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『CURE』(1997年)を見直してみよう No.3 沢山の病院とタイトルCUREの意味

監督:黒沢清


CUREという言葉には、癒す・治療するなどの意味がある。
なぜ、この言葉が映画のタイトルになっているのだろうか。

まずは、癒しや治療を担う機関である病院とCUREについて書いていきたい。
とにかく病院が良く出てくる映画である。
以下に、『CURE』に登場した病院を挙げておく。

文江が通う病院・妻殺害後の花岡が収容された病院・宮島の勤務する病院・佐久間の勤務する病院・間宮が収容された閉鎖病棟・遺体となった佐久間が運ばれた病院(台詞で言及)・文江が預けられた病院・かつて伯楽陶二郎がいた、今は廃墟となった病院

これら『CURE』に出てくる病院は、単に癒しや治療を担う機関としては描かれていない。これらの病院は、精神障害者・犯罪者・死者などが行き着く場所として描かれている。
都市において、精神障害者・犯罪者・死者とは、都市生活が送れなくなった者、都市に居られなくなった者という共通点をもつ。また、都市生活者は、そのほとんどが病院で誕生し、病院で死亡する。理由があっても無くても、都市生活者は最終的に病院に辿り着く。そして、そうやって病院に辿り着いた都市生活者は、病院の次に行くべき所を知らない。
これらの理由から、『CURE』では、都市生活者の存在の縁・境界を表した物理的形態として病院を捉え、舞台にしていると考えられる。

高部が辿り着いた最後の病院(かつて伯楽陶二郎がいた、今は廃墟となった病院)は、この映画で最後に出てくる病院だが、高部が最後に訪れたことから、彼にとっての最後の病院という意味も持っているだろう。それは、彼の死に一番近い場所という意味を持つ。
この病院で間宮は、「本当の自分を知りたい奴はここにたどりつく」と言った。この病院は、高部がバスに乗り、林を歩いて辿り着いたことから、遠くにあり、またその荒廃の様子から古い建物であることが分かる。これらが、古いものは遠くにある、遠くにある古いものに根本がある、という宇宙論的表現ならば、この病院は、都市の最果ての行き詰まりにあるということになる。

この都市の最果ての行き詰まりにある病院で、ビニールのカーテンの向こうに見える人影がただの紙切れだった時、高部は落胆した。ここに来れば苦しみが癒され、治療されると高部は思っていた。高部に信仰があれば、救いを求めてエルサレムなり天竺なりへ行っただろう。しかし高部は信仰を持たない。癒しや治療を求めて病院に行く以外、行き場所がないのである。SALVATIONを望むことが出来ない都市生活者は、CUREを望むほかはないのである。

高部は、この都市の最果ての行き詰まりにある病院で間宮に会い、間宮を殺害し、角部屋に置いてあった蓄音機で声を聞いた。その後、Xに喉元が切れた文江が、彼女が預けられた病院(と思われる)の廊下を移動するショットが短く映し出され、最後のファミレスの場面になる。このファミレスの場面で、旺盛に食事をし、電話口で快活に話す高部は、どう見ても癒され・治療されている。

以上のことから、この映画のタイトルのCUREとは、「救い(SALVATION)ではない」という意味がみてとれる。高部は、自身の生き方や自身を取り巻く環境から、人々の殺意の源や死について深く囚われている。決して精神障害を患っているわけではない。それでも、苦しみから解放されるための救いを求められない信仰を持たない都市生活者として高部は放浪し、救われることなく癒され・治療される。


次にもう一つ、CUREというタイトルに関して、興味深い発見があったので記しておく。
この映画には、カーボンアーク灯という治療器具が登場する。
画面にカーボンアーク灯を見つけた時、私はそれが何なのか分からなかった。それから何をどう調べたか忘れたが、ウシオ電機のキセノン光線治療器に関するPDFに行き着いた。http://www.ushio.co.jp/documents/technology/lightedge/lightedge_38/le38-3.pdf
カーボンアーク灯からキセノンフラッシュランプへの移り変りなど、光線治療器具のランプの歴史は、そのまま映写機ランプの歴史と重なるようである。なにより、映画の光と同じ光に治癒効果があることに驚く。PDF冒頭のエピソード「カーボンアーク灯は公園などの広域照明に用いられており、夜な夜な、暖を求めてカーボンアーク灯に集まる浮浪者たちのくる病が、薬も使わず治癒したことをきっかけにして、カーボンアーク灯に含まれる紫外光の治療効果が発見された。」などは、そのまま公園を映画館に置きかえたいぐらいである。

このカーボンアーク灯は、宮島の勤務する病院に登場する。
宮島の診察室に置かれているカーボンアーク灯は点灯していないが、誰も居ない病院内のガラスで仕切られた一角を映した短いショットには、点灯しているカーボンアーク灯が登場する。この点灯するカーボンアーク灯を映し出したショットは、画面の一番奥に病院の廊下が見え、その廊下がガラスで仕切られ、その仕切られたガラスの手前にベンチとこちらを向いて光っているカーボンアーク灯があるというもので、これはスクリーンを鏡に見立てたショットである。
スクリーンが鏡となり、椅子とカーボンアーク灯の光(映画と同じ光)が反射している。このショットは、ガラスを隔てて見える背後の病院内の光景が、映画館の外の光景だと伝えていると同時に、映画を観ている者も、癒し治療されている事を示唆している。





映画を観て、治療されていたとは驚きですね。

ここまで書いてみて、信仰のない黙示録を描いているのかな、と思いを新たにしました。あと書いておきたいのは、間宮は何者なのか、と高部は最終的にどうなったのか、と青髭の物語との関連です。盆休みまでには終わらせたい。
あと、黒沢清監督の『岸辺の旅』がカンヌ映画祭ある視点部門で監督賞を受賞されたようで、めでたいですね。

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