観ている人は気づいているかもしれませんが、『未知との遭遇』のデヴィルズ・タワー頂上の場面と、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の聖櫃の儀式を執り行う場面はよく似ています。
この2つの映画のクライマックス場面は、夜(暗い所)に、円形劇場のような所で、舞台位置にUFOもしくは聖櫃があり、光るUFOの昇降口(四角)もしくは光る開いた聖櫃の口(四角)から幽霊のような存在が出てくるのを皆で見るのです。暗い劇場のような所で四角い光から出てくる幽霊のようなものを皆で見るという、映画のメタファーだろうと思われる状況が描かれています。
以下は『未知との遭遇』について書かれた文章の引用です。

伊藤計劃侵略する死者たち」(「ユリイカ2008年7月号」青土社、105頁以下)105、106頁。
~引用~
≪前略≫…公開当時、すでにマザーシップを映画のメタファーとする指摘はあったようだ。黒沢清氏・青山真治氏なども論客として参加した『ロスト・イン・アメリカ』という書籍では、それが「映画」というよりはある大文字の映画的存在(「シネマ」と形容されている)、映画存在であることを保障するフレーム的な理念若しくは規範ではないか、という解釈が安井豊氏によってなされている。…≪後略≫

これは、稲川方人編集『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド出版局、2000年)を伊藤計劃氏が引用している箇所なのですが、当の『ロスト・イン・アメリカ』が入手出来ていない為、なんとも間接的な引用になってしまいました。
未知との遭遇』において、登場人物が見ているUFOが映画的存在だということは、公開当時から既に指摘されていたようです。また、ここで触れられている『未知との遭遇』の場面と、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の儀式の場面は、殆ど同じ状況が描かれていることから、聖櫃もまた映画的存在のメタファーであるといえます。

しかし、『未知との遭遇』のUFOと『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の聖櫃には大きな違いがあります。それは、光の威力です。
未知との遭遇』では、街に現れたUFOの光を浴びた者が、その光により日焼けをします。またマザーシップとの遭遇場面では、人々はサングラスを着用し、光る船体を仰ぎ見る場面が描かれています。このことから、UFOが放つ光の威力は真夏の太陽光程度だと推察されます。
次に『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では、移動中に聖櫃を納めていた木箱が焦げる描写があり、クライマックスの儀式が行われる場面では、聖櫃が開けられた時に放たれた光を見た者が、その光を浴びて溶け出し、聖櫃の中へと消えてゆきます。このことから、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では、『未知との遭遇』のUFOが放つ光とは比べものにならない程に光の威力が増していることが分かります。光というよりも、その描写から光る熱線として描かれているようです。またこの時、この光る熱線の威力から逃れるために、インディがマリオンに告げた方法が「見るな」だったことから、やはり聖櫃が映画的存在として描かれていることが伺えます。このインディの「見るな」の台詞に対をなすのが『CURE』における間宮の台詞「見て」です。映画的存在は「見て」もらわないことには、何の影響も与えることが出来ないのです。

ここで注意しておかなければいけないことは、『CURE』における映画的存在は間宮ではないということです。医師の宮島に間宮が接触し、暗示のような行為を行った際に、間宮は宮島に流れる水を「見ろ」と促します。言われたままに流れる水を宮島は注視しますが、一瞬注意が逸れて宮島の視線が間宮に移った際に、間宮は宮島に「見ないで」と自分から視線を外すように促すのです。
また、『未知との遭遇』ではUFO、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では聖櫃と、形を変えながらも同様の存在として描かれていることから、映画的存在とは厳密にはUFOや聖櫃ではなく、あくまで光や音、流れる水といった形をもたないものなのです。

また、これら3つの映画は、未知の存在を映画的存在として描き、その影響が動力となり進んでいく物語を、主に神話や民話に見られる、見てはいけない、とされるものを見てしまったために悲劇や離別、恐怖が訪れる、というパターンの話である「見るなのタブー」「見るなの禁止」「禁室型」とよばれるモチーフを用いて描いているところも似ています。
未知との遭遇』に悲劇や離別、恐怖が訪れているのか、と疑問に思うかもしれませんが、主人公ロイは盲目的な欲求を授けられ、ほとんど自覚もなしに家族と離別します。家族との離別を悲劇とし、それを回避しようとするなら、そもそも光を見てはいけなかったのです。
『CURE』では、この映画が「見るなのタブー」を扱った物語であることを示すかのように、高部の妻:文江がヘルムート・バルツ『青髭-愛する女性(ひと)を殺すとは?』(新曜社、1992年)を朗読する場面から始まります。そして、見てはいけないライターの火や流れる水を見てしまうことで次々と殺人(恐怖と悲劇)が起こっていきます。それと同時に観客は高部の心のうちを次々と見せられ、不可解な殺人が起こる現実的世界へと映画は収斂していきます。
レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では、主人公インディがメタ的な判断から、見ることによってもたらされる悲劇や離別、恐怖を回避します。「見るなのタブー」を知っていて、そのパターンの物語の中にいる、という自覚をインディは持っていたのです。驚きの結末です。

未知との遭遇』と『CURE』、そして『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』、どれも映画的存在を見てしまうタブーについて描いているといえます。それと同時に映画とはタブーを描くこと、という認識もあるようです。
何をタブーとするかは、鑑賞者によって認識の違いが当然ありますが、『CURE』は、映画的存在を見てしまうタブーについて描きながら、同時にタブーを描き出しているのに対し、『未知との遭遇』と『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では、映画とはタブーであるということ、そのことを描いています。『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』でのインディのメタ的な台詞から、スピルバーグがタブーを描くまで、あと少しのような気がします。

本当はそれぞれ細部に触れて書きたいこともあるのですが、今回は類似点について書き留めておきたかったので、こんなもんです。『CURE』に関しては、書いている人も多いので、作品の理解を深めるためなら色々漁れるかと思います。ただ、「見るなのタブー」に関しては、突き詰めると心理学の領域なので、書ける気がしません。
今回の類似点の書き出しは、書いている人がいないという理由もあるのですが、『CURE』と同じくらいスピルバーグ作品についても、もっと色々解釈が出てきてくれたらいいな、と思って書きました。

最後に、これが個人的には一番のヒットだった類似点を示しておきます。
『CURE』のコレ。

コレをほどくと、『未知との遭遇』のコレになります。