映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(2017年)感想・ネタバレ

監督:スティーヴン・スピルバーグ

f:id:stevenspielberg:20180402183545j:plain

決断に迷い苦悩するキャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)と、彼女を取り囲む男たちを収めた、まるで宗教画のように統制された構図のショット。路面の売店脇で強風の中横並びで新聞を捲る3人の男をコミカルに収めたポップでデザイン的なショット。人と紙で溢れかえる家の中をカメラが動き回り、計算されたテンポとタイミングで人が出入りする長回し。まるでミュージカルのワンシーンのように、匿名の男たちがリズミカルに新聞をトラックに積み込む場面などが、ブルーカラー(生産労働者)を思わせるブルーグレーを基調としたクラシカルな世界感で統一され、どれも悪目立ちすることなく映画に溶け込んでいることに驚く。

スピルバーグのフィルモグラフィの中で、何度も映画のメタファーとして描かれた四角い光(今回はコピー機の原稿ガラス)が、これまた何度も描かれたアンタッチャブルな存在(ペンタゴン・ペーパーズ)を照らすと、それが自ら動き出したかのように次々と人の手に渡り、バトンとなって決断のリレーが始まる。
このリレーによって明らかになるキャサリンの勇気や、その決断に下された判決が伝えられた際に皆で共有する報道の意義や貴さなどはあっさり台詞で説明されており、観客はそれらをわざわざ画面から読み取る必要はない。

既に多くの人があらすじを知っている実話に、更に説明台詞を挿入することで、不理解から生じる観客のフラストレーションを軽減し、その結果意識の多くが画面に向かい、何気ない場面やショットの充実が、そのまま観客の満足感に繋がるように出来ている。

簡単なことのように思えるが、この画面の充実のさせ方が凄まじく、これが出来るには美術的なセンスだけではなく、何が画面の充実に貢献するかについて、あらゆる角度で自覚的でなくてはならない。
宗教画やデザイン画のようなショットもそうだが、カートゥーンのキャラクターのようなキャラ立ちした風貌の脇役と、シリアスな面相の脇役をどう配置するかだとか、トム・ハンクスにポーズをとらせ、そのショットをどう撮るか何回やるかといった、芸術性やエンターテイメント性などから必要な要素を抜き出し、それら不統一な要素のミックスで画面を充実させ、それぞれが突出することなく継続し、一つの映画としてまとまるようにコントロールしなくてはならないのだ。
それが出来るのも、そこを目指すのも、スピルバーグ以外ちょっと考えられないと思う映画だった。

スピルバーグが到達したこの前人未到の領域は、一回だけのまぐれでは無い。
確実にスピルバーグはその方法を体得している。

『さらば、愛の言葉よ』3D(2014年)の、3Dメガネという視覚補正メガネについて

前回はお騒がせ致しました。
今回は映画の記事です。

f:id:stevenspielberg:20180330235459j:plain
監督:ジャン=リュック・ゴダール

3Dメガネは、立体視できない映像を立体視させるためのメガネです。
私は視力がよくないので、映画はメガネをかけて見ています。なので、3D映画を見る時は、メガネをかけて、その上に3Dメガネをかけて見ています。
なにかしらの映像をちゃんと見るために、2つも器具を装着しないと見れないわけです。

何の話かというと、『さらば、愛の言葉よ』3Dの、左右で違う映像が見える印象的な3D効果が斜視を連想させ、度々現れる過剰な色味の映像が色覚異常を連想させ、この映画が用いる効果には視覚障害を人工的に補正している感があるなと、ふと思いついたという話です。

そもそもスクリーンに映る映画を裸眼で立体視出来ないのは、視覚障害ではありません。
視覚障害ではありませんが、3D映画を3Dメガネをかけずに見ると、とても見辛いダブった平面映像が見えます。
この3D映画の、3Dメガネをかけずに見ると見辛いダブった平面映像が見えるということから、逆説的に観客を視覚障害者として捉え、視覚補正メガネとして3Dメガネを用いたのが、『さらば、愛の言葉よ』3Dなのではないかと思うのです。

3D映画を「観客の視覚障害」と捉える視点とは、どのようなものなのでしょうか。
それは、あくまで映画は平面視するものであるとする立場から、「映画がダブって見辛い?君は目が悪いんだ。メガネをかけて見なさい」と言っているように思えます。
映画はおかしくない。こちら(観客)の目がおかしい。だから3Dメガネという視覚補正メガネをかけなくてはいけないわけです。
しかし実際には、観客の目はおかしくありません。

あくまで映画は平面視するものであるとする立場とは、3D映画を平面視できる場合に限り映画として捉え、スクリーンに見辛いダブった平面映像が映る原因を、観客の視覚障害にあるとし、視覚補正メガネとして3Dメガネがあるとする立場です。
この場合、『さらば、愛の言葉よ』3Dにおいて映画と見做されるのは、3Dメガネをかけずに見た時にスクリーンに映る見辛いダブった平面映像か、立体映像内の平面映像ということになります。
前回の『さらば、愛の言葉よ』を書いた記事の中でも触れたのですが、この映画にはスクリーンいっぱいの鏡に男女の交わりが映し出される印象的な場面があります。そして、ここだけ立体映像でありながら、鏡に映る像ゆえに平面視が出来ます。とすると、『さらば、愛の言葉よ』3Dで映画と見做されるものでまともに見ることが出来るのは、この鏡に映る像のみなのではないでしょうか。

確かに鏡は、2D・3Dともに平面視のできる、動く像を映し出します。
このことを、映画とは鏡像であるから立体映像は映画では無いと捉えたらいいのか、立体映像の中にあっても尚、ゴダールが定義する映画というものが存在する証明として鏡像を捉えたらいいのか、ちょっとまだよく分かりませんが、3D映画を撮ったから3D映画に肯定的なのかと思ったら、どうも違うようですね。
3D映画に反応して、3D映画を否定する為に、立体映像の中に鏡像という映画を映し出す映像作品(なんて形容すればいいのだろうか)を撮るとは凄いですね。
最初見た時は、わけのわからない映画だなと思ったのですが、こうやって気づいてみると、映画の潮流に対して映画で答えを出していたことが分かりました。
常々、映画監督って科学者っぽいなと思っているのですが、3D映画の登場によって眼医者感が出てきました。

【2018.04.03追記あり】ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾における、渋革まろん氏の評論文盗用疑惑について

今回は映画の記事ではありません。
ネット上に、私のブログ記事からの盗用だと思われる文章を見つけたので、掲載元に問い合わせをした顛末についての報告記事です。

前回の記事を書いている時に、震災と黒沢清映画について書いている文章を検索していて批評再生塾のサイトに行き着き、そこに掲載されているいくつかの評論文を読んでいて問題の評論文を見つけました。

具体的に盗用だと疑われる点は以下です。


【冒頭の『青髭』から高部の妻に対する殺意を導く】

はどのブログ
「『CURE』は、ある男が妻に対して殺意を抱き、その殺意と相対する物語だ。
「『CURE』の冒頭で文江の持つ『青髭―愛する女性(ひと)を殺すとは?』(新曜社 1992年)の提示によって示された、高部の文江に対する殺意。高部の殺意は、この映画の一番初めにあった。」

渋革氏評論文
「『CURE』とは、夫の殺意に全編を貫かれた「殺意の映画」なのである。
「なぜなら彼女が朗読していたのはまさに「愛する女性を殺すとは?」である。表面上は穏やかに見える夫が実は殺意を持っていることを彼女は知っていた。」


【この殺意を全人類のものとする】

はどのブログ
「死や殺意といった普遍的な事象は誰のものでもある。目の前に現れたその時に、それと対峙した人に事象として現れる、そういう類いのものだろう。それが誰の殺意であろうと、それは誰の殺意にもなる。

渋革氏評論文
「ここで大胆な仮説を立てる。高部の「殺意」は単に高部ひとりのものではない。いや、たしかに高部の殺意なのだが、と同時に全人類の殺意である。


【物語終盤に高部が訪れる廃墟を病院とし、写真→蓄音機を映画史になぞる】

はどのブログ
「『CURE』では、半透明のビニールカーテンを開けると写真があった。蓄音機は別の部屋、空飛ぶバスでしか行けないと思われる廃墟となった病院のシークエンスの最後に登場する。」
「廃墟となった病院で、最後に高部が辿り着いた部屋で聞く蓄音機から鳴る音である。-このことを単純に解釈するなら、写真と蓄音機は映画という複製物の隠喩として用いられていると考えられるだろう。映画は、光から音の順に成り立ってきた歴史を持つ。

渋革氏評論文
「終盤、高部はまたしても「空を飛ぶバス」に乗って、今度は一人きりで廃墟の病院へと向かう。そこで彼はまず田宮が使う催眠術の始祖である伯楽陶二郎の写真を見る。それから、エジソン蓄音機で音を聞く。つまり、彼はサイレントからトーキーへの映画史を高速で反復している。」


【最後のファミレス場面の最終ショットを高部の視点ショットとする】

はどのブログ
「ファミレスで食事を終えた高部の様子は、それまでとは打って変わって旺盛で快活で落着いている。」
「その後カメラは、高部の左側から画面右側にある高部の頭部越しにファミレスの内部を捉えるが、そのまま固定されることなく動き続け、やがて高部はフレームアウトする。このフレームアウト後も、高部が吸っている煙草の煙が画面に干渉していることから、高部が映っていない最終ショットは、限りなく高部の視点に近いものだと思われる。
この最終ショットは、高部の視点と観客の視点を重ねたものだ。観客と同じものを、観客と同じように高部は見ている。」

渋革氏評論文
「映画中盤のファミレスのカットでは一口も手を付けられなかったステーキを高部はきれいに平らげる。そして、タバコを吸う高部の横顔からカメラは高部の視線をそっくりなぞるようにウェイトレスにズームインする。注意深く見ると、映像にはタバコの煙が映り込んでおり、このカメラの視点が高部の視点であることがわかる。客観的世界に同一化したPOV(主観ショット)だ。つまり、ここで高部はカメラそのものになった。高部の内宇宙はカメラの外宇宙と同化した。彼が映画史を反復して掴んだ「秘密」とは、映画的システムによって駆動するこの世界を受肉した人間こそ「私=高部」であった、ということなのだ。」


【その他】

私はブログ記事の中で、夫婦がバス移動する場面を「空飛ぶバス」と勝手に命名しています。私のブログ記事『CURE』№2の中で、街に加わった異質なルートを行く異質な乗り物というニュアンスで書き、その記事からの流れで、№3・№4の記事では説明無しで「空飛ぶバス」とだけ書いています。
しかし渋革氏は、私が独断で書いていることを、何の補足も無くそのまま使用しています。

以上です。
言い回しや解釈などは変えられていますが、具体的な着想の重複が見られます。


全文は以下です。

2017年4月14日掲載の私のブログ記事です。
「『CURE』(1997年)を見直してみよう No.4 最後に高部はどうなったのか」
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2017/04/14/185240

2018年1月以降掲載、渋革まろん氏評論文
「《私映画》の運命―黒沢清『CURE』の問いかけ」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/2614/

以下は株式会社ゲンロンとのメールのやりとりです。

【3月14日 はどの送信メール】

批評再生塾
徳久様

はてなブログ「映画を書くと頭が疲れる」の著者、はどのと申します。

先日、批評再生塾様のHPを読んでいて、渋革まろん氏の評論文「《私映画》の運命―黒沢清『CURE』の問いかけ」に書かれている、具体的な着想部分が、私が2017年4月14日に公表した以下のブログの盗用ではないかと思い連絡致しました。

はてなブログ「映画を書くと頭が疲れる」
『CURE』(1997年)を見直してみよう No.4 最後に高部はどうなったのか
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2017/04/14/185240

具体的な指摘といたしましては、

1、冒頭の『青髭』から高部の妻に対する殺意を導く
2、この殺意を全人類のものとする
3、物語終盤に高部が訪れる廃墟を病院とし、写真→蓄音機を映画史になぞる
4、最後のファミレス場面の最終ショットを高部の視点ショットとする

上記以外にも、私が『CURE』に関するブログの流れで、夫婦のバス移動の描写を「空飛ぶバス」と表記しているのを、そのまま使用されています。

言い回しを変更しています。
解釈の変更も認められます。

CUREに関しては、いくつか記事を書いていますので、他記事からの盗用もあるかもしれません。以下に関連ブログ記事のURLを添付しておきますので、必要であればご確認下さい。
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2015/05/06/185401
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2015/05/16/192621
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2015/06/07/225516
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2015/07/05/025058

私は、約20年前の映画『CURE』について、当れるだけの先行する文章を読み、善し悪しは別にして、今まで誰も書かなかった独自の着眼点や解釈を文章にしています。また、『CURE』という映画の性質上、様々な観点で複数の文章を書いています。その中の一つのブログを公表した約半年後に、着想に関する重複箇所が複数ある評論文が偶然出てくるとは思えません。

この件に関する対応について、3月16日までにご回答下さい。
よろしくお願いします。

はどの

【3月14日 ゲンロン様より返信メール】

はどのさま

はじめまして、
株式会社ゲンロンの徳久と申します。

いただいたメール、拝読いたしました。
当人の投稿と、
はどのさまのご指摘の箇所を確認のうえ、
必要に応じて当人にもヒアリングをおこない、
あらためて、ご連絡させていただきます。

慎重に確認が必要な案件ですので、
上記対応を含めた結果については、
3月16日以降のお知らせになってしまうかもしれませんが、
極力早急に、運営としてのお返事を差し上げるようにいたします。

どうぞよろしくお願いいたします。

【3月16日 ゲンロン様より返信メール】

はどのさま
ゲンロンの徳久です。

先日お送りいただいたメールにつきまして、
事実関係の精査を行いました。
その結果のご報告です。

本件、渋革まろん氏本人に、心当たりを尋ねました。
その結果、以下のことがわかりました。

・当該論考の執筆にあたって、映画に詳しい友人から書籍を借りたり、議論を交わしたりした。
・その際、『CURE』についても話があり、
 友人から「高部がラストで世界システム=映画を学んだからだ」と聞き、
 この着想と自身の従来の関心事項である「感染」や「独我論」「私演劇」といった概念をつなげて論考を練り上げた。
・論考は1/1に提出した。

・1/8、その友人から、「面白いブログがある」として「映画を書くと頭が疲れる」の黒沢論のURLを送ってもらった。
まろん氏は当該エントリをそのときはじめて読んだ。
・しかし友人は以前から当該ブログを読んでいたため、友人との議論を通して、間接的に影響を受けた可能性はある。

上記のような経緯があることから、
はどのさまがまろん氏の論考のなかから、
ご自分の着想に重なるところがあると思われたのは、
自然な流れです。

ただ、経緯と実際の投稿内容を踏まえると、
盗用にあたるものではないと考えます。
ですので、当該の論考については、
このままサイトへの掲載を継続いたします。

上記の内容、ご確認いただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。

【3月16日 はどの送信メール】

ゲンロン
徳久様

ご回答頂きありがとうございます。
調査結果を確認しました。
後出しのようで申し訳ありませんが、渋革氏は私のブログに読者登録しており、現時点で、読者登録日数が71日目となっているため、報告内容と日にちに齟齬がでます。
私は、ご報告頂いた渋革氏の証言は信用も納得もできません。
f:id:stevenspielberg:20180316210659j:plain
今回の批評文とブログ記事について、盗用かどうか、渋革氏からの聞き取りではなく、ゲンロン様の判断を19日までにご回答下さい。

はどの

【3月19日 ゲンロン様より返信メール】

はどのさま

お返事ありがとうございます。
たしかに渋革まろん氏の証言と、
お送りいただいた読者登録の情報には齟齬がありました。

「聞き取りではなく」とのことですが、
弊社側の判断のために、渋革氏に再度、確認を行いました。

「信用できない」ということであれば読み飛ばしていただいてかまわないのですが、
ご参考のため、以下、その内容を掲載します。

・友達のNくんと12月24日・26日にネットでメッセージを交わした。

>『CURE』を初めて見て、僕から「印象を一言で言うと、振るえて殖える。勝手に増殖していく。……CUREを見た後だと、映画を見るということそのものが現代に可能なヤバイ呪術なのではないかと思える」と、また「鑑賞者の忘れられたそれがあることの記憶が、現実世界に新しいレイヤーとして重ねられてしまう……現実改変魔法」といった感想を送りました。

>それに即レスで、Nくんから「……映画史に触れるということが、世界のシステムを理解することでもあり、主人公はそのシステムの外に押し出されるような救済を得るわけです。」と、返答がありました。「世界システム=映画を学ぶ」ことで「外」に位置づけられる高部において、「観客も高部も全部同じ私になる=私映画」なのだと理解しました。

>それから、「世界システムを学ぶ、震える、催眠術(ゆれる・点滅する)」に注目して『CURE』を見続けました。

・1月8日にNくんから、「映画を書くと頭が疲れる」を教えてもらった。

・しかし、NくんにURLを送ってもらった日より前、(おそらく)1月4日に、「映画を書くと頭が疲れる」を見つけ、読者登録をした。

・前回の聞き取りでは時系列を捏造してしまった。どちらでもたいした違いはないだろうと軽率に考えてしまった。

渋革氏の「時系列の捏造」は大きな問題で、
はどのさまがより不信の念を深められたのはもっともです。
その点、いかようにも擁護のしようがありません。

友人とのメッセージ群についてはスクリーンショットを見せてもらいましたが、
友人とのやりとりが事実であることは、盗用を否定する根拠にはなりません。

もはや「渋革の言うことはすべて信用ならない」と言われても仕方のないところですが
(私自身、このようなごまかしにはたいへん困惑させられています)、
やはり盗用であるという確証がないことは、
前回のメールをお送りしたときと同様、変わっていません。
ですので当該記事については、掲載を継続する考えでおります。

以上、十分にご納得いただける内容ではないかもしれませんが、
ご確認いただければと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

【3月19日 はどの送信メール】

ゲンロン
徳久様

ご返信頂きありがとうございます。
私としては、盗用かどうかの判断は、個人の言い分ではなく、そう見なされ得るかどうかの組織側の判断が必要だと考えます。
ゲンロン様のその判断が、あくまで渋革氏の証言に寄るのであれば、それをゲンロン様の判断とし、これ以上のやり取りは差し控えさせて頂きます。

事前に読み比べをして頂いた方々や、ブログ読者の方へ今回の件をブログ記事でご報告したいと考えています。事実を正解にお伝えするために、メールのやり取りを掲載したいと考えているのですが、ご了承頂けますでしょうか?
ご返信下さい。

はどの

【3月22日 ゲンロン様より返信メール】

はどのさま

祝日を挟みまして、お返事が遅くなってしまいました。
申し訳ございません。

前便と同じ内容になってしまいますが、
わたくしどもといたしましては、

・渋革氏の説明には時系列の捏造があり、
・当該記事から間接的に影響を受けた可能性は高いが、
・それぞれの記事の内容を比較・検討し結果盗用とは判断しなかった

ということになります。

ブログ記事でご報告いただくことについては問題ありません
(渋革氏からも承諾を得ています)。
それにあわせて渋革氏の当該投稿のページにも、
はどのさまのブログにリンクを貼り、
このような指摘をいただいたことや経緯について、
説明を掲載させていただきたいと思います。

ですのでブログに記事をアップされた際に、
お手数ですが、当方までご一報いただけませんでしょうか。

ご面倒をおかけしますが、
なにとぞ、よろしくお願いいたします。

メールのやり取りは以上です。

指摘した具体的な着想部分について、明確な回答はいただけませんでした。
こちらが、盗用を疑っている人物からの証言を主とした回答でした。

以下は、メールのやり取りにおいて私が疑問に感じたことです。

・「はどのさまがまろん氏の論考のなかから、ご自分の着想に重なるところがあると思われたのは、自然な流れです。」とのことですが、1月8日に私のブログ記事を読まれた渋革氏も同じように私のブログを読んで、着想に重なるところがあると思うのが自然な流れになるかと思います。ご友人から着想を授かり、その着想元だと思われるブログを確認したにもかかわらず、それを公表するにあたり、批評再生塾の塾生として、講師に引用の必要性や盗用を疑われる可能性について相談されることはなかったのでしょうか。もしされなかったのなら、それはなぜでしょうか。

・「・1/8、その友人から、「面白いブログがある」として「映画を書くと頭が疲れる」の黒沢論のURLを送ってもらった。・まろん氏は当該エントリをそのときはじめて読んだ。」とのことですが、渋革氏は8日以前に私のブログに読者登録をされていたので、その旨を返信しました。
・再度お返事を頂いた際に、「・しかし、NくんにURLを送ってもらった日より前、(おそらく)1月4日に、「映画を書くと頭が疲れる」を見つけ、読者登録をした。」と嘘を認め、訂正されましたが、当ブログを見つけた経緯と読者登録をした理由はなんでしょうか。

・渋革氏が、一度目の聞き取りで時系列を捏造してしまった理由はなんでしょうか。どちらでもたいした違いはないと軽率に考えたとのことですが、疑われている立場の人は、どちらでも違いがないのなら事実を伝えるのが自然な思考の流れだと思われます。隠す必要のないことを、あえて隠した理由はなんなのでしょうか。

・もともと私のブログ読者であった渋革氏のご友人が、論考の執筆にあたって議論を交わしていた際にはブログのことに触れなかったが、なぜ8日になって、突然面白いブログがあるとして私のブログのURLを渋革氏に送られたのでしょうか。
※この件に関しましては、ご友人の聞き取りまではこちらから強要できませんが、1月8日のメッセージのやり取りのスクリーンショットを公開していただければ幸いです。

・「やはり盗用であるという確証がないことは、前回のメールをお送りしたときと同様、変わっていません。」とのことですが、株式会社ゲンロン様にとっての盗用の確証とは何なのでしょうか?
※今回程度の類似であれば、間接的に影響の可能性がある上に本人の証言に嘘があったとしても、盗用にあたるものではなく、引用の必要性も無いと判断されるのなら、今後それが批評再生塾における盗用の基準となることかと思います。
こちらにも盗用ではないという確証がないので納得できなかったのですが、渋革氏の投稿ページ上で、上記の質問にお答えいただき、こちらの疑問を解消していただければ幸いです。


今回の件では盗用の疑いがあるとし、掲載元に問い合わせをしましたが、引用箇所やその引用元を明記して下されば、無断で使用して頂いてもちろん構いません。


内容は上記に記載した通りですが、以下にメールのやり取りのスクリーンショットを載せておきます。

f:id:stevenspielberg:20180326134142j:plain
f:id:stevenspielberg:20180326134602j:plain
f:id:stevenspielberg:20180326134843j:plain

【2018.04.03 追記】
渋革氏よりご連絡があり、ブログでご返答頂きました。
marron-shibukawa.hatenablog.com

ゲンロン 批評再生塾様のHPでご対応頂きました。
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/2614/

東日本大震災の津波と黒沢清映画-『リアル~完全なる首長竜の日~』(2013年)、『岸辺の旅』(2015年)を見て-

2011年3月11日14時46分、職場で同僚に「めまいがする」と話していたら、少し離れた席の女性が、「私も何かくらくらします」と言ってきて、その後は多分「疲れてるんですかね」とかなんとか女性に言おうとしたような気がする。でもその前に無線が鳴って、上階がかなり揺れたという連絡が入り、それからすぐに物凄い地震が起きていて、その後に津波がきて大変な事になっていることが分かり、その時から今までずっと、断片的な情報が伝えられている。
震災の発生から1週間ぐらいは、ほとんど寝ないでニュースを見ていた。何がどうなっているのかを把握したかったのだと思う。とにかくニュースを見ていた記憶しかない。ある時津波のニュース映像を見ていたら涙が出てきて、そこから津波の映像を見るたびに涙が出るようになった。自覚できる感情は無い。感覚的には平常心で涙だけがなぜか出てくる状態になった。よくわからないけれど、何かが飽和状態に達したような気がして、ニュースを見るのを止めた。

アメリカなんかは、災害や事故・事件が起こると、すぐ映画にするけど、あの津波は映画で描けないと思った。描けないけど、映画が描かないわけにはいかないものだろうとも思っていた。
現実で目に映るものは全て不条理だ。意味なんてない。その不条理を切り取り、同じものを見るという同時代的行為によって幻影を共有し、そこに意味を見つけることが出来るのが映画だと私は思っている。震災で目の当たりにしたあの津波は何なのか。私が目にしたものは何なのか。誰かに切り取って欲しいと願っていた。

象徴化することでしか描けない津波『リアル~完全なる首長竜の日~』


f:id:stevenspielberg:20180310230219j:plain

震災により、非現実的だと思っていた景色が現実の中に出現した。現実だと思っていた景色が、非現実的な気がした。漁船が地上に現れ、一軒家が沖へと流されていく。何の変哲もない毎日が得難いもののように思えた。私たちは混乱していた。
この全ての始まりは、津波の発生にあった。

東日本大震災から約2年3ヵ月後に封切られた『リアル~完全なる首長竜の日~』は、現実と意識の中の非現実的な世界が不自然なまでに差異無く描かれる。映画の中で描かれる現実でも非現実でも、たとえそれが映画の外の私たちの世界でも、目の前の人がフィロソフィカルゾンビかどうかを見分ける術は無い。浩市(佐藤健)の世界はひどく混乱していて、その混乱の始まりは首長竜にあった。

このように書くと、震災を描いた話のような気がすると思うが、あれこれ説明しなくても、海から首長竜が出てきて人を襲うことをもってして、これは約2年3ヵ月前に発生した震災の津波を象徴しているとしても、乱暴な話ではないと思う。こういった事象の象徴化は、実際の震災や事故・事件などを描く時によく用いられる手法だ。

浩市と淳美(綾瀬はるか)は、最新脳外科医療機器のセンシングを使って、意識の中の世界に入り、意識の中の過去へ行き、首長竜が象徴する出来事である、海にのまれるモリオの死の記憶を蘇らせる。浩市は記憶を蘇らせる前からモリオの存在に怯えていたが、その根本には、ただ見ていることしか出来なかった死に対する怯えがあった。そして、ただ見ていることしかできなかった死に伴う、見殺しの罪悪感に苛まれていた。この映画では、海に人がのまれるのを見ていることしか出来なかった者の、恐怖と罪悪感が描かれている。
「あの時モリオが流されて、俺たちは結局何も出来なかった。ただ一つやったのは、首長竜の絵を描いて、全部首長竜のせいにして、見殺しにした罪を封印することだった。」

私は東日本大震災に際して、浩市と同じように、モニター越しに津波にのまれる人をただ見ていることしかできなかった。津波にのまれる人を見殺しにした。だから、浩市が抱いた恐怖と罪悪感を知っている。海岸でうずくまり、見ず知らずのずぶ濡れの少年に打ち据えられて黙って耐えている浩市の気持ちが分かるような気がする。

海にのまれるモリオを、見ていることしか出来なかった少年と少女は、あまりの恐怖と罪悪感に出来事を首長竜に象徴化する。そして、象徴化することで実際の出来事は時と共に形骸化し、忘却され、そこから生じる恐怖と混乱が描かれる。そのように物語を語りながら、この映画は、東日本大震災のあの津波を、海から這い上がり襲ってくる首長竜に象徴化することでしか描き得なかった。映画の中と外からの異なる方向から成された象徴化は、この映画が抱えるアンビバレントな葛藤そのものだと思う。このアンビバレントな葛藤の提示が、震災の津波を描くことの不可能性の提示のように思えた。

f:id:stevenspielberg:20180310230250j:plain

首長竜は、首長竜に見えるタツノオトシゴの死骸が入ったペンダントを受け取り、全ての象徴は海へと消えていく。しかし、この約3年後に、再び海から象徴はやってくる。死骸で出来たドラゴン、『シン・ゴジラ』(2016年)だ。恐怖と罪悪感に沈黙していた人々は、象徴化された怪獣に熱狂し、饒舌になった。アメリカでは、同じような人々の熱狂に包まれ、象徴化されたサリーが、『ハドソン川の奇跡』(2016年)の中で、真実を追い求める様が描かれていた。

描けない津波を描く『岸辺の旅』


『リアル~完全なる首長竜の日~』から約2年後、東日本大震災から約4年7ヵ月後に封切られた『岸辺の旅』は、描けない津波を描かずに描くという、まるで禅問答のような問いを解いた奇跡的な映画だ。

ビルから人が飛び降りる様をワンショットで見せる。銃で人が撃ち殺される様もワンショットで見せる。出来事をワンショットで見せるのが、黒沢映画の特徴だとよく耳にする。このワンショットでの見せ方は、現実の私たちの眼差しに近い表現だ。私たちは事故を目の当たりにして、次の瞬間に、横たわる被害者の顔をアップで見たりはしない。だからワンショットで見せられる出来事は生々しく感じるし、ショットが割られれば虚構だと安心する。
では、人が消える場合はどうだろうか。ワンショットで人が消える。これは生々しいだろうか。そもそも人が目の前で消える非物理的な現象を目の当たりにすることが無いので、ワンショットで人が消えた場合、それはイリュージョンになる。メリエス以降の映画によって育まれてきた、イリュージョンとしての映画なら、ワンショットで人が消えるだろう。
現在の映像機器を用いれば、ワンショットで人を消すことは容易くできる。アングルを固定しておき、一旦録画を止めて画面から消す人物をカメラの外に移動させた後に再び録画を開始すれば、ワンショットで人が消える映像は撮れる。
この映画では、人が消える時、必ずショットが割られる。なぜ敢えてショットを割るのだろうか。ワンショットじゃないから、イリュージョンではない。ショットを割るから生々しさでもない。
何か意味があるのだ。

f:id:stevenspielberg:20180310230320j:plain

映画冒頭、瑞希深津絵里)の家のカレンダーは2014年4月。優介は3年前に富山の海で死に、幽霊となって瑞希の前に現れる。優介の死は、限りなく東日本大震災の発生と、そこでの死に近く設定されている。
「みっちゃん、俺と一緒に来ないか。」「あちこち綺麗な場所があるんだ。」
優介(浅野忠信)の誘いに乗り、瑞希は旅に出る。
『岸辺の旅』というタイトルから、優介と瑞希は、岸辺を旅しているのだろう。そして、時折映る月のショットから、二人の旅が、その満ち欠けが影響する岸辺の波間の旅であることが窺われる。
しかし、二人の旅の景色に波は映らない。何度か海は遠くに見える。穏やかな海だ。近づけば小さな波がそこにはあるのかもしれない。

二人が最初に訪れた場所で、世話になる島影(小松政夫)は幽霊だ。本人は自分が死んだことに気づいておらず、生きていた頃と変わらない生活を送っている。町の商店で瑞希が夕飯の買い物を済ませ通りに出ると、夕刊を配達している島影に出くわす。瑞希は島影に声を掛けるが、島影はまるで聞こえていない様子で、バイクに跨り行ってしまう。瑞希が島影を見送っていると、ショットが割れ、いたはずの島影の姿だけそこから消えてしまう。それを見て、瑞希は慌てて駆け出し、優介を探す。
ここに、描かれない津波がある。
ここは波間で、この時、島影は水の中にいる。瑞希は水の外にいる。そしてカメラは、両者の中間にある。瑞希は水の外から島影に声を掛けるが、水の中の島影には聞こえない。島影が行ってしまう。ショットとショットの合間で水は引き、水の中にいた島影は攫われる。そして両者の中間にあったカメラは、水の影響を受けてアングルを変えている。
穏やかな波は人を攫う事は無い。でも津波は人を攫う。ここで攫われるのが幽霊だということは、彼らを攫った津波が、かつての津波、彼らをこの世から消した過去の津波だということだ。だからカメラは、彼らを消したかつての津波と現在の合間にも位置している。
この津波は、この映画に出てくる幽霊たちの死因が様々であることから、彼らがもういないという事実を表すものに他ならない。彼らがもういないこと。ショットが割れ、彼らが消える度に気づかされるのは、描かれない津波の存在ではなく、彼らがもういないという事実だ。それに気づき、もういないわけなんてないと、瑞希は駆け出し、優介を探すのだ。
この映画は、幽霊を画面からショットを割って消すことで、目の前の幽霊が、消えてしまったもういない人だという事実をくりかえし描く。瑞稀と波間を旅する優介は、波に攫われる小石のように、かつての波の影響を受け、何度も消えて、位置を変えて現れる。その度に、瑞希は喪失をくりかえす。
波間の旅は、繰り返される喪失の旅だ。
喪失を繰り返した旅の果てで、瑞希は聞けなかった優介の最期の言葉を聞き、言えなかった最期の言葉を伝える。それでも喪失は、海の波のように、生きている限り永遠にくりかえされるものであるかのように、穏やかな波が打ち寄せる岸辺が最後に映り、映画は終わる。


津波は自然現象で、東日本大震災で目にした津波そのものに意味はない。でも、あの津波がただの自然現象で、そこに意味なんてないと思うことが出来ない。何も意味がないと思うことが辛い。『岸辺の旅』が描かずに描いた津波は、彼らがもういないという事実に気づかせ、生きている者は、消えてしまった人の喪失をくりかえすという、辛い現実を意味している。でも、生きている者にとって、あの津波はそういう意味だと思う。そして、喪失という普遍的な事象を、生きている者は、共有し生きていくのだと思う。

『15時17分、パリ行き』(2018年)感想・ネタバレ

監督:クリント・イーストウッド

f:id:stevenspielberg:20180302205721j:plain

公開2日前に、(新作はまた実話らしいし、実際の事件の確認でもしとくか)と、当時の事件のニュース記事と映画の宣伝記事を読んでいたら、「事件の当事者であるアンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、スペンサー・ストーンを主演俳優に起用し-」との文面が。
驚きすぎて、二度見ならぬ二度読みをして、それでも頭に入ってこなくて、もう一度事件の記事を読み、当事者の名前を一から確認しました。
じけんのとうじしゃがしゅえん…
これって、どういうことなんでしょうか。


実話をもとにした映画を、役者ではなく当事者が演じること。
このことは、直接映画の良し悪しに関わることではありません。また、実話の再現がいくら正確でも、実話における出来事の発生とその撮影が同時に進行しない限り、それはドキュメンタリーでは無いので、映画のジャンルにおいても、この場合はフィクション映画となります。
ハドソン川の奇跡』(2016年)のフラッシュバックが供述調書作成のための聞き取り調査を軸に展開されていることや、事故時の飛行の再現シミュレーションにより、サリーの判断への疑惑が晴れるといった前作の流れから、実際の事件を当事者に演じさせる今作は、事件の再現実況見分調書に添付される再現映像資料(捜査官が被害者や被疑者等に被害・犯行状況を動作等で再現させ、その様子を撮影したもの)に近いもののように思えます。
このような再現実況見分調書は、視覚化することで事件内容を分かりやすくするためや、再現されたとおりの犯行事実の存在の立証のためなどに作成されるようですが、事件内容を分かりやすくするためなら、当事者より訓練された俳優の方が表現力は高いので、当事者起用の意図は、再現されたとおりの犯行事実の存在の立証のためだと考えられます。
とするとこの映画は、事実の存在の立証のため、捜査官のクリント・イーストウッドが、2015年8月21日に発生したタリス銃撃事件の当事者に状況を動作等で再現させ、その様子を撮影したもの、ということでしょうか。

まるで映画を観ているかのような状況が、映画の中に描かれることはままあるのですが、『ハドソン川の奇跡』の飛行再現シミュレーションを査問会で見る場面が、実話をもとにした映画を鑑賞しているようだ、とは思っていませんでした。思い返してみると確かにそうで、味も素っ気もない事象の相似ですが、再現映像を集まって皆で見るというのは、事実確認の資料として、それらが用いられる場における状況とよく似ています。
ぼんやりしている私が悪いのですが、鑑賞直前に知った当事者の起用という情報に翻弄され、映画如何よりも、前作からの流れを受けて、事件の証拠資料のような再現映像を集まって見る我々観客とは何なのだろうか、これはどういう心づもりで観賞したらいいのだろうかと大いに悩みながら見てきました(あと、この場合のエンディングはどうなるんだろうという興味を持って)。

15時17分発パリ行きの電車内で、彼らが遭遇する事態の前兆が差し込まれながら、ある事件により犯人の成育環境が明らかになり、それを私たちが知るように、タリス銃撃事件において英雄的な行動を取った彼ら3人の幼少期の様子が、スペンサーを軸に映し出されます。

彼らは落ちこぼれの苛められっ子で、学校から問題児扱いされています。何かというと校長室へ行くように言われ、母親たちも頻繁に学校へ呼び出されますが、それなりに楽しく暮らしています。「他の子どもは窓から外の景色を見ないんですか?!」という母親の台詞、とってもいいですよね。ああいう状況でそれらしく言われてしまうと、窓から外の景色を見ることが、何だか異常な行動のように感じてしまうものですが、母親の正気な返しに笑ってしまいます。
森の中のサバイバルゲームの場面なんて、森もキラキラしてるし、子どもは楽しそうに遊んでるしでまるで楽園のようです。大概こういう場面は、過去の美しく楽しい一時として描かれ、その後の苦難とコントラストを成す場面になるのですが、彼らはその後も仲良く楽しそうです。
スペンサーはミリタリーオタクから軍人を目指しますが、彼の信仰を持ち出さずとも、その背景には、正しいタイミングで成すべきことをしたい、人生を無駄にしたくないといった、問われれば誰しもが持っているであろう思いがあったことが伺えます。

彼らが事件に遭遇する発端となったヨーロッパ旅行も、素描のような気軽さで、休暇を満喫する様子が映し出されます。日常系アニメを見ているように、楽しそうにしているのを見るのが楽しい、そんな気持ちになります。そうした旅行の一過程として、彼らは15時17分発パリ行きの電車に乗り込みます。車内サービスのコーラ缶がすごく小さいことにはしゃぐ3人には、それまでと何も変わらない時間が流れています。
そして、連絡通路のドアが開き、入って来た人が撃たれ、その後ろから拳銃を持った人がこちらへ向かって来るのです。
その時は、突然訪れます。
「スペンサー、go」
確信に満ちた、落着いたトーンの号令を合図に、スペンサーは犯人に向かって突進します。
この号令には鳥肌が立ちました。
この号令の声の主は一体誰なのでしょうか。この号令の声の主は、彼が成すべきことをする正しいタイミングが今だと、なぜ分かったのでしょうか。シンプルな言葉が、とても神秘的に響きます。

電車が駅に到着し、警察と救急が乗り込んできます。状況を引き継いだスペンサーは、応急処置を施され、点滴をぶら下げて降車します。ホームに腰掛けるスペンサーの背後から撮られた彼の目線のようなショットは、気を張った面持ちで他の乗客に付き添うアンソニーや、警察と連れ立って呆然と歩き去るアレクを追う事も無く、流れる川でも見つめているかのように、ただ行き交う人々をじっと捉えています。
そして、フランスで表彰を受ける彼ら乗客のニュース映像と、再現映像が混ざり合います。
アメリカン・スナイパー』(2014年)で、クリスを導いたニュース映像が、『ハドソン川の奇跡』で、サリーの正しさを証明した再現映像と混ざり合います。
当事者起用の再現映像によって、イーストウッドが立証したかった存在の事実とは、人は正しいタイミングで成すべきことが出来る、でしょうか。
私たちが集まって見る、再現映像に映し出されたごく普通の人たちの行いは、正しいタイミングで成すべきことをしたいと願う人々の正しさを立証し、立証されたその存在の事実が、私たちの導きになるかのようです。


エンドロールは幼馴染3人のパレードで感慨深いですよね。なにがどうなって、幼馴染3人が『ミスティック・リバー』(2003年)のようにバラバラになるのか、今作のように一緒にパレードの主役になるのか分かりませんね。
アメリカン・スナイパー』の時はそこまで思わなかったのですが、前作から見るのが本当に楽です。以前から彩度が低く、目に優しい映画ではあるのですが、的確で、映画におけるドローイングみたいなものに相当する何かとしか形容出来ないショットが、短くパッパッと繋がっていくのがこんなに楽だとは。映画を見るのがしんどい人にもオススメです。

『ニーチェの馬』(2011年)感想・ネタバレ

監督:タル・ベーラ

ショットが凡庸で退屈です。

凡庸な映画をことさら貶める必要はないのかもしれませんが、芸術映画として評価されているのが信じられない。

一日目のラストショットに、あの大仰な音楽が重なる意味が分からない。あのような状況で生活しながら、流れ者が開けた井戸の蓋を閉めずに家に戻る娘。あのような状況で生活しながら3つのランプに火を点けるために、3本の枝を消費する反ミニマムな動作。言葉を発するといきなり過剰になる演技。アップショットも大概過剰。世界の状況説明を長々とする訪問者。奥から娘が持ってくる焼酎瓶をショットの中央で追いながら、いざテーブルに運ばれると、その瓶を早々にフレームアウトさせる、意味のないカメラの動き。家を出る時に、家事を担う娘が父に支持されないと荷造りが出来ない?父の顔をアップで映し、カメラが引くと薪を割ってる、皮の手入れをしてるって、何をやっているんでしょうかクイズでもやってるつもりなのか。

これが芸術映画ですか?
敢えてモノクロなのに大して美しくない光。対象に近い煽り気味なショットの多用も見苦しい。ついていきたいのか、切り取りたいのか、いつまでたってもどっちつかずな長回し。とにかくショットが平凡。
あれだけグロを映していてもアレクセイ・ゲルマン監督の『神々のたそがれ』(2013年)の方がよっぽと美しい。
ただの凡庸な野暮ったい映画です。
土曜の深夜に見て、批評やレビューを読んで怒りに震えて眠れなかった。
タルコフスキーアンゲロプロスを引き合いに出している人はどうかしてる。この映画が芸術なら、ジョン・カーペンター監督の完璧なシネスコショットなんて大芸術です。

『Virginia/ヴァージニア』(2011年)感想・ネタバレ

監督:フランシス・フォード・コッポラ

f:id:stevenspielberg:20131107204200j:plain

ゴシック・ホラーという認識で見始めたのですが、冒頭のシークエンスに驚きました。
なぜなら、あまりにもありのままのデジタルビデオ映像だったからです。この映像の質感でゴシック・ホラーいけますか?というか、これでいくんですか?と、ハラハラドキドキします。
その後に出てくる、いくつかの質感の映像と(上映時には一部3Dを含む)、時間軸と、7つの文字盤のある時計塔は繋がっているのでしょうが、謎解きにそこまで興味が湧かないので、そういう事は書きません。

まず、主役の三流オカルト作家の太ったおじさんボルティモアヴァル・キルマー)とV(エル・ファニング)の夢の中の出会いを、まるでボーイ・ミーツ・ガールのような演出で撮る感覚ですよね。これは、控えめに言ってもどうかしてる。
「歯がコンプレックスなの」と、とっても可愛らしいことを言うヴァンパイア(Vampire)の美少女と、不意に、ごく自然に出会う中年男性。その後の話の展開で、ボルティモアは少女Vと自身の亡くした娘ヴイッキー(Vicky)のイメージを重ね、またエドガー・アラン・ポーの妻、ヴァージニア(Virginia)のイメージもVには重ねられていくのですが、主人公の亡くした娘というイノセントなイメージを主軸に持ってきているとはいえ、12歳の少女に、ヴァンパイアのセクシャルなイメージや妻の献身のイメージなどなど、詰め込めるだけ詰め込んでいきます。

その夢の中の少女は、ボルティモアが著作本のサイン会を開くために訪れた街の保安官事務所の死体安置所に安置されている、胸に木の杭を撃ち込まれた身元不明の死体として登場します。
この死体と街にまつわるいわくが次回作の小説のネタになりそうだと踏んだボルティモアは調査を開始し、この調査に関わる人物や自分自身の過去、少女殺害事件の容疑者に行き着きます。ボルティモアが保安官事務所を訪れ、少女の死体から木の杭を抜き取ると大量の鮮血が噴出し、死んでいたはずの少女は起き上がり、ボルティモアは襲われます。
そしてカットが切り替わり、編集者がボルティモアに、「この小説は完璧だ!」「以前のオカルト作家は消え去った」「ああ、全ては消え去った」などと会話をする場面があり、「この小説の売り上げはそこそこだった」という趣旨のテロップが流れて映画は終了します。
最後のテロップから、この映画を俯瞰で捉えているものの存在や、冒頭のナレーションから読者のような存在が仄めかされており、これは劇中の時計塔で示されるいくつかの時間軸の一つと考えられるのですが、それは置いといて、死んだ少女にあらゆる女の幻影を投影し、その少女を蘇らせ、その少女に襲われるとはどういうことなのか、と思うわけです。
この映画には、牧師のアランや保安官のボビーなどの性倒錯者が出てくるわけですが、みんな五十歩百歩だぞ、と思うわけです。最後にフィクション内フィクションの二重構造が示され、ナレーションやテロップにより三重構造まで仄めかされ、倒錯的な内容とこの映画そのものには距離があることが示されますが、そんなことをしても誤魔化されないぞ、という気分になります。

f:id:stevenspielberg:20180223221444j:plain

保安官事務所でボルティモアとボビー、ボビーの部下と少年の4人で交霊術ボード(コックリさんのようなもの)をやるのですが、文字を指し示すレンズが異常な動きを始め、その事態の極まりというか異常事態を表す演出が、皆がボードから手を離そうとしても離れず、4人が挙げた手にボードがくっ付いてくるというのが、異常事態をシンプルに見せていて良かったです。そんなに色んなパターンを見た覚えは無いのですが、このような状況の演出を、演者が泣きわめき出したり、気絶したりといった、役者の演技だけで見せるのは見ていて白けますし、だからといって電気がチカチカしたりするポルターガイスト演出も最早惰性のような気がするところで、シンプルな回答を見ました。