映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『ゴーストライター』(2010年)感想・ネタバレ

監督:ロマン・ポランスキー


冒頭、連絡船が港に近づいて来るショットにやたら不穏な劇伴が重なっている。何がそんなに不穏なのかよく分からないまま観ていると船が着く。それから船員の誘導で船から波止場へ次々と車が出て行く。間も無く、そこに一台だけ動かない車があるのに気がつく。中に人は乗っていないようだ。船の降車場に取り残された車が牽引され運ばれていく。
浜では、転がる男が波に洗われている。
あの男は死んでいると思う。


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この映画は上記冒頭がとにかく格好良いです。
何の基準にも照らされていませんがパーフェクトです。「第一死体登場までの冒頭のシークエンス」は、世の映画に沢山あると思いますが、これはそれらの中でも飛び抜けて格好良いやつです。


映画紹介文でのジャンルは政治スリラーになっていますが、
「元英首相の自叙伝を書いていたゴーストライターは、ある重大な秘密を掴み、自叙伝にその秘密を紛れ込ませた。その後、彼は殺された。そこへ自叙伝を完成させるという名目で新しいゴーストライターが雇われる。自叙伝にどんな秘密がどのように隠されているのか、新しいゴーストライターはその秘密に気がつくのか。秘密を抱える人々は彼の様子を伺う。何も知らないゴーストライターは執筆を進めるうちに、少しずつ元ゴーストライターの死因に迫っていく。そしてついに自叙伝に隠された秘密を暴くが、その直後に彼は殺される。」
だいたいこんな話です。

元英首相役のピアース・ブロスナンのキャスティングに違和感があって、何でピアース・ブロスナンなのだろうと思っていたら、彼が実はCIAという話しになり、なるほどジェームズ・ボンドが実はCIAというのがやりたいがためのピアース・ブロスナンかと合点がいったのですが、主要な配役で笑いを取りにいく時点で「スリラー」の部分もどこかへ行ってしまっています。
とりあえず、この映画は政治スリラーではないです。

『ナインスゲート』(1999年)もジャンルはオカルト・ホラーとのことですが、ジョニー・デップの演技はコメディのそれですし、『ゴーストライター』もそうですが、やたら軽快なテンポで出来事が進行していきます。イギリス人狙い撃ちのブラック・ユーモアはさておき、声は聞こえないけど窓の向こうですごく怒っているピアース・ブロスナンユアン・マクレガーと一緒に見るだとか、漁師宿にメイド喫茶のメイドみたいなフロントスタッフ(メガネっ娘)がいるだとか、船着場近くの宿のフロントマンの絡みが鬱陶しいだとか、これらのとぼけたというか、敢えて外しにいく語り口は『ナインスゲート』もそうでしたが、ポランスキー監督の持ち味なのでしょうか。
映像詩的なシークエンスで始まった映画は、物語が語られだすとコミカルまでは振れないけれど、わざとシリアスを脱臼させていくような独特の語り口で進んでいきます。ただ、ロケーションもショットもハイセンスなので、オフビートでジャンルレスな不思議な感触の映画になっています。

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ちなみに、主人公のゴースト(ユアン・マクレガー)は、国籍不詳なオフシーズンのリゾートアイランド(設定では米国)にやって来て、蒸留酒を飲み、気軽に女と寝て、ときどきサンドイッチを食べるという、巷で言われるところの村上春樹氏が書く主人公にとてもよく似ています。なんなら街で突然暴漢に襲われたりもします。
まだ色々観ている途中ですが、ポランスキー監督の映画は近作が好みです。

『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)を見ました。

監督:ロマン・ポランスキー

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ローズマリーの赤ちゃん』『ポランスキーの欲望の館』のネタバレあります。

Amazonビデオで観た『ナインスゲート』(1999年)が初ポランスキーで、その後GYAO!で『ポランスキーの欲望の館』(1972年)を観て、それから少しずつポランスキー監督映画を観始めています。

巷では、実は人間には自由意志が無いだとか、いや自由意志は僅かながら存在するだとか、自由意志についての新たな認識に関する言説が飛び交っていますが、ことポランスキー監督の映画を3作品ほど観て思うのは、映画の中の人間に自由意志は無いということです。

何かしら重大な、或いは神秘的であったり、ショッキングであったりする映画の結末は、観る前から予め決っています。すべてが動かせない過去として映画は現前するので、当然その中で動いて話している人間に自由意志はありません。
それら全ては承知の上で映画は観賞されます。
そして観客は、映画がドラマチックな結末に至ると、それは運命であり、予め決っていたことなのだと感得します。
しかしこの、映画の結末は予め決っているという事実と、観客がこの結末は運命として予め決っていたのだと感得することは、言葉にすると似ているようでもまったく違うものです。観客は、目の前に映る人間が動いて話していることから、今この瞬間に彼らが自由意思を持って出来事に遭遇しているかのように錯覚し、ドラマチックな結末を運命だと思うのです。

私自身、今そこで出来事が起きているかのように映画を観ますし、ドラマチックな結末をまるで運命のようだと思うのですが、なぜかポランスキー監督の映画を観ると、承知はしていたけど意識していなかったところの、映画の結末は予め決っていてその中の人間に自由意志など無いという事実にはっきり思い至ります。
今のところ観たポランスキー監督の映画3作品全てそうなので、何かしらそう思わせるからくりがポランスキー監督の映画にはあるのだと思います。

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ポランスキーの欲望の館』は、映画の結末は予め決っていてその中の人間に自由意志などないという事実について、かなりメタ的な視点で撮られた作品だと思うのですが、この映画は、『悪魔のいけにえ』(1974年)と『悪魔のいけにえ2』(1986年)によく似ています。
館(家)の中では、異常なことが起きているのだけれど、それがそこでは繰り返されている日常な感じだとか、その館(家)へ行くと繰り返されている異常な日常に必ず取り込まれてしまう感じだとか、トラックに乗り込み物理的に距離を取って逃げるしか手がない最後だとか、自由意志によって進行を変えていくかのように錯覚させる物語に相当するものが、無機的な仕組みだとか仕掛けだとか機構みたいなものに取って代わっています。「それはそのように出来ていて、くり返しそうなる」といった仕組みが、錯覚を取っ払った映画の姿なのかもしれません。
もしかしてトビー・フーパー監督の「悪魔のいけにえ」シリーズは、『ポランスキーの欲望の館』に触発されて撮られたのかもしれないと思っているのですが、この思いつきはどちらの支持層からも怒られたりするのでしょうか。

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ローズマリーの赤ちゃん』も、ローズマリーがミニーから貰ったチョコレートムースに違和感を覚えて全部食べないだとか、タニス草入りのペンダントを貰っても付けないだとか、タニス草入りのドリンクを飲まないだとか、医者を勝手に変えるだとか、与えられた錠剤を飲まないだとか、他にも色々抗うわけですが、あのマンションに越して来たのが元凶以外の何ものでもないぐらい早い段階でローズマリーは悪魔の子どもを身籠りますし、悪魔の子どもを身籠ったローズマリーの抗いが何一つ効果を持たない(根本的な解決には至りそうもない)ことを何度も見るうちに、なんかこう、この先どうなるのだろうか?といった物語の進行への関心が薄れ、ラストのナイフを持って悪魔のしもべたちの集まりの中へ向かうローズマリーを見るころには、このナイフと行動が何の意味も成さない事を知っていて、やはり何の意味も成さず、悪魔の子を受け入れるローズマリーをいつものことみたいな感覚で眺める、といった境地に達するわけです。
悪魔の子の姿が登場しないので、悪魔のしもべたちの妄想にローズマリーが取り込まれたのか、全てがローズマリーの妄想なのか、事実なのか、観ている者が共有出来ない曖昧なラストを迎えますが、ローズマリーが何をどうしようと、彼女に自由意志があろうとなかろうと、決定済みの過去、あるいは結末に向かって正確に動く機構を観ている気持ちになるので、酷いだとか、可愛そうだとか、どうしようもないといった何かしらの感情が湧くわけでもなく、これはこうなるのだ、とラストを確認して終ることになります。
決定済みの過去、あるいは結末に向かって正確に動く機構に取り込まれていくローズマリーや登場人物が映画の進行に干渉できないのは、彼ら・彼女らにとっても、それは過去、機構であり、彼ら・彼女らは観客と同じく映画に干渉できない現在に属する存在なのかもしれません。というか、映画と観客の関係性をそのまま当てはめているのでしょうね。


映画の中で、爆弾の赤と黒の導線のどちらを切るか必死で考える場面(今どきない)などを観ると、ふと我に返って、どっちを切るかは既に決っているのに本当にバカみたいだと思ったりしますが、そうやって我に返ったら映画なんて楽しめないものだとも思っていたのですが、我に返った状態から映画を撮っている監督は結構いるのかもしれません。

『エル ELLE』(2016年)感想・ネタバレ

監督:ポール・バーホーベン


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劇場で予告を観て、レイプ犯が扉を開けて侵入してくるショットの、高い位置でほぼ平行に伸びる両腕が奇妙だなと思って、あんな風に真横に扉にぶら下がるみたいに扉を開ける両腕が伸びるものなのかなと、家でフュージョンみたいなポーズをとってあれこれ試していたのですが、肝心の公開時に絶不調続きで見逃してしまい、やっと観る事が出来ました。

予告をはっておきます。

www.youtube.com


色々やってみた結論としては、無理をすれば出来ないことはない、です。
実写映画で作画崩壊っぽい画が一瞬差し込まれるだけで、恐怖だけではない違和感が生じていて効果的です。ホラーだと人体の物理的な理を意図的に崩すというのは常套ですが、少し崩すというのは、もっと色んなジャンルで出来るんじゃないでしょうか。


非日常的な事件の当事者の日常を描いているのですが、バーホーベンって理性的だなと思いながら観てました。
ミシェルの境遇やレイプ被害もそうですが、その当事者を決して分かった風に撮ったりしない、というかそもそも人の内面なんて分からないし、映画で描けるとも思ってないでしょう。
この映画事態、事件と可哀想な被害者を描くつもりははなからないでしょうし。


ミシェルがレイプ犯になぜあなたはそうするのか的な探りをちょいちょい入れるのですが、バーホーベンがそれに応えて、ミシェルに見せたレイプ犯の内面が脳味噌だった時は、『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997年)からの変わらぬ一貫性を感じました。
人間の内面=脳味噌。確かに。


だからといって、事件とその当事者を突き放して描いているかというとそうではなく、39年前の事件とそれを引き起こした父親とその時の自分自身を異常と切り捨てて生きてきたミシェルが、レイプ事件をきっかけに、何か全てが生活の地続きにあるような感覚を掴んでいきます。それは忌まわしい過去を切り離せないというのではなくて、自然と生活する内に、異常とされる物事が生活の地続きにあるものかもしれないという感覚です。
なぜ父親が事件を引き起こしたのかは分からないけれど、娘が面会に来ると分かると自殺してしまう人だということは、ミシェルにも分かる。
分からないからと完全に切り離せるものなんてないし、少し分かるからといって共にできるわけでもない。そしてどちらも大なり小なり生活の中や自分自身の中にもあるという、至極真っ当な感覚です。頑なな彼女の様々な線引きが緩んだ終盤は、彼女の中で異常な事が飽和したかのようにも見えますが、彼女のような境遇や事件の被害に遭っていなくても、人なり物事なりを異常として完全に切り離して生きていける人なんていないんじゃないかと思わされます。
全ては緩やかにつながってるんでしょうね。


ミシェルの母親の散骨場面の、その場で生じた怒りで適当に散骨してしまう感じだとか、夢を語るレイプ犯だとか、猟奇的な題材の小津安二郎というか、『晩春』(1949年)を観た時の面白さに近いものを感じました。日々のままならなさとそこから垣間見える人となり、みたいなものが嫌らしくなく軽快に描かれています。
題材から単純に変態映画と捉えている人がレビューを読むと沢山いますが、変態映画というのはコッポラの『Virginia/ヴァージニア』(2011年)みたいなやつだと思いますよ。

『ゲティ家の身代金』(2017年)感想・ネタバレ

監督:リドリー・スコット

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お昼に観て、特に何を考えるでもなく、時々映画の場面をポツポツ思い起こしたりして、さぁ寝ようという時になって、アレがソレでソレがああでこうで、と頭に沸いてきて観念して書き始めました。今3:50。寝たい…

世界一の大富豪という資本主義の王、ジャン・ポール・ゲティ。実話がどう改変されているか知りませんが、この物語は、彼が玉座を求める話しです。

彼は既に資本主義の王としてその玉座に腰を下しています。しかしそれは、アビゲイルが1000部の新聞に象徴してみせた、複製されたただの紙である札束で出来た玉座です。
彼の王座が、複製されたただの紙でできていることはジャンも承知しています。だから彼は、それを本物(美術品)にせっせっと変えて、複製されたただの紙きれ集めというバカな振る舞いをしているわけでは無いと嘯いています。

アビゲイルは、複製されたただの紙束である1000部の新聞を送り付け、それが持つ価値とは何かをジャンに突きつけます。ジャンは、むろんその価値は書かれている内容そのものにあると、ポールの記事に反応してみせます。
では、お金ならどうなのか。お金そのものから、何か価値が見出せるだろうか。
お金は美術館の売店に並ぶ、複製された牛頭人身の怪物ミノタウロスにも象徴されています。このミノタウロスには複製の他に、お金の持つ両義的な意味が含まれています。

ジャンが購入し、いまわの際に手にしたイエスを抱くマリアの絵画(聖母子像)。キリスト教ではイエスを抱くマリアの膝が玉座を象徴しているといわれています。
ジャンが求めた玉座は、このマリアの膝です。
ジャンが聖母子像を手にして死ぬ場面と、ポールが救われてアビゲイルに抱かれる場面は対比されています。この対比により、誘拐され、居場所の分からないポールが受けた苦痛と見捨てられる恐怖、そこで直面した死の恐怖が、窺い知ることの出来ないジャンの内面であったと分かります。

傍から見るとアイロニカルな描き方ですが、リドリー・スコット監督らしいと言えばそうなんですが、キリスト教世界を資本主義世界に置き換えています。
ジャンがポールに複製された牛頭人身の怪物ミノタウロスを渡すのは、資本主義世界における洗礼でしょう。
ジャンがポールに洗礼を授けたことや、最後にジャンの頭部の彫像があることから、ジャンはイエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネアビゲイルはマリアとサロメ、ポールはイエスとして描かれています。
当然ですが、ジャンはアビゲイルの膝を求めた分けではなく、「お金はいらない。親権だけちょうだい」と言い放ち、いなくなった息子を求めてジャンのもとを度々訪れ、奔走するアビゲイルの姿に、抱かれて座る母の膝という玉座を見て、求めたのです。
アビゲイルはジャンが死んだ後、ジャンの遺産を継ぐ息子の、文字通り玉座となります。

誘拐されたポールとジャンの内面は対比されていますが、ポールが救われたからといって、ジャンが救われるわけではありません。
アビゲイルサロメとして、洗礼者ヨハネの首を取らなければ、ポールを救うことが出来なかったのです。だからアビゲイルは、最後に母マリアとして、救われなかった息子・ジャンを思い泣くのです。

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勢いで書いてしまいました。そして一旦寝ました。細部はボチボチ考えたいと思います。
地面に置かれた新聞の束と、強風の中その新聞を読む場面を見た時、リドリーは『ペンタゴン・ペーパーズ』(2018年)のあの場面をどんな顔して見たのかな、と思ってしまいました。風の強さはリドリーの方が上でしたね。
ポールの耳切断場面がグロくてちょっと…なレビューをいくつか読んだんですが、映画はイメージでは無くてヴィジョンですから、そこはちゃんと撮らなければいけません。グロいですけどね。

『ウンベルト・D』(1952年)感想・ネタバレ

監督:ヴィットリオ・デ・シーカ

GYAO!の無料配信で『ウンベルトD』を見た。
※無料配信は6/25まで

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暗い話だ。
ウンベルト·D·フェラーリは、30年間公務員として真面目に勤め上げ、現在は年金暮らしである。しかし、受け取れる年金額は少なく、その半分以上が家賃に消えてしまう。ウンベルトは、苦しい暮らしゆえに家賃を滞納してしまい、大家の女将から立ち退きを迫られている。
飼い犬のフライクを連れ、金策の為に老人は街を彷徨う。
不幸な老人は、落着くことがない。

暗い話は苦手で、「深い」「人間が描けている」などと言いながら不幸な人の話を好む者の気が知れないというか、たぶん物好きなんだろうと思っているけど、『ウンベルトD』は、家賃を滞納して立ち退きを迫られた老人が金策に奔走するという、どう考えても地味な物語を、迫力のロケーションで、電車から女の片足まで、動くもの全てを印象的なショットで描き出すのだから、どうしても観てしまう。
この物語を見進めるのは正直辛い。ウンベルトが救われるには、魔法か何かが必要だろう。
救われることの無い老人を見続けなければならないという苦痛があるにも関わらず、カットが変わる度に現れる、素晴らしいショットに感嘆するという、とてもアンビバレントな観賞体験を得た。

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そして、この映画の最後について、あれはどういう意味なのだろうかと考えている。

ずっと不幸な物語を生きていたウンベルトが、公園で飼い犬と戯れている。憩いの場でのひと時がずっと続くかのように、最後のショットは、ウンベルトが飼い犬と共に画面の奥へと駆けて行くのを固定ショットで撮り続けている。まるで彼が不幸な物語から解放され、刹那的な時間の中の住人になったかのようだ。

フェードアウトしていくリフレインのように、ウンベルトの姿は小さくなっていく。例えばエンドロールと共に流れる物語のその後のイメージ場面のように、何か楽しげな雰囲気を漂わせて。
「そして彼は犬と楽しく遊びました。」そんな訳あるだろうか。
生活の中の心安らぐひと時が、ずっと続くなんてことはない。そしてこの安らぎは、もう彼が手にする事の出来ない時間だったはずだ。お金があり、住むところがあり、時間がある健康な老人なら、公園で飼い犬と遊ぶだろう。そのどれも持たないウンベルトが(まぁまぁ健康かもしれないが)、公園で飼い犬と遊んでいる。
やがて画面の手前を楽しそうに子供たちが走り抜けて行く。その頃には、ウンベルトは遠くにいて、風景の一部となっている。


アパートの階段で、公園のベンチで、ウンベルトと目が合った女たちは、ギョッとした顔をする。ウンベルトに旧友の死を告げられた男のように、取り立てて特徴の無い老人であるウンベルトを見てギョッとするのだ。まるでウンベルトが死と同じように、社会の外に存在する、なにか触れ難い存在ででもあるかのように。
そんなウンベルトが、楽しげな公園の風景の中に溶け込んでいる。誰も彼を見てギョッとしたりはしないだろう。楽しげな風景の中に、モブのように溶け込んでいる人は幸せなのだろうか。それともウンベルトのように、不幸の中の束の間、溶け込んでいるだけなのだろうか。ウンベルトが電車の窓から見る閉ざされた家々の窓のように、その奥にある生活を窺い知ることは出来ない。

公園の入口付近にある踏切で、ウンベルトは自殺を図った。犬と共に駆けて行く公園の向こう側で、今度は本当に死んでしまわないだろうか。いや、いつかは死ぬのだ。そのままウンベルトは画面の奥へと消えて、その向こう側でいつか死ぬ。
犬と共に駆けて行くウンベルトの姿が、そんな死に至るまでの刹那に思えてならない。

デモ行進の人の群れに混ざり、ウンベルトは風景の一部として登場した。そのウンベルトが、風景の一部になって消えていく。
風景の中から現れて消えていくこの老人の物語は、ふと過ぎる死や不幸の予感のようだ。この先何度でも映画の記憶は予感となって蘇り、予感とともに映画の記憶は蘇るだろう。

『レディ・プレイヤー1』(2018年)感想・ネタバレ

監督:スティーヴン・スピルバーグ


f:id:stevenspielberg:20081204010325j:plain画像は『シャイニング』より



印象は全然違いますが、「みんなで人の内世界に入る」というとこだけで言うと、『インセプション』(2010年)っぽいです。『ミクロの決死圏』(1966年)でもいいんですが。

ペンタゴン・ペーパーズ』(2018年)の記事で、スピルバーグの統制されたショットについて書きましたが、『レディ・プレイヤー1』に『シャイニング』(1980年)が出てきた時、統制されたショットといえばキューブリックだと気づきました。『2001年宇宙の旅』(1968年)が、まるでフルCGのようなフル実写だったことを忘れていました。
映画に出てくる『シャイニング』のショットは、VR世界のCGパートととても親和性が高いのですが、それをスピルバーグが見せた意味について、ここ最近考えています。

考えていて思い出したのが、以下の伊藤計劃氏のブログ記事です。

「ダークナイト」のアニメ並みに制御された画面構築力について - 伊藤計劃:第弐位相

上記の記事で書かれていることが、『ペンタゴン・ペーパーズ』に感じたものと近いです。CGアニメーションを作る時のレイアウトについてよくは分かっていないのですが、『レディ・プレイヤー1』を撮りながら撮った『ペンタゴン・ペーパーズ』の、あの凄まじい画面統制を見ると、CGアニメーション製作過程のレイアウト技術が応用されているんじゃないかと思っています。
ダンケルク』(2017年)の空中戦を見て、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(2008年)の空中戦を思い出したのですが、まるでCGのような実写は、アニメ並みに制御された画面構築力で出来ているんだと思います。そして、あえてCG的な表現から遠い映画をCG製作のアプローチで撮ったのが『ペンタゴン・ペーパーズ』なのではないかと考え中です。
スピルバーグは、『レディ・プレイヤー1』で、映画におけるこのようなアプローチは、アニメやCGではなく、キューブリックが志向し、遺した映画にこそ起源があるのだと言いたかったのかもしれません。



レディ・プレイヤー1』の内容は、冒頭のトレーラーハウス・マンション群の街並みが、シネコンの映写室に並ぶプロジェクターを縦積みしたみたいなデザインでした。映写機と違って、中を覗いても何が上映されているか分からないデジタル上映が、ゴーグルを付けてVR世界を見ている人だけが中に見える様子として描かれていました。プロジェクターの排気ファンもトレーラハウス・マンション脇で回っています。
主人公がVRゴーグルを付ける時にメガネを外していて、外されたメガネが置かれるショットまであるのを見て、これは子供向けのなぞなぞのように、メガネを外して見るもの...、またまた夢!
だとすると、内容に関しては重複がありますので、以下の記事をお読み下さい。
stevenspielberg.hatenablog.com


現実が大切、仮想空間はほどほどにとスピルバーグが言っていると書かれたレビューを読んだのですが、あの現実も仮想空間も全部映画なので、お気になさらず。メタ的すぎて解釈の元も子もないと思われた方は、以下の記事をお読み下さい。
stevenspielberg.hatenablog.com

『A.I.』(2001年)について

監督:スティーヴン・スピルバーグ


3千年紀の始まりに公開された、母の愛を求める少年型ロボットの冒険物語について、私はまだ何も理解していない。
この映画は、「ピノキオ」がストーリーの下敷きになっていると言われているが、それがカルロ・コッローディ著『ピノッキオの冒険』(1883年)なのか、ディズニー映画『ピノキオ』(1940年)なのかも分からない。なんとなくピノキオっぽい話だとしても、映画冒頭に登場する童話が『ロビンフッドの冒険』なのは、どういうわけなのだろうか。


この映画の何が分かって何が分からないのかについて、一度整理をしておきたいとずっと思っていた。書いたら考えるし、それで少しは整理できると思う。

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まず、この映画の冒頭と終盤と最後に、なぜスペシャリスト(2000年後に出てくる半透明の宇宙人みたいな進化したロボット)のナレーションが入っているのかについて書いておく。
映画終盤の2000年後の未来で、スペシャリストが氷の地表を掘り進めてデイビッドを発掘し、デイビッドが保持する記憶を人類の遺産として収集していることから、このナレーションの意味は、発掘映像を元にスペシャリストがディレクションし、人類に関する映像資料として製作されたものであると考えることが出来るだろう。
この映画は、スペシャリストがディレクションした2000年前の過去の物語なのである。
この物語は、スペシャリストのいる時代から語られているので、人間が登場する時代の年代は不明である。発掘されたデイビッドを起点に2000年という時間の経過だけが明確な、考古学的時間表現が成されている。
昔々、Once upon a timeに相当する 2000年前の昔、温暖化が進み、地表が減少し、人口調整が成され、資源を必要としないロボットが活躍した時代の物語が語られている。


人の夢想から生まれた虚構はかつて人々に消費され、人々が消え去った遥か未来にただ一体が残される。その虚構が人類の記憶を保持する資料的価値を持った存在となる。しかし、その虚構は価値ある存在などではなく、ただ一人に愛されることを望む。

この、「人の夢想から生まれた虚構であり記録媒体」として描かれるデイビッドが、私には映画に思えて仕様が無い。
何と言っても、デイビッドの最初の記憶が企業ロゴというのが映画らしい。映画本編前には、必ず企業ロゴが入る。
他にもデイビッドは、映画のように需要を見込んで供給されようとしている。そして各劇場に配給されるフィルムのように、大量の複製が製造される。また、ほうれん草を食べて溶けるデイビッドの顔は、映画フィルムが映写機のランプ熱で溶ける様に良く似ている。調整された湿温度で数百年の保存が可能である映画フィルムなら、冷凍状態で2000年ぐらいの保存が可能なのかもしれない。

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このようなデイビッドの特性を見ると、彼は映画というより、映画フィルムとして描かれているように思える。だとすると、固有の形態をそれぞれ持つロボットは、目視で識別する事が出来る映画フィルムという謂わばアナログ記録媒体で、同じ形態で記憶を共有するスペシャリストは、デジタル記録媒体なのかもしれない。
彼らが本質的には同じ、映画を記録する媒体であることを示すかのように、デイビッド登場場面における、縦長のスクリーンのような四角い扉の逆光の中を進むデイビッドのシルエットは、スペシャリストの形態と酷似している。

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デイビッドや、その他のロボットたちが映画フィルムだと思われる描写はいたるところにある。資料でも廃棄物でもない映画フィルムは、ジゴロ・ジョーの左胸にあるようなシリアルナンバーで管理され、各劇場に送られ上映(使用)される。
管理者不明のロボット(ジゴロ・ジョー)や、一本の映画フィルムとして繋がっていない不完全なもの(継ぎ接ぎのロボットや欠損したロボット)、古すぎて需要の無いもの(旧型のロボット)などは廃棄される運命にある。
そうしたロボットたちは森に潜んでいる。森の空き地に廃棄物が投棄されると、それらは一斉に集まり、捨てられた部品を漁り、欠損したり動かなくなった部品に代わり使えるものがないか物色する。そして、ロボットの破壊を見世物にするジャンク・フェアの開催者の捕獲から身を潜めている。
この、ジャンク・フェアの主催者であるジョンソン=ジョンソン卿は、光る月の気球に乗り、気球に設置されたモニターを見ながら、メガホンでロボット捕獲の指示を出す。地上でロボットを追い掛けるバイクは赤色と青色に光り、ロボットを捕獲する磁石は緑色に光っている。さながらジョンソン=ジョンソン卿は、虚構を映し出す映画フィルムに赤・青・緑(光の三原色)の光を当て、それらを観客に見せつける映画監督のようである。

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人が物のように死ぬ映画や、面白おかしく頭や腕が吹き飛んだり、突飛な死に方を見世物にしている映画はある。そこで傷つき破壊されるのは、それら虚構の存在であり、そこにある痛みや死は、見せ掛けであって本当ではない。虚構だからこそ痛みや死を面白おかしく見せることができるわけだが、ジャンク・フェアのシークエンスのラストでは、デイビッドのような、とびきり愛情のこもった、この世に2つとない特別な虚構を、虚構であるという理由で、残酷に扱うことに抵抗を示す人々の様子が描かれている。



とびきりの愛情を込めて、亡くした息子そっくりにデイビッドを製造したホビー教授もまた映画監督のようである。
息子を亡くした悲しみを、普遍的な人間の悲しみと捉え、そこに商機を見出し、デイビッドの複製を大量に製造し改良を重ねている。「ダーリン」と名付けられた少女型ロボットというバージョン違いも生み出している。このようなホビー教授の振る舞いは、ロボット製造会社の開発者というより、同じモチーフを繰り返し描く映画監督に似ている。

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この映画は一見、母の愛を求める少年型ロボットの冒険物語を描きながら、個別の物としての映画フィルムの運命や可能性について描いているのだろうか。
そう考えてみると、すぐにでも上記の解釈だけでは説明出来ないショットの数々が頭に浮かぶ。
例えば、映画冒頭のシークエンスの最後で、女性型ロボットは化粧をしている。その次のショットで、ヘンリーとモニカ夫妻が車に乗って登場する。この時、モニカは車中で化粧をしている。なぜショットを跨いで、女性型ロボットとモニカが化粧で繋がれているのか。
壁面に童話の絵が描かれている施設で低温睡眠するマーティンと、童話がモチーフの遊園地で凍りつき、機能休止するデイビッドの符合は何を意味するのか。またこの時、マーティンの眠る低温睡眠室の天井は、一本の柱を中心に円形の放射線状に骨組みが張られていて、海中で凍るデイビッドの乗るヘリコプターには、これまた円形の放射線状である観覧車の骨組みが覆いかぶさっている。これらの形状は、映画フィルムのリールによく似ている。

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他にもある。それらをいちいち書いていたらきりがないので、まずは、現代の医療では治せない疾患があり、未来の医療に希望を託して低温睡眠状態にあるマーティンに、モニカが「ロビンフッドの冒険」を読み聞かせる場面について考えてみたい。



マーティンが眠るカプセル内部に音声を伝える機器を、モニカは慣れた手付きでカプセルに装着する。そして折り目のついたページを開き、本を読み始める。本は「ロビンフッドの冒険」。モニカは、文中の「ロビン・フッド」と書かれた箇所を「マーティン」と読み替えている。
ロビン・フッドは、中世イングランドの伝説上の義賊、英雄視されたアウトローである。シャーウッドと呼ばれる、コモン・ロー(神の法)の埒外の森を住処にしている。中世においてアウトローとは、「市民としての死」の宣告を受けた者であり、市民に狩られる対象であった。法の埒外にいる者を狩ることは罪では無く、市民はアウトローを見つけ次第、狩ってもよいとされていたのだ。
この映画において、生まれながらに「市民としての死」の宣告を受け、神の法の埒外の森に置き去りにされ、森を彷徨い、人間に狩られるアウトローは、「ロビンフッド」に読み替えられたマーティンではなく、ロボットのデイビッドである。
スピルバーグ監督映画には、世間一般でいうところの乱暴者としてのアウトローでは無く、いつもこの、「市民としての死」の宣告を受けた、法の埒外にいるアウトローが出てくる。
宇宙人も恐竜もナチス党政権下のユダヤ人も未来の犯罪者も空港で国籍を失う者も戦渦の馬も、皆アウトローである。

スピルバーグはホビー教授のように、アウトローを繰り返し描く。手を加えながら。バージョン違いを生み出しながら。ホビー教授にとってのそれは、デイビッドである。そして、スピルバーグにとってのそれは、この映画でロビン・フッドに読み替えられた、マーティンなのではないかと思う。
どう見ても、アウトローとして描かれているのはデイビッドであるにもかかわらず、マーティンがスピルバーグの描くアウトローとはどういうことか。
モニカがマーティンに読み聞かせた、ロビン・フッドとデイビッドの符合や、低温睡眠するマーティンとデイビッドの符合から、その理由を考えてみたい。



マーティンは、不治の病に冒され、眠る子供として登場する。彼の病が治療出来るのは、いつか分からない未来においてである。モニカは、マーティンが眠る施設に到着するなり音声装置を睡眠カプセルに装着し、折り目の付いた本を広げ、おもむろに本の読み聞かせを始める。彼女の様子を見るに、もう何度も彼女はこの行為を繰り返している。
そしてマーティンは、回転するリールのような天井の下で、童話の絵が描かれた壁面に囲まれながら、童話を聞いている。
この時、マーティンはどんな夢を見ているのだろうか。
きっと彼の夢には、唯一の外部情報であると思われる、モニカが読み聞かせる童話からの影響があるだろう。
そして、病に冒された男の子は、もちろん健康になりたいだろう。
もし病気の男の子が、健康体をロボットのような完璧な身体であることだと解釈し、童話のような夢を見ていたら、それはきっと、デイビッドの冒険物語にとても近いものになるのではないだろうか。

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マーティンは夢の中で、ロビンフッドになり、ピノキオの運命を辿ったのだろうか。

人間もロボットも夢の中の虚構だから、モニカと女性型ロボットは、同一のものであるかのように化粧で繋がれるのだろうか。デイビッドは、鏡やステンレスに反射した像(虚構の像)として頻繁に映し出されるが、モニカやヘンリーもまた反射した像となり、スクリーンに映し出されている。



この映画が公開された時、デイビッド役のハーレイ・ジョエル・オスメントの天才子役ぶりが話題になった。ロボット役だから、彼は瞬きをしないで演技をしている、と言われていた。
確かにデイビッドは、生理現象としての瞬きをしない。それは、ロボットだからなのだろうか。昔からある、子供向けの人形だって瞬きをするのに、人間そっくりに作られたロボットが瞬きをしないものなのだろうか。瞬きだけじゃない、デイビッドは、眠る振りさえしない。
とにかくデイビッドは、目を瞑らない。
この不自然なデイビッドの設定は、デイビッドがマーティンという眠る少年(目を閉じた少年)と対照の関係であることを示していると考えられないだろうか。


実は、デイビッドは一度だけ瞬きをする。それは、2000年後のシークエンスの途中にある。真っ白い画面に、デイビッドの二つの瞳だけが浮かび、その瞳が一度だけ瞬くのだ。
この時、マーティンは果てしなく長い眠りから目覚める。
目覚めた後のシークエンスは、映像の質感がそれまでとは変わり、少しざらついていて、色味が濃くなっている。かつての家で目覚めたデイビッド(マーティン)が、名前を呼ぶ声の方へ行くと、そこにはブルー・フェアリーがいる。ブルー・フェアリーがいるということは、この場面は、スペシャリストが作り出した仮想現実のような場所なのだろう。ブルー・フェアリーに、デイビッドは、本当の人間の子供にして欲しいと願う。復元した夢の記憶の中で、本当の人間の子供が言う、「本当の人間の子供にして欲しい」という願いに、一瞬戸惑ったようなスペシャリストの姿が差し込まれている。

スペシャリストは、眠る少年の果てしない夢を採取した。
そして、目覚めた彼の、本当の人間の子供にして欲しいという願いを聞き、マーティンがデイビッドとして生きている事を知った。
スペシャリストは、人間を復元して、過去に起こったありとあらゆる人類の記録が、宇宙時間の中に記録されていることを知り、それを採取した。しかし、復元した人間は、目覚めて眠りにつくまでの時間しかもたず、意識が薄れると、その存在は暗闇の中に消えてしまい、実験は失敗したと語る。
彼らは、マーティンが目覚めるまで、人類から夢の記憶を採取することが出来なかったのだ。
夢の記憶を持つマーティンは、スペシャリスト曰く、人類のかけがえのない記憶バンクであり、人類の優秀性を示す証なのである。

スペシャリストは、マーティンが認識している自己であるデイビッドの願いを聞き入れ、デイビッドの夢の中の母であるモニカと過ごす最後の一日を見せる。
それは、マーティンが蘇った一日なのだろう。彼は、本当は、本当の人間の子供だった。デイビッドの願いは、本当の人間の子供の願いだった。母への愛も、本当の人間の子供の愛だった。
だから、夢は虚構ではないのだ。
マーティンは、モニカとの一日を終える。暗闇に存在した少年は、暗闇の中で、母から愛の言葉を聞き、“夢の生まれる所へ”と旅立って行く。

そしてこれは、スペシャリストが語る、人類の夢にまつわる、昔々のおとぎ話なのである。

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映画の記録媒体が、アナログからデジタルへ移行する時代に、スピルバーグは、アナログ記録媒体が見た夢を、デジタル記録媒体が物語る映画を撮った。
全ては、「夢の生まれる所」から始まる。それは、人の見る夢から始まる。複製されるロボットの少年は、本当の少年の夢から生まれる。そのことが、逆説的にロボットの少年を本物にする。少年の夢見る少年は、本当の少年の夢として存在している。そして、人類の素晴らしさの証として夢は映画となって存在し、それは受け継がれていくのだ。





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このタイトルロゴも、改めて見てみると意味深ですね。少年のシルエットが二つあってネガポジ反転してる。

スピルバーグは、映画のデジタル記録媒体について、キューブリックと話したりしてたんですかね。
書いていて思ったのですが、『ブレードランナー』(1982年)に似ていますね。夢にまつわる円環の物語だし、雨降ってないのにルージュ・シティーは水浸しだし、スピナーを思わせるヘリの場面なんかも、分かっていて真似てる感じがします。そこは触れておかないといけないと思ったのでしょうか。
レディ・プレイヤー1』(2018年)を見て、『レディ・プレイヤー1』について書く前に、『A.I.』を書いとかなくてはいけない気がして書きました。『BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』(2016年)も、確かこんな話しでした。
ずっとロビン・フッドは、スピルバーグが描くアウトローの雛形だと思っていたので、ロビン・フッドが出てくるこの映画は大きな課題だったんですが、今書けるのは、こんなもんです。
この映画の後に、リドリー・スコットが『ロビン・フッド』(2010年)を撮っているんですよね。『A.I.』を見て、ロビン・フッドの意味に気づいたのでしょうか。スピルバーグのど真ん中を、俺が撮ってやるよ的な?リドリーは相当スピルバーグを意識してるとは思うんですが、どうなんでしょう。
あとテディ、あの熊、何なのでしょう。カメラ的な何かなのかなと思うんですが、ちょっと今のところ分からないです。