映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『運び屋』(2018年)感想・ネタバレ

監督:クリント・イーストウッド


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グラン・トリノ』(2008年)の時も思ったのですが、ニック・シェンクの脚本は本筋以外のフックが強くて、観た直後は少し混乱してしまうのですが、今回は2日ほど経過したところで、なんとなく感想がまとまってきました。


感傷的な劇伴と病床の妻とのやや語りすぎなやりとりなどを観ていると、メロドラマみたいだなと意外に思ったり、噂の運び屋の正体がアールだとバレる終盤で、対峙するコリン刑事にサングラスをつけさせて、表情の変化を分かりにくくしている場面を観ると、相変わらずクールだなと思ったりして、ウエットなのかドライなのかも判断しかねていたのですが、やっぱり容赦ないというか、ドライな眼差しが根底にあります。


デイ・リリーの栽培にのめり込んで、家族を蔑ろにしてきた男が仕事を失くし、家族からも疎まれて孤独な晩年を過ごしているという触れ込みで映画は始まるのですが、アールはいつもパーティやセレモニーや大会などに顔を出していて陽気にしているし、唯一一人になる車内では機嫌よく歌なんか歌って、孤独な老人の姿は最後の最後まで出てきません。
アールは、「家族より大切なものなんてない」と、今までの自身の行いに対する後悔を口にするのですが、トレビーノには「自分のすきなことをして生きろ」と伝えます。「自分を救ってくれたファミリーを裏切る事はしない」と彼に反発され、アールは今にいたっても考え方を変えられない自分自身に気づいてうろたえてしまいます。

アールの人生は何もかもが遅すぎました。
家族と向き合い、裏社会の者達と触れ合うことで様々な事に気づき、その過程で自身のそれまでの行いに対する後悔を深めていくのですが、アールが自身の罪に気づく頃には、皆わだかまりと何とか折り合いをつけていて、結局アールは許されてしまう。最後まで妻への罪は償えずに、簡単に許されて先に死なれてしまう。
「運び屋」のルールを破り妻を看取ったアールは、組織の者に「殺してくれ」と懇願します。他者に断罪を求めますが、誰も彼を裁こうとしない。「運び屋」の仕事は、そのことを象徴するかのように、好き勝手にやる爺さんは最後まで許されて、止まることなくアールは走り続けることを余儀なくされてしまう。
許されてしまう残酷さというのは、生きていかなくてはならない残酷さです。走り続けなくてはならない、止まることは許されない。

いつの間に痛めつけられていたのか、血を流しながらアールは、車を走らせます。
ハレとケでいうところの、ずっとハレの側面しか見せていなかったアールの本当の孤独の姿、惨めな男の姿は、痛めつけられ血を流しながら、それでも車を止められない男の姿です。
この時、アールがスーツを着ているのが凄くいいんですよね。『悪魔のいけにえ』(1974年)のレザーフェイスも最後の場面で、白のカッターシャツにスラックスという若干正装っぽい装いだったのですが、テンションの高い場面がある個人にとって重要な儀式に相当する何かであるがゆえの正装のようでもあるし、惨めさとそれに伴う焦燥感との対比が効いています。Tシャツの人が痛めつけられているより、スーツの人が痛めつけられているほうが見ていて辛い感じしませんか。

孤独の理解者であるコリン刑事に最後は捕まり、アールは裁判にかけられます。
「組織は彼が老人であることにつけこみ・・・」と、情状酌量の余地を弁護士は訴えますが、アールは自ら「私は有罪です」と訴え、その場にいる者達をギョッとさせます。誰にも裁いてもらえない彼は、自ら罪を告白することしかできません。「全ての罪において有罪を認めるということですか」との裁判長の質問に「はい」と答えるアール。抽象的な質問ですが、全ての罪とは、アールがこれまでの時間で負った罪なのでしょう。
アールにとっての贖罪とは、取り戻せない時間によって許されてしまった罪を見つめる孤独の中で生き続けることです。生きて懺悔し続けることです。
彼が罪に気づいた時には、すでに罪は許され、彼は間に合わなかった。全てが遅すぎた。
ラストの、老いを受け入れるなと歌う歌が、自らを許すなと言っているように聞こえてきます。



「ジェームズ・ステュアートに似ている」という台詞が何回出てきたかなと振り返るのですが、思い出せません。12年前の場面と「運び屋」になってからの場面の2回だったように思うのですが、というかそうだとしたら意味が分かる台詞なのですが。
12年前のアールは、娘の結婚式にも出席せず、デイ・リリーの品評会に出席して軽口を叩き調子よく振る舞っています。これらの様子から、家庭を顧みず自身の趣味的な仕事に没頭する奔放な男の生き様を肯定している姿に見えるのですが(それが彼の生きた時代のジェンダー的価値観に起因するのかどうかは不明)、非家庭的に振る舞うことを肯定している男にとって「アメリカの良心」と呼ばれたジェームズ・ステュアートに似ていると言われることは、若干面白くない印象を持つ言葉だと思うのですが、これが仕事を失くし家族に疎まれ、孤独を抱えながら「運び屋」という危険な仕事、謂わば本当のワルになった時に言われると、皮肉に響くと思うんですよね。人から掛けられていた何気ない言葉が、実は重要な意味を持っていたではないですが、12年前にこの言葉の意味に気づいていたら、まだ取り戻せていたかもしれないのに、その時の自分は大事なことに気づかず、内心(ジェームズ・ステュアートなんて面白みのない男に似ているだなんてやめてくれよ)と思っていたのに、今となってはその面白みのない男に憧れている男の姿が浮かび上ると思うのですが、どこに何回出てきた台詞か確認できてないので全然違うかもしれません。


許されてしまう男の惨めさや孤独、傍から見ていると罪を自覚した人に対する残酷な仕打ちのようにも見えるこの感じ...黒沢監督の『叫』(2006年)みたいだな、とちょっと思いました。自分だけ許されてみんないなくなるやつ。
イーストウッドのマゾヒスティックな部分って、自罰的な意味合いがやっぱり強かったのかなとは思いましたが、劇中の濡れ場や最後の刑務所でのうのうとデイ・リリー育てている描写などを見ると、恥を晒すというか自身を痛めつける方向性が少し変わってきたようにも感じました。

『マングラー』(1995年)感想・ネタバレ

監督:トビー・フーパー

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ペンタゴン・ペーパーズ』(2017年)の輪転機ならぬ洗濯プレス機の登場に笑ってしまいました。
先に観ておきたかったな。
ペンタゴンでも輪転機が動き出した瞬間に、絶対強い。と思ったけど、同時にフィルム映画を力強く称揚する姿勢に切なくなるというか、「映画は強いんだ」と言い続けるスピルバーグに、何て答えたらいいのか、見続けますとしか言えないのだけれど、そうとしか言えないのがもどかしいです。


マングラー』は、『A.I.』(2001年)のような、映画の持つ両義性を描いています。でもずっと単純で、プロレタリアートが資本家にプレスされるという、身もふたもない描きかたですけどね。ここまで即物的に...とは思いますが、悲惨な映画を観ると、どこかでこれで儲けてるのかって思うし、やっぱりそうだよなとは思うのですが、素知らぬふりして撮り続けてもいいのに、フーパーはそれは出来なかったんでしょうね。


マークの庭にキラキラ光って音の鳴る小物がいっぱい飾られていて、『悪魔のいけにえ2』(1986年)でも、このイカれたやつらのどいつがちまちま飾りつけてんだと思うような、キラキラした小物らがあったのですが、画面の異化のさせ方が身近で独特です。
大きな洗濯プレス機も見るからにおかしいのですが、誰もが知っている小さな異化がそこにあって、手作りパーティー感というか、ホラーなのにもてなされてる気がして、この世界に行きたいなと思いました。

『AKIRA』(1988年)感想・ネタバレ

監督:大友克洋

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2018年の年末ということで、『AKIRA』を久しぶりに観ました。
来るべき2019年。ネオ東京。ドーン。


前々から思っていたのですが、金田って何者なんでしょうか。
金田は主人公なので、あらゆる場面に登場して行動を起こしますが、彼の行動によって事態が決定的に変化するようなことはないし、あれだけのことが起こっても、金田自身にも事態の影響が見られないというかなんというか、かなり透明な存在です。

主人公でありながら、俯瞰的な立ち位置のストーリーテラー狂言回し的な役どころのようでもあるのですが、金田の傍若無人な度胸と、そこから生じるエモーションが終始物語を支えているように見えるので、当事者なのか、傍観者なのかよく分からない存在です。

映画終盤に至って、タカシとキヨコとマサルに「あの人(金田)は(この事態に)関係ない」と言われていて、思えば、序盤で捕まった軍にも、途中で捕まるゲリラにも事態に関係のない存在と見做され、何度も事態から追放されています。しかし、金田は事態に能動的に関わり続け、最終的に事態を見届ける役目を担います。
事態に影響を及ぼさないから、序盤から終盤まで一貫して関係ない人扱いを受けるわけですが、だからなのか、なのになのか、事態の起こりから終わりまでを見届ける唯一の者になります。


影響を持たない透明な存在でありながら、事態を見届けるって、天使みたいですよね。
(『天使とデート』(1987年)ではなくて、『ベルリン・天使の詩』(1987年)のような天使です。)
久しぶりに『AKIRA』を見直した後、(金田ってベンヤミンの「新しい天使」っぽいな)と思い、『AKIRA』好きの人に以下のベンヤミンの文章を読み聞かせたのですが、全然ピンときてもらえなかったので、この記事を書いています。

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており 、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのようにも見える。かれの目は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が天に届くばかりに高くなる。僕らが進歩と呼ぶのは〈この〉強風なのだ。

ウォルター・ベンヤミン「歴史の概念について」より

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パウル・クレー「新しい天使」(1920年

ベンヤミンの「新しい天使」も金田と同様に、事件を見つめるだけで、事件に影響を持たない存在のようです。ベンヤミンは、楽園から吹く強風を進歩と呼んでいます。その進歩に押されながら後ろ向きに飛ばされていく天使は、眼前(過去)のカタストロフのみを見ています。
2020年に開催される東京オリンピックに向けて開発が進むネオ東京には、最後のカタストロフを待たずして、事態の進行とともに瓦礫や廃墟が積み重ねられていきます。
進歩という強風に押し進められながら、「そこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたい」という思いを抱き、瓦礫や廃墟が積み重なっていく様を見つめる天使からは、焦燥というかもがきというか、認識者であり観察者でありながら、目の前の事態に対する、金田同様の当事者意識が感じられます。

そうなるとってこともないのですが、金田が天使なら、アキラとは進歩なんですかね。
アキラが核のメタファーとして描かれているとする文章は過去に読んだような気がするのですが、東京という舞台設定や、劇中のケイの台詞などからも、核というよりも進歩の象徴として捉えたほうが、アキラが両義的(一方で恐れられ、一方で待ち望まれる)な存在として扱われることに納得がいきます。

『恐怖の報酬』(1977年)感想・ネタバレ

監督:ウィリアム・フリードキン


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暴走列車ものもそうですが、ニトロをトラック輸送となると広義の意味でアクション映画だと思うのですが、フリードキン監督はアクションが撮れないですね。『エクソシスト』(1973年)のショットが、決まってるけど静的なものが多かったので、アクションはどうなのかな、とは思っていたのですが駄目でした。


冒頭の爆破テロで派手な爆発があり、ニトロ爆発のハードルを上げるなぁ、気合い入ってるなぁと思って、その後の油田火災爆発も更に派手だったので、これどうするんだろう?と思ってたら、肝心のニトロ爆発に何の工夫もなく、当然ショボく感じられてしまいます。
こういう映画は緩急の緩の見せ方が肝だと思うのですが、フェイント的な緩がなく、取って付けたように緩が出てきて、こっちが構えたところで爆発するのでまったく驚けないです。


クルーゾー監督版と比べてどうこうじゃなく、他にも色々まずいです。

4人の男が2人ずつトラックに乗り込み、2台のトラックで油田火災現場までニトログリセリンを運ぶのですが、3人はそれぞれ別の土地で犯罪がらみのトラブルを起こして南米奥地に逃亡してきていて、そこで金が尽きて逃れられなくなり、劣悪な環境で生活をしています。ただ後の1人は、映画の冒頭に出てきてマンションだかホテルだかで男を銃殺して悠々と立ち去っただけのシンプルな描かれ方をしていて、3人が暮らす南米奥地にも遅れて現れ、金に困っている様子もなく、かなり謎の多い男です。こうなるとこの男は3人の内の誰かを殺しに来た殺し屋かと思ったら、そのような展開は一切なく、たまに拳銃をぶっ放す人、ぐらいで死んでしまいます。
他にも、出発前に4人(1人は出発直前に殺し屋みたいな男に殺される)で乗り込むトラックの整備なり改造を黙々とやるのですが、内1人は冒頭の個別描写で詐欺師セレブみたいな男として描かれていたのに、逃亡先で肉体労働に従事したとはいえ、やたら手慣れた様子でトラック整備をします。ここだけではなく、全体的に人物描写が前日譚で済んだことになっていて、逃亡後の場面に個別の行動原理みたいなものが無く、逃亡前のそれぞれのやたら派手な前日譚が大した振りになっていません。


油田火災を止めるために必要なニトログリセリンは一箱だけど保険のために六箱運ぶ、という説明台詞が出発前にあり、倒木で道が塞がれて先に進めなくなった時に、爆破テロをやった男がニトロを一箱使って倒木を爆破するのですが、それがトラック一台分の幅の空間が倒木に空く程度の爆発で、地面が抉れるようなものでは全然なく、油田火災ぶっ飛ばすぐらいのやばい爆発が来るぞ!と思っていた気持ちの持って行き場がない。
肝心のニトロ爆発がショボくて、緩急の急もぼやけています。
そもそも運搬する4人がニトロのヤバさを確認する場面がありません。放置されていたニトロを石油採掘会社の人達が確認する場面で、指先に着いたニトロを払うと地面に落ちた数滴が派手に爆発する音がして、それを観た観客はニトロのヤバさを確認するのですが、観ていない犯罪者の4人が「刺激を与えると危ないぞ」という会社の言いつけだけで神妙にトラックを運転するのが解せない。


あとは、トラックが揺れて危ない場面で荷台のニトロの箱がズレるショットを入れるのは本当に余計です。それは想像させるもので映されると興ざめします。このことと関係していると思うのですが、崖の際を走行する危ないトラックの様子だとか、見せ場の橋の場面もそうですが、大概ニトロを積んでいなくても充分見た目で危ない状況です。そしてその橋の場面が、後発のトラックが渡るバージョンとしてもう一回出てきたのを見た時、どうもフリードキン監督は、映らないニトロがどうなっているのか想像すると怖いだとか、ニトロを積んでいるせいで普通なら何でもない所がやたら怖く感じられる、などといった感覚が分からないから描けないのではないかと思ったのですが、それで何でよりによってこの映画のリメイクをしたのでしょうか。もし、この演出が観客の想像力を低く見積もったものだとしても、どちらにしても想像させる演出が出来ないことに変わりはありません。


得意の静的な決まったショットも、アクション映画でアクションが機能していない上で頻繁に観ると、やたらクドく感じられます。
時系列をバラバラにしたら『ダンケルク』(2017年)みたいに出来たかもしれませんが、だからといって映画が良くなるかというとそうではなく、誤魔化せる、かもしれないだけなのでどうしようもありません。
エクソシスト』に出てきた悪魔的で原始的な混沌を、随所で記号的に描いているのですが、アクションと繋がっていないので意味を汲みようがない。


ずっとオラついてるのが怖いと思ってるチンピラみたいな映画です。こういう映画は、緩い場面が怖いという認識が足りないと思う。
あと、ニトロを舐めてる。ニトロの運搬一番勝負なんだから化物みたいにニトロを描かないと!

ということで読んでいただいた通り、ダメ出しで盛り上がる系映画なので、誰かと一緒に観るのをオススメします。

『恐怖の報酬』(1953年)感想・ネタバレ

監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー


前回の『エクソシスト』(1973年)を観た後に、フリードキン監督の他作品も観てみようと思ってフィルモグラフィを眺めていたら、『恐怖の報酬』という面白そうなタイトルが目に止まり、あらすじを読んだら、「男たちが命懸けでニトログリセリンをトラック輸送する」物語だったので、これ絶対観よう!と思ってレンタルして観始めると、明らかにフリードキン監督作とは思えない古さだったので調べました。そして理解しました。

1953年のアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画を、1977年にフリードキン監督がリメイクしたんですね。
そのリメイク版は、公開にあたって北米以外では短縮版が上映され、以降も短縮板のTV放映数回と、1991年に短縮版のセル・ビデオが発売されたのみで、ほぼ観られない状態にあったのが公開から40年を経て、オリジナル完全版が今月公開されるそうです。
なんてタイムリー。
というか、レンタルしよう!の時点で間違っていました。
無知ゆえにアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の『恐怖の報酬』を観る事が出来たようです。

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主人公のマリオとジョーのペアと、マリオの友人ルイージとビンバのペアが、それぞれトラックに乗り込んで、2台のトラックがニトログリセリンを油田火災現場まで運ぶことになるのですが、この展開からルイージとビンバペアの爆発は確定しているようなもので、見るからに危ない時は爆発しなくて大丈夫そうな時に爆発するんだろうな、などと大上段に構えていたら、ビンバが走るトラックの中で急にヒゲを剃り始めて、ルイージが何をしているのかと聞くと、「俺の親父は処刑される前に風呂に入らせてくれと頼んで身奇麗にして死んだから、俺もそうしてる」と言い始めてギョッとしました。
爆発の前振りのようなのですが、よくネタになる洋画の死亡フラグとは明らかに違い、ビンバには自分の死が分かっています。
こちらを見透かしたようなビンバのメタ的な言動に、現実と虚構の感覚が揺さぶられて動揺したまま、すぐに場面はのんびりとした様子で会話を交わすマリオ・ジョーペアへと切り替わります。
二人のやり取りをなぞるように追っていると、ジョーがマリオに煙草を吸うかと訊ねて、運転しているマリオが「巻いてくれ」とジョーに頼みます。煙草を巻く手元を捉えたジョーの視点ショットが映り、自然と意識が視点に同調して、一点凝視のような、ぼんやりとした集中状態になると、そこに突然風が吹いてタバコの葉が飛び散り、手元を映すショットに小さな爆発のようなものが見えた瞬間、ハッとして我に返りました。
気がつくと目の前には爆煙が上がっていて、さらに追い討ちをかけるように遅れて爆音が響き、ルイージとビンバが死んだことが分かるのですが、予め承知していたはずの二人の死が、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の術にはまり、予想外のショッキングな出来事のように感じられて、もうこれ催眠術とどう違うのか分からないぐらいコントロールされた気がしてしょうがないです。

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思い返すと、爆風が爆音より先に来るとは考えられないので、タバコの葉を散らしたあの風は爆風じゃなくて、ただ風が吹いただけなんですよね。
今まで映画の中で意味ありげに吹く風を、漠然と予感や予兆のようなものだと思っていたのですが、この映画を観て、出来事や物事というか、その根本となる揺らぎなんじゃないかと思いはじめています。
ルイージとビンバが死んだ原因は示されていないのですが、風が吹いたから死んだんでしょうね。



フリードキン版、どうなんでしょうか。オリジナルが凄すぎて、ただ観るだけなのにプレッシャーを感じてしまいそうです。

『エクソシスト』(1973年)感想・ネタバレ

この記事は、『エクソシスト/ディレクターズ・カット版』を見て書きました。

監督:ウィリアム・フリードキン




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この映画には因果が描かれない。
物語は、偶然の一致で繋がっている。
超自然的な偶然の一致の数々を知るのは、登場人物の誰でもなく、鑑賞者である。


イラク北部でメリン神父が見つけた聖父子像のコインと同じものを神父のデミアンが夢に見ること。そのコインをデミアンがペンダントトップにして身につけていたこと。
録音されたリーガンの言葉が逆再生され、聞こえてくる「メリン」の言葉が、冒頭に登場した老神父の名前であることを、デミアンが気づくはずはない。
メリンと鑑賞者しか知らない彫像が、リーガンの部屋に現れた時、いったいあれをデミアンは何だと思ったのだろうか。
リーガンとデミアンが一瞬幻視する内なる邪悪な形相の顔は、台所を歩くクリスを捉えたショットの中に不意に現れる。あの邪悪な形相の顔は、リーガンとデミアンの内側に宿る何かの表象ではないのか。鑑賞者の見つめるスクリーンの中に不意に映り込む時、それはどこに宿る何の投影として現れているのか。そしてリーガン、デミアンとその幻視がつながることはまた、鑑賞者にしか知らされない。


鑑賞者だけが知る、超自然的な偶然の一致の数々は、リーガンと対峙したデミアンが知覚する偶然の一致と同じものであるかのように描かれてはいないだろうか。
デミアンは、リーガンがデミアンの母の死を知っていることや、地下鉄で出会った老人の言葉「年とった信者を助けろ、神父」をリーガンもまた言うことに意味を見出し、大司教に悪魔祓いの儀式を行う許可を求める。


この映画の偶然の一致は、一本の映画として繋げられることにより立ち現れ、そこに偶然の一致以上の説明はない。
それはまるで、「虫の知らせ」や「予知」といった、共時性シンクロニシティ)と呼ばれる超心理学的な現象として描かれている。それを体験した当事者が、因果的なつながりのない事象に意味を見出すように、この映画を観た者が、そこに意味を見出すよう意図的に映画が構築されている。
共時性現象という超心理学的構造によって、この映画は語られているのである。

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C.G. ユングが提唱した共時性、別名「非因果的関連の原理」には、直線的な因果性はなく「相対的な同時性」があるとユングは主張している。時間や空間の隔たりが消失し、それらが同時に起こっていると知覚されるものだという。
イラク北部の出来事とジョージタウンの出来事がひとつの映画としてつなげられることにより、鑑賞者は「相対的な同時性」を知覚し、そこに現れる共通するモチーフに超自然的な偶然の一致を感じ取る。
これは、そもそも映画に備わる特性の一つだろう。
この特性を生かした場面は、これまで見てきた映画にも数多くあったが、『エクソシスト』は鑑賞者に神秘的知覚を覚えさせるために、約2時間ある映画全編を共時性現象として描いている。

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では、『エクソシスト』という共時性現象に意味を見出すとしたら、どのような解釈が可能だろうか。


イラク北部でメリン神父は発掘調査を行っている。見つかった遺跡の中にあった、他とは製造年代の異なる聖父子像のコインは、キリスト教が古代神話に触れた痕跡や養父、または在宅する父の存在を暗示している。発掘作業の現地事務局らしき事務所に掲げられていた振子時計が止まった場面以降のメリンの行動は曖昧で、彼は身体の具合が良くないように見えるし、イラクで異国人として彷徨っているようにも見える。イラクの場面のラストは、古代神話に登場する怪物のような彫像を前に、戦う犬の獰猛さや監視する原住民の不穏さが強調されており、メリンと彫像の対峙に不吉な予感が伴う。


ジョージタウンでは大学構内で映画の撮影が行なわれている。女優のクリスと監督のバーグとの軽妙な掛け合いを楽しむ聴衆を映したショットの中央に、笑うデミアン神父の姿が見える。この後、撮影現場を背に歩き去るデミアンの姿が映り、撮影現場から徒歩で家路につくクリスが教会の前庭で神父仲間と話しをするデミアンの姿に目を止め、デミアンは物語に因縁づけられる。まるでクリスの深刻な眼差しがデミアンをこの映画に深く関わらせでもしたかのように、この後、デミアンの身に起こる出来事はマクニール母娘の出来事と平行して語られていく。


リーガンはまもなく12歳の誕生日を迎えようとしていた。母親と噂が報じられている映画監督のバーグを誕生日に呼ばないのかと訊ねるリーガンに、パパを愛しているとクリスは答える。誕生日当日、娘に電話一本寄越さない夫への不満を電話越しにぶちまけるクリスの罵詈雑言をリーガンは離れた部屋でじっと聞いている。このような場面からは母親の恋愛に娘が不安を抱いていることや、母親の本音と建前に娘が気づいていることがうかがえる。


リーガンの部屋の真上にある屋根裏部屋あたりから聞こえる原因不明の物音はいっこうに止まず、リーガンもベッドが揺れて眠れないと不満を漏らし始める。この時点でリーガンに奇行は見られないが、クリスはリーガンを病院に連れて行く。大人しく検査を受けるリーガンを捉えたショットが邪悪な形相の顔のショットに一瞬だけ切り替わる。その後、リーガンの様子にイラだったり虚ろになったりする変化が見え始める。
病院の検査を受けるまでリーガンに奇行は見られなかった。病院に連れて行ったことで彼女の奇行は始まり出している。この後、病院の検査は大掛かりになっていきリーガンの身体的苦痛は増していく。そして、そのことと比例するかのように彼女の奇行は常軌を逸していく。
リーガンの精神は後回しにされ身体的苦痛だけが増していくことと、リーガンの部屋を訪れたクリスが開いている窓を閉める描写が二度出てくることとは何か関係があるかもしれない。
二度ともリーガンは眠っている。この、眠るリーガンを無意識の状態にあると捉えると、そこで開いている窓は無意識の開放を表しているようである。そして、常に窓を閉ざすクリスの描写は、身体検査を繰り返しリーガンの精神を蔑ろにするクリスの振る舞いと重なる。検査を受けさせることも窓を閉めることも、どちらも子を心配する親の振る舞いだが、窓を閉ざすように外から隠され見えなくなっていくものが存在している。
また、これらの描写とオープニングのイラク北部の発掘場面は対応している。
地中に埋もれ外から見えないものは無意識に埋もれているものであり、それを掘り起こす行為は、それを顕現させることの暗喩のようである。


リーガンの奇行は見えない存在の顕現と関係するかのように、人々の集まる一階の部屋へ下りて行って失禁したり、同じく一階に集う人々の元にブリッジの体勢で階段を下りて行って吐血をするなど、人に見せる事が目的の一つとしてあるように思われる。
そして、殆どの奇行は死や性といった現代のタブーに抵触している。夢遊病のような状態で、予言を思わせる「お前は宇宙で死ぬ」といった発言をすることや、デミアンの苦悩の暴露、メリン神父が見た彫像を部屋に出現させることなどから、リーガンの奇行には彼女自身の苦悩の表出というよりも、接触した他者の苦悩や不安の顕現が見て取れる。謂わばシャーマニスティックな行為としてリーガンの奇行は描かれている。


デミアンはメリンにリーガンの状態を説明しようと「リーガンに憑いた霊の事をご説明します。わたしの観察では3つです」と話し始めるが、メリンは「1つだ」と返し、デミアンの言葉は遮られる。デミアン精神科医の観点から考え得る思春期の少女に見られる一般的な症状や、リーガンの置かれた環境の不安定さからくる症状、もしくは神父として悪魔的なものの存在について言及しようとしていたのかもしれない。だがこの場合、メリンの言うように原因は「1つ」である。
それはメリンがイランで発掘し、対峙したものと同じ、無意識下にある混沌である。
この無意識下の混沌と対応するのが神話的彫像であることから、ここで扱われている無意識には、ユングの提唱した「集合的無意識」が含まれていると考えられる。それはフロイトの提唱した「個人的無意識」のより下層に存在するとされ、個人的な心の領域を超えて、人類とその歴史に対応する数々の神話研究から導かれた元型により構成された「人類史的無意識」といえるものである。
リーガンはそのような、自己のものとも他者のものともいつのものとも区別のつかない無意識下の混沌の中で憑依的な振る舞いをしている。

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張込みをするキンダーマン警部がベッドに縛りつけられているはずのリーガンの動く影を見たり、デミアンに母の姿を映し出して見せたりするあの不思議な窓は、意識と無意識の境界面を表している。眠るリーガンの部屋の窓が開いていることは自身の無意識の開放であり、他者の意識の傍受でもあるのだろう。
だとすると、この場合においてメリンとデミアンが行う悪魔祓いの儀式とは、混沌の秩序化に他ならない。それは古くからキリスト教宣教師が行ってきたような、未開地への布教活動に似たものなのかもしれない。
混沌の秩序化とは野性の理性化でもある。映画冒頭で神話的彫像と対峙したメリンは、謂わば秩序と理性の象徴なわけだが、彼が悪魔祓いの儀式という秩序化の半ばで死亡したことにより状況は混沌を極める。
理性を失い激昂しリーガンに掴みかかるデミアンと、それに抵抗するリーガンの揉み合いは、「合体なのだ」「リーガンと?」「お前もさ」という、以前の二人の会話の状況そのものになっている。二人は無意識下の混沌の中で縺れ合っている。
度々登場する聖父子像のコインはリーガンの苦悩に対応するモチーフでありながら、デミアンが身につけている。そしてデミアンの苦悩をリーガンが顕現してみせるといった鏡像的な関係がうかがえることから、二人を一枚のコインの表と裏と捉えることができるだろう。聖父子像のコインの本当の裏側はデミアンの苦悩に対応する聖母子像ではないのか。
デミアンの夢の中で聖父子像のコインは落下していく。そして走る野良犬をブリッジに、コインと振子時計の振子が繋がれている。ペンダントのモチーフはリーガンとデミアンの苦悩を、ペンダントの落下は無意識への降下を、ペンダント用のチェーンのついたコインと振子時計の振子の形状の相似から、振子の左右は秩序と混沌を表している。
イラク場面での振子時計の停止は、左右に振れていた秩序と混沌のバランスの崩壊であり、共時的時間(時間の隔たりの消失)の象徴として描かれている。

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リーガンはデミアンのペンダントを引きちぎり、デミアンは「俺に乗り移れ」と叫ぶ。その叫びの後、デミアンの相貌が邪悪に変化し、彼は再びリーガンに襲い掛かろうとする。その衝動を押さえ込むかのようにデミアンが身体を強張らせると、彼の相貌が元に戻る。その瞬間、目の前の窓ガラスに浮かび上がった母親の姿を見て、デミアンは窓ガラスを突き破って飛び出し、そのまま家の脇道の先にある階段下へと転げ落ちる。
リーガンの手によって聖父子像のペンダントが取られ、夜の窓ガラスという鏡にデミアンは母の姿を見る。この時、それぞれの苦悩を自身の手の内や姿として獲得し、リーガンとデミアンの間にあった混沌が秩序化し始めている。
一瞬理性を取り戻したデミアンは自身の無意識の顕現という、混沌がもたらす恐怖への抵抗であるリーガンへの暴力を思い止まる。そして鏡(夜の窓ガラス)が映し出した混沌を引き受けるかのように、鏡の向こうの無意識へ飛び込んでいく。
このデミアンの行動が無意識の混沌空間だったリーガンの部屋に秩序をもたらす。リーガンの手により聖父子像のモチーフを獲得したことも大きな要因だが、コインの表裏のような一対の関係にあるデミアンの理性による行動が、無意識と意識の境界面(窓)の反転化をもたらしたことにより無意識状態にあったリーガンの部屋は秩序化され、彼女も自身の意識を取り戻す。
混沌の恐怖の中で死を迎えようとしていたデミアンにダイアー神父が駆け寄り告解を授ける。事の顛末を知らないはずのデミアンの友人は、デミアンを混沌の恐怖の中から救おうと、死の間際の友人に儀礼という秩序化を施す。

マクニール母娘の引越しを見送るダイアー神父の手に聖父子像のペンダントが渡される。ダイアー神父はそのペンダントの裏に隠された聖母子像に思い至りデミアンを偲ぶ。そして取り戻した秩序をそっとしておくかのように、クリスの手にペンダントを返す。脇道の先の階段下を見つめるダイアー神父の横顔の奥に、板によって完全に閉ざされたリーガンのかつての部屋の窓が見えている。

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ユングに関する超心理学については、こちらの研究報告を参考にしました。
共時性の意味論」(2003年 田中彰吾)
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/data/tanaka1.pdf



懐かしがって久々に観てみたら、観ていなかった事に気づきました。
どうも有名な場面や音楽をテレビかなんかで知って、観た気になっていただけのようです。
犬神家の一族』とかも、実は見てない気がしています。

『FEAR X フィアー・エックス』(2003年)感想・ネタバレ

監督:ニコラス・ウィンディング・レフン

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イーストウッドヒア アフター』(2010年)の、部屋で一人食事をするマッド・デイモンや、『ハドソン川の奇跡』(2016年)のホテルのベッドに腰かけて一点凝視しているアーロン・エッカードの、人に見られていない時の人、一人でいる時の人としかいいようのない佇まいにグッとくるたちで、孤独といったら大げさかもしれませんが、あまり生きてて意識される瞬間ではないけれど、誰しもにある瞬間が映画に映っていると惹きつけられてしまいます。
人によっては、このような人に見られていない時の自分や、一人でいる時の自分の佇まいに意識が行きがちで、そうやって孤独に集中してしまう人がいるだろうなと思うのですが、そんな人に、レフン監督の映画がもっと届いたらいいなと『FEAR X フィアー・エックス』を観て思いました。


ハリウッド映画の一昔前のバディもの刑事ドラマなんかを観ていると、主演の二人は一つの世界を共有していて、そこに映る世界は揺るぎなく安定していて、こちらも安心して観ることができるわけですが、『FEAR X フィアー・エックス』の主人公ハリーは、部屋で一人で解像度の低い監視カメラの映像をソファから降りて、奇妙なポーズで凝視していたりして、映画が始まった時には既に触れがたい集中状態にあって、ずっと佇まいが、人に見られていない時の人、一人でいる時の人です。こうなると世界がうかがい知れないというか、ずっと不安な状態で世界を探るような鑑賞を強いられます。
ハリーの妻を殺した警察官には、妻も子供もいるわけですが、この人も登場した時からハリーと同じ雰囲気を纏っています。だから、ハリーの境遇が孤独なわけではなく、彼らの状態というか、何ならレフン監督の切り取る人物の状態が殆どそうかもしれない。
登場人物の孤独な集中力が物語を牽引している感じがレフン監督の映画には、そういえばずっとあるなと思いました。


クライマックスで提示されるものはイメージのようで、具体的な描写とは思えないものですが、クライマックスに至るまでに何度か挿入されていた膜の中で蠢く人の赤いショットから、『オンリー・ゴッド』(2013年)でもそうだったのですが、イメージと現実とを繋ぐ描写として、イメージの赤が現実に現前する出来事が起こり(拳銃で撃たれる)、現実とイメージが繋がって、イメージが現実に溢れ出てきて、ホテルが水浸しになってどうなったの?って感じなのですが、隔絶された集中状態にあったハリーのものだろうと思われるイメージが、羊水だとか羊膜だとかの母体内を連想させ、妊娠した妻のお腹に耳を当てるハリーの頭を妻が撫でる幻視のようなフラッシュバックの場面に、赤い膜から手が伸びてくるショットが繋げられていたことから、ハリーと妻と胎児が三位一体となった世界のイメージがあって、そこが原始であり野生でもあるような膜の中の赤い世界としてハリーの中に内在していたのだろうと推測されるので、クライマックスは内在するハリーのイメージの表出が成されたのだろうと思います。
実際の出来事としては、妻を殺した刑事をハリーが殺して、汚職刑事を殺害する組織による揉み消しによりそれが不問に付され、ホテルで起こった事件は無かったことになったのかもしれません。
妻が生き返るわけではないことは分かっている。「復讐がしたいわけではない、なぜ妻がころされたのか知りたいだけ」というのは、ハリーの自覚出来るところの目的であって、悲しみと憤りで集中し、研ぎ澄まされたことにより生まれた言語化できないハリーのイメージの表出が彼の欲求だったのかもしれません。だから、「復讐したかったわけではない」としか彼には言えない。内なる世界の表出は、本来ならカタルシスを得られるものなのでしょうが、果てしない夢想の自覚みたいな悲しい諦念に至ったかのような終わり方でした。
無駄口も空虚で、言語化できることしか語らないレフン監督の登場人物は皆無口です。





音楽がスティーヴ・ライヒっぽいと思ったら、ブライアン・イーノでした。ミニマルな感じは観終わるとこの物語にピッタリですが、鑑賞途中は音楽でもいいのでヒントを下さい、という気持ちになりました。
汚職刑事を殺害する組織だとか、三位一体のイメージとか、最後にハリーがベッドの上でうずくまって泣く病室の壁に十字架が掲げられていたりして『オンリー・ゴッド』と似た印象を受けますが、レフン監督を掘り下げるのは大変そうです。