映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『レディ・プレイヤー1』(2018年)感想・ネタバレ

監督:スティーヴン・スピルバーグ


f:id:stevenspielberg:20081204010325j:plain画像は『シャイニング』より



印象は全然違いますが、「みんなで人の内世界に入る」というとこだけで言うと、『インセプション』(2010年)っぽいです。『ミクロの決死圏』(1966年)でもいいんですが。

ペンタゴン・ペーパーズ』(2018年)の記事で、スピルバーグの統制されたショットについて書きましたが、『レディ・プレイヤー1』に『シャイニング』(1980年)が出てきた時、統制されたショットといえばキューブリックだと気づきました。『2001年宇宙の旅』(1968年)が、まるでフルCGのようなフル実写だったことを忘れていました。
映画に出てくる『シャイニング』のショットは、VR世界のCGパートととても親和性が高いのですが、それをスピルバーグが見せた意味について、ここ最近考えています。

考えていて思い出したのが、以下の伊藤計劃氏のブログ記事です。

「ダークナイト」のアニメ並みに制御された画面構築力について - 伊藤計劃:第弐位相

上記の記事で書かれていることが、『ペンタゴン・ペーパーズ』に感じたものと近いです。CGアニメーションを作る時のレイアウトについてよくは分かっていないのですが、『レディ・プレイヤー1』を撮りながら撮った『ペンタゴン・ペーパーズ』の、あの凄まじい画面統制を見ると、CGアニメーション製作過程のレイアウト技術が応用されているんじゃないかと思っています。
ダンケルク』(2017年)の空中戦を見て、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(2008年)の空中戦を思い出したのですが、まるでCGのような実写は、アニメ並みに制御された画面構築力で出来ているんだと思います。そして、あえてCG的な表現から遠い映画をCG製作のアプローチで撮ったのが『ペンタゴン・ペーパーズ』なのではないかと考え中です。
スピルバーグは、『レディ・プレイヤー1』で、映画におけるこのようなアプローチは、アニメやCGではなく、キューブリックが志向し、遺した映画にこそ起源があるのだと言いたかったのかもしれません。



レディ・プレイヤー1』の内容は、冒頭のトレーラーハウス・マンション群の街並みが、シネコンの映写室に並ぶプロジェクターを縦積みしたみたいなデザインでした。映写機と違って、中を覗いても何が上映されているか分からないデジタル上映が、ゴーグルを付けてVR世界を見ている人だけが中に見える様子として描かれていました。プロジェクターの排気ファンもトレーラハウス・マンション脇で回っています。
主人公がVRゴーグルを付ける時にメガネを外していて、外されたメガネが置かれるショットまであるのを見て、これは子供向けのなぞなぞのように、メガネを外して見るもの...、またまた夢!
だとすると、内容に関しては重複がありますので、以下の記事をお読み下さい。
stevenspielberg.hatenablog.com


現実が大切、仮想空間はほどほどにとスピルバーグが言っていると書かれたレビューを読んだのですが、あの現実も仮想空間も全部映画なので、お気になさらず。メタ的すぎて解釈の元も子もないと思われた方は、以下の記事をお読み下さい。
stevenspielberg.hatenablog.com

『A.I.』(2001年)について

監督:スティーヴン・スピルバーグ


3千年紀の始まりに公開された、母の愛を求める少年型ロボットの冒険物語について、私はまだ何も理解していない。
この映画は、「ピノキオ」がストーリーの下敷きになっていると言われているが、それがカルロ・コッローディ著『ピノッキオの冒険』(1883年)なのか、ディズニー映画『ピノキオ』(1940年)なのかも分からない。なんとなくピノキオっぽい話だとしても、映画冒頭に登場する童話が『ロビンフッドの冒険』なのは、どういうわけなのだろうか。


この映画の何が分かって何が分からないのかについて、一度整理をしておきたいとずっと思っていた。書いたら考えるし、それで少しは整理できると思う。

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まず、この映画の冒頭と終盤と最後に、なぜスペシャリスト(2000年後に出てくる半透明の宇宙人みたいな進化したロボット)のナレーションが入っているのかについて書いておく。
映画終盤の2000年後の未来で、スペシャリストが氷の地表を掘り進めてデイビッドを発掘し、デイビッドが保持する記憶を人類の遺産として収集していることから、このナレーションの意味は、発掘映像を元にスペシャリストがディレクションし、人類に関する映像資料として製作されたものであると考えることが出来るだろう。
この映画は、スペシャリストがディレクションした2000年前の過去の物語なのである。
この物語は、スペシャリストのいる時代から語られているので、人間が登場する時代の年代は不明である。発掘されたデイビッドを起点に2000年という時間の経過だけが明確な、考古学的時間表現が成されている。
昔々、Once upon a timeに相当する 2000年前の昔、温暖化が進み、地表が減少し、人口調整が成され、資源を必要としないロボットが活躍した時代の物語が語られている。


人の夢想から生まれた虚構はかつて人々に消費され、人々が消え去った遥か未来にただ一体が残される。その虚構が人類の記憶を保持する資料的価値を持った存在となる。しかし、その虚構は価値ある存在などではなく、ただ一人に愛されることを望む。

この、「人の夢想から生まれた虚構であり記録媒体」として描かれるデイビッドが、私には映画に思えて仕様が無い。
何と言っても、デイビッドの最初の記憶が企業ロゴというのが映画らしい。映画本編前には、必ず企業ロゴが入る。
他にもデイビッドは、映画のように需要を見込んで供給されようとしている。そして各劇場に配給されるフィルムのように、大量の複製が製造される。また、ほうれん草を食べて溶けるデイビッドの顔は、映画フィルムが映写機のランプ熱で溶ける様に良く似ている。調整された湿温度で数百年の保存が可能である映画フィルムなら、冷凍状態で2000年ぐらいの保存が可能なのかもしれない。

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このようなデイビッドの特性を見ると、彼は映画というより、映画フィルムとして描かれているように思える。だとすると、固有の形態をそれぞれ持つロボットは、目視で識別する事が出来る映画フィルムという謂わばアナログ記録媒体で、同じ形態で記憶を共有するスペシャリストは、デジタル記録媒体なのかもしれない。
彼らが本質的には同じ、映画を記録する媒体であることを示すかのように、デイビッド登場場面における、縦長のスクリーンのような四角い扉の逆光の中を進むデイビッドのシルエットは、スペシャリストの形態と酷似している。

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デイビッドや、その他のロボットたちが映画フィルムだと思われる描写はいたるところにある。資料でも廃棄物でもない映画フィルムは、ジゴロ・ジョーの左胸にあるようなシリアルナンバーで管理され、各劇場に送られ上映(使用)される。
管理者不明のロボット(ジゴロ・ジョー)や、一本の映画フィルムとして繋がっていない不完全なもの(継ぎ接ぎのロボットや欠損したロボット)、古すぎて需要の無いもの(旧型のロボット)などは廃棄される運命にある。
そうしたロボットたちは森に潜んでいる。森の空き地に廃棄物が投棄されると、それらは一斉に集まり、捨てられた部品を漁り、欠損したり動かなくなった部品に代わり使えるものがないか物色する。そして、ロボットの破壊を見世物にするジャンク・フェアの開催者の捕獲から身を潜めている。
この、ジャンク・フェアの主催者であるジョンソン=ジョンソン卿は、光る月の気球に乗り、気球に設置されたモニターを見ながら、メガホンでロボット捕獲の指示を出す。地上でロボットを追い掛けるバイクは赤色と青色に光り、ロボットを捕獲する磁石は緑色に光っている。さながらジョンソン=ジョンソン卿は、虚構を映し出す映画フィルムに赤・青・緑(光の三原色)の光を当て、それらを観客に見せつける映画監督のようである。

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人が物のように死ぬ映画や、面白おかしく頭や腕が吹き飛んだり、突飛な死に方を見世物にしている映画はある。そこで傷つき破壊されるのは、それら虚構の存在であり、そこにある痛みや死は、見せ掛けであって本当ではない。虚構だからこそ痛みや死を面白おかしく見せることができるわけだが、ジャンク・フェアのシークエンスのラストでは、デイビッドのような、とびきり愛情のこもった、この世に2つとない特別な虚構を、虚構であるという理由で、残酷に扱うことに抵抗を示す人々の様子が描かれている。



とびきりの愛情を込めて、亡くした息子そっくりにデイビッドを製造したホビー教授もまた映画監督のようである。
息子を亡くした悲しみを、普遍的な人間の悲しみと捉え、そこに商機を見出し、デイビッドの複製を大量に製造し改良を重ねている。「ダーリン」と名付けられた少女型ロボットというバージョン違いも生み出している。このようなホビー教授の振る舞いは、ロボット製造会社の開発者というより、同じモチーフを繰り返し描く映画監督に似ている。

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この映画は一見、母の愛を求める少年型ロボットの冒険物語を描きながら、個別の物としての映画フィルムの運命や可能性について描いているのだろうか。
そう考えてみると、すぐにでも上記の解釈だけでは説明出来ないショットの数々が頭に浮かぶ。
例えば、映画冒頭のシークエンスの最後で、女性型ロボットは化粧をしている。その次のショットで、ヘンリーとモニカ夫妻が車に乗って登場する。この時、モニカは車中で化粧をしている。なぜショットを跨いで、女性型ロボットとモニカが化粧で繋がれているのか。
壁面に童話の絵が描かれている施設で低温睡眠するマーティンと、童話がモチーフの遊園地で凍りつき、機能休止するデイビッドの符合は何を意味するのか。またこの時、マーティンの眠る低温睡眠室の天井は、一本の柱を中心に円形の放射線状に骨組みが張られていて、海中で凍るデイビッドの乗るヘリコプターには、これまた円形の放射線状である観覧車の骨組みが覆いかぶさっている。これらの形状は、映画フィルムのリールによく似ている。

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他にもある。それらをいちいち書いていたらきりがないので、まずは、現代の医療では治せない疾患があり、未来の医療に希望を託して低温睡眠状態にあるマーティンに、モニカが「ロビンフッドの冒険」を読み聞かせる場面について考えてみたい。



マーティンが眠るカプセル内部に音声を伝える機器を、モニカは慣れた手付きでカプセルに装着する。そして折り目のついたページを開き、本を読み始める。本は「ロビンフッドの冒険」。モニカは、文中の「ロビン・フッド」と書かれた箇所を「マーティン」と読み替えている。
ロビン・フッドは、中世イングランドの伝説上の義賊、英雄視されたアウトローである。シャーウッドと呼ばれる、コモン・ロー(神の法)の埒外の森を住処にしている。中世においてアウトローとは、「市民としての死」の宣告を受けた者であり、市民に狩られる対象であった。法の埒外にいる者を狩ることは罪では無く、市民はアウトローを見つけ次第、狩ってもよいとされていたのだ。
この映画において、生まれながらに「市民としての死」の宣告を受け、神の法の埒外の森に置き去りにされ、森を彷徨い、人間に狩られるアウトローは、「ロビンフッド」に読み替えられたマーティンではなく、ロボットのデイビッドである。
スピルバーグ監督映画には、世間一般でいうところの乱暴者としてのアウトローでは無く、いつもこの、「市民としての死」の宣告を受けた、法の埒外にいるアウトローが出てくる。
宇宙人も恐竜もナチス党政権下のユダヤ人も未来の犯罪者も空港で国籍を失う者も戦渦の馬も、皆アウトローである。

スピルバーグはホビー教授のように、アウトローを繰り返し描く。手を加えながら。バージョン違いを生み出しながら。ホビー教授にとってのそれは、デイビッドである。そして、スピルバーグにとってのそれは、この映画でロビン・フッドに読み替えられた、マーティンなのではないかと思う。
どう見ても、アウトローとして描かれているのはデイビッドであるにもかかわらず、マーティンがスピルバーグの描くアウトローとはどういうことか。
モニカがマーティンに読み聞かせた、ロビン・フッドとデイビッドの符合や、低温睡眠するマーティンとデイビッドの符合から、その理由を考えてみたい。



マーティンは、不治の病に冒され、眠る子供として登場する。彼の病が治療出来るのは、いつか分からない未来においてである。モニカは、マーティンが眠る施設に到着するなり音声装置を睡眠カプセルに装着し、折り目の付いた本を広げ、おもむろに本の読み聞かせを始める。彼女の様子を見るに、もう何度も彼女はこの行為を繰り返している。
そしてマーティンは、回転するリールのような天井の下で、童話の絵が描かれた壁面に囲まれながら、童話を聞いている。
この時、マーティンはどんな夢を見ているのだろうか。
きっと彼の夢には、唯一の外部情報であると思われる、モニカが読み聞かせる童話からの影響があるだろう。
そして、病に冒された男の子は、もちろん健康になりたいだろう。
もし病気の男の子が、健康体をロボットのような完璧な身体であることだと解釈し、童話のような夢を見ていたら、それはきっと、デイビッドの冒険物語にとても近いものになるのではないだろうか。

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マーティンは夢の中で、ロビンフッドになり、ピノキオの運命を辿ったのだろうか。

人間もロボットも夢の中の虚構だから、モニカと女性型ロボットは、同一のものであるかのように化粧で繋がれるのだろうか。デイビッドは、鏡やステンレスに反射した像(虚構の像)として頻繁に映し出されるが、モニカやヘンリーもまた反射した像となり、スクリーンに映し出されている。



この映画が公開された時、デイビッド役のハーレイ・ジョエル・オスメントの天才子役ぶりが話題になった。ロボット役だから、彼は瞬きをしないで演技をしている、と言われていた。
確かにデイビッドは、生理現象としての瞬きをしない。それは、ロボットだからなのだろうか。昔からある、子供向けの人形だって瞬きをするのに、人間そっくりに作られたロボットが瞬きをしないものなのだろうか。瞬きだけじゃない、デイビッドは、眠る振りさえしない。
とにかくデイビッドは、目を瞑らない。
この不自然なデイビッドの設定は、デイビッドがマーティンという眠る少年(目を閉じた少年)と対照の関係であることを示していると考えられないだろうか。


実は、デイビッドは一度だけ瞬きをする。それは、2000年後のシークエンスの途中にある。真っ白い画面に、デイビッドの二つの瞳だけが浮かび、その瞳が一度だけ瞬くのだ。
この時、マーティンは果てしなく長い眠りから目覚める。
目覚めた後のシークエンスは、映像の質感がそれまでとは変わり、少しざらついていて、色味が濃くなっている。かつての家で目覚めたデイビッド(マーティン)が、名前を呼ぶ声の方へ行くと、そこにはブルー・フェアリーがいる。ブルー・フェアリーがいるということは、この場面は、スペシャリストが作り出した仮想現実のような場所なのだろう。ブルー・フェアリーに、デイビッドは、本当の人間の子供にして欲しいと願う。復元した夢の記憶の中で、本当の人間の子供が言う、「本当の人間の子供にして欲しい」という願いに、一瞬戸惑ったようなスペシャリストの姿が差し込まれている。

スペシャリストは、眠る少年の果てしない夢を採取した。
そして、目覚めた彼の、本当の人間の子供にして欲しいという願いを聞き、マーティンがデイビッドとして生きている事を知った。
スペシャリストは、人間を復元して、過去に起こったありとあらゆる人類の記録が、宇宙時間の中に記録されていることを知り、それを採取した。しかし、復元した人間は、目覚めて眠りにつくまでの時間しかもたず、意識が薄れると、その存在は暗闇の中に消えてしまい、実験は失敗したと語る。
彼らは、マーティンが目覚めるまで、人類から夢の記憶を採取することが出来なかったのだ。
夢の記憶を持つマーティンは、スペシャリスト曰く、人類のかけがえのない記憶バンクであり、人類の優秀性を示す証なのである。

スペシャリストは、マーティンが認識している自己であるデイビッドの願いを聞き入れ、デイビッドの夢の中の母であるモニカと過ごす最後の一日を見せる。
それは、マーティンが蘇った一日なのだろう。彼は、本当は、本当の人間の子供だった。デイビッドの願いは、本当の人間の子供の願いだった。母への愛も、本当の人間の子供の愛だった。
だから、夢は虚構ではないのだ。
マーティンは、モニカとの一日を終える。暗闇に存在した少年は、暗闇の中で、母から愛の言葉を聞き、“夢の生まれる所へ”と旅立って行く。

そしてこれは、スペシャリストが語る、人類の夢にまつわる、昔々のおとぎ話なのである。

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映画の記録媒体が、アナログからデジタルへ移行する時代に、スピルバーグは、アナログ記録媒体が見た夢を、デジタル記録媒体が物語る映画を撮った。
全ては、「夢の生まれる所」から始まる。それは、人の見る夢から始まる。複製されるロボットの少年は、本当の少年の夢から生まれる。そのことが、逆説的にロボットの少年を本物にする。少年の夢見る少年は、本当の少年の夢として存在している。そして、人類の素晴らしさの証として夢は映画となって存在し、それは受け継がれていくのだ。





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このタイトルロゴも、改めて見てみると意味深ですね。少年のシルエットが二つあってネガポジ反転してる。

スピルバーグは、映画のデジタル記録媒体について、キューブリックと話したりしてたんですかね。
書いていて思ったのですが、『ブレードランナー』(1982年)に似ていますね。夢にまつわる円環の物語だし、雨降ってないのにルージュ・シティーは水浸しだし、スピナーを思わせるヘリの場面なんかも、分かっていて真似てる感じがします。そこは触れておかないといけないと思ったのでしょうか。
レディ・プレイヤー1』(2018年)を見て、『レディ・プレイヤー1』について書く前に、『A.I.』を書いとかなくてはいけない気がして書きました。『BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』(2016年)も、確かこんな話しでしたね。
ずっとロビン・フッドは、スピルバーグが描くアウトローの雛形だと思っていたので、ロビン・フッドが出てくるこの映画は大きな課題だったんですが、今書けるのは、こんなもんです。
この映画の後に、リドリー・スコットが『ロビン・フッド』(2010年)を撮っているんですよね。『A.I.』を見て、ロビン・フッドの意味に気づいたのでしょうか。スピルバーグのど真ん中を、俺が撮ってやるよ的な?リドリーは相当スピルバーグを意識してるとは思うんですが、どうなんでしょう。
あとテディ、あの熊、何なんでしょうね。カメラ的な何かなのかなと思うんですが、ちょっと今のところ分からないですね。

『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(2017年)感想・ネタバレ

監督:スティーヴン・スピルバーグ

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決断に迷い苦悩するキャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)と、彼女を取り囲む男たちを収めた、まるで宗教画のように統制された構図のショット。路面の売店脇で強風の中横並びで新聞を捲る3人の男をコミカルに収めたポップでデザイン的なショット。人と紙で溢れかえる家の中をカメラが動き回り、計算されたテンポとタイミングで人が出入りする長回し。まるでミュージカルのワンシーンのように、匿名の男たちがリズミカルに新聞をトラックに積み込む場面などが、ブルーカラー(生産労働者)を思わせるブルーグレーを基調としたクラシカルな世界感で統一され、どれも悪目立ちすることなく映画に溶け込んでいることに驚く。

スピルバーグのフィルモグラフィの中で、何度も映画のメタファーとして描かれた四角い光(今回はコピー機の原稿ガラス)が、これまた何度も描かれたアンタッチャブルな存在(ペンタゴン・ペーパーズ)を照らすと、それが自ら動き出したかのように次々と人の手に渡り、バトンとなって決断のリレーが始まる。
このリレーによって明らかになるキャサリンの勇気や、その決断に下された判決が伝えられた際に皆で共有する報道の意義や貴さなどはあっさり台詞で説明されており、観客はそれらをわざわざ画面から読み取る必要はない。

既に多くの人があらすじを知っている実話に、更に説明台詞を挿入することで、不理解から生じる観客のフラストレーションを軽減し、その結果意識の多くが画面に向かい、何気ない場面やショットの充実が、そのまま観客の満足感に繋がるように出来ている。

簡単なことのように思えるが、この画面の充実のさせ方が凄まじく、これが出来るには美術的なセンスだけではなく、何が画面の充実に貢献するかについて、あらゆる角度で自覚的でなくてはならない。
宗教画やデザイン画のようなショットもそうだが、カートゥーンのキャラクターのようなキャラ立ちした風貌の脇役と、シリアスな面相の脇役をどう配置するかだとか、トム・ハンクスにポーズをとらせ、そのショットをどう撮るか何回やるかといった、芸術性やエンターテイメント性などから必要な要素を抜き出し、それら不統一な要素のミックスで画面を充実させ、それぞれが突出することなく継続し、一つの映画としてまとまるようにコントロールしなくてはならないのだ。
それが出来るのも、そこを目指すのも、スピルバーグ以外ちょっと考えられないと思う映画だった。

スピルバーグが到達したこの前人未到の領域は、一回だけのまぐれでは無い。
確実にスピルバーグはその方法を体得している。

『さらば、愛の言葉よ』3D(2014年)の、3Dメガネという視覚補正メガネについて

前回はお騒がせ致しました。
今回は映画の記事です。

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監督:ジャン=リュック・ゴダール

3Dメガネは、立体視できない映像を立体視させるためのメガネです。
私は視力がよくないので、映画はメガネをかけて見ています。なので、3D映画を見る時は、メガネをかけて、その上に3Dメガネをかけて見ています。
なにかしらの映像をちゃんと見るために、2つも器具を装着しないと見れないわけです。

何の話かというと、『さらば、愛の言葉よ』3Dの、左右で違う映像が見える印象的な3D効果が斜視を連想させ、度々現れる過剰な色味の映像が色覚異常を連想させ、この映画が用いる効果には視覚障害を人工的に補正している感があるなと、ふと思いついたという話です。

そもそもスクリーンに映る映画を裸眼で立体視出来ないのは、視覚障害ではありません。
視覚障害ではありませんが、3D映画を3Dメガネをかけずに見ると、とても見辛いダブった平面映像が見えます。
この3D映画の、3Dメガネをかけずに見ると見辛いダブった平面映像が見えるということから、逆説的に観客を視覚障害者として捉え、視覚補正メガネとして3Dメガネを用いたのが、『さらば、愛の言葉よ』3Dなのではないかと思うのです。

3D映画を「観客の視覚障害」と捉える視点とは、どのようなものなのでしょうか。
それは、あくまで映画は平面視するものであるとする立場から、「映画がダブって見辛い?君は目が悪いんだ。メガネをかけて見なさい」と言っているように思えます。
映画はおかしくない。こちら(観客)の目がおかしい。だから3Dメガネという視覚補正メガネをかけなくてはいけないわけです。
しかし実際には、観客の目はおかしくありません。

あくまで映画は平面視するものであるとする立場とは、3D映画を平面視できる場合に限り映画として捉え、スクリーンに見辛いダブった平面映像が映る原因を、観客の視覚障害にあるとし、視覚補正メガネとして3Dメガネがあるとする立場です。
この場合、『さらば、愛の言葉よ』3Dにおいて映画と見做されるのは、3Dメガネをかけずに見た時にスクリーンに映る見辛いダブった平面映像か、立体映像内の平面映像ということになります。
前回の『さらば、愛の言葉よ』を書いた記事の中でも触れたのですが、この映画にはスクリーンいっぱいの鏡に男女の交わりが映し出される印象的な場面があります。そして、ここだけ立体映像でありながら、鏡に映る像ゆえに平面視が出来ます。とすると、『さらば、愛の言葉よ』3Dで映画と見做されるものでまともに見ることが出来るのは、この鏡に映る像のみなのではないでしょうか。

確かに鏡は、2D・3Dともに平面視のできる、動く像を映し出します。
このことを、映画とは鏡像であるから立体映像は映画では無いと捉えたらいいのか、立体映像の中にあっても尚、ゴダールが定義する映画というものが存在する証明として鏡像を捉えたらいいのか、ちょっとまだよく分かりませんが、3D映画を撮ったから3D映画に肯定的なのかと思ったら、どうも違うようですね。
3D映画に反応して、3D映画を否定する為に、立体映像の中に鏡像という映画を映し出す映像作品(なんて形容すればいいのだろうか)を撮るとは凄いですね。
最初見た時は、わけのわからない映画だなと思ったのですが、こうやって気づいてみると、映画の潮流に対して映画で答えを出していたことが分かりました。
常々、映画監督って科学者っぽいなと思っているのですが、3D映画の登場によって眼医者感が出てきました。

【2018.04.03追記あり】ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾における、渋革まろん氏の評論文盗用疑惑について

今回は映画の記事ではありません。
ネット上に、私のブログ記事からの盗用だと思われる文章を見つけたので、掲載元に問い合わせをした顛末についての報告記事です。

前回の記事を書いている時に、震災と黒沢清映画について書いている文章を検索していて批評再生塾のサイトに行き着き、そこに掲載されているいくつかの評論文を読んでいて問題の評論文を見つけました。

具体的に盗用だと疑われる点は以下です。


【冒頭の『青髭』から高部の妻に対する殺意を導く】

はどのブログ
「『CURE』は、ある男が妻に対して殺意を抱き、その殺意と相対する物語だ。
「『CURE』の冒頭で文江の持つ『青髭―愛する女性(ひと)を殺すとは?』(新曜社 1992年)の提示によって示された、高部の文江に対する殺意。高部の殺意は、この映画の一番初めにあった。」

渋革氏評論文
「『CURE』とは、夫の殺意に全編を貫かれた「殺意の映画」なのである。
「なぜなら彼女が朗読していたのはまさに「愛する女性を殺すとは?」である。表面上は穏やかに見える夫が実は殺意を持っていることを彼女は知っていた。」


【この殺意を全人類のものとする】

はどのブログ
「死や殺意といった普遍的な事象は誰のものでもある。目の前に現れたその時に、それと対峙した人に事象として現れる、そういう類いのものだろう。それが誰の殺意であろうと、それは誰の殺意にもなる。

渋革氏評論文
「ここで大胆な仮説を立てる。高部の「殺意」は単に高部ひとりのものではない。いや、たしかに高部の殺意なのだが、と同時に全人類の殺意である。


【物語終盤に高部が訪れる廃墟を病院とし、写真→蓄音機を映画史になぞる】

はどのブログ
「『CURE』では、半透明のビニールカーテンを開けると写真があった。蓄音機は別の部屋、空飛ぶバスでしか行けないと思われる廃墟となった病院のシークエンスの最後に登場する。」
「廃墟となった病院で、最後に高部が辿り着いた部屋で聞く蓄音機から鳴る音である。-このことを単純に解釈するなら、写真と蓄音機は映画という複製物の隠喩として用いられていると考えられるだろう。映画は、光から音の順に成り立ってきた歴史を持つ。

渋革氏評論文
「終盤、高部はまたしても「空を飛ぶバス」に乗って、今度は一人きりで廃墟の病院へと向かう。そこで彼はまず田宮が使う催眠術の始祖である伯楽陶二郎の写真を見る。それから、エジソン蓄音機で音を聞く。つまり、彼はサイレントからトーキーへの映画史を高速で反復している。」


【最後のファミレス場面の最終ショットを高部の視点ショットとする】

はどのブログ
「ファミレスで食事を終えた高部の様子は、それまでとは打って変わって旺盛で快活で落着いている。」
「その後カメラは、高部の左側から画面右側にある高部の頭部越しにファミレスの内部を捉えるが、そのまま固定されることなく動き続け、やがて高部はフレームアウトする。このフレームアウト後も、高部が吸っている煙草の煙が画面に干渉していることから、高部が映っていない最終ショットは、限りなく高部の視点に近いものだと思われる。
この最終ショットは、高部の視点と観客の視点を重ねたものだ。観客と同じものを、観客と同じように高部は見ている。」

渋革氏評論文
「映画中盤のファミレスのカットでは一口も手を付けられなかったステーキを高部はきれいに平らげる。そして、タバコを吸う高部の横顔からカメラは高部の視線をそっくりなぞるようにウェイトレスにズームインする。注意深く見ると、映像にはタバコの煙が映り込んでおり、このカメラの視点が高部の視点であることがわかる。客観的世界に同一化したPOV(主観ショット)だ。つまり、ここで高部はカメラそのものになった。高部の内宇宙はカメラの外宇宙と同化した。彼が映画史を反復して掴んだ「秘密」とは、映画的システムによって駆動するこの世界を受肉した人間こそ「私=高部」であった、ということなのだ。」


【その他】

私はブログ記事の中で、夫婦がバス移動する場面を「空飛ぶバス」と勝手に命名しています。私のブログ記事『CURE』№2の中で、街に加わった異質なルートを行く異質な乗り物というニュアンスで書き、その記事からの流れで、№3・№4の記事では説明無しで「空飛ぶバス」とだけ書いています。
しかし渋革氏は、私が独断で書いていることを、何の補足も無くそのまま使用しています。

以上です。
言い回しや解釈などは変えられていますが、具体的な着想の重複が見られます。


全文は以下です。

2017年4月14日掲載の私のブログ記事です。
「『CURE』(1997年)を見直してみよう No.4 最後に高部はどうなったのか」
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2017/04/14/185240

2018年1月以降掲載、渋革まろん氏評論文
「《私映画》の運命―黒沢清『CURE』の問いかけ」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/2614/

以下は株式会社ゲンロンとのメールのやりとりです。

【3月14日 はどの送信メール】

批評再生塾
徳久様

はてなブログ「映画を書くと頭が疲れる」の著者、はどのと申します。

先日、批評再生塾様のHPを読んでいて、渋革まろん氏の評論文「《私映画》の運命―黒沢清『CURE』の問いかけ」に書かれている、具体的な着想部分が、私が2017年4月14日に公表した以下のブログの盗用ではないかと思い連絡致しました。

はてなブログ「映画を書くと頭が疲れる」
『CURE』(1997年)を見直してみよう No.4 最後に高部はどうなったのか
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2017/04/14/185240

具体的な指摘といたしましては、

1、冒頭の『青髭』から高部の妻に対する殺意を導く
2、この殺意を全人類のものとする
3、物語終盤に高部が訪れる廃墟を病院とし、写真→蓄音機を映画史になぞる
4、最後のファミレス場面の最終ショットを高部の視点ショットとする

上記以外にも、私が『CURE』に関するブログの流れで、夫婦のバス移動の描写を「空飛ぶバス」と表記しているのを、そのまま使用されています。

言い回しを変更しています。
解釈の変更も認められます。

CUREに関しては、いくつか記事を書いていますので、他記事からの盗用もあるかもしれません。以下に関連ブログ記事のURLを添付しておきますので、必要であればご確認下さい。
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2015/05/06/185401
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2015/05/16/192621
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2015/06/07/225516
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2015/07/05/025058

私は、約20年前の映画『CURE』について、当れるだけの先行する文章を読み、善し悪しは別にして、今まで誰も書かなかった独自の着眼点や解釈を文章にしています。また、『CURE』という映画の性質上、様々な観点で複数の文章を書いています。その中の一つのブログを公表した約半年後に、着想に関する重複箇所が複数ある評論文が偶然出てくるとは思えません。

この件に関する対応について、3月16日までにご回答下さい。
よろしくお願いします。

はどの

【3月14日 ゲンロン様より返信メール】

はどのさま

はじめまして、
株式会社ゲンロンの徳久と申します。

いただいたメール、拝読いたしました。
当人の投稿と、
はどのさまのご指摘の箇所を確認のうえ、
必要に応じて当人にもヒアリングをおこない、
あらためて、ご連絡させていただきます。

慎重に確認が必要な案件ですので、
上記対応を含めた結果については、
3月16日以降のお知らせになってしまうかもしれませんが、
極力早急に、運営としてのお返事を差し上げるようにいたします。

どうぞよろしくお願いいたします。

【3月16日 ゲンロン様より返信メール】

はどのさま
ゲンロンの徳久です。

先日お送りいただいたメールにつきまして、
事実関係の精査を行いました。
その結果のご報告です。

本件、渋革まろん氏本人に、心当たりを尋ねました。
その結果、以下のことがわかりました。

・当該論考の執筆にあたって、映画に詳しい友人から書籍を借りたり、議論を交わしたりした。
・その際、『CURE』についても話があり、
 友人から「高部がラストで世界システム=映画を学んだからだ」と聞き、
 この着想と自身の従来の関心事項である「感染」や「独我論」「私演劇」といった概念をつなげて論考を練り上げた。
・論考は1/1に提出した。

・1/8、その友人から、「面白いブログがある」として「映画を書くと頭が疲れる」の黒沢論のURLを送ってもらった。
まろん氏は当該エントリをそのときはじめて読んだ。
・しかし友人は以前から当該ブログを読んでいたため、友人との議論を通して、間接的に影響を受けた可能性はある。

上記のような経緯があることから、
はどのさまがまろん氏の論考のなかから、
ご自分の着想に重なるところがあると思われたのは、
自然な流れです。

ただ、経緯と実際の投稿内容を踏まえると、
盗用にあたるものではないと考えます。
ですので、当該の論考については、
このままサイトへの掲載を継続いたします。

上記の内容、ご確認いただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。

【3月16日 はどの送信メール】

ゲンロン
徳久様

ご回答頂きありがとうございます。
調査結果を確認しました。
後出しのようで申し訳ありませんが、渋革氏は私のブログに読者登録しており、現時点で、読者登録日数が71日目となっているため、報告内容と日にちに齟齬がでます。
私は、ご報告頂いた渋革氏の証言は信用も納得もできません。
f:id:stevenspielberg:20180316210659j:plain
今回の批評文とブログ記事について、盗用かどうか、渋革氏からの聞き取りではなく、ゲンロン様の判断を19日までにご回答下さい。

はどの

【3月19日 ゲンロン様より返信メール】

はどのさま

お返事ありがとうございます。
たしかに渋革まろん氏の証言と、
お送りいただいた読者登録の情報には齟齬がありました。

「聞き取りではなく」とのことですが、
弊社側の判断のために、渋革氏に再度、確認を行いました。

「信用できない」ということであれば読み飛ばしていただいてかまわないのですが、
ご参考のため、以下、その内容を掲載します。

・友達のNくんと12月24日・26日にネットでメッセージを交わした。

>『CURE』を初めて見て、僕から「印象を一言で言うと、振るえて殖える。勝手に増殖していく。……CUREを見た後だと、映画を見るということそのものが現代に可能なヤバイ呪術なのではないかと思える」と、また「鑑賞者の忘れられたそれがあることの記憶が、現実世界に新しいレイヤーとして重ねられてしまう……現実改変魔法」といった感想を送りました。

>それに即レスで、Nくんから「……映画史に触れるということが、世界のシステムを理解することでもあり、主人公はそのシステムの外に押し出されるような救済を得るわけです。」と、返答がありました。「世界システム=映画を学ぶ」ことで「外」に位置づけられる高部において、「観客も高部も全部同じ私になる=私映画」なのだと理解しました。

>それから、「世界システムを学ぶ、震える、催眠術(ゆれる・点滅する)」に注目して『CURE』を見続けました。

・1月8日にNくんから、「映画を書くと頭が疲れる」を教えてもらった。

・しかし、NくんにURLを送ってもらった日より前、(おそらく)1月4日に、「映画を書くと頭が疲れる」を見つけ、読者登録をした。

・前回の聞き取りでは時系列を捏造してしまった。どちらでもたいした違いはないだろうと軽率に考えてしまった。

渋革氏の「時系列の捏造」は大きな問題で、
はどのさまがより不信の念を深められたのはもっともです。
その点、いかようにも擁護のしようがありません。

友人とのメッセージ群についてはスクリーンショットを見せてもらいましたが、
友人とのやりとりが事実であることは、盗用を否定する根拠にはなりません。

もはや「渋革の言うことはすべて信用ならない」と言われても仕方のないところですが
(私自身、このようなごまかしにはたいへん困惑させられています)、
やはり盗用であるという確証がないことは、
前回のメールをお送りしたときと同様、変わっていません。
ですので当該記事については、掲載を継続する考えでおります。

以上、十分にご納得いただける内容ではないかもしれませんが、
ご確認いただければと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

【3月19日 はどの送信メール】

ゲンロン
徳久様

ご返信頂きありがとうございます。
私としては、盗用かどうかの判断は、個人の言い分ではなく、そう見なされ得るかどうかの組織側の判断が必要だと考えます。
ゲンロン様のその判断が、あくまで渋革氏の証言に寄るのであれば、それをゲンロン様の判断とし、これ以上のやり取りは差し控えさせて頂きます。

事前に読み比べをして頂いた方々や、ブログ読者の方へ今回の件をブログ記事でご報告したいと考えています。事実を正解にお伝えするために、メールのやり取りを掲載したいと考えているのですが、ご了承頂けますでしょうか?
ご返信下さい。

はどの

【3月22日 ゲンロン様より返信メール】

はどのさま

祝日を挟みまして、お返事が遅くなってしまいました。
申し訳ございません。

前便と同じ内容になってしまいますが、
わたくしどもといたしましては、

・渋革氏の説明には時系列の捏造があり、
・当該記事から間接的に影響を受けた可能性は高いが、
・それぞれの記事の内容を比較・検討し結果盗用とは判断しなかった

ということになります。

ブログ記事でご報告いただくことについては問題ありません
(渋革氏からも承諾を得ています)。
それにあわせて渋革氏の当該投稿のページにも、
はどのさまのブログにリンクを貼り、
このような指摘をいただいたことや経緯について、
説明を掲載させていただきたいと思います。

ですのでブログに記事をアップされた際に、
お手数ですが、当方までご一報いただけませんでしょうか。

ご面倒をおかけしますが、
なにとぞ、よろしくお願いいたします。

メールのやり取りは以上です。

指摘した具体的な着想部分について、明確な回答はいただけませんでした。
こちらが、盗用を疑っている人物からの証言を主とした回答でした。

以下は、メールのやり取りにおいて私が疑問に感じたことです。

・「はどのさまがまろん氏の論考のなかから、ご自分の着想に重なるところがあると思われたのは、自然な流れです。」とのことですが、1月8日に私のブログ記事を読まれた渋革氏も同じように私のブログを読んで、着想に重なるところがあると思うのが自然な流れになるかと思います。ご友人から着想を授かり、その着想元だと思われるブログを確認したにもかかわらず、それを公表するにあたり、批評再生塾の塾生として、講師に引用の必要性や盗用を疑われる可能性について相談されることはなかったのでしょうか。もしされなかったのなら、それはなぜでしょうか。

・「・1/8、その友人から、「面白いブログがある」として「映画を書くと頭が疲れる」の黒沢論のURLを送ってもらった。・まろん氏は当該エントリをそのときはじめて読んだ。」とのことですが、渋革氏は8日以前に私のブログに読者登録をされていたので、その旨を返信しました。
・再度お返事を頂いた際に、「・しかし、NくんにURLを送ってもらった日より前、(おそらく)1月4日に、「映画を書くと頭が疲れる」を見つけ、読者登録をした。」と嘘を認め、訂正されましたが、当ブログを見つけた経緯と読者登録をした理由はなんでしょうか。

・渋革氏が、一度目の聞き取りで時系列を捏造してしまった理由はなんでしょうか。どちらでもたいした違いはないと軽率に考えたとのことですが、疑われている立場の人は、どちらでも違いがないのなら事実を伝えるのが自然な思考の流れだと思われます。隠す必要のないことを、あえて隠した理由はなんなのでしょうか。

・もともと私のブログ読者であった渋革氏のご友人が、論考の執筆にあたって議論を交わしていた際にはブログのことに触れなかったが、なぜ8日になって、突然面白いブログがあるとして私のブログのURLを渋革氏に送られたのでしょうか。
※この件に関しましては、ご友人の聞き取りまではこちらから強要できませんが、1月8日のメッセージのやり取りのスクリーンショットを公開していただければ幸いです。

・「やはり盗用であるという確証がないことは、前回のメールをお送りしたときと同様、変わっていません。」とのことですが、株式会社ゲンロン様にとっての盗用の確証とは何なのでしょうか?
※今回程度の類似であれば、間接的に影響の可能性がある上に本人の証言に嘘があったとしても、盗用にあたるものではなく、引用の必要性も無いと判断されるのなら、今後それが批評再生塾における盗用の基準となることかと思います。
こちらにも盗用ではないという確証がないので納得できなかったのですが、渋革氏の投稿ページ上で、上記の質問にお答えいただき、こちらの疑問を解消していただければ幸いです。


今回の件では盗用の疑いがあるとし、掲載元に問い合わせをしましたが、引用箇所やその引用元を明記して下されば、無断で使用して頂いてもちろん構いません。


内容は上記に記載した通りですが、以下にメールのやり取りのスクリーンショットを載せておきます。

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【2018.04.03 追記】
渋革氏よりご連絡があり、ブログでご返答頂きました。
marron-shibukawa.hatenablog.com

ゲンロン 批評再生塾様のHPでご対応頂きました。
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/2614/

東日本大震災の津波と黒沢清映画-『リアル~完全なる首長竜の日~』(2013年)、『岸辺の旅』(2015年)を見て-

2011年3月11日14時46分、職場で同僚に「めまいがする」と話していたら、少し離れた席の女性が、「私も何かくらくらします」と言ってきて、その後は多分「疲れてるんですかね」とかなんとか女性に言おうとしたような気がする。でもその前に無線が鳴って、上階がかなり揺れたという連絡が入り、それからすぐに物凄い地震が起きていて、その後に津波がきて大変な事になっていることが分かり、その時から今までずっと、断片的な情報が伝えられている。
震災の発生から1週間ぐらいは、ほとんど寝ないでニュースを見ていた。何がどうなっているのかを把握したかったのだと思う。とにかくニュースを見ていた記憶しかない。ある時津波のニュース映像を見ていたら涙が出てきて、そこから津波の映像を見るたびに涙が出るようになった。自覚できる感情は無い。感覚的には平常心で涙だけがなぜか出てくる状態になった。よくわからないけれど、何かが飽和状態に達したような気がして、ニュースを見るのを止めた。

アメリカなんかは、災害や事故・事件が起こると、すぐ映画にするけど、あの津波は映画で描けないと思った。描けないけど、映画が描かないわけにはいかないものだろうとも思っていた。
現実で目に映るものは全て不条理だ。意味なんてない。その不条理を切り取り、同じものを見るという同時代的行為によって幻影を共有し、そこに意味を見つけることが出来るのが映画だと私は思っている。震災で目の当たりにしたあの津波は何なのか。私が目にしたものは何なのか。誰かに切り取って欲しいと願っていた。

象徴化することでしか描けない津波『リアル~完全なる首長竜の日~』


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震災により、非現実的だと思っていた景色が現実の中に出現した。現実だと思っていた景色が、非現実的な気がした。漁船が地上に現れ、一軒家が沖へと流されていく。何の変哲もない毎日が得難いもののように思えた。私たちは混乱していた。
この全ての始まりは、津波の発生にあった。

東日本大震災から約2年3ヵ月後に封切られた『リアル~完全なる首長竜の日~』は、現実と意識の中の非現実的な世界が不自然なまでに差異無く描かれる。映画の中で描かれる現実でも非現実でも、たとえそれが映画の外の私たちの世界でも、目の前の人がフィロソフィカルゾンビかどうかを見分ける術は無い。浩市(佐藤健)の世界はひどく混乱していて、その混乱の始まりは首長竜にあった。

このように書くと、震災を描いた話のような気がすると思うが、あれこれ説明しなくても、海から首長竜が出てきて人を襲うことをもってして、これは約2年3ヵ月前に発生した震災の津波を象徴しているとしても、乱暴な話ではないと思う。こういった事象の象徴化は、実際の震災や事故・事件などを描く時によく用いられる手法だ。

浩市と淳美(綾瀬はるか)は、最新脳外科医療機器のセンシングを使って、意識の中の世界に入り、意識の中の過去へ行き、首長竜が象徴する出来事である、海にのまれるモリオの死の記憶を蘇らせる。浩市は記憶を蘇らせる前からモリオの存在に怯えていたが、その根本には、ただ見ていることしか出来なかった死に対する怯えがあった。そして、ただ見ていることしかできなかった死に伴う、見殺しの罪悪感に苛まれていた。この映画では、海に人がのまれるのを見ていることしか出来なかった者の、恐怖と罪悪感が描かれている。
「あの時モリオが流されて、俺たちは結局何も出来なかった。ただ一つやったのは、首長竜の絵を描いて、全部首長竜のせいにして、見殺しにした罪を封印することだった。」

私は東日本大震災に際して、浩市と同じように、モニター越しに津波にのまれる人をただ見ていることしかできなかった。津波にのまれる人を見殺しにした。だから、浩市が抱いた恐怖と罪悪感を知っている。海岸でうずくまり、見ず知らずのずぶ濡れの少年に打ち据えられて黙って耐えている浩市の気持ちが分かるような気がする。

海にのまれるモリオを、見ていることしか出来なかった少年と少女は、あまりの恐怖と罪悪感に出来事を首長竜に象徴化する。そして、象徴化することで実際の出来事は時と共に形骸化し、忘却され、そこから生じる恐怖と混乱が描かれる。そのように物語を語りながら、この映画は、東日本大震災のあの津波を、海から這い上がり襲ってくる首長竜に象徴化することでしか描き得なかった。映画の中と外からの異なる方向から成された象徴化は、この映画が抱えるアンビバレントな葛藤そのものだと思う。このアンビバレントな葛藤の提示が、震災の津波を描くことの不可能性の提示のように思えた。

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首長竜は、首長竜に見えるタツノオトシゴの死骸が入ったペンダントを受け取り、全ての象徴は海へと消えていく。しかし、この約3年後に、再び海から象徴はやってくる。死骸で出来たドラゴン、『シン・ゴジラ』(2016年)だ。恐怖と罪悪感に沈黙していた人々は、象徴化された怪獣に熱狂し、饒舌になった。アメリカでは、同じような人々の熱狂に包まれ、象徴化されたサリーが、『ハドソン川の奇跡』(2016年)の中で、真実を追い求める様が描かれていた。

描けない津波を描く『岸辺の旅』


『リアル~完全なる首長竜の日~』から約2年後、東日本大震災から約4年7ヵ月後に封切られた『岸辺の旅』は、描けない津波を描かずに描くという、まるで禅問答のような問いを解いた奇跡的な映画だ。

ビルから人が飛び降りる様をワンショットで見せる。銃で人が撃ち殺される様もワンショットで見せる。出来事をワンショットで見せるのが、黒沢映画の特徴だとよく耳にする。このワンショットでの見せ方は、現実の私たちの眼差しに近い表現だ。私たちは事故を目の当たりにして、次の瞬間に、横たわる被害者の顔をアップで見たりはしない。だからワンショットで見せられる出来事は生々しく感じるし、ショットが割られれば虚構だと安心する。
では、人が消える場合はどうだろうか。ワンショットで人が消える。これは生々しいだろうか。そもそも人が目の前で消える非物理的な現象を目の当たりにすることが無いので、ワンショットで人が消えた場合、それはイリュージョンになる。メリエス以降の映画によって育まれてきた、イリュージョンとしての映画なら、ワンショットで人が消えるだろう。
現在の映像機器を用いれば、ワンショットで人を消すことは容易くできる。アングルを固定しておき、一旦録画を止めて画面から消す人物をカメラの外に移動させた後に再び録画を開始すれば、ワンショットで人が消える映像は撮れる。
この映画では、人が消える時、必ずショットが割られる。なぜ敢えてショットを割るのだろうか。ワンショットじゃないから、イリュージョンではない。ショットを割るから生々しさでもない。
何か意味があるのだ。

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映画冒頭、瑞希深津絵里)の家のカレンダーは2014年4月。優介は3年前に富山の海で死に、幽霊となって瑞希の前に現れる。優介の死は、限りなく東日本大震災の発生と、そこでの死に近く設定されている。
「みっちゃん、俺と一緒に来ないか。」「あちこち綺麗な場所があるんだ。」
優介(浅野忠信)の誘いに乗り、瑞希は旅に出る。
『岸辺の旅』というタイトルから、優介と瑞希は、岸辺を旅しているのだろう。そして、時折映る月のショットから、二人の旅が、その満ち欠けが影響する岸辺の波間の旅であることが窺われる。
しかし、二人の旅の景色に波は映らない。何度か海は遠くに見える。穏やかな海だ。近づけば小さな波がそこにはあるのかもしれない。

二人が最初に訪れた場所で、世話になる島影(小松政夫)は幽霊だ。本人は自分が死んだことに気づいておらず、生きていた頃と変わらない生活を送っている。町の商店で瑞希が夕飯の買い物を済ませ通りに出ると、夕刊を配達している島影に出くわす。瑞希は島影に声を掛けるが、島影はまるで聞こえていない様子で、バイクに跨り行ってしまう。瑞希が島影を見送っていると、ショットが割れ、いたはずの島影の姿だけそこから消えてしまう。それを見て、瑞希は慌てて駆け出し、優介を探す。
ここに、描かれない津波がある。
ここは波間で、この時、島影は水の中にいる。瑞希は水の外にいる。そしてカメラは、両者の中間にある。瑞希は水の外から島影に声を掛けるが、水の中の島影には聞こえない。島影が行ってしまう。ショットとショットの合間で水は引き、水の中にいた島影は攫われる。そして両者の中間にあったカメラは、水の影響を受けてアングルを変えている。
穏やかな波は人を攫う事は無い。でも津波は人を攫う。ここで攫われるのが幽霊だということは、彼らを攫った津波が、かつての津波、彼らをこの世から消した過去の津波だということだ。だからカメラは、彼らを消したかつての津波と現在の合間にも位置している。
この津波は、この映画に出てくる幽霊たちの死因が様々であることから、彼らがもういないという事実を表すものに他ならない。彼らがもういないこと。ショットが割れ、彼らが消える度に気づかされるのは、描かれない津波の存在ではなく、彼らがもういないという事実だ。それに気づき、もういないわけなんてないと、瑞希は駆け出し、優介を探すのだ。
この映画は、幽霊を画面からショットを割って消すことで、目の前の幽霊が、消えてしまったもういない人だという事実をくりかえし描く。瑞稀と波間を旅する優介は、波に攫われる小石のように、かつての波の影響を受け、何度も消えて、位置を変えて現れる。その度に、瑞希は喪失をくりかえす。
波間の旅は、繰り返される喪失の旅だ。
喪失を繰り返した旅の果てで、瑞希は聞けなかった優介の最期の言葉を聞き、言えなかった最期の言葉を伝える。それでも喪失は、海の波のように、生きている限り永遠にくりかえされるものであるかのように、穏やかな波が打ち寄せる岸辺が最後に映り、映画は終わる。


津波は自然現象で、東日本大震災で目にした津波そのものに意味はない。でも、あの津波がただの自然現象で、そこに意味なんてないと思うことが出来ない。何も意味がないと思うことが辛い。『岸辺の旅』が描かずに描いた津波は、彼らがもういないという事実に気づかせ、生きている者は、消えてしまった人の喪失をくりかえすという、辛い現実を意味している。でも、生きている者にとって、あの津波はそういう意味だと思う。そして、喪失という普遍的な事象を、生きている者は、共有し生きていくのだと思う。

『15時17分、パリ行き』(2018年)感想・ネタバレ

監督:クリント・イーストウッド

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公開2日前に、(新作はまた実話らしいし、実際の事件の確認でもしとくか)と、当時の事件のニュース記事と映画の宣伝記事を読んでいたら、「事件の当事者であるアンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、スペンサー・ストーンを主演俳優に起用し-」との文面が。
驚きすぎて、二度見ならぬ二度読みをして、それでも頭に入ってこなくて、もう一度事件の記事を読み、当事者の名前を一から確認しました。
じけんのとうじしゃがしゅえん…
これって、どういうことなんでしょうか。


実話をもとにした映画を、役者ではなく当事者が演じること。
このことは、直接映画の良し悪しに関わることではありません。また、実話の再現がいくら正確でも、実話における出来事の発生とその撮影が同時に進行しない限り、それはドキュメンタリーでは無いので、映画のジャンルにおいても、この場合はフィクション映画となります。
ハドソン川の奇跡』(2016年)のフラッシュバックが供述調書作成のための聞き取り調査を軸に展開されていることや、事故時の飛行の再現シミュレーションにより、サリーの判断への疑惑が晴れるといった前作の流れから、実際の事件を当事者に演じさせる今作は、事件の再現実況見分調書に添付される再現映像資料(捜査官が被害者や被疑者等に被害・犯行状況を動作等で再現させ、その様子を撮影したもの)に近いもののように思えます。
このような再現実況見分調書は、視覚化することで事件内容を分かりやすくするためや、再現されたとおりの犯行事実の存在の立証のためなどに作成されるようですが、事件内容を分かりやすくするためなら、当事者より訓練された俳優の方が表現力は高いので、当事者起用の意図は、再現されたとおりの犯行事実の存在の立証のためだと考えられます。
とするとこの映画は、事実の存在の立証のため、捜査官のクリント・イーストウッドが、2015年8月21日に発生したタリス銃撃事件の当事者に状況を動作等で再現させ、その様子を撮影したもの、ということでしょうか。

まるで映画を観ているかのような状況が、映画の中に描かれることはままあるのですが、『ハドソン川の奇跡』の飛行再現シミュレーションを査問会で見る場面が、実話をもとにした映画を鑑賞しているようだ、とは思っていませんでした。思い返してみると確かにそうで、味も素っ気もない事象の相似ですが、再現映像を集まって皆で見るというのは、事実確認の資料として、それらが用いられる場における状況とよく似ています。
ぼんやりしている私が悪いのですが、鑑賞直前に知った当事者の起用という情報に翻弄され、映画如何よりも、前作からの流れを受けて、事件の証拠資料のような再現映像を集まって見る我々観客とは何なのだろうか、これはどういう心づもりで観賞したらいいのだろうかと大いに悩みながら見てきました(あと、この場合のエンディングはどうなるんだろうという興味を持って)。

15時17分発パリ行きの電車内で、彼らが遭遇する事態の前兆が差し込まれながら、ある事件により犯人の成育環境が明らかになり、それを私たちが知るように、タリス銃撃事件において英雄的な行動を取った彼ら3人の幼少期の様子が、スペンサーを軸に映し出されます。

彼らは落ちこぼれの苛められっ子で、学校から問題児扱いされています。何かというと校長室へ行くように言われ、母親たちも頻繁に学校へ呼び出されますが、それなりに楽しく暮らしています。「他の子どもは窓から外の景色を見ないんですか?!」という母親の台詞、とってもいいですよね。ああいう状況でそれらしく言われてしまうと、窓から外の景色を見ることが、何だか異常な行動のように感じてしまうものですが、母親の正気な返しに笑ってしまいます。
森の中のサバイバルゲームの場面なんて、森もキラキラしてるし、子どもは楽しそうに遊んでるしでまるで楽園のようです。大概こういう場面は、過去の美しく楽しい一時として描かれ、その後の苦難とコントラストを成す場面になるのですが、彼らはその後も仲良く楽しそうです。
スペンサーはミリタリーオタクから軍人を目指しますが、彼の信仰を持ち出さずとも、その背景には、正しいタイミングで成すべきことをしたい、人生を無駄にしたくないといった、問われれば誰しもが持っているであろう思いがあったことが伺えます。

彼らが事件に遭遇する発端となったヨーロッパ旅行も、素描のような気軽さで、休暇を満喫する様子が映し出されます。日常系アニメを見ているように、楽しそうにしているのを見るのが楽しい、そんな気持ちになります。そうした旅行の一過程として、彼らは15時17分発パリ行きの電車に乗り込みます。車内サービスのコーラ缶がすごく小さいことにはしゃぐ3人には、それまでと何も変わらない時間が流れています。
そして、連絡通路のドアが開き、入って来た人が撃たれ、その後ろから拳銃を持った人がこちらへ向かって来るのです。
その時は、突然訪れます。
「スペンサー、go」
確信に満ちた、落着いたトーンの号令を合図に、スペンサーは犯人に向かって突進します。
この号令には鳥肌が立ちました。
この号令の声の主は一体誰なのでしょうか。この号令の声の主は、彼が成すべきことをする正しいタイミングが今だと、なぜ分かったのでしょうか。シンプルな言葉が、とても神秘的に響きます。

電車が駅に到着し、警察と救急が乗り込んできます。状況を引き継いだスペンサーは、応急処置を施され、点滴をぶら下げて降車します。ホームに腰掛けるスペンサーの背後から撮られた彼の目線のようなショットは、気を張った面持ちで他の乗客に付き添うアンソニーや、警察と連れ立って呆然と歩き去るアレクを追う事も無く、流れる川でも見つめているかのように、ただ行き交う人々をじっと捉えています。
そして、フランスで表彰を受ける彼ら乗客のニュース映像と、再現映像が混ざり合います。
アメリカン・スナイパー』(2014年)で、クリスを導いたニュース映像が、『ハドソン川の奇跡』で、サリーの正しさを証明した再現映像と混ざり合います。
当事者起用の再現映像によって、イーストウッドが立証したかった存在の事実とは、人は正しいタイミングで成すべきことが出来る、でしょうか。
私たちが集まって見る、再現映像に映し出されたごく普通の人たちの行いは、正しいタイミングで成すべきことをしたいと願う人々の正しさを立証し、立証されたその存在の事実が、私たちの導きになるかのようです。


エンドロールは幼馴染3人のパレードで感慨深いですよね。なにがどうなって、幼馴染3人が『ミスティック・リバー』(2003年)のようにバラバラになるのか、今作のように一緒にパレードの主役になるのか分かりませんね。
アメリカン・スナイパー』の時はそこまで思わなかったのですが、前作から見るのが本当に楽です。以前から彩度が低く、目に優しい映画ではあるのですが、的確で、映画におけるドローイングみたいなものに相当する何かとしか形容出来ないショットが、短くパッパッと繋がっていくのがこんなに楽だとは。映画を見るのがしんどい人にもオススメです。