映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『CURE』(1997年)を見直してみよう No.1 間宮の催眠術とXの印

監督:黒沢清


前回の記事で、『CURE』について書かない、と書いたが書くことにする。
前回の記事以降も『CURE』について考えていたら、映画の中で描かれていることで、具体的に説明できる事柄がいくつかあることに気づいた。
具体的に理解したところで、映画に対する印象はさほど違わないので、あまり意味はないのかもしれないが、もう一度見直してみよう、と思っている人には、それなりに楽しい発見になるかもしれない。

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多くの人は、むしゃくしゃすることがあっても、むしゃくしゃしてやってしまうことはないと思う。だから、「むしゃくしゃしてやった」と説明されてもピンとこない。むしゃくしゃして感情が抑えきれず、一種の興奮状態で我を忘れて、やった、のだろうか。と無理やり推測するしかない。しかし、この映画に出てくる警官の大井田のように、落ち着いていたりすると、もう解らない。「むしゃくしゃして(…)やった」こうではないだろうか。何か理解のできないものが(…)のところに潜んでいる。
「魔が差した」でもいい。何か理解のできないものによって、理性や倫理観が働かなくなる。「ちょっと魔が差したんだろう」と精神科医の佐久間は言う。でも、そこのところを犯人に聞いても、誰も解らないし、覚えていない。大井田の言う「名前は…ない!」ものらしい。
映画冒頭、文江と医師の場面のあとに、この映画の最初の犯人である、桑野が通りを歩いている場面がある。歩く桑野は、立体交差点の下の道路、このように少し窪んでいる下の道路をアンダーパスというらしいが、そのアンダーパスの交差点内のトンネルに入ると、そこで凶器の鉄パイプを調達する。佐久間は桑野の犯行を供述するビデオを見て、「ちょっと魔が差したんだろう」と言う。桑野の言動、佐久間の「魔が差した」という言葉。これらが全てその通りだとすると、桑野はアンダーパスの交差点内のトンネルで「魔が差した」ことになる。
アンダーパスの交差点内のトンネル内部をよく思い出してみて欲しい。そこには何があっただろうか。刑事の高部は桑野のアパートを調べた後に、凶器の特定のためだろう、このトンネル内部を訪れている。その時、高部は明滅するトンネルのライトと、流れる水を見ている。
ライターの火と流れる水。間宮が催眠の際に用いたこれらのものに、それはよく似てはいないだろうか。


私たちの多くは、むしゃくしゃしてもやらないルートを行く。だが犯人たちは、むしゃくしゃしてやるルートを行く。私たちから見えないのは、その交差する点、アンダーパス内のトンネルである。オーバーパスを行く私たちは、アンダーパスのトンネル内部が見えない。
では、もしオーバーパスを行く者に憤りを感じさせ、アンダーパスのトンネルを潜ったと錯覚させたらどうなるだろうか。アンダーパスのトンネル内部にある光と水を見せたら、どうなるだろうか。
間宮のやったことは、これだろう。
ターゲットは誰でもいい。感情と記憶さえあれば充分である。憤りや不満を感じない者はいない。夫が客人を連れて帰っても、ちょっと風邪気味だからと寝てしまう妻を、女医であることに過剰に反応する患者を、勤務中はタバコを吸わない真面目な後輩を、疎ましく思う程度で充分なのだろう。「むしゃくしゃして(…)やった」の、(…)の部分を錯覚させる、その方法がライターの火であり、流れる水なのである。

そして、私たちは被害者にXの印を見る。
これは、今までの説明をふまえると、上から見た立体交差点だ。映画の中の彼らも、私たちも、ただ、共通するXの印が解らない。被害者に見るのは、その解らないという印なのである。(…)や「魔が差す」ということが解らない、という共通の思い。その印を被害者に刻まれたXは現している。これは、彼ら犯人に共通する、私たちの不可解の印なのである。



もちろん、あらゆる概念は視覚的に置き換えられています。
まだまだ書きたいことはあるのですが、自信が持てないと書けない。
ちなみに、アンダーパス内のトンネルでは、ある音が鳴っていますよ。まだ気づいていない人は、暑くなってきたので、納涼がてら見てみるのもいいかもしれません。『CURE』に関しては、漫画単行本方式で、続きが書けたら同じタイトルに№ふります。