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『CURE』(1997年)を見直してみよう No.2 都市のランドマークと猿のミイラ

監督:黒沢清

『CURE』のレビューを読んでいると、映画の雰囲気が前半部と後半部で違う、という印象を持った人が少なからずいることがわかる。
実際『CURE』の後半部は、前半部に比べ短いショットが多くなり、ショットや場面のつながりが分かり辛くなり、ロケーションがますますおかしくなっていく。のだけれど、この変化はどこからともいえず少しずつ起っているのだろうか。それとも、どこかからはじまっているのだろうか。だとしたら、どこからはじまるのだろうか。


結論は出ているので、先に書いておく。
『CURE』は、あるショットを契機に変る。正確には、そのショットが捉えたモノが変化の起因となる。そのモノとは、四肢をつながれた猿のミイラである。

なぜ、四肢をつながれた猿のミイラが変化の起因となるのか。その理由をいくつか説明していこう。

シルバースプリング事件を知っているだろうか。
この事件は、1981年にアメリカのメリーランド州にあるシルバースプリングの行動学研究所で起こった。ここで行われていた17匹のカニクイザルを使った動物実験の様子を、動物愛護団体の者が施設に侵入して撮影し、その写真を警察に渡したことで研究者が逮捕され、一般にも広く公表したことで論争が起こり、米国議会で動物の権利について審議されるきっかけとなった事件である。
その時に撮影された写真が、silver spring monkeyで検索すると出てくるのだが、それが四肢をつながれた猿の写真なのである。
この写真は、四肢をつながれた猿という符合もさることながら、暴かれたピクチャー、ある事象のランドマーク的役割を果し、社会に変化をもたらした等々、『CURE』と関連づけてみると興味深い。この写真が四肢をつながれた猿のミイラの元ネタだと言いたいわけではなく、四肢をつながれた猿のピクチャーは、『CURE』公開時には既に上記のような意味づけが成されていた、もしくは、上記のような効果をもたらした実績があるのである。

四肢をつながれた猿のピクチャーが過去に現実世界に存在し、それが社会に混沌と変革をもたらしたから、良く似たピクチャーである四肢をつながれた猿のミイラが、映画『CURE』の物語世界に混沌と変革をもたらしたとしても不思議ではない。また、暴くことによって混沌と変革が発動するピクチャーであるから、映画を観る者が予め四肢をつながれた猿の存在を知らないことが望ましい。
といいたいわけだが、ずいぶんな曲論だと思われた方に、言い訳ではないがそもそもsilver spring monkeyに行き着いた経緯を説明しておきたい。

『CURE』を見直して一番気になったのは、都市の描き方だった。建物、道、境界といったものを意識的に描き出しているように思われた。生活でも仕事でも舞台となるのは主に病院。様々な病院。場面のつながり上、必要だとは思われない登場人物の移動場面。海岸、港、踏切といった都市の境界。
深い霧の中を行く車。空飛ぶバス。空飛ぶバスでしか行けないと思われる、文江があずけられた病院。同じく空飛ぶバスでしか行けないと思われる、林を抜けると佇む、大きな廃墟と化した多分これも病院。これらのものが登場する映画後半部は、ショットや場面のつながりもさることながら、舞台の街に異質なルートと建物が加わったように感じた。


どこから街が変容したのか、また街を変容させるにはどうしたらいいのか。
映画の前半部で高部が桑野の家宅捜査を終えた場面と、交差点のアンダーパスのトンネル内部で凶器の特定をする場面の間に、高部が一人屋上に佇む場面が挿入されている。高部は屋上から街を見ている。ありふれた街だ。遠くに、これまたありふれた白色航空障害灯が光る高い煙突が見える。これが、この街のランドマーク、街のシンボルだった。
街を変容させる一番手っ取り早い方法は、このランドマークを挿げかえることなんじゃないかと思う。旗でもいい。例えば、変じゃない城に変な旗を掲げたら変な城だと認識されるだろう。城主は頭がおかしいと言われるかもしれない。変なのは旗だけなのに。
ランドマーク、旗、それらに相当するシンボリックな存在を『CURE』に求めるなら、それは四肢をつながれた猿のミイラ以外ないのではないだろうか。

高部が間宮のかつての住居で四肢をつながれた猿のミイラを見た時、高部の世界認識は変容した。自分がいるのは四肢をつながれた猿のミイラが存在する世界だと認識した。かつての高部の世界とは、ありふれた煙突のそびえる街である。その街に、高部の家と仕事場(管轄)はあった。高部は旅行に行こう、と文江に言う。こことは違う世界へ行こう、と誘う。しかし、高部は旅行には行かない。なぜなら、世界の方が変わってしまったから。高部は違う世界へ行く必要がなくなったのである。


変なもの、異質なもの、奇妙なもの。それらのものが登場すれば、その登場を起点に自動的に映画内世界は変容していくものなのか。それが、四肢をつながれた猿のミイラである必要はあるのか。それらは何でもいいのか、ということについて考えていた時、猿、儀式、実験などをキーワードに調べていたらsilver spring monkeyがヒットしたのである。


silver spring monkeyが『CURE』に関係していようといまいと、『CURE』を具体的に説明できるものであれば何でもかまわなかったので色々と調べてみた。すると、写真の猿に施されている実験から興味深いことがわかってきた。

シルバースプリングの行動学研究所で研究者は、サルの指や手、腕や足につながる知覚神経節を切断し、まずサルの感覚を失わせ、様々な実験を行っていた。この指や手、腕や足につながる知覚神経節を切断し、感覚を失わせることを「求心路遮断」という。
この「求心路遮断」は、外科的治療を伴わなくても人為的に引き起こすことが出来る。 瞑想を行う。あるいはアイソレーション・タンクと呼ばれる、光や音が遮蔽され、液体を湛えた小部屋ないし大きな容器を用いることで感覚遮断状態は引き起こすことができるのである。

『CURE』において、四肢をつながれた猿のミイラが登場する際、常に黒い水が低く張っているバスタブが共にあるのが気になっていた。四肢をつながれた猿のミイラを見るのは、劇中において高部と佐久間だけである。その内、佐久間は白昼夢として四肢をつながれた猿のミイラを見ている。それも高部の見た間宮のかつての住居でではなく、間宮が収容されている閉鎖病棟の室内の中で見るのである。
四肢をつながれた猿のミイラは、出現場所が変わっても、白昼夢でもそうでなくても、シャワーポールにくくられて、周囲の壁や床に手足をロープで張るだけでは完全ではないかのように、常にバスタブと共に設置される。

silver spring monkeyに良く似た見た目のミイラとバスタブ。
このバスタブが共にあることで、四肢をつながれた猿(とバスタブ)という視覚情報から抜き取るべき情報は、宗教儀式でも動物虐待でもなく、アイソレーション・タンクとバスタブの類似性から、シルバースプリング事件における猿に施された感覚遮断状態である「求心路遮断」なのではないだろうか。この四肢をつながれた猿のミイラとバスタブは変容を引き起こすランドマークであり、「求心路遮断」を視覚化させたオブジェなのではないだろうか。

以上は、四肢をつながれた猿のミイラとバスタブというピクチャーについて、連想ゲームのようなものを延々と行った結果である。

初めに、変容の起点となったショットとして四肢をつながれた猿のミイラを捉えた瞬間、謂わば、静止画としてのピクチャーを挙げたわけだが、四肢をつながれた猿のミイラにはどうも見せる手順があるらしく、世界を変容させるにはその手順をふまないといけないようである。また、その手順をふんで、映画では四肢をつながれた猿が2回(間宮の家宅捜索で高部が見る、白昼夢で佐久間が見る)登場していることから、『CURE』の変容は2回、もしくは2段階の変容を遂げていると考えられる。

まずは四肢をつながれた猿のミイラ目撃手順だが、これは映画を観てもらえればわかるとおり、間宮のかつての住居近くにある焼却炉、檻の中の生きた猿、四肢をつながれた猿のミイラとバスタブの順番で必ず登場している。その後の自殺(文江の首つり自殺の白昼夢、佐久間の現実世界の自殺?)という共通点も伴う。
現実で見たら白昼夢で自殺。白昼夢で見たら現実で自殺。という反転現象が起こっていることに気づかれたと思うが、今回の記事ではそのことまで書かない。

四肢をつながれた猿のミイラが最初に登場するのは、刑事たちが取り調べで間宮の背中に火傷を発見した後である。この背中の火傷を刑事たちが見る場面から、焼却炉のショットにつながることから、間宮の背中の火傷は、この焼却炉に触れたことによる火傷なのではないかと推察される。高部は佐久間に、間宮の火傷は川崎の廃品回収センターのバイト時のものだろうと説明するが、それは高部が間宮のかつての住居近くにある焼却炉の近くを素通りしただけで、見ていないからである。
そうなると、この一連の四肢をつながれた猿のミイラ目撃手順をふんでいるのは、上記の推察をふまえると、間宮と佐久間と映画を鑑賞している者ということになる。高部は焼却炉を見ていない。

一連の四肢をつながれた猿のミイラ目撃手順が映画内で示された時(鑑賞者が一連の映像を順に見た時)、映画内世界は変容する。また、間宮や佐久間のように全手順を見てしまった者は、自己変容が起こるのではないだろうか。その変容とは、四肢をつながれた猿のミイラとバスタブが表す「求心路遮断」である。
「求心路遮断」が起こると、脳の上部の後方領域にある、方向定位連合野の活動が極端に低下する。この方向定位連合野とは、外部から感覚器官を通して入ってくる大量の情報を使って物理的空間の中で自己の位置づけを行う領域で、この領域への情報が遮断されると、方向定位連合野は自己と外界との境界を見つけられなくなり、その結果として、自己と外界との区別は存在しない、という判断を下すとされている。
これは、物理的空間の位置づけができなくなる。自己と外界との区別がつかなくなるなど、間宮の特徴と一致を示す。
そして、映画内世界においては、四肢をつながれた猿のミイラ目撃手順を2回ふむことで、鑑賞者は主人公高部の物理的な位置を見失い、高部の内的世界と外的現実との境目を見失っていく、という「求心路遮断」が示されているとみることができるだろう。





長くなりました。
猿のミイラが映画のランドマーク機能を果たしているんじゃないか、と思って調べてたら、ケヴィン・リンチ著『都市のイメージ 新装版』(2007年)に行き着いたんですが、この本はかなり『CURE』の世界観に影響をあたえているんじゃないでしょうか。これ面白い本で、『CURE』以外でも現代映画を観る上で色々参考になりそうです。「求心路遮断」に関しては、アンドリュー・ニューバーグ他『脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』(2003年)に詳しく書いてあるようです。読みたかったんですが、読んでません。

今のところ『CURE』は、オカルトを科学的に都市の形状や機能を用いて示す、みたいな印象です。人間の心理状態を都市の形状や機能を用いて示す、でもいいんですが。ミイラが出てくるんで、同監督の『loft』(2005年)も見直したんですが、改めて無茶苦茶な映画だな、と思いました。前半は黒沢映画の中でも1・2を争う面白さですが、後半は別の意味で面白くなっていきます。『loft』については書ける気がしない。
『CURE』との関連が深いのは『カリスマ』(1999年)だと分かってはいるのですが、広がりすぎると書けなくなる恐れがあるので、しばらくは見直しません。

猿のミイラを一連の手順で見なかった高部の変化については、また書けたら書きます。

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