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映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)について

監督:黒沢清
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ネタバレあります。

お正月休みに『ヴァンパイア/最期の聖戦』(1998年)を見て、『クリーピー 偽りの隣人』が吸血鬼映画だったことに遅ればせながら気づいたので書いておく。

以下は、『クリーピー 偽りの隣人』と吸血鬼映画の分かりやすい類似点を箇条書きしたもの。
・高倉(大学教授。専門は犯罪心理学)と西野、ヴァン・ヘルシング(大学教授。専門は精神医学)とドラキュラの対立構図。
・短い階段のアプローチから地下、または半地下に至る死にまつわる空間。西野家の監禁・殺害部屋と吸血鬼映画の地下墓所
・康子の腕の注射痕のショットと、吸血鬼映画の首元の牙痕のショット。
・ドラキュラを思わせる西野の黒ずくめの装い。
・多くの吸血鬼は住居込みの存在である(ドラキュラ城、西野家)。

『クリーピー 偽りの隣人』の観賞直後の印象は、"民間伝承だか都市伝説だかを見ているような映画"だった。物語の舞台が郊外と田舎の境界であることや、物語が断定的に進行する様、田中が西野を指して言う「鬼」という言葉がそう思わせた。
なので『クリーピー 偽りの隣人』を吸血鬼映画と捉え、いくつかの吸血鬼映画を確認がてら鑑賞するとともに、民間伝承として語られる吸血鬼も知りたかったので、『吸血鬼伝承』(平賀栄一郎2000年)を読んでみた。
この本で吸血鬼は以下のように定義される。

「それは「生ける死体」である。死したのち墓処からふたたび肉体のまま現れて(亡霊〈亡魂〉でなく)、人々に、とりわけ近親者に害をなし、死に引きこむ死者である」「死して葬られたのち、葬処より起き上がって親族や隣人を襲う死者。生と死の境界を暴力的に侵犯する凶々しく肉体的な危険。」

まずは「吸血鬼」の名称について、混乱を避けるために先に断っておく必要があるだろう。上記の定義に含まれていない吸血行為についてだが、『吸血鬼伝承』では以下のように説明されている。
「一般に血を吸うのがヴァンパイアVampireの特質と考えられ、日本語の「吸血鬼」などまさにその性質のみに基づく命名だが、東欧の「吸血鬼」が血を吸うことは決して多くない。―「吸血」は「吸血鬼」の本質ではないのだ。血は体液のひとつであり、―「生気を奪う」の比喩的具象化と考えてもいい。」

この本によると、ヨーロッパにおける吸血鬼の故郷は、東欧・バルカン地方の伝承にあるそうだ。
「「東欧」というのは、―ヨーロッパ文明の中心である西欧と、それと異質な、あるいは異質な面の多いトルコやロシアへの移行の場、グラデーションの空間、ヨーロッパ文明の辺境。」
上記の定義に当てはまる怪異・妖怪の存在は「移行の場」「グラデーションの空間」、特定の文明の辺境に現れ、それらは呼称は違えど吸血鬼と括られる。
吸血鬼伝承が伝わる場所の特徴(「移行の場」「グラデーションの空間」、特定の文明の辺境)に『クリーピー 偽りの隣人』の物語舞台の特徴「郊外と田舎の境界」との重なりがあるように思える。

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そもそも東欧・バルカン地方の土俗的信仰であった吸血鬼は、西欧に「発見」され、17世紀から18世紀にかけてドイツ・フランスの学界や有閑人士たちの間で一大吸血鬼ブームを巻き起こした。その後、1897年にイギリスで刊行されたブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』のヒットによって広く知られるようになり、これを原作とした映画(『吸血鬼ドラキュラ』1958年)もヒットしたことから、「若い女性の生血を吸う黒マントの長身で上品な紳士」という現代の吸血鬼のイメージが形成されたようである。

以上のことを踏まえて、
『クリーピー 偽りの隣人』を吸血鬼映画のフォーマット(そのようなものがあるのかどうかは知らないが、いくつかの吸血鬼映画に共通して見られる演出やモチーフはある)を踏襲しながら、伝承される吸血鬼「生ける死体」の存在を現代に見出している吸血鬼映画だと捉えてみよう。

西野は吸血鬼映画に登場する吸血鬼である。
吸血鬼映画に登場する吸血鬼とは、吸血鬼として登場し、人々を恐怖に落としいれ、人々と対立する存在である。
『クリーピー 偽りの隣人』から離れてしまうが、黒沢清フィルモグラフィーに目を向けると、西野役の香川照之は、『トウキョウソナタ』(2008年)に佐々木竜平役で登場しており、この佐々木竜平という人物には、自動車にはねられ、路肩に横転した状態で動かなくなり、やがて動き出すという場面がある。この場面は、「意識を失った人間が意識を取り戻した」とも「死んだ人間が動き出した」ともとれる。どちらにしろ映像に違いはない。同じ理屈で西野昭雄と佐々木竜平にも映像に大きな違いはない。どちらも香川照之である。この場面を、「死んだ人間が動き出した」とした場合、黒沢清フィルモグラフィーに吸血鬼「生ける死体」として香川照之が登場する流れはあるのだが、吸血鬼映画に吸血鬼が登場するのに理由などいらないので過去作品は無視してかまわない。
西野は吸血鬼である。
西野はまず、何らかの条件に見合った家を見つける。その家をターゲットに、そこに暮す者に取り入り、何か常習性のあるものを注射して家人を操り、家と金を手に入れて暮しているようである。その暮しに障害となる者は殺害され、利用できる者は生かされる。西野は生存というよりも社会の中で暮すために人々を利用し、必要であれば何かしらを注射して生気を奪い、その者を操る。
『ヴァンパイア/最期の聖戦』では、ヴァンパイアに咬まれた者は、体力・意識レベルが下がり、時間が経つにつれ自身を襲ったヴァンパイアと意識がつながり始め、およそ48時間が経過するとヴァンパイアになる。劇中で「吸血により何らかのウイルスに感染しヴァンパイアになる」という吸血鬼ハンターの台詞があったが、吸血と同時にウイルスが注入されているのだろうか。ウイルスでも注射でも、どちらにしろ被害者の体力・意識レベルが下がり操られるのは『クリーピー 偽りの隣人』と同じである。

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この吸血鬼の手口に康子はなぜ落ちたのだろうか。
康子は新天地に越してきた主婦だ。手の込んだ料理を作り、ペットをしつけ、愛想よく近所付き合いをしようとする。しかし、近所の田中からは近所付き合いはしないと言われ、隣人の西野からは、ここら辺の人は近所付き合いをしないと言われ、彼女にとっての社会がすっかり西野だけになってしまう。康子の何気ない会話を歪める西野の反応が、彼女にとっての社会の反応になってしまう。彼女の主婦としての模範的な振る舞いが社会との相対化によるものだったとしたら、その社会が西野に取って代わったことで、彼女の振る舞いが狂いだすのも無理はない。
アンダーパスで握手を求める西野に手を差し出す康子。握手を求める隣人に対し、康子は断る術を持たない。彼女の模範的な振る舞いが形骸化された自動的なものであること。そこに自由意志などないこと。「私もうとっくに諦めちゃったのよいろんなこと」と康子は高倉に言う。康子はもうずっと前から形骸化され、自由意志を持たず、自動的に振舞っていたのだろうか。西野はそのことを暴いただけなのだろうか。
だとしたら西野という『クリーピー 偽りの隣人』が描く吸血鬼は、形骸化された人間を暴く触媒なのかもしれない。

高倉はどうだろうか。
映画冒頭、高倉は警察署内で連続殺人鬼と面談をする。間も無く、その連続殺人鬼は署内を逃亡し、人質を取り、高倉が事態を収めようと連続殺人鬼に説得を試みる。しかし、その説得は失敗し、高倉はフォークで刺され倒れこむ。
このフォークによる刺痕が映されることは無いが、想像するに牙痕や注射痕と良く似たものだろう。高倉はこの時「生ける死体」になった。そう考えると、高倉が西野の監禁・殺害部屋にある死者が入れられる穴、または入ると生きては出られない穴(谷本刑事の最期)に入り、腕の力だけでヒョイッと上がってくることや、注射により操られなかったことの説明がつく。高倉はとっくに「生ける死体」だったのだ。彼には生と死の境が存在しない。
またこのことから、劇中で用いられた「鬼」という言葉が「殺人鬼」や「吸血鬼」といった秩序・無秩序混合型に共通する概念であることも見えてくる。イメージの吸血鬼ではなく、伝承される吸血鬼「生ける死体」は、日本ではただ「鬼」と呼ばれるのかもしれない。

映画終盤、西野は同じ「鬼」である高倉を操れていると思い込み、高倉に拳銃を渡し犬を殺すよう指示を出す。その好機に乗じ、高倉は西野を撃つ。撃たれた西野はその場に倒れこみ動かなくなる。劇中の高倉家のカレンダーが6月だったことから、倒れ込んだ西野に枯葉が吹きつけるショットは、倒れ込んだずっと後の出来事、もしくは西野の肉体が滅ばない暗示だろう。西野は吸血鬼「生ける死体」だから、また動きだすかもしれない。
そのショットに康子の叫びが重なる。彼女の叫びもずっと続いているのだ。西野家に乗り込んだ高倉に、「あなたまでここにくる必要なかったのに」と言った康子は、夫が「生ける死体」だとは気づいていなかった。康子が形骸化した理由は分からないが、高倉にその理由があるのだとしたら、例えば、高倉を生かすために彼女が形骸化したのだとしたら、とっくに高倉が「生ける死体」だったという事実に絶望し、叫び続けているのかもしれない。

長くなりました。ここらへんでやめます。
混乱するかもしれませんが、「吸血鬼」「鬼」「生ける死体」という言葉は、ほぼ同義で使用しています。
公開当初、黒沢監督がこの映画をダークファンタジーと言っていて、全く意味が分からなかったのですが、吸血鬼映画ならダークファンタジーですね。

『ハドソン川の奇跡』(2016年)感想・ネタバレ

監督:クリント・イーストウッド

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冒頭、企業ロゴに重なる音。市街地で衝突する旅客機。そして恐怖に驚き目覚めるサリー。この時、サリーの瞳にだけ照明が当たり、他は影になってよく見えません。この場面と次のシャワーを浴びる場面は、目覚めた後にシャワーを浴びた、というようにつながっているのでしょうか。サリーは、悪夢で目覚めてシャワーを浴びたのでしょうか。

2001年9月に起こったアメリカ同時多発テロ事件。私は世界貿易センタービルに旅客機が衝突する、あの象徴的な映像で記憶しています。事件当時の映像で繰り返し見たのか、その後に取り上げられた映像が積み重なり脳裏に焼き付いたのか、曖昧です。
あの時、現役旅客機パイロットの人達は、事件にまつわる映像をどのように見たのでしょうか。飛行機操縦経験の有無は、あの事件の映像に対する視点に何か影響を与えるのでしょうか。

サリーが悪夢を見て恐怖に驚き目覚めるかのように見える冒頭の場面は、USエアウェイズ1549便不時着水事故の前なのか後なのか、サリーの白髪が確認出来ないように撮られているため分かりません。この場面は、まるで砂埃のように白く蒸気が舞う浴槽の場面へとつながることから、USエアウェイズ1549便不時着水事故の前であり、アメリカ同時多発テロ事件後のサリーの心象を表しています。市街地での旅客機衝突という悪夢。それを目撃した恐怖。そしてアメリカ同時多発テロ事件でNYの街に降り注ぎ舞い上がった砂埃のような蒸気の中、現在のサリーはスクリーンに登場するのです。これは、サリーの中にアメリカ同時多発テロ事件で生じた恐怖が、USエアウェイズ1549便不時着水事故により顕在化したことを表しています。
国家運輸安全委員会の追及にサリーは、アメリカ同時多発テロ事件以降自身の中に生じた市街地での旅客機衝突という恐怖のビジョンを回避しようとして、事故に際して冷静な判断が下せなかったのではないか、という不安を覚えます。

この不安はサリーだけのものではありません。
サリーの判断に疑いを持つ人。サリーをヒーロー視し熱狂する人。サリーと同じように戸惑い不安を抱える人。これらの人々の反応の元に、アメリカ同時多発テロ事件があるのです。「NYは飛行機に良いイメージがないから」という台詞に、アメリカ同時多発テロ事件の同義や反義としてUSエアウェイズ1549便不時着水事故を捉える人々の心情が表されています。

2016年に発生した熊本地震の映像を連日ニュースで見ていた時、私は南阿蘇村の阿蘇大橋付近で発生した大規模な斜面崩壊の映像と、熊本城崩壊の映像、どちらが後世に熊本地震の様子を伝える象徴的な映像として残るのだろうか、と考えていました。死者や負傷者、被害に遭った人々、変わってしまったもの、壊れて消えたもの、全ての細部が一つの象徴的な映像になり、象徴的な出来事が語られ、単純化されていきます。
USエアウェイズ1549便不時着水事故が起きたのは2009年。アメリカ同時多発テロ事件から約8年が経過し、事件の細部が映し出され、その様子が詳細に語られることは無くなっていたはずです。事故をきっかけとして、自身や多くの人の内に蘇った恐怖と不安に、サリーは細部を明らかにすることで応えていきます。何度も繰り返される事故当時のフラッシュバックは、回を重ねるごとにより詳細さを増していきます。何があったか。誰がいたか。誰がどうしたか。何を思ったか。そしてその細部の果てで真実は明らかになります。サリーが飛行機乗りとして積み重ねてきた数々の経験や教訓は、アメリカ同時多発テロ事件により負った傷で汚されてはいなかったのです。
サリーがヒーロー視を拒むのは、ヒーロー視という行為そのものが、人々の恐怖や不安からくる出来事への拒否反応としての象徴化や単純化だからなのかもしれません。詳細に真実を見つめることは強靱な精神力を要することですが、根本的な恐怖や不安に立ち向かうために、サリーは冷静に真実を追い続けました。
USエアウェイズ1549便不時着水事故の乗客や管制塔などの様子は、サリーのフラッシュバックとして出てきますが、サリーが知りえないことです。あれはアメリカ同時多発テロ事件にも及ぶ想像力ですね。アメリカ同時多発テロ事件の時はどうだったのだろうか、と思わずにはいられません。


イーストウッドの出来事の単純化や象徴化に対する姿勢は、この後の映画に影響を与えそうです。『岸辺の旅』(2015年)の黒沢清監督はこの方向性ですね。

この内容で、映画は無茶苦茶お洒落なんですよ。全てが洗練されてます。何気ない乗客のエピソードも感傷的過ぎず、印象的にサラッと描いてます。
コクピットパイロットの後方からフロントを撮ってる画が若干左後方よりで、何か意図的にアングルを外すというか、そういった不思議な撮り方をするのですが、全体になると凄く洗練されて見えます。前作との対比が見えるBARの場面とか、色々書き出したらきりがない映画です。87歳にこんな映画撮られたらもうぐうの音も出ません。

『BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』(2016年)感想・ネタバレ

監督:スティーヴン・スピルバーグ


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キャラクターや物語世界の説明に時間を使うつもりはない。観賞者にビジョンが残ればそれでいいんだ。
と、スピルバーグが言ったかどうかは不明ですが、そんな印象の映画です。
映画の中に有名なランドマークを登場させることを意図的に避けてきた感のあるスピルバーグですが、冒頭からビッグ・ベンとロンドンバスが映り、何だかいつもと違う始まり方をします。

思いっきりネタバレになるのですが、キャラクターや物語世界が曖昧なまま、これまた曖昧に場面が繋がり、宮殿のベッドでソフィーが目覚め、起き上がって窓辺に近づきBFGを思うラストの場面で、この映画は冒頭からずっと夢で、裕福な少女が孤児の少女の夢を見ていたのだ。と思ったのですが、窓辺に佇むソフィーの足元に「ソフィーの夢」の空瓶があることで、よく分からなくなってしまいました。
孤児のソフィーとBFGの物語は全て裕福なソフィーの夢だったと捉え、尚且つこの空瓶があるということは、裕福なソフィーの世界にもBFGがいて、大統領と電話で話した少年の夢のように、BFGの手によって、裕福なソフィーは孤児のソフィーの夢を見たのだと捉えると、水面の向こうの世界で美しく輝き、蛍のように浮遊し色とりどりに光る夢の中でも一際特別で素敵な「ソフィーの夢」は、BFGの手によるもので、その「ソフィーの夢」をこしらえるために、美しく輝き、蛍のように浮遊し色とりどりに光る夢を、BFGは水面の向こうの世界で採取し、一際特別で素敵な夢の夢としてソフィーに見せたことになるわけです。
どうですか。こんがらがりませんか。
どこからどこが夢だとか夢じゃないとか、結局全部映画じゃねえか、と投げ出したくなります。
A.I.』(2001年)のラストの2000年後の世界で、デイビッドとモニカが幸せな一日を過ごす様子をテーブル型のディスプレイで未来のロボットが見ている場面も、未来のロボットがデイビッドに見せているプログラムしたデータを平面に映しているのか。どこかにかつての家のセットがあって、そこにいるデイビッドとモニカをカメラで撮影した様子を、未来のロボットがモニターしているのか。そもそも2000年後の世界など存在せず、デイビッドの機能停止直前に起こった不具合から生じた、まるで夢のようなバグではないのか。などと考えていると、結局全部映画じゃねえか、と思ってしまいます。
私はこの、結局全部映画じゃねえか現象を、スピルバーグが誘発していると思っているのですが、ただの思考停止なのでしょうか。

以前、このブログで『未知との遭遇』(1977年)について書いた時に、『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド出版局、2000年)を引用して、『未知との遭遇』に登場するUFOは映画のメタファーで、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)の聖櫃も映画のメタファーだと書いたのですが、『BFG』に登場する、夢と呼ばれる色とりどりの光は、水面の向こうの世界の色とりどりの光なわけですから、やっぱりこれも映画のメタファーなのです。
思いが光になり、その光が光を生み、さらにその光が思いを生み、といった反復が描かれています。色んな思いで皆が映画を作って、その映画から新たに映画が生まれて、さらにその映画を見て皆が色んな思いを抱いて、みたいな。
言葉にすると陳腐ですが、どこにも辿り着かない、延々と反復する光の物語は、まるで夢のようです。

『シン・ゴジラ』(2016年)感想・ネタバレ

監督:庵野秀明
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なぜゴジラが日本に上陸したのか、映画の中では示されていない。この映画の中の日本は、過去に原爆は投下されたが、東日本大震災は起こっていないようだ。
ゴジラの発生も上陸も、登場人物には不可解な出来事だが、鑑賞者には心当たりがある。東日本大震災が起こったからゴジラが企画され、製作され、発生し、上陸しているのだ。
まず初めに災害をもたらした巨大生物は、海の中にいて姿がはっきりとしない。次に現れた巨大生物は、海から這い出て街を這い進み、やがて立ち上がり海へ去った。それらはゴジラと命名される。ゴジラは再び、更に巨大になって現れる。そして、人間の攻撃に対し火を噴き、光線を放つ。
正義や悪を、体積の大きな存在として描くことが、いつからか日本では当たり前になっている。正義も悪も巨大化する。それは組織の規模でも、ものの例えでもない。凄い力を持った存在は、凄く大きいのである。外国ではどうなのか詳しくは分からないが、アメリカのスーパーマンは人間サイズだ。このことに疑問を抱いたことはなかったが、折口信夫の「山越しの阿弥陀像の画因」(1944年)を読んで以来、私は山越しの阿弥陀が日本における巨大な正義や悪の起源なのではないかと思っている。
阿弥陀如来は、無量光仏(無限の光)、無量寿仏(無限の寿命)という意味を持つ。
建物の屋上でゴジラ凍結作戦の指示を出している主人公らの向こうにある放射線状の光線。彼らは放射線状に光を放つ存在を見ている。光背(後光)を放ち、世代交代を経ることなく一個体で進化を続ける「人知を超えた完全生物」であるゴジラは、無量光仏(無限の光)、無量寿仏(無限の寿命)という、阿弥陀如来の特徴を備えている。

シン・ゴジラ』の宣伝で、ゴジラは初めて登場した1954年以降、新作が出る度に大きくなっている、と言っていた。建物が高層化していく過程の中で、ゴジラの迫力を損なわないために相対的にゴジラの体積が大きくなっていったそうだ。しかし、『シン・ゴジラ』では建物の高さとは関係なく、間を置かずしてゴジラは巨大化していく。このゴジラの体積は何によって増しているのか。
巨大生物として最初に姿を現したゴジラは、自然そのもののようだった。エラから血を吐き街を這う様は、まるで海底のプランクトンを砂ごと吸い込み、エラから不必要な砂だけを吐き出す生物のようだった。巨大生物が街を這い、人々を吸い込み、その血をエラから吐き出している。しかし、ゴジラの糧は人間ではない。自然の振る舞いは、時に副次的な人的被害を生む。ゴジラは自然でありながら、その被害も含めて体現する存在なのだろう。
映画の最後に、人骨を内包したゴジラの尻尾が透けて見える。この骨は、ゴジラに覆われ見えなくなった人々、それはカメラが映すことを避けた人々であり、海の中へさらわれた人々といった、私たちの死角へと消えた人々の骨だ。ゴジラはそのような人々を内包し、そのような人々から成る。
ゴジラは、死角へと消えた人々を内包し、物理的な質量を持った阿弥陀如来の化身なのである。

『黒衣の刺客』(2015年)感想・ネタバレ

監督:侯孝賢ホウ・シャオシェン

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この映画は、白黒のスタンダード、カラーのスタンダード、カラーのビスタビジョンという3つの画面フォーマットを使い分けています。白黒のスタンダートは過去を、カラーのスタンダードは現在を表し、カラーのビスタビジョンは記憶を表しているようです。
映画は過去から現在へ、それに伴い画面は白黒からカラーへと切り替わり、そのどちらにも隠娘(インニャン)と女道士(嘉信:ジャーシン)は登場します。黒と白の装束を纏った2人は、白黒からカラーへの画面変化の影響を受けません。
女道士の白装束は、彼女が嘉誠(ジャーチャン)の双子の姉であり、白牡丹が嘉誠を象徴する花であることから、嘉誠の白を表しています。隠娘の記憶として描かれる、嘉誠が青鸞の故事を語る場面は、後に隠娘が青鸞は嘉誠のことであると語ることから、嘉誠の無念を表すものであり、その記憶がカラーのビスタビジョンで大きく鮮やかに表されることで、隠娘がその無念に強く囚われていることが分かります。
白と黒は、単純に光と影と捉えることもできます。隠娘は女道士の影であり、生前の嘉誠の無念を晴らす怨霊のような存在なのです。
隠娘が囚われている嘉誠の無念とは、歴史の犠牲となった女の無念です。女は歴史の表舞台に上がることなく、権力に近づき歴史に干渉するか、歴史の犠牲になるか、どちらかの運命の中にいます。歴史という長い時間の中で、それはずっと繰り返されています。隠娘は、歴史と同じ長さで在る、女の営みの影であり怨霊だとも言えます。
隠娘は女の無念を晴らすために登場したわけですが、その無念を晴らすことなく、映画は終わります。
それはなぜなのでしょうか。
男たちは話し合い、歴史を決めていきます。中央権力や周辺勢力といった人々の動向をどう解釈し動くかを決めています。そして女たちは、決定に干渉し、決定の犠牲になります。それが人々の営みで、その蓄積が歴史となり、人々の営みはやがて歴史として包括され消えていきます。しかし、その話し合いに参加している聶鋒(ニエ・フォン)の呆けた顔や、映画終盤の男たちの話し合いの白けた雰囲気などから、男たちですら何をやっているのかよく分かっていないのです。誰もよく分かっていない営みが蓄積し、それが歴史となり、人々はそこから消えていく。
このような歴史に対して、より包括的に在り、この映画に終始作用するものがあります。それが、あの美しい自然です。歴史を矮小化する説得力を持った自然が映し出され、風が吹き、音が鳴ります。そして、自然は隠娘に作用し続け、隠娘を感化していきます。
「田季安(ティエン・ジィアン)を殺しても、何も変わらない」という隠娘の言葉は、歴史よりも俯瞰的な視点から出たものですが、女道士は「汝、術は成せれども 情は未だ断てず」と、映画冒頭の台詞を繰り返します。未だ女道士は歴史の円環の中にいて、隠娘が田季安を殺さないのは、未熟さゆえだと思っています。その後、隠娘は嘉誠(ジャーチャン)への憐憫を振りほどいて(追って襲い掛かる女道士をかわして)立ち去ります。そして、歴史の円環の外へ、自然を湛えた風景の奥へと隠娘は消え去って行きます。



ラストに軽快な音楽が流れ、風景の奥へ隠娘が消えていくのを見て、これは活劇のそれだから、この映画は活劇なんだな、と驚きました。何の情報も無い状態で見たので、スタンダード白黒始まりにも驚きましたが。侯孝賢ホウ・シャオシェン)って凄い人ですね。画面フォーマットまで表現に組み込んで、この映画を108分で終わらすのは凄いです。
同じ台湾で、全く違うテイストの映画ですが、隠娘役のスー・チーも出ているチャウ・シンチー監督の『西遊記〜はじまりのはじまり〜』(2013年)も、過剰な暴力でコメディをシリアスに語るという間接技を決めていたのですが、映画の要素の一つが過剰であることで物語に影響を与えるという描き方が似ているなと思いました。これは中国のせいでしょうか。
仮面の女は誰?というレビューが散見されますが、唯一の露出部分である首に目立つ黒子があることから、田季安の正妻の元氏(ユェンシ)のようです。庭先から隠娘を見て、「敵意は感じられない」と手練れのようなことを言っていましたね。

『オデッセイ』(2015年)感想・ネタバレ

監督:リドリー・スコット

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最近よく、「嵐がくる」という台詞を映画の中で耳にします。それは気象現象としての嵐の訪れや、事態の波乱の訪れを告げる台詞なのですが、「嵐がくる」という台詞の後に気象現象の嵐が劇中で起こっても、それはただ嵐が起こっただけではなく、登場人物の境遇に変化をもたらすものとして描かれています。
主人公マーク・ワトニーの境遇も嵐の訪れによって変わります。火星で一人きりになり、地球へ戻る術を無くしてしまいます。簡単に言うと、孤独になり生きる術を失います。
このように嵐に遭い、孤独で生きる術を失った人は、誰でも何処にいても、まるで火星に独りきりなのです。
このような状態にいる人は、どう生きていけばいいのか。また近しい人々、機関、国、世界は、このような人に対してどう振る舞うべきか。その理想と奇蹟を『オデッセイ』は描いています。ワトニー救出ミッションまでが理想で、ワトニーの救出ミッションは奇蹟です。

ワトニー救出ミッションが、なぜそれまでのように理想的な現実として描かれなかったのか、それには理由があると思っています。

気になったのは、劇中に何度か登場したNASAの記者会見場です。壇上者の後ろはガラス壁になっており、そのガラスに反射しているのか、透けて見えているのか、真一文字に蛍光灯の光のようなものが見えるのですが、それが壇上中央にある白いスタンドと組み合わさって十字架のように見えています。そして、この場面はその偶発的(を装った)な十字架が崩れないように、常に正面から映されています。この場面が、その映像から受けるイメージ通りに、教会における典礼を模しているのであれば、記者会見での発言は聖書朗読かもしれないと思い、この記者会見の内容と映画の流れを聖書の記述と照らし合わせてみました。

・ミッション18日目、ワトニー嵐に遭う。
NASAテディ・サンダース局長による、ワトニー死亡報告会見。
・ミッション21日目、ワトニー目覚める。わき腹にアンテナが刺さっている。
・火星とNASAの通信が可能になり、ワトニー生存報告会見。

ワトニーはキリストと同じく3日目に目覚めます。わき腹のアンテナも、キリストの死を確認するためにわき腹に刺された聖槍を想起させます。
また、ワトニーを救出する宇宙船ヘルメス号の名前の元になったギリシア神話のヘルメース神が、死者の魂を冥界に導き、また冥界より死者の魂を地上に戻す役割を持っていること。ヘルメス号に帰還したワトニーに対し、クルーが「臭うぞ」と言う台詞は、『ヨハネによる福音書』11章39節における、死んだラザロが復活する前に、ラザロの姉妹マルタがイエスに言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」の箇所を想起させます。
地球に帰還したワトニーが、候補生たちの輪の中央で、生きる術について説く様も、復活したイエスが弟子たちの真ん中に来て「あなたがたに平和があるように」と言った箇所(『ルカによる福音書』24章36節)とイメージが重なります。

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火星でワトニーが向き合っていたものは、死そのものです。この映画は、死から復活した者の話です。
聖書に関する知識が乏しく、自分で書いていて心もとないのですが、死という絶望(絶望という死)の反義としての復活が描かれています。この復活とは、引用が多くみられることから聖書に記されている「復活」と同義のものだと思われます。死の中から血と肉をともなって死臭を放ちながら「復活」する者の話です。

死の恐怖は音となって迫ります。居住スペースの外で荒れ狂う音を掻き消すように、ワトニーは70年代ディスコミュージックを鳴らします。やがて居住スペースには風穴が空き、入り込もうとする死をシートで塞ぎ、風にシートが煽られて響く音に怯えながら、ワトニーは懸命にじゃがいもの数を数える行為に集中しようとします。
居住スペース、探査車、宇宙服といった彼を守るものの外は死です。ワトニーは死の世界で、70年代ディスコミュージックで死の音を遠ざけながらなんとか生きています。
最後に彼は、この死の世界から逃れたくて脱出ポッドから身を投げます。そして、宇宙空間に身を投げたワトニーをクルーが掴まえ、ワトニーが死の世界から人の世界に舞い戻る「復活」という奇蹟が果たされます。

キリスト教における「復活」の奇蹟を描いているわけですが、この映画は死んでから「復活」するまでの空白に焦点が当てられています。
ワトニーの「復活」は予言され、そして本当に「復活」する。そして世界は死という罪から贖われる。これは贖罪の物語です。

聖書や神話などの引用はリドリー・スコットらしいですが、明るくて分かりやすい表現の仕方はらしくないですね。ワトニー救出場面は嗚咽しそうになって、必死にこらえました。なんというか、身を投げる行為(宇宙服の手元を自ら切る行為も手首を切る自死を思わせる)に対する解釈や、救出方法が空中ブランコみたいな離れ業なのが儚くて、観ていて辛かったです。トニー・スコットの死に対して、答えを出して、その責任を果たそうとしているように感じました。音楽もずっとトニーとやっていたハリー・グレッグソン=ウィリアムズです。
明るい映画なのですが、ずっとトニーのことが頭に浮かんでいました。

『ブリッジ・オブ・スパイ』(2015年)感想・ネタバレ

監督:スティーヴン・スピルバーグ

この映画は、スパイものでも、男の友情ものでも、英雄ものでも、冷戦ものでもなく、言うなれば法ものです。今回も法ものなのです。

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この法の話を、スピルバーグは手をかえ品をかえ描き続けています。
その多くは、法のもとで虐げられるもの、法の外にいるもの(生者・死者・恐竜・ロボット・異星人など)の話なのですが、今回は自らの信念により結果的に法を越えるものの話です。
物語冒頭、アメリカでアメリカの法律を語るアメリカ人弁護士ジェームズ・ドノヴァンは、物語終盤では、肩書きも曖昧な者となり、法の境界線上に佇んでいました。肩書きを消失し、無法地帯へ赴くという、このドノヴァンの変容は、物語では悲劇的に描かれることが多いように思うのですが、この物語では偉業を成し遂げるための変容として描かれています。スピルバーグ映画の系譜では、『未知との遭遇』(1977年)のロイ、『A.I.』(2001年)のジゴロ・ジョーに連なる人物ですが、彼らが元の地には戻らないのに対し、ドノヴァンは元の地に戻ります。この違いは、『ブリッジ・オブ・スパイ』で描かれた此方と彼方、何方にも続く法の世界と関係しているのかもしれません。グリーニッケ橋にかかるアーチは、まるで鏡の縁のように、どこまでも続く法の世界を媒介しているのです。

巷では、スピルバーグには娯楽系とシリアス系の二系統があるだとか、白いスピルバーグと黒いスピルバーグがいるだとか言われていますが、この映画は、その手のカテゴライズが難しいように思います。強いて言えば、白いスピルバーグによるシリアスな題材をもとにした娯楽作品でしょうか。
2時間22分という長尺を、退屈しないように、でも一面的な盛り上がりは見せないように注意深く作られています。
ルドルフ・アベルがスパイ交換のために独房から出される時に映った少女の絵は何なのか。スパイ交換のニュース映像に実際のフランシス・ゲイリー・パワーズの写真を使用しているのはなぜか。など、まだ分かっていないところもありますし、『リンカーン』(2012年)をふまえて書かないといけないことも分かっているのですが、うだうだやっているといつまで経ってもスピルバーグ作品が書けないので、無理矢理書きました。この映画で示される1957年といえば、『戦場にかける橋』(1957年)があって、タイトルからしてあれなので見ておこうかとも思いましたが、収拾がつかなくなるので止めました。近々見ます。

あと、皆さんご心配のジョン・ウィリアムズは、一時的に体調を崩していたらしく、次回作ではまた一緒にやるみたいですよ。