映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『恐怖の報酬』(1953年)感想・ネタバレ

監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー


前回の『エクソシスト』(1973年)を観た後に、フリードキン監督の他作品も観てみようと思ってフィルモグラフィを眺めていたら、『恐怖の報酬』という面白そうなタイトルが目に止まり、あらすじを読んだら、「男たちが命懸けでニトログリセリンをトラック輸送する」物語だったので、これ絶対観よう!と思ってレンタルして観始めると、明らかにフリードキン監督作とは思えない古さだったので調べました。そして理解しました。

1953年のアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画を、1977年にフリードキン監督がリメイクしたんですね。
そのリメイク版は、公開にあたって北米以外では短縮版が上映され、以降も短縮板のTV放映数回と、1991年に短縮版のセル・ビデオが発売されたのみで、ほぼ観られない状態にあったのが公開から40年を経て、オリジナル完全版が今月公開されるそうです。
なんてタイムリー。
というか、レンタルしよう!の時点で間違っていました。
無知ゆえにアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の『恐怖の報酬』を観る事が出来たようです。

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主人公のマリオとジョーのペアと、マリオの友人ルイージとビンバのペアが、それぞれトラックに乗り込んで、2台のトラックがニトログリセリンを油田火災現場まで運ぶことになるのですが、この展開からルイージとビンバペアの爆発は確定しているようなもので、見るからに危ない時は爆発しなくて大丈夫そうな時に爆発するんだろうな、などと大上段に構えていたら、ビンバが走るトラックの中で急にヒゲを剃り始めて、ルイージが何をしているのかと聞くと、「俺の親父は処刑される前に風呂に入らせてくれと頼んで身奇麗にして死んだから、俺もそうしてる」と言い始めてギョッとしました。
爆発の前振りのようなのですが、よくネタになる洋画の死亡フラグとは明らかに違い、ビンバには自分の死が分かっています。
こちらを見透かしたようなビンバのメタ的な言動に、現実と虚構の感覚が揺さぶられて動揺したまま、すぐに場面はのんびりとした様子で会話を交わすマリオ・ジョーペアへと切り替わります。
二人のやり取りをなぞるように追っていると、ジョーがマリオに煙草を吸うかと訊ねて、運転しているマリオが「巻いてくれ」とジョーに頼みます。煙草を巻く手元を捉えたジョーの視点ショットが映り、自然と意識が視点に同調して、一点凝視のような、ぼんやりとした集中状態になると、そこに突然風が吹いてタバコの葉が飛び散り、手元を映すショットに小さな爆発のようなものが見えた瞬間、ハッとして我に返りました。
気がつくと目の前には爆煙が上がっていて、さらに追い討ちをかけるように遅れて爆音が響き、ルイージとビンバが死んだことが分かるのですが、予め承知していたはずの二人の死が、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の術にはまり、予想外のショッキングな出来事のように感じられて、もうこれ催眠術とどう違うのか分からないぐらいコントロールされた気がしてしょうがないです。

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思い返すと、爆風が爆音より先に来るとは考えられないので、タバコの葉を散らしたあの風は爆風じゃなくて、ただ風が吹いただけなんですよね。
今まで映画の中で意味ありげに吹く風を、漠然と予感や予兆のようなものだと思っていたのですが、この映画を観て、出来事や物事というか、その根本となる揺らぎなんじゃないかと思いはじめています。
ルイージとビンバが死んだ原因は示されていないのですが、風が吹いたから死んだんでしょうね。



フリードキン版、どうなんでしょうか。オリジナルが凄すぎて、ただ観るだけなのにプレッシャーを感じてしまいそうです。

『エクソシスト』(1973年)感想・ネタバレ

この記事は、『エクソシスト/ディレクターズ・カット版』を見て書きました。

監督:ウィリアム・フリードキン




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この映画には因果が描かれない。
物語は、偶然の一致で繋がっている。
超自然的な偶然の一致の数々を知るのは、登場人物の誰でもなく、鑑賞者である。


イラク北部でメリン神父が見つけた聖父子像のコインと同じものを神父のデミアンが夢に見ること。そのコインをデミアンがペンダントトップにして身につけていたこと。
録音されたリーガンの言葉が逆再生され、聞こえてくる「メリン」の言葉が、冒頭に登場した老神父の名前であることを、デミアンが気づくはずはない。
メリンと鑑賞者しか知らない彫像が、リーガンの部屋に現れた時、いったいあれをデミアンは何だと思ったのだろうか。
リーガンとデミアンが一瞬幻視する内なる邪悪な形相の顔は、台所を歩くクリスを捉えたショットの中に不意に現れる。あの邪悪な形相の顔は、リーガンとデミアンの内側に宿る何かの表象ではないのか。鑑賞者の見つめるスクリーンの中に不意に映り込む時、それはどこに宿る何の投影として現れているのか。そしてリーガン、デミアンとその幻視がつながることはまた、鑑賞者にしか知らされない。


鑑賞者だけが知る、超自然的な偶然の一致の数々は、リーガンと対峙したデミアンが知覚する偶然の一致と同じものであるかのように描かれてはいないだろうか。
デミアンは、リーガンがデミアンの母の死を知っていることや、地下鉄で出会った老人の言葉「年とった信者を助けろ、神父」をリーガンもまた言うことに意味を見出し、大司教に悪魔祓いの儀式を行う許可を求める。


この映画の偶然の一致は、一本の映画として繋げられることにより立ち現れ、そこに偶然の一致以上の説明はない。
それはまるで、「虫の知らせ」や「予知」といった、共時性シンクロニシティ)と呼ばれる超心理学的な現象として描かれている。それを体験した当事者が、因果的なつながりのない事象に意味を見出すように、この映画を観た者が、そこに意味を見出すよう意図的に映画が構築されている。
共時性現象という超心理学的構造によって、この映画は語られているのである。

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C.G. ユングが提唱した共時性、別名「非因果的関連の原理」には、直線的な因果性はなく「相対的な同時性」があるとユングは主張している。時間や空間の隔たりが消失し、それらが同時に起こっていると知覚されるものだという。
イラク北部の出来事とジョージタウンの出来事がひとつの映画としてつなげられることにより、鑑賞者は「相対的な同時性」を知覚し、そこに現れる共通するモチーフに超自然的な偶然の一致を感じ取る。
これは、そもそも映画に備わる特性の一つだろう。
この特性を生かした場面は、これまで見てきた映画にも数多くあったが、『エクソシスト』は鑑賞者に神秘的知覚を覚えさせるために、約2時間ある映画全編を共時性現象として描いている。

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では、『エクソシスト』という共時性現象に意味を見出すとしたら、どのような解釈が可能だろうか。


イラク北部でメリン神父は発掘調査を行っている。見つかった遺跡の中にあった、他とは製造年代の異なる聖父子像のコインは、キリスト教が古代神話に触れた痕跡や養父、または在宅する父の存在を暗示している。発掘作業の現地事務局らしき事務所に掲げられていた振子時計が止まった場面以降のメリンの行動は曖昧で、彼は身体の具合が良くないように見えるし、イラクで異国人として彷徨っているようにも見える。イラクの場面のラストは、古代神話に登場する怪物のような彫像を前に、戦う犬の獰猛さや監視する原住民の不穏さが強調されており、メリンと彫像の対峙に不吉な予感が伴う。


ジョージタウンでは大学構内で映画の撮影が行なわれている。女優のクリスと監督のバーグとの軽妙な掛け合いを楽しむ聴衆を映したショットの中央に、笑うデミアン神父の姿が見える。この後、撮影現場を背に歩き去るデミアンの姿が映り、撮影現場から徒歩で家路につくクリスが教会の前庭で神父仲間と話しをするデミアンの姿に目を止め、デミアンは物語に因縁づけられる。まるでクリスの深刻な眼差しがデミアンをこの映画に深く関わらせでもしたかのように、この後、デミアンの身に起こる出来事はマクニール母娘の出来事と平行して語られていく。


リーガンはまもなく12歳の誕生日を迎えようとしていた。母親と噂が報じられている映画監督のバーグを誕生日に呼ばないのかと訊ねるリーガンに、パパを愛しているとクリスは答える。誕生日当日、娘に電話一本寄越さない夫への不満を電話越しにぶちまけるクリスの罵詈雑言をリーガンは離れた部屋でじっと聞いている。このような場面からは母親の恋愛に娘が不安を抱いていることや、母親の本音と建前に娘が気づいていることがうかがえる。


リーガンの部屋の真上にある屋根裏部屋あたりから聞こえる原因不明の物音はいっこうに止まず、リーガンもベッドが揺れて眠れないと不満を漏らし始める。この時点でリーガンに奇行は見られないが、クリスはリーガンを病院に連れて行く。大人しく検査を受けるリーガンを捉えたショットが邪悪な形相の顔のショットに一瞬だけ切り替わる。その後、リーガンの様子にイラだったり虚ろになったりする変化が見え始める。
病院の検査を受けるまでリーガンに奇行は見られなかった。病院に連れて行ったことで彼女の奇行は始まり出している。この後、病院の検査は大掛かりになっていきリーガンの身体的苦痛は増していく。そして、そのことと比例するかのように彼女の奇行は常軌を逸していく。
リーガンの精神は後回しにされ身体的苦痛だけが増していくことと、リーガンの部屋を訪れたクリスが開いている窓を閉める描写が二度出てくることとは何か関係があるかもしれない。
二度ともリーガンは眠っている。この、眠るリーガンを無意識の状態にあると捉えると、そこで開いている窓は無意識の開放を表しているようである。そして、常に窓を閉ざすクリスの描写は、身体検査を繰り返しリーガンの精神を蔑ろにするクリスの振る舞いと重なる。検査を受けさせることも窓を閉めることも、どちらも子を心配する親の振る舞いだが、窓を閉ざすように外から隠され見えなくなっていくものが存在している。
また、これらの描写とオープニングのイラク北部の発掘場面は対応している。
地中に埋もれ外から見えないものは無意識に埋もれているものであり、それを掘り起こす行為は、それを顕現させることの暗喩のようである。


リーガンの奇行は見えない存在の顕現と関係するかのように、人々の集まる一階の部屋へ下りて行って失禁したり、同じく一階に集う人々の元にブリッジの体勢で階段を下りて行って吐血をするなど、人に見せる事が目的の一つとしてあるように思われる。
そして、殆どの奇行は死や性といった現代のタブーに抵触している。夢遊病のような状態で、予言を思わせる「お前は宇宙で死ぬ」といった発言をすることや、デミアンの苦悩の暴露、メリン神父が見た彫像を部屋に出現させることなどから、リーガンの奇行には彼女自身の苦悩の表出というよりも、接触した他者の苦悩や不安の顕現が見て取れる。謂わばシャーマニスティックな行為としてリーガンの奇行は描かれている。


デミアンはメリンにリーガンの状態を説明しようと「リーガンに憑いた霊の事をご説明します。わたしの観察では3つです」と話し始めるが、メリンは「1つだ」と返し、デミアンの言葉は遮られる。デミアン精神科医の観点から考え得る思春期の少女に見られる一般的な症状や、リーガンの置かれた環境の不安定さからくる症状、もしくは神父として悪魔的なものの存在について言及しようとしていたのかもしれない。だがこの場合、メリンの言うように原因は「1つ」である。
それはメリンがイランで発掘し、対峙したものと同じ、無意識下にある混沌である。
この無意識下の混沌と対応するのが神話的彫像であることから、ここで扱われている無意識には、ユングの提唱した「集合的無意識」が含まれていると考えられる。それはフロイトの提唱した「個人的無意識」のより下層に存在するとされ、個人的な心の領域を超えて、人類とその歴史に対応する数々の神話研究から導かれた元型により構成された「人類史的無意識」といえるものである。
リーガンはそのような、自己のものとも他者のものともいつのものとも区別のつかない無意識下の混沌の中で憑依的な振る舞いをしている。

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張込みをするキンダーマン警部がベッドに縛りつけられているはずのリーガンの動く影を見たり、デミアンに母の姿を映し出して見せたりするあの不思議な窓は、意識と無意識の境界面を表している。眠るリーガンの部屋の窓が開いていることは自身の無意識の開放であり、他者の意識の傍受でもあるのだろう。
だとすると、この場合においてメリンとデミアンが行う悪魔祓いの儀式とは、混沌の秩序化に他ならない。それは古くからキリスト教宣教師が行ってきたような、未開地への布教活動に似たものなのかもしれない。
混沌の秩序化とは野性の理性化でもある。映画冒頭で神話的彫像と対峙したメリンは、謂わば秩序と理性の象徴なわけだが、彼が悪魔祓いの儀式という秩序化の半ばで死亡したことにより状況は混沌を極める。
理性を失い激昂しリーガンに掴みかかるデミアンと、それに抵抗するリーガンの揉み合いは、「合体なのだ」「リーガンと?」「お前もさ」という、以前の二人の会話の状況そのものになっている。二人は無意識下の混沌の中で縺れ合っている。
度々登場する聖父子像のコインはリーガンの苦悩に対応するモチーフでありながら、デミアンが身につけている。そしてデミアンの苦悩をリーガンが顕現してみせるといった鏡像的な関係がうかがえることから、二人を一枚のコインの表と裏と捉えることができるだろう。聖父子像のコインの本当の裏側はデミアンの苦悩に対応する聖母子像ではないのか。
デミアンの夢の中で聖父子像のコインは落下していく。そして走る野良犬をブリッジに、コインと振子時計の振子が繋がれている。ペンダントのモチーフはリーガンとデミアンの苦悩を、ペンダントの落下は無意識への降下を、ペンダント用のチェーンのついたコインと振子時計の振子の形状の相似から、振子の左右は秩序と混沌を表している。
イラク場面での振子時計の停止は、左右に振れていた秩序と混沌のバランスの崩壊であり、共時的時間(時間の隔たりの消失)の象徴として描かれている。

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リーガンはデミアンのペンダントを引きちぎり、デミアンは「俺に乗り移れ」と叫ぶ。その叫びの後、デミアンの相貌が邪悪に変化し、彼は再びリーガンに襲い掛かろうとする。その衝動を押さえ込むかのようにデミアンが身体を強張らせると、彼の相貌が元に戻る。その瞬間、目の前の窓ガラスに浮かび上がった母親の姿を見て、デミアンは窓ガラスを突き破って飛び出し、そのまま家の脇道の先にある階段下へと転げ落ちる。
リーガンの手によって聖父子像のペンダントが取られ、夜の窓ガラスという鏡にデミアンは母の姿を見る。この時、それぞれの苦悩を自身の手の内や姿として獲得し、リーガンとデミアンの間にあった混沌が秩序化し始めている。
一瞬理性を取り戻したデミアンは自身の無意識の顕現という、混沌がもたらす恐怖への抵抗であるリーガンへの暴力を思い止まる。そして鏡(夜の窓ガラス)が映し出した混沌を引き受けるかのように、鏡の向こうの無意識へ飛び込んでいく。
このデミアンの行動が無意識の混沌空間だったリーガンの部屋に秩序をもたらす。リーガンの手により聖父子像のモチーフを獲得したことも大きな要因だが、コインの表裏のような一対の関係にあるデミアンの理性による行動が、無意識と意識の境界面(窓)の反転化をもたらしたことにより無意識状態にあったリーガンの部屋は秩序化され、彼女も自身の意識を取り戻す。
混沌の恐怖の中で死を迎えようとしていたデミアンにダイアー神父が駆け寄り告解を授ける。事の顛末を知らないはずのデミアンの友人は、デミアンを混沌の恐怖の中から救おうと、死の間際の友人に儀礼という秩序化を施す。

マクニール母娘の引越しを見送るダイアー神父の手に聖父子像のペンダントが渡される。ダイアー神父はそのペンダントの裏に隠された聖母子像に思い至りデミアンを偲ぶ。そして取り戻した秩序をそっとしておくかのように、クリスの手にペンダントを返す。脇道の先の階段下を見つめるダイアー神父の横顔の奥に、板によって完全に閉ざされたリーガンのかつての部屋の窓が見えている。

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ユングに関する超心理学については、こちらの研究報告を参考にしました。
共時性の意味論」(2003年 田中彰吾)
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/data/tanaka1.pdf



懐かしがって久々に観てみたら、観ていなかった事に気づきました。
どうも有名な場面や音楽をテレビかなんかで知って、観た気になっていただけのようです。
犬神家の一族』とかも、実は見てない気がしています。

『FEAR X フィアー・エックス』(2003年)感想・ネタバレ

監督:ニコラス・ウィンディング・レフン

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イーストウッドヒア アフター』(2010年)の、部屋で一人食事をするマッド・デイモンや、『ハドソン川の奇跡』(2016年)のホテルのベッドに腰かけて一点凝視しているアーロン・エッカードの、人に見られていない時の人、一人でいる時の人としかいいようのない佇まいにグッとくるたちで、孤独といったら大げさかもしれませんが、あまり生きてて意識される瞬間ではないけれど、誰しもにある瞬間が映画に映っていると惹きつけられてしまいます。
人によっては、このような人に見られていない時の自分や、一人でいる時の自分の佇まいに意識が行きがちで、そうやって孤独に集中してしまう人がいるだろうなと思うのですが、そんな人に、レフン監督の映画がもっと届いたらいいなと『FEAR X フィアー・エックス』を観て思いました。


ハリウッド映画の一昔前のバディもの刑事ドラマなんかを観ていると、主演の二人は一つの世界を共有していて、そこに映る世界は揺るぎなく安定していて、こちらも安心して観ることができるわけですが、『FEAR X フィアー・エックス』の主人公ハリーは、部屋で一人で解像度の低い監視カメラの映像をソファから降りて、奇妙なポーズで凝視していたりして、映画が始まった時には既に触れがたい集中状態にあって、ずっと佇まいが、人に見られていない時の人、一人でいる時の人です。こうなると世界がうかがい知れないというか、ずっと不安な状態で世界を探るような鑑賞を強いられます。
ハリーの妻を殺した警察官には、妻も子供もいるわけですが、この人も登場した時からハリーと同じ雰囲気を纏っています。だから、ハリーの境遇が孤独なわけではなく、彼らの状態というか、何ならレフン監督の切り取る人物の状態が殆どそうかもしれない。
登場人物の孤独な集中力が物語を牽引している感じがレフン監督の映画には、そういえばずっとあるなと思いました。


クライマックスで提示されるものはイメージのようで、具体的な描写とは思えないものですが、クライマックスに至るまでに何度か挿入されていた膜の中で蠢く人の赤いショットから、『オンリー・ゴッド』(2013年)でもそうだったのですが、イメージと現実とを繋ぐ描写として、イメージの赤が現実に現前する出来事が起こり(拳銃で撃たれる)、現実とイメージが繋がって、イメージが現実に溢れ出てきて、ホテルが水浸しになってどうなったの?って感じなのですが、隔絶された集中状態にあったハリーのものだろうと思われるイメージが、羊水だとか羊膜だとかの母体内を連想させ、妊娠した妻のお腹に耳を当てるハリーの頭を妻が撫でる幻視のようなフラッシュバックの場面に、赤い膜から手が伸びてくるショットが繋げられていたことから、ハリーと妻と胎児が三位一体となった世界のイメージがあって、そこが原始であり野生でもあるような膜の中の赤い世界としてハリーの中に内在していたのだろうと推測されるので、クライマックスは内在するハリーのイメージの表出が成されたのだろうと思います。
実際の出来事としては、妻を殺した刑事をハリーが殺して、汚職刑事を殺害する組織による揉み消しによりそれが不問に付され、ホテルで起こった事件は無かったことになったのかもしれません。
妻が生き返るわけではないことは分かっている。「復讐がしたいわけではない、なぜ妻がころされたのか知りたいだけ」というのは、ハリーの自覚出来るところの目的であって、悲しみと憤りで集中し、研ぎ澄まされたことにより生まれた言語化できないハリーのイメージの表出が彼の欲求だったのかもしれません。だから、「復讐したかったわけではない」としか彼には言えない。内なる世界の表出は、本来ならカタルシスを得られるものなのでしょうが、果てしない夢想の自覚みたいな悲しい諦念に至ったかのような終わり方でした。
無駄口も空虚で、言語化できることしか語らないレフン監督の登場人物は皆無口です。





音楽がスティーヴ・ライヒっぽいと思ったら、ブライアン・イーノでした。ミニマルな感じは観終わるとこの物語にピッタリですが、鑑賞途中は音楽でもいいのでヒントを下さい、という気持ちになりました。
汚職刑事を殺害する組織だとか、三位一体のイメージとか、最後にハリーがベッドの上でうずくまって泣く病室の壁に十字架が掲げられていたりして『オンリー・ゴッド』と似た印象を受けますが、レフン監督を掘り下げるのは大変そうです。

『フランティック』(1988年)感想・ネタバレ

監督:ロマン・ポランスキー


スマホアプリ『ぴあ』で黒沢監督が、映画監督について話している記事があるのは知っていたのですが、ポランスキーについて話しているというのをTwitterで知り、気になったのでダウンロードして読みました。
そこで黒沢監督が、好きな作品として取り上げていた『フランティック』を、ミーハーなので早速観てみました。

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フランティック(Frantic)とは半狂乱という意味らしいですが、率直に言って悪夢のような映画でした。
この映画に見られる、巻き込まれ型主人公とマクガフィンを挙げて、ヒッチコック作品に言及するレビューをいくつか読んだのですが、ヒッチコックで挙げるとすれば、もう物語が『めまい』(1958年)です。


映画が始まると、看板や小物など、とにかく赤いものがどこかにずっとチラチラ映っているのですが、ウォーカー夫妻がホテルの部屋に入って少しすると、ちょうど赤いものが映り込まない位置にカメラが固定されます。全体がアースカラーでビビッドな色みのないショットに固定されて、何だろうと思って見ていると、画面の奥にいる妻のサンドラが、ベッドの上の白いトランクから赤いワンピースを取り出すのです。またまた赤というか、まず赤をチラチラ出しておいて、一旦画面から完全に赤を消して赤を出す。手品ではないのですが、手品みたいな手法で、赤を印象づけています。
その後、シャワーを浴びるリチャードを捉えた画面の奥にいた妻が、赤いワンピースとともに画面から消えます。今度はカットを割らず、目の前で赤を消してみせます。


ヒッチコックの言うマクガフィンに意味は無いと言われていますが(本当かどうかは知らない)、『フランティック』のマクガフィンには意味があります。意味を持つマクガフィンは、もうマクガフィンではないのかもしれませんが、この記事の便宜上、物語の推進力となるリチャードの探しものをマクガフィンだとすると、白いトランクの取り違えから、赤いワンピースとともに妻が失踪し、まずは妻を探し始めます。そして妻を助け出すために、ミシェルがアメリカからフランスへ運んだ何かを探さなくてはならなくなります。その何かとは、アメリカの自由の女神像の置物で、その像の中に隠された核爆弾の起爆装置部品クライトロンへとマクガフィンは移り変わっていきます。
マクガフィンとは赤いワンピースの妻であり、自由の女神像の中のクライトロンなのですが、物語の途中でミシェルが赤いワンピースを着ることによって、事態が複雑になっていきます。赤いワンピースの妻とクライトロンと赤いワンピースのミシェルが、マクガフィンとして同様の意味を持って語られ始めるのです。

これらのマクガフィンをシンプルに換言するならば、「リチャードの失せもの」です。となると物語は、「リチャードの失せもの探し」と言い換えることが出来るでしょう。
物語では、妻の失踪という「リチャードの失せもの」探しの過程で、とある組織の失せものを探さなくてはいけなくなり、ミシェルは失せものではなく、一緒に失せもの探しをするパートナーなわけですが、最終的にミシェルが死に、リチャードが彼女を失くすことから、リチャードが探していた失せものとは、ミシェルへの愛であったことが分かります。
核爆弾の起爆装置部品や赤いワンピースの女とは、世界を変える運命の予感に他なりません。リチャードは世界を変えるマクガフィンという運命の予感に導かれ、ミシェルを失うことで愛を知り、彼の世界は変わってしまうのです。
妻と引換に渡さなくてはならない、妻と等価であるアメリカの自由の女神像がミシェルのアパートの屋根の上から落ちそうになった時、リチャードは自由の女神像ではなくミシェルを助けますし、二人は長い時間ダンスを踊ります。主人公の男性とあれだけ長い時間ダンスを踊る女性が、主人公にとって特別な存在でないわけがないのですが、ミシェルの死によって遡って愛の物語が語られているように思えるのは、愛が喪失と不可分なものだからです。
鑑賞者も、ミシェルの死によって愛に気づき、リチャードが探す失せものが何であったのかを知るのです。


この映画は始まってすぐに、赤を探すよう促しています。
私たちは当初、それを赤いワンピースを着た妻のことだと思うのですが、それはいつしか赤いワンピースのミシェルとなり、彼女の流す血の赤が、この映画が探していた本当の赤だと、それまでの赤はここに至るまでの予感に過ぎなかったと悟るのです。
死んだミシェルを抱えてリチャードは橋の下を歩いて行きます。この時のリチャードは、まるでゴールデン・ゲート・ブリッジのほとりで愛する女を抱えて歩く『めまい』のスコティのようですし、その脇に寄り添う赤いワンピースを着た妻は、赤いワンピースを着ていたミシェルの亡霊のようです。
その後リチャードは、車の中でミシェルの亡霊になった妻に「愛している」と告げ、泣きながら彼女を掻き抱きます。


映画のオープニングは、感傷的でドラマティックなテーマ音楽とともに走行する車のフロントガラスから見える車道の景色を映し出しますが、エンディングではリアガラスから見える景色にテーマ音楽が重なっています。走行する小さな空間に身を置き、失った愛を振り返る空虚な空間がリチャードの人生になってしまったのです。
シャワー室から見えていた妻が消える瞬間、テーマ音楽のイントロが流れています。失う愛の予感としてそれは流れるわけですが、引き返せない人生の中で唐突に愛に気づき、それまでやこれからの全てが無意味なってしまうこの物語は恐ろしすぎます。


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フランティック」は、今まで見たどのポランスキー映画よりシリアスですね。オープニングに流れるテーマ音楽が感傷的すぎて、軽妙なタッチの描写を見ても、何か騙されているんじゃないか?と終始警戒心が緩みませんでした。戸惑うリチャードと止まらないミシェルのくねくねダンスには面食らいましたが、最後まで観ると、結構大事な場面だなと思いつつ、あれが?みたいな、何とも言えない気持ちになります。

『イット・フォローズ(It Follows)』(2014年)感想・ネタバレ

監督:デヴィッド・ロバート・ミッチェル



友人に勧められて観てみました。
そういえば話題になっていた気がする。

繊細さの演出や繊細さを表したショットが、今どきというかありがちで、そんな悠長な事やってる時間は映画には無いぞと思うのですが、むしろそこがウケてるのかもしれません。


設定上ずっと移動しなければいけないというのが、この映画の物語においても、ホラーというジャンル的にも意味を成していて、面白い移動映画です。
(面白い移動映画には、他にも『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』(1997年)があります。特にどこに行くでもなく、物語のためでもなく、ひたすらアクションのためにピアーズ・ブロスナンが移動します。)



この映画には、「それ」の正体についての考察レビューが沢山あって、「それ」が性病のメタファーというのを読んだのですが、性病のメタファーだったらもっと違う方法で描いたはずです。ティーンエイジャーのSEXパンデミックものとか、そういう方向になるんじゃないでしょうか。
「それ」がボーイフレンドについてて、「誰と寝たの!」「見えるってことはおまえも寝たんだろ!」や、アメフトのキャプテンが「それ」つきだと噂されてスクールカースト下位の女の子に声掛けるんだけど「「それ」がついてなくてもあんたなんかお断り!」ってやられたりするような。
適当に書いてますが。



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今どきな繊細さで演出された描写やショット(回りくどくてすみません。あれを繊細だとは言いたくない)、映画冒頭に出てくる家を飛び出す下着姿の女の子と父親のやりとり、ヒューの空っぽの家、家にいられなくて何度も家を出ていく描写、クライマックスで遭遇するジェイの父親の姿をした「それ」など、数え出したらきりがないぐらいジェイの過去のトラウマを想像させる描写がたくさんあります。
ジェイが草で傷を可視化してみせたり、「それ」が父親の姿をしていることを言いたがらなかったり、度々映る奇妙に古風な家族写真もそうです。


それらの描写と、なぜジェイを中心にして「それ」を見るのかについて考えれば、「それ」が映画が始まる以前の彼女の身に起きた性に関するトラウマの可視化だと分かるはずです。
ヒューとのデートで二人は近場の誰かに成りかわり、相手が誰になっているかの正体当てゲームをしますが、ジェイが誰に成りかわっているのかを当てる前に場面が変わってしまう(トラウマの可視化である「それ」をヒューが彼女の入れかわりだと言う)のは、彼女が既に過去のトラウマにより自身を偽って生きているからに他なりません。
また、グレッグの「(ジェイに)償いたい」という台詞と、ジェイの「彼とは前に寝たことがある」という台詞はつながっていて、グレッグはジェイに償わなければならないようなことを過去にしたことがわかります。
ジェイには、父親からの性暴力の他にも性暴力の被害にあった過去があるのです。


物語の流れからもわかります。
グレッグの死体をグレッグの母親の姿をした「それ」が犯してみせ(家族からのレイプ)、その後ジェイは、海に入り自らレイプをされに行き(過去の被害の追認)、屋根の上に立つ全裸の父親の姿をした「それ」を黙って見つめるのです(トラウマの自覚)。



映画終盤の、決して傷を負ったり、そのトラウマが蘇ったりしない、何も変わらないポールとのセックスは、ジェイの知らなかった愛のあるセックスです。
二人が手を繋いで歩く最後の描写は、死に直面するような危機から脱したジェイが、でも決して消え去ってはしまわない過去のトラウマを後ろに連れて、ポールと歩いていく様子を表しています。
ポールが車で娼婦の脇を通る描写も、いつの事柄か曖昧な描写ですが、性にまつわるポールのトラウマのようにも思えます。
誰しもが抱える性にまつわるトラウマと愛、そこには死と生が直結しています。



かなり優等生的な作りのホラー映画です。古風というか普遍的な題材を、今どきな描写でシンプルに描いています。

『回路』(2001年)枠と鏡のシステムと視線の行く先

監督:黒沢清



「ある日それは何気なく、こんなふうに始まったのです」

映画冒頭のミチ(麻生久美子)のモノローグ。「こんなふうに」とは、彼女の同僚田口(水橋研二)の自殺を指している。田口の家の中に、黒沢監督映画に頻出する半透明のビニールの間仕切りが確認できる。

今回見直して気になったのは、田口の家のPC机の下や、川島(加藤晴彦)の家のラグやランプシェード、ミチの家の毛布、「幽霊にあいたいですか」という文字の出るサイトに登場する黒ビニール袋を頭にかぶった男の部屋、ミチが勤める会社「サニープラント販売」の倉庫、春江(小雪)と吉崎(武田真治)の研究室、春江のマンションの廊下と部屋など、かなりの場面の小道具や床が格子模様になっていることだった。

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『回路』には、格子模様・市松模様・チェス盤のような模様が頻出する。


その他では、フロッピーディスクに入っていた田口の写真の中に映る消灯したPCモニターに、田口の後ろ姿が合わせ鏡のように映り込んでいることや、黒ビニール袋を頭にかぶった男の部屋の壁に書かれた鏡文字の「助けて」。図書館で出口が分からなくなる川島の描写と、図書館の本棚やデスクライトの奥行を持たせた無限回廊のような並びのショット。春江の部屋の布で覆われた鏡台などに見られる、隠された鏡の存在を仄めかすいくつかの描写も気になった。


そこでまず思いついたのが、格子模様に映画の場面空間を落とし込んで、その空間のどこかに見えない(映っていない)鏡を設置してみたら、『回路』に数ある不可解なショットのどれかを説明できるのではないか、ということだった。
結果としては、いくつか上手くいったので紹介しておく。
まずは、「幽霊にあいたいですか」という文字の出るサイトに登場する、黒ビニール袋を頭にかぶった男の映像から。
男の背面の壁に書かれた「助けて」という鏡文字も妙だが、他にも、この男は映像の中でおかしな動きを見せる。それは川島がこの映像を見る場面で確認できる。PCモニター越しにこちらへ迫ってくる男は、やがてモニターの右側へフレームアウトする。その直後、男はモニターの左側からフレームインするのだ。黒いビニール袋をかぶる男が、この映像内に二人いればできないことはない。編集でも可能だろう。
ただそのような仕掛けがあるのだとすると、鏡文字はまったくの別現象として考えなくてはならなくなる。男のこのおかしな動きと鏡文字には何か関係があるはず、全てが説明できるカラクリがあるはずだと、あれこれ検索してみたら、「ペッパーズ・ゴースト」がヒットした。
wikiの説明も画像もとても分かりやすいので、簡単なカラクリをまずは確認して欲しい。
ペッパーズ・ゴースト - Wikipedia
照明によって空間に明暗を作り出し、板ガラスにハーフミラー効果を生じさせる事で可能になる視覚トリックである。

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「ペッパーズ・ゴースト」にあてはめた黒ビニール袋をかぶった男の映像図

この装置を用いれば、壁の鏡文字と男のおかしな動きの説明がまとめてつく。


その他では、フロッピーディスクに収められていた田口の写真も説明できるだろう。
その写真を見た順子(有坂来瞳)は、思わず「どうなってんのこれ」と呟く。
PC机の前に立つ田口の右下の消灯したモニターに、おなじくPC机の前に立つ田口の姿が映っている。消灯したモニターが鏡のように外界を映し込むのは見慣れた現象だが、この写真のような映り方をするには、この写真を写したと思われるカメラとほぼ同位置に大きな鏡が無くてはならない。ちょうど位置的には、半透明のビニールの間仕切りがあったあたりだろう。そして、モニターに映り込む映像に、撮影者や撮影機器の映り込みは確認できない。

だとすると、例えばあの半透明のビニールの間仕切りがハーフミラー(マジックミラー)ならどうだろうか、と思う。あの半透明のビニールがハーフミラーで、田口のいる側が鏡面なら、あの写真を撮った者(もしくは撮影機器)は田口のいる空間よりずっと暗い反対側にいて(あって)、ガラス面越しに内側(田口側)を撮っている。そもそもそんな大きなハーフミラーがあの部屋の中にあると想定するのはおかしいのだが、そのように考えないと説明がつかない写真であることは確かだ。

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合わせ鏡の略図(田口の部屋)



鏡というよりはハーフミラー、またはガラスによるハーフミラー効果が、『回路』に数ある不可解なショットの裏には隠されている。
「こんな感じでそれは世界中に広まった」という吉崎の台詞があるが、その時、画面に映っているのは崩れた壁の破片にくっついた何のケーブルもつながっていないLANコンセントだ。田口の家を訪れた矢部は、何かはわからないが何かを探していて、その過程でつながっていないLANケーブルを発見する。PCモニターに映る自分自身を見た春江が、それを映す何かに近づいていく場面を見ても気づいたと思うが、そこには何もない。ただ虚空があるだけだった。
これらの描写から考えられるのは、そもそもインターネットは、つながっていないかもしれないということだ。或いは、物理的にインターネットがつながっているかいないかは、この映画の中に見られる様々な不可思議な現象とは関係がないのかもしれない。
そうなると、モニターに映る映像はどうやって見えているのだろうか。
黒ビニール袋を頭にかぶった男の「ペッパーズ・ゴースト」図や、合わせ鏡の略図(田口の部屋)を眺めていて思うが、四角い枠とガラスと光の明暗があれば、どうも『回路』の世界のモニターは映像を映し出すようだ。
インターネットといって、彼らが何をしているかというと、何かを見ているのである。
モニターの枠は眼差しを媒介し、モニター画面のハーフミラー効果によって生じる眼差しの方向性がインターネットでいうところの回線なのかもしれない。いうなれば眼差す装置のようなものとして、この映画ではインターネットが扱われている。このことは、登場人物が見る映像に音がついていないことからも伺えるだろう。あの箱(モニター)は、眼差しを媒介する光学器械なのかもしれない。


四角い枠とガラスと光の明暗によって、不可解な画像や映像が映し出されるわけだが、物語が進行すると、その影響はモニターの外にまで及んでいくように思われる。ただその時注意したいのが、ハーフミラー効果を引き起こす光の明暗が、場面の明暗と単純に合致しないということである。
なぜなら、目に見える明暗がひっくり返ってしまったかのような場面があるからだ。
それは、様子のおかしくなった順子を家で休ませ、ミチがコンビニに買い物に行く場面で確認できる。ハーフミラー(マジックミラー)で検索すると、身近なハーフミラーの使用例としてよく紹介されるのがコンビニの店内とバックヤードを隔てる扉の窓だ。通常、ハーフミラー越しに暗いバックヤードから明るい店内を見ると、窓はガラスのようになって店内の様子が薄暗く確認できるのだが、この場面では、カウンターの奥に不自然なほど大きな枠付きの窓があり、そこに明るい店内から見えるはずのないバックヤードの中に佇む店員の姿が薄暗く見えている。あれは誇張されたハーフミラーであり、明暗の入れ替わりを表す場面だろう。いよいよ街は暗くなり、今まで見えなかったはずの向こう側が見えてしまう。見えなかったものが見え始め、見る者と見られる者の関係の転倒が身近に(コンビニ)迫っていることが決定的になった場面である。
四角い枠とガラスと光の明暗があれば、どうも『回路』の世界のモニターは映像を映し出すようだとつい先ほど書いたが、四角い枠とガラスと光の明暗は、どこにあっても方向づけられた視線の媒体として機能するようだ。


なぜ、このような事態が引き起こされたのだろうか。
あくまで仮定としながら、吉崎が語るそもそもの事の起こり。
その語りの場面には、作業員(哀川翔)が登場する。作業員は、「何かテープないですか」と、同僚が持っていたテープを借りて部屋の窓やドアを塞ぎ、「あかずの間」を作っている。窓やドアをテープで塞がれて真っ暗になったはずの「あかずの間」に、なぜか光が射し、幽霊のようなものが現れる。その後「あかずの間」は取り壊されてしまう。
そして唐突に、それまでこの場面のどこにも出てきていない、崩れた壁の破片にくっついた何のケーブルもつながっていないLANコンセントが映り、そこに吉崎の台詞、「こんな感じでそれは世界中に広まった」が重なる。
これは、いつかわからないどこかで起こったことなのだろうか。回想のような、イメージのような抽象的な場面は、漠然としていて正直よく分からないわけだが、一番分からないのは、作業員が塞ぎきった「あかずの間」に光が射すことである。あの光は自然現象というより、ほとんど形而上的な光のように描かれている。
ただ、吉崎が語るそもそもの事の起こりが、あのように漠然としていて、形而上的な光りが射す訳については大体見当がついている。この場面は、実際にあったことであり、そういうものだと今日に伝えられているものを描写しているのだ。
この、実際にあったそういうものとは、ほとんど自然現象のような、光学器械の起源とされる「カメラ・オブスクラ」(ラテン語で「暗い部屋」の意味)である。それは、「壁や窓の小孔(ピンホール)を通して、外部の像が反対側の白い壁や幕に上下逆に映し出される仕掛け」(中川邦明著『映像の起源』1997 美術出版社)であり、その現象を初めて捉えたのは、哲学者のアリストテレス(BC384?322)だとこの本には書かれている。
「眼差しを媒介する光学器械」のそもそもの始まりを調べると、吉崎でなくとも大概の人がカメラ・オブスクラに行き着くだろう。「真っ暗になったはずの「あかずの間」に、なぜか光が射し、幽霊のようなものが現れる」現象は、人間がこの現象を発見する以前から、いつからか始まっていたことであり、気づいたらそうなっていたとしかいいようがない。だから、理由なく暗闇は作られ、なぜかわからないけどそこに光りが射し、幽霊のような像が現れる。そしてこの現象は、いつの時代のどこにでも遍在する、ほとんど自然現象である。だから、いつのどこかもわからない漠然とした回想のような、イメージのような描写で、それは描かれる他ない。
そしてこの「暗い部屋」が、私には格子模様の黒い四角に思えて仕方がない。
格子模様の黒い四角であるカメラ・オブスクラという「暗い部屋」があるのなら、白い四角に相当する「明るい部屋」と呼ばれる光学器械があったりしないのだろうかと、ふと思って調べてみたら、あった。
カメラ・ルシダと呼ばれる光学器械だ。
カメラ・ルシダ - Wikipedia
カメラ・オブスクラと対称的な関係を持つかのような名前だが、カメラ・ルシダは手元に像を投影し、かなり正確なトレースを可能にする絵画用の補助器具であり、共通するのは像を投影する機能だけである。目の前のものを手元に投影するために、この器械にはマジックミラー(ハーフミラー)や鏡やプリズムなどが組み込まれていて、サイズは違うが仕組みとしては、「ペッパーズ・ゴースト」に近い。


そもそもの事の起こりの原因は、「あかずの間」を作ることでも、その中に幽霊のような像が現れることでもない。この原初の「あかずの間」(カメラ・オブスクラ「暗い部屋」)が壊されたことがきっかけとなり、『回路』に映し出される夥しい数の四角い枠とガラス(が持つ光の明暗によるハーフミラー効果)がカメラ・ルシダの機能を果たし、ミチの家で見たニュースのように、ガラスのボトルに入れられたメッセージが水を媒介し、十年という時間と空間を経て遠くに届くように、「眼差しを媒介する光学器械」(インターネット)は動作し、「それ」らは外部に現れ出す。
原初の「あかずの間」が壊され、回路は開かれた。通常、回路とは閉じていることで作動するものだが、この回路は開くことによって作動する。


映画終盤、川島は人家の軒先に置かれたTVを見ている。TVは人物のスナップ写真を映していて、写真とともに都道府県名と名前が読み上げられている。写真が切り替わるとまた、新たな都道府県名と名前が読み上げられる。TVはそれを繰り返している。写真は複数人を写したものでも一人を写したものでも、そこに映る一人の人物の顔に四角い黒縁がつけられている。そしてこの、写真に写る顔を囲む黒縁は遺影の額縁を想起させる。黒い枠で囲われた者は、なぜかもう死んでいると思う。


死はこの世界にあるものなのに、私たちは世界の中に死そのものを見つけることができない。死があるから死体があり、死があるから葬式があり、死があるから写真に写る人の顔が黒い枠で囲われているのを見てその人を死んでいると思うわけではなく、死体や葬式や写真に写る人の顔が黒い枠で囲われているのを見て、死があることが分かるのだ。
この世界に確実にある死は、そのものとして知覚されることなく、常に間接的に知覚される。そしてもし、死者が存在する世界が死の向こうにあるとしたら、その世界は死を経た世界であり、死は過去に起こった事象として死者に記憶されているだろう。
だから、「あかずの間」に現れた「死は永遠の孤独、だった」と、過去形で死を語る者は、過去形で死を語るが故に死者なのだ。
死者の世界にもはや死は存在しないことから、生者が間接的に知覚する死という境界は、死者にとっては知覚できない透明な境界だろう。だからもし死者がいるとするならば、それはこの世界で、死の記憶を持ち、生者が間接的にしか知覚することのできない死という境界の内に存在しているということになる。あの世という別世界ではなく、この世の中の境界の中に存在しているのである。(TVの枠の中の黒枠や、オープニングタイトルの「回路」の文字の回の字の内枠が赤くなっていたことを思い出して欲しい)
この死の境界の、片方からは間接的に知覚され、片方からは知覚されないという特性は、ハーフミラーの特性に似ている。水面でもいい。基本的には、ハーフミラーを挟んだあちらとこちらの明暗が変わることによって、鏡になったり、ガラスになって向こう側が見えたりするものだが、死の境界は、生者が間接的にしか死を知覚することができないことから、生者が明るい側であることが光の明暗に関わらず固定されている。そして死者は暗いところで、知覚できない境界(ガラス)越しに、こちらを見ているのである。
この死者の佇まいは、まるでカメラ・オブスクラの内部で外部の像を見る観察者の佇まいのようだ。もし、死者が存在するならば、知覚されることなく外部を見つめる観察者として、それは存在するのだろう。
この死者を囲むハーフミラーという回路が開かれることで、それまで間接的に知覚されていた「死」が「死者」にとってかわる。死の内部に光が当たりガラス面が鏡面になることで、死ではなく、死者が間接的に知覚されるようになっていくのだ。
あの動く黒い人影がそうだ。
動く黒い人影のようなものは、一見すると、スクリーンや壁などに照射される光を遮る人の影のようだが、よく見ると肌の色が暗く見えているので影ではない。例えば、夜走る電車内から見る窓ガラスや、外から見た車の窓ガラスといった反射率の低いガラスに映る、黒っぽい鏡像が見た目としては近いものに思える。ガラスの奥が暗い時に起こるハーフミラー効果によって、ガラス面に映し出される黒い人の像の、像だけが窓から抜き出てきて歩き回っているようである。
世界にあった死の鏡は、今や死者を映し出す鏡となって図書館やゲームセンターに、その像を映し出す。彼らは「暗い部屋」にいて、その鏡像は暗く影のように見えている。川島は、死者を映し出す鏡の面に迷い出口を見失い、鏡面の冷たさに震えている。ゲームセンターでは、開かれた「あかずの間」が画面の奥に映っている。すぐそこに、いたるところにあった死のように、それはすぐそこに、いたるところに出現するのである。



そして、この死者を映し出す鏡に取り囲まれたのが春江だ。
「幽霊にあいたいですか」サイトを見ていた春江は、黒ビニール袋をかぶった男のピストル自殺を目撃する。モニターは、男のピストル自殺後に一旦消灯し、再び点灯すると、背後から春江を撮っていると思われる映像を映し出す。春江は恐る恐る背後の部屋へ入りライトを点ける。確かにこの部屋から撮っていると思われる映像がなおもモニターには映り続けているが、部屋の中に撮影機器や撮影者の姿はない。ただ、春江だけは何かを見つめていて、恍惚の表情で虚空へ向かって進んで行く。そして彼女は、「私、ひとりじゃない」と呟き、誰かを抱擁するような身振りをみせる。
まず、モニターと背後からの撮影に挟まれた春江は、合わせ鏡の中に立っていた田口とよく似た状況にある。また、春江の「私、ひとりじゃない」という呟きにより、そこにあるのは撮影機器ではなく、誰かであり、その誰かの視線が映像となってモニターに映っていることが分かる。
気になるのは、春江を見つめるこの誰かの視線だと思われるショットに入るノイズである。このノイズが『回路』に登場するのは、この場面が始めてではない。映画冒頭、ミチが田口の家へ向かう場面に挿入される、田口の家のPC机を捉えたショットにも同様のノイズが入っている。これを春江の場面と同質のものとするなら、冒頭のノイズ入りのショットも誰かの視線だろう。
このような、カメラと誰かの視線が一致したショットは、視点ショットやPOV、主観ショットと呼ばれる手法で、『回路』でも他にミチの視点ショットが何度か出てくるが、そこにノイズは入っていない。また、「あかずの間」に入った矢部や川島が、その中に現れた死者と見つめ合う時にショットが切り返されて死者の視点ショットになるが、そこにもノイズが入っていないことから、春江が見た誰かは「あかずの間」に現れた死者でもないだろう。これらのことと、合わせ鏡の中にいる春江の状況をふまえると、ノイズの入る視点ショットは、鏡に映った鏡像の視点ショットということになる。見えないハーフミラーの、見えない鏡面に映る、見えない鏡像の視点ショットというわけである。
春江はそこに自身の鏡像を見ている。そして、その鏡像も春江を見ている。そうなると、この場面の春江の呟き「私、ひとりじゃない」は、言葉通り彼女がもう一人いることを示唆している。
春江を取り囲んだ死者を映し出す鏡とは、彼女が映るモニターのガラス面であり鏡面に他ならない。ガラス面には春江に見つめられる春江が映り、鏡面には春江を見つめる春江が映し出されている。この奇妙に空間が圧縮した合わせ鏡の中に彼女は閉じ込められたのだ。
「幽霊は人を殺さない。そしたらただ幽霊が増えるだけ、そうでしょう?彼らは逆に人を永遠に生かそうとする。ひっそりと孤独の中に閉じ込めて」


水面に映し出された自身の姿に惹かれたナルキッソスのように、春江は鏡に映る自身の姿に腕を伸ばす。
「かの英国女王エリザベス一世(一五三三-一六〇三)の最晩年のことだが、鏡をめぐって奇妙に矛盾する噂が二つ伝わっている。一つはこの老女王が、廊下や広間の、彼女の目に映る鏡という鏡をとりはずさせたり、あるいは覆いをさせたということ。もう一つは、彼女の私室の奥の浴室を、四面の壁と天井とそして床までも、鏡で張らせたということである。」(川崎寿彦著『鏡の中のマニエリスム』1978 研究者出版)
著者の川崎はその理由をいくつか推測しているが、その中でも、「なにしろ彼女が造らせたのは、一面ではなく全面が鏡の浴室だったという。だとすればそれらの鏡は、老いたる女王の肉体を中心に、無限級数的な鏡像を交錯させたに違いない。そのような手段で達成されるのは、一つには、自己の模造の無限の増殖による自己同一性の極限的主張であったろうが、もう一つには、その無限の拡散による自己消尽であったのであるまいか。」という推察は、この場面と照らし合わせるととても興味深い。
「俺がいるよ」と言って寄り添った川島という他人を拒絶した春江にとって、孤独を埋める存在とは、もうひとりの自分なのだろうか。孤独を埋めるために自己増殖を繰り返し、やがて彼女は自己消尽の結果として、ナルキッソスのように自殺してしまったのだろうか。
鏡像の中の自分と見つめ合うことは、「視線を媒介する光学器械」により発生する視線の行き止まりを意味しているかのようだ。この先どこへも視線は向かわないだろう。


上記の春江の場面で見られたようなノイズの入る視点ショットは、この後、川島が「あかずの間」に入る場面にも出てくる。死者と見つめ合う川島の視点にノイズが入っている。
だとすると、「あかずの間」に入り、死者に見つめられた者は鏡像になるのだろうか。ちなみに、矢部が「あかずの間」に入り、死者と見つめ合う時の矢部の視点ショットにこのノイズは入っていない。
ただ「あかずの間」に入った者がどうなるかというと、矢部も順子も川島も死者に見つめられているのである。目と目が合ったと思われるその時、それまでぼんやりとしていた死者の姿が、実態であるといわんばかりにクリアに現れる。そして川島が死者を映す鏡の鏡面に迷い込んだ時のように、矢部も順子も寒さを訴えている。
微妙に三者の整合性がとれないが、三者に見られる共通点から、とりあえず彼らは死者の鏡像になったとしよう。それは、死の境界に映る像という実態を無くした存在であり、死んだ者でも生きている者でもなく、死んでいる者となる。まさに死の中(生者と死者を隔てる死の境界の中)に存在し、死に続けている者である。
この永遠の死が、やがて人の形をした黒いシミとなっていく様は、広島への原爆投下により現れた「死の人影」を想い起こさせる。死という停止により、順子が言うように彼らは、「ずっとこのまんま」になる。原爆の一瞬の光は引き延ばされ、永遠の日々の光となり、「ずっとこのまんま」な彼らを残して降り注ぎ、やがて彼らは人の形をした黒いシミになっていく。
(広島平和メディアセンターのHP(http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=25762)によると、「死の人影」の影の部分は、付着物によって黒くなっていることが奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターの調査で分かったそうだ。また同HPの「死の人影」解説ページでは、1967年に強化ガラスで薄くなる影をカバーしたとの保存の記録も読むことができる。これらのことから、人の形をした黒いシミの多様な描写の一端がうかがえる。)
人の形をした黒いシミとなった彼らは、死んでいない。死に続けている。死体となったはずの、田口や飛び降り自殺をした女や春江の黒いシミは、その死の場所に取り残されている。黒いシミから発せられる「助けて」という声は、まだ死んではおらず、死の境界で死に続けている者の声なのである。


黒い四角と白い四角の格子模様は、閉ざされた死の境界が開くことで、回路の内側という、本来ならば虚ろな、便宜的に現れたただの空間、死という境界によって生じたそのような空間を、どこまでも媒介するシステムを表している。
回路が開かれ作動した「視線を媒介する光学器械」(インターネット)により構築されたシステムは、やがて見る者を見られる者へと変えていく。それは死の境界、永遠の孤独に取り囲まれることに他ならない。



『回路』を見直して気づいたことは他にもある。先にも少し触れたが、この映画にはミチの視点ショットが多い。彼女は見る者として、最後まで先を見つめ続けている。私たちは彼女とともに赤いテープを扉に貼る女や、目の前で起きる飛び降り自殺、燃え上がり落ちてくる飛行機を目撃し、彼女の視線に視線を重ね、先へ先へと進んで行く。
春江の家の窓から廃工場を見つめ、そこに春江がいるかもしれないと言うミチの視線に従って進む物語に、私たちは連れられて行く。

最後まで見る者だったミチのモノローグ「今、最後の友達と一緒にいます。私は幸せでした」の、最後の友達とは、ずっと彼女の視線とともにあった私たちのことだろう。同じものをともに見たことが、自己消尽を免れた唯一の手段だったと私たちに伝えているのだろう。だからあのモノローグは、彼女からの伝言なのだと私は思っている。

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そして私たちの視点は、遥か上空から彼女を乗せた船を見下ろす。そこに広がるのは画面いっぱいの水面であり鏡面でもある。やがて水面が遠ざかるように、画面の内側に黒い枠が現れ、水面が反射する光はみるみる収斂していき、プツリと消失する。そして訪れる一瞬の闇の中で、私たちは「あかずの間」の中にいたことに気づくだろう。私たちは外へ出るために回路を開く。同じものをともに見るために。




『回路』の劇伴が好きです。もの悲しいというかうら寂しいというか、いいですよね。
私の出来る限りで細かく見たつもりですが、黒沢監督の映画は、細かく見ても見なくても印象は変わらないです。伝達能力が高いんでしょうね。表現力なんですかね。よく分からないけど何か分かるという。

『回路』を見直してすぐに、水田恭平「暗い部屋をさまようファントム」(2006)http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/00517642.pdfを読んで、『回路』の映画評はもうこれでいいじゃないか、と思ったのですが、その間を埋めるものを書かないといけないなと思って書きました。そもそも『回路』について書かれたものではないですし。
竹森修「『ジーキル博士とハイド氏』解釈」(1975)https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/135083/1/ebk00033_056.pdfも読みました。途中呪文みたいになっていく難解な論文でしたが、カンで読みました。この後『ドッペルゲンガー』を書くことになったら引き続きお世話になりそうな論文です。文中でも触れましたが、川崎寿彦著『鏡の中のマニエリスム』(1978 研究者出版)にもお世話になりました。映画の中の鏡の多用に混乱を極めていたのですが、この本を読んで、混乱するのも致し方ないという諦念の境地に達することができました。面白い本です。
何というか、今回書いていてつくづく思ったのですが、第一線の映画監督の教養についていくのは本当に大変です。

『ゴーストライター』(2010年)感想・ネタバレ

監督:ロマン・ポランスキー


冒頭、連絡船が港に近づいて来るショットにやたら不穏な劇伴が重なっている。何がそんなに不穏なのかよく分からないまま観ていると船が着く。それから船員の誘導で船から波止場へ次々と車が出て行く。間も無く、そこに一台だけ動かない車があるのに気がつく。中に人は乗っていないようだ。船の降車場に取り残された車が牽引され運ばれていく。
浜では、転がる男が波に洗われている。
あの男は死んでいると思う。


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この映画は上記冒頭がとにかく格好良いです。
何の基準にも照らされていませんがパーフェクトです。「第一死体登場までの冒頭のシークエンス」は、世の映画に沢山あると思いますが、これはそれらの中でも飛び抜けて格好良いやつです。


映画紹介文でのジャンルは政治スリラーになっていますが、
「元英首相の自叙伝を書いていたゴーストライターは、ある重大な秘密を掴み、自叙伝にその秘密を紛れ込ませた。その後、彼は殺された。そこへ自叙伝を完成させるという名目で新しいゴーストライターが雇われる。自叙伝にどんな秘密がどのように隠されているのか、新しいゴーストライターはその秘密に気がつくのか。秘密を抱える人々は彼の様子を伺う。何も知らないゴーストライターは執筆を進めるうちに、少しずつ元ゴーストライターの死因に迫っていく。そしてついに自叙伝に隠された秘密を暴くが、その直後に彼は殺される。」
だいたいこんな話です。

元英首相役のピアース・ブロスナンのキャスティングに違和感があって、何でピアース・ブロスナンなのだろうと思っていたら、彼が実はCIAという話しになり、なるほどジェームズ・ボンドが実はCIAというのがやりたいがためのピアース・ブロスナンかと合点がいったのですが、主要な配役で笑いを取りにいく時点で「スリラー」の部分もどこかへ行ってしまっています。
とりあえず、この映画は政治スリラーではないです。

『ナインスゲート』(1999年)もジャンルはオカルト・ホラーとのことですが、ジョニー・デップの演技はコメディのそれですし、『ゴーストライター』もそうですが、やたら軽快なテンポで出来事が進行していきます。イギリス人狙い撃ちのブラック・ユーモアはさておき、声は聞こえないけど窓の向こうですごく怒っているピアース・ブロスナンユアン・マクレガーと一緒に見るだとか、漁師宿にメイド喫茶のメイドみたいなフロントスタッフ(メガネっ娘)がいるだとか、船着場近くの宿のフロントマンの絡みが鬱陶しいだとか、これらのとぼけたというか、敢えて外しにいく語り口は『ナインスゲート』もそうでしたが、ポランスキー監督の持ち味なのでしょうか。
映像詩的なシークエンスで始まった映画は、物語が語られだすとコミカルまでは振れないけれど、わざとシリアスを脱臼させていくような独特の語り口で進んでいきます。ただ、ロケーションもショットもハイセンスなので、オフビートでジャンルレスな不思議な感触の映画になっています。

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ちなみに、主人公のゴースト(ユアン・マクレガー)は、国籍不詳なオフシーズンのリゾートアイランド(設定では米国)にやって来て、蒸留酒を飲み、気軽に女と寝て、ときどきサンドイッチを食べるという、巷で言われるところの村上春樹氏が書く主人公にとてもよく似ています。なんなら街で突然暴漢に襲われたりもします。
まだ色々観ている途中ですが、ポランスキー監督の映画は近作が好みです。