映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『旅のおわり世界のはじまり』(2019年)感想・ネタバレ

黒沢清監督の『叫』(2006年)で、主人公の男(役所広司)がいよいよ前後不覚に陥り、女がすでに死んでいることにふと気がついた時、なぜだか「そりゃそうか」という気持ちになった。
前後不覚になるほど男が苦悩する世界では、とっくに女は死んでいる。それも物語の外でひっそりと死に、私たちには死んだ事実だけが告げられる。
『叫』だけではなく、2000年代の途中まで、黒沢映画に出てくる女は、いつも死臭を漂わせていた。
溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)を見たとき、『叫』を思い出して記事を書いたのだが、それと同時に、シナリオハンティングにパンパン嬢の収容所を訪れた溝口監督が、彼女たちに向かって「皆さんがこうなったのも男の責任です」と言うつもりが高じて「僕の責任です」と言って泣いたという逸話を思い出し、黒沢監督も随分と女という存在を背負い込んでいるのではないかと思っていた。
「女は強い」などという紋切り型の言説を、『LOFT ロフト』(2006年)に出てくる西島秀俊の「プロってそういうもんだろ」並に、全ての責任を自己の外へ転嫁する反射神経でもって口にしたり、創作物に盛り込む人はうんざりするぐらい無数にいるが、「女はすでに死んでいる」と描き切ってしまうほど、女と向き合い、女を背負い込んでいる人はそうはいない。
ずっとそんな気はしていたけれど、「女はすでに死んでいる」ことを『叫』でとうとう暴露した後から、女が生きている世界を撮るための黒沢監督の試行錯誤が始まったような気がしている。

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懐かしの流行歌が流れるTV番組で、人一人立つのがやっとの小さな円形舞台の上で、大勢の男性ファンにぐるりと囲まれ、ミニスカートを履いて「なんてったってアイドル」を歌う小泉今日子を見たとき、今では考えられないような危険な状況で歌わされていることにも驚いたが、その状況が一切危なげなく見える小泉今日子の放つ圧倒的なパワーにも驚かされた。例え興奮したファンが彼女に向かって行ったとしても、一蹴りで倒しそうなパワーを彼女は放っていた。なるほど彼女ならいつだって怪物じみた香川照之と戦えるだろうし、『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)の笹野高史小泉今日子なら、ずっと頼りになっただろう。
『リアル~完全なる首長竜の日~』(2013年)では、今にも死にそうな役どころを、その体躯と優れた運動神経でもって、例え死んでいても生きているようにしか見えないのではないかと思われる、どこまでも陽な生命力を放つ綾瀬はるかが演じた。ネタバレすると、死にそうなのはやっぱり彼女ではなかったわけだが、例え其処が彼岸でも、彼女がいる場所が此岸になるような気がした。

『叫』以降に撮られた『トウキョウソナタ』(2008年)や『リアル~完全なる首長竜の日~』で、黒沢監督は、各々の女優が生来持つ生命力を自身の映画に取り込もうとしているようだった。


そして黒沢監督映画に、前田敦子は登場する。
思えば『Seventh Code』(2014年)から、物語に前田敦子が沿うのではなく、前田敦子に物語が沿っていたように思う。そうとは知らず、気づくと私たちはいつも彼女を追いかけ、その先で彼女を知ることが物語になっていく。
『Seventh Code』では、ひたすら危うい彼女を見守っていたつもりが、『旅のおわり世界のはじまり』でも描かれた、彼女に向けられる好奇や庇護の眼差しを利用し、彼女は着々と任務を遂行していた。
たぶん私たちが見守らなくても彼女は世界のどこかで一人で生きていく。ただ私たちは、全ての世界のどこかで一人で生きている彼女を知らなくてはならない。彼女が何を見て聴いて、何を感じ、何を発するのか。そこから私たちは世界を理解しなければならないし、世界はそのようにしてはじめなければならない。

『旅のおわり世界のはじまり』からは、「世界がこのようにあるのは、そうでなければ彼女は世界を観測し得ないから」、「世界が現在のような姿をしているのは、彼女が存在するから」、「今、ここに彼女が存在しているということは、世界は彼女が存在できる環境であったという確かな証拠である」とでもいうような、宇宙論における人間原理に限りなく近い論理を感じる。
世界は彼女に観測され、彼女が感じ表すように存在する。
だから彼女が世界を表したとき、世界ははじまるのである。

まずこの映画のタイトルと、タイトルバックのタイミングについて考えてみて欲しい。
葉子はウズベキスタンに仕事で行っている。だから厳密には旅ではなく出張だが、広義の意味で出張を旅だとし、タイトルにある「旅」が、葉子の出張を示しているのだとすると、タイトルバックのタイミングがおかしなことになってしまわないだろうか。あのタイミングが文字通り、この旅のおわりであって世界のはじまりの瞬間なら、まだ彼女の仕事は終ってないのだから、タイトルにある「旅」と彼女の出張は同義ではないはずである。
タイトルバックがあのタイミングでなければならないわけは、あそこで旅がおわったからで、その旅とは彼女の出張のことではなく、彼女の言う「心の底から湧き上がる」ものを見つけたことによって発せられた、彼女のエモーショナルな声を聴き遂げるまでの、言わば私たちの旅、彼女に連れられて巡った旅のおわりであり、そのようにして知る世界のはじまりだからだろう。

その、世界のはじまりを告げる鐘の音のような「心の底から湧き上がる」エモーショナルな声を具体的なものに置き換えるならば、歌か叫になるだろう。

『旅のおわり世界のはじまり』ラストの葉子と同じように、カメラを見つめて発せられた『叫』ラストの小西真奈美のエモーショナルな声を、あのとき私たちは聴くことが出来なかった。
頭を押さえつけられ、海水に浸され、発することの叶わなかった「心の底から湧き上がる」エモーショナルな声が高地に響いたとき、世界ははじまる。
彼女たちが何を見て聴いて、何を感じ、何を発したか。そこから私たちは世界を理解しなければならないし、世界はそのようにしてはじめなければならない。

「あなたは、私たちのことをどれだけ知っているのですか」
「話し合わなければ、知り合うこともできない」
警察署の係官が葉子に語りかけるとき、取調室は俄かに暗くなり、話者の姿が陰っていく。映画から響く言葉が、誰に向けて発せられているのか、その主体や方向性が不明瞭になっていく。映画と劇場の暗さが限りなく均質になり、内と外が同質空間へと近づいていくことで、言葉がスクリーンの境界面を越えてこちら側に迫って来る。
あの言葉は、葉子にではなく、私たちに向けられているのだ。
現にそこで、通訳をつけて係官と会話をしているウズベク語の分からない葉子に向かって、ウズベク人警察と「話し合」いができなかったからあなたは捕まったのだ、と受け取れる係官の言葉はどこかピントがずれている。だからといって彼の言葉に、ウズベク語を勉強すべきだとか、スマホを駆使すべきといった現実的な打開策を促すようなニュアンスは含まれてはいない。もっと単純なコミュニケーションのあり方について彼は語っているはずである。


映画前半部では、伝統や好奇、庇護の眼差しに晒される葉子の姿が描かれている。船の上でじっと様子を伺う彼女の無言の背中から、彼女がそれらの、彼女を覆う囲いのような眼差しを努めて無視する処世を身につけていることが分かる。このような彼女の佇まいと、街中で話かけて来るウズベク人を無下にかわす彼女の身振りに違いは無い。
見ず知らずの他人の言動に対して、これは親切で、これは好奇だと正しい判別を下すことは可能だろうか。親切のふりをした好奇による危険が彼女の身に降りかからないと言い切れるだろうか。彼女の佇まいや身振りがそれらのことをとっくに知っているゆえだということを、何度も言うようだが私たちは知らなければならない。生きていくために、彼女に与えられた選択肢はそう多くはない。時には加虐的な遊具への搭乗も、好き好んでやっていることにしなくてはならない。ここで安易に庇護に下ることが、巡って自身の行動への制限となり得ることも彼女は知っている。
だから彼女は迷っているのではない。あの道を行くしかないのだ。
そうやって進んだ道の先で、彼女は白ヤギのオクーに遭遇する。そのとき、私たちはヤギに遭遇する彼女をただ見ている。そして、「(憐れな)あのヤギをもう一度草原に戻してやったら、どんなに喜ぶでしょう」という彼女の言葉を聞いて、ヤギと遭遇した彼女が何を思い、何を感じて生きてきたかを、朧げながら知ることになる。
その後、薄暗い異国の街を散々迷って遭遇したかに見えた白ヤギのいる場所まで、彼女はあっさりと撮影クルーを案内している。決して彼女が迷っているわけではないはずのナヴォイ劇場内の移動場面が迷宮的に描かれていることからも、やはり彼女は迷っているのではなく、私たちの目に、彼女の選択する道がまるで迷路のように複雑に見えているだけなのだろう。

ヤギに再会した彼女は、ヤギが雄・雌どちらなのかを気にして飼い主に尋ねている。
「オクー、きみはオスだったのか。じゃあどうしてこんなところに、ずっとつながれっぱなしになってたんだ?自分の力でロープを切って、外に飛び出すこともできたんじゃないのか」ヤギに語りかける彼女の言葉には、迷路のような複雑な道を選択せざるを得ない、女であることの不自由さに対する苦悩が滲んでいる。

映画冒頭では、撮影クルーに遅れをとってついて行くばかりだった葉子だが、白ヤギに対する思いを口にし、白ヤギのいる場所まで彼らを案内するのをきっかけに、いつしか彼らの前を進み始め、遂にはバザールで彼らを置いて先に行ってしまう。そして迷路のような、危うく複雑な道を慎重に進んでいたはずの彼女が、心のままに猫を追いかけ始める。やがて猫を見失い、撮影クルーとはぐれたことに気づいた彼女は、自分が思うように動いてみようと自覚し、意を決したようにカメラを構える。

テムル(アディズ・ラジャボフ)の語ったナヴォイ劇場建設に携った日本兵捕虜にもつながる、葉子が自身と同一視している白ヤギのオクーが、荒野に放たれる贖罪の山羊を模していることから、彼女の進む迷路のような危うく複雑な道とは、彼女が進むことを唯一赦された道に他ならない。
だから彼女が一人でカメラを構え進む道は、赦されない(やがて犠牲になる)かもしれない危険な道である。意を決してその道を進み警察に捕まった瞬間、彼女は心のままに動くことはやはり赦されないことだと悟ったのだろうか。

愛さなければ「生きた心地がしない」という感情に絡め取られることもないように、赦された道を進んで得られる安寧が、心の底から望むことなんてわけがない。いつか失うかもしれないからといって、愛することを辞められないように、たとえ赦されない道でも心の思うままに進んで行きたい気持ちがある。
葉子は意を決して心のままに動き、連れられた警察署からの一連の出来事によって、赦されない事を受け入れる事なんて出来ないと悟ったのかもしれない。

岩尾(加瀬亮)に日本に帰るように言われた葉子だが、恋人の無事を確認し、ウズベキスタンに残る選択をする。そこからの彼女は、心のままに選択し、道のない場所を自由に歩いているように見える。そうやって進んだ先の遠い景色の中に彼女は白ヤギの姿を見つける。
彼女も白ヤギも、何ものの犠牲にはならない。今、ここに彼女と白ヤギが存在しているということが、世界があるという確かな証拠である。

やがて山の上に音楽が流れる。
「心の底から湧き上がる」エモーショナルな歌声が、世界のはじまりを告げている。




職場で中古のペットロボットを飼って?いて、たまにスイッチを入れて動かしてみるぐらいで、とくにどうというものでもないなと、ほぼ無視して仕事をしていたのですが、ある日、一人の女性が、「寒そうだから」とペットロボットにマフラーを持ってきたときのことを、葉子が撮影クルーにヤギの話をする場面を見て思い出しました。あのときの染谷俊太さんのリアクションが、マフラーを見たときの私のリアクションだったわけですが、相手の言動を持て余しつつ、この人こんなこと考えて生きてるんだなと、少しだけ心が動くのを感じたのを覚えています。
テムルがナヴォイ劇場にまつわるいい話をした後の周りのリアクションが、「ふーん」というそっけない相槌から始まるのも凄くよく分かるのですが、なかなかフィクションでは見ないですよね。
猫を追いかける場面も、心のままに動くってどういうことだろうと真剣に考えたら、私も「猫を見つけたら追いかけることなんじゃないか?」となりそうで、ぐっとくるものがありました。


『旅のおわり世界のはじまり』は、作りからして葉子の好きにしたらいい、という感じです。葉子が思うように動いて、その先々で何かしら出来事があって、それらは偶発的な出来事でつながりはないけれど、葉子が感じて消化してつなげていけば、それが物語になっていく。彼女は物語の前に確かに存在している。
幻の怪魚ありきでロケが始まって、結局幻の怪魚が出てこないのも示唆的です。
ささやかなイントロから「愛の賛歌」は始まりますが、途方もない欲望が綴られた歌詞に、彼女がどこまでも解放された(リミットを外した)ことに気づかされます。
あの歌は、山という共鳴空間での壮大なコールアンドレスポンスのコールのような気がするんですよね。彼女はこちらを見ていたし、私たちは彼女に呼びかけられていますね。

『アカルイミライ』(2003年)革命前夜の夢

監督:黒沢清


アカルイミライ』を書こうと思ったのは、黒沢監督がネット番組(シネマトゥデイ2018年10月25日)に出演し、新作映画『旅のおわり世界のはじまり』(2019年)について、「前田さんがウズベキスタンに行って、色々あるけど段々馴染んでいく話し」と言ったのを聞いたからだ。前田さん、アカルイミライのクラゲみたいだな、とふと思い、新作を見る前に『アカルイミライ』の復習をしておいたほうがいいのかもしれないと、映画を見直してぽつぽつ考え始めていたら、パリのシャンゼリゼ通りで起きたデモのニュースが流れてきた。
大都市の大通り、それもショッピング街という普段はぶらぶら歩きをする場所で、人々が車道へ進入しデモ活動をやっている。『アカルイミライ』のラストシークエンスとの場所や行動の相似を見て、2003年に公開された映画と2018年のパリのデモが、時と場所を異にしながらも勝手に結びついていく。

ラストシークエンスのまるでデモのような路側帯の行進も気になるが、まずはその前のぶらぶら歩きと、ラストの一連の行動を担うのが不良青少年なのはなぜなのかが気になり、それらに合致する思想のようなものがあるのではないかと調べていたら、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin;1892 - 1940年)の『パサージュ論』に行き当たった。
『パサージュ論』は、19世紀のパリに現れたパサージュ(屋根つきショッピング街)とそこに集う人々について、書物からの引用とベンヤミンの思索がテーマごとに集積された、かなり特殊な形態の書だが、『アカルイミライ』を念頭に読むと色々と符合があって興味深い。
ただ、いきなりベンヤミンの『パサージュ論』との関連について書いてもイメージが掴み難いと思うので、まずは『アカルイミライ』について書いてから、『パサージュ論』との関連について書いていくことにする。

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映画ラストの不良青少年の街ぶらが、未来を予感させるものとして描かれていること。それも明るいような、希望的な未来の萌芽として描かれているのはどうしてだろうか。

この不良青少年は、雄二と盗みを働いて警察に捕まっているし、そのことを振り返って「楽しかった」とも話していて、反社会的な行動に悪びれもしない。
単純に人助けをした青少年が表彰されるニュースを見て、未来は明るいなどと思うかもしれないが、盗みを働き、それを楽しかった思い出として語る青少年の街ぶらを見て、未来は明るいとはまず思わないだろう。
それでもなぜか『アカルイミライ』のタイトルバックは、この不良青少年の街ぶらの場面の冒頭に重ねられている。
映画のタイトルバックは、凡そ映画冒頭に登場するものだが、『アカルイミライ』では映画のラストシークエンスの冒頭に登場する。例外的なタイミングによるタイトルの提示により、あたかもラストシークエンスが映画タイトルの「アカルイミライ」が示すところの、明るい未来を予感させるものであるかのようである。
穿った見方をせず、このことを素直に解釈するのなら、ラストシークエンスに至るまで映画を観た者は、この不良青少年の街ぶらが明るい未来を予感させるものに見えるということだ。


彼らの街ぶらの詳細はこうだ。
「植物に覆われた壁が特徴的な表参道の同潤会アパート沿いをぶらぶら歩いていた不良青少年は、しばらくすると車道へ出ていく。そして、彼らが車道に出たタイミングで、不良青少年を取り囲むように画面に白いモヤがかかり、映画の撮影クルーが画面に映り込む。やがて彼らは真っ直ぐ前を向いて歩き始める。」
このラストシークエンスを見て思いつくいくつかの事柄について書いてみる。
すでに同潤会アパート沿いを不良青少年が歩いているところからラストシークエンスは始まっている。彼らは緩やかに群れを形成し、比較的幅のある歩道をぶらぶらと歩いていく。
まず、歩道から車道への移動は、適応される法の異なる場所から場所への移動なので、越境行為のように見える。画面にかかる白いモヤは、そのまま消えることなくエンドロールに突入することから、夢や幻覚から覚める途中の意識が混濁した状態を表しているように見える。撮影クルーの映り込みは、映画を観ている途中で、本来ならあまり意識されることのない、今映画を観ているという自覚を観客に促すものであり、醒めた感覚を覚えさせる演出のように見える。そしてこれら白いモヤと撮影クルーの映り込みから、目覚め、覚醒、といったものが予感される。いつしか彼らは、路側帯付近を真っ直ぐ前を向いて歩いている。その様子は、さながらデモ行進のようである。


上記の事柄の他にも、いくつか黒沢監督の映画を観ていると、彼らの歩く通りの固有性(表参道)や壁を覆う植物なども気になってくる。
黒沢監督の映画にはよく植物が登場する。それも、枯葉や切り花や鉢植え、庭や植物園や森や山など、植物のありさまによって使い分けが成されているので、よく登場するといってもおそらくその定義は一様ではない。ただ、どのような植物も時間と関係している。過去の時間や、時間の経過や、時間の集積としての歴史が可視化されたものとして、植物が登場している印象がある。
同潤会アパートの壁を覆う緑には廃墟の雰囲気がある。彼らは過ぎ去った時間の中を歩いているのか、歩く彼らの背景に流れる時間が歴史の帯として見えているのか、よくは分からないが、歩く彼らの背景に植物が見えているということは、あのぶらぶら歩きは、実際の場面の時間よりもずっと長く続いている人類の営みのようなものとして捉えることができるのかもしれない。
表参道という固有性については、言及こそなされないが、この場面に至るまでに「東京」という都市名が台詞として出てくることから、東京の表参道であることが重要な意味を持つ可能性がある。


ラストシークエンスに感じた違和や生じた疑問を解消すべく、以下より出来るだけ順を追って『アカルイミライ』について書いていく。




ムーン・ジェリー ミズクラゲのライフサイクル(フルHD 版) 東京シネマ新社制作

これは、この映画の主人公であるクラゲの生態が学べる動画だが、それはさておきオープニングのナレーションに注目して欲しい。

「日本の国のはじまりを謳った古代の物語、古事記の中で、最初に登場する動物はクラゲです。国土のはじまりの、まだ形にならない様を、水面に浮かぶ膨大なクラゲの群れに例えています。古代の人々が頭に浮かべたのは、夏の始め、日本の沿岸にしばしば見られるミズクラゲの大群の姿ではなかったかと思われます。」

国が形成されるはじまりのフワフワとした頼りないイメージを表すものとして、古代の物語の冒頭にクラゲは登場する。
これは、どこまでも広がる海に国土となる陸が出現するはじまりの、海底火山噴火の前兆現象として現れる泡のイメージかもしれないし、もっと抽象的な、国という概念が認識される前段階の、薄ぼんやりとした不明瞭な輪郭の国のイメージを表すものなのかもしれない。

光るインカムをつけて盗みをはたらくために夜道を連れ立って歩く不良青少年と、夜の東京の川に出現した光るクラゲの群れの対置や、エンディングで緑深い表参道を歩く不良青少年と、緑の川原を抜けて海へと進むクラゲの群れの対置などから、この映画に出てくるクラゲと不良青少年のイメージが重ねられていることは明らかである。

この映画に出てくるアカクラゲは、現実のアカクラゲには見られない特徴を備えている。
日本近海の北海道以南に広く分布するアカクラゲは、真水では生きられないし、発光しないし、成長したクラゲは有生生殖をおこなうため単体では繁殖しない。この映画に出てくるアカクラゲは、この映画だけの特別な存在である。
生まれながらに毒を持ち、真水の中で浮遊し、赤く光るクラゲは、95-97%が水分でてきているらしいので、その特徴が全ての純粋なものであるかのように東京の川に出現する。

いつも学制服を着ている不良青少年は、その見た目の統一性もまたクラゲの群れになぞらえられている。彼らは盗みをはたらく時でも学制服を着ている。そして、常に白シャツの下にチェ・ゲバラのTシャツを着ている。
革命を象徴する赤色が、制服の白シャツの下に潜んでいる。この映画に出てくるクラゲが、アカクラゲでなくてはならない理由がここにある。
アカルイミライの「アカ」はアカクラゲの「アカ」で、それは革命あるいは革命思想である社会主義共産主義マルクス主義を指す隠語・侮蔑語の「アカ」である。


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映画冒頭、仁村雄二(オダギリジョー)〔以下雄二〕がゲームセンターでシューティングゲームに興じる姿に、彼自身のモノローグが重ねられている。

「昔から、俺は眠るとよく夢を見る。それは、いつも決まって未来の夢だった。夢の中で、未来は明るかった。希望と、それから平和に満ち溢れていた。だから俺は眠るのが楽しかった。ついこの間までのことだ」

この場面の雄二の頬に絆創膏があることから、この場面は、この後の場面で起こる出来事のその後の雄二の姿を捉えている。
この後の弁当屋の場面で、から揚げ弁当を注文する雄二の頬に絆創膏は見当たらない。この時、雄二は前の客より自分の弁当のから揚げが小さい事に抗議し、その抗議に時間を取られることに腹を立てたのだろうか、文句をつけてきた後ろの客と揉めたようだ。有田守(浅野忠信)〔以下守〕の家を訪れた雄二の頬には絆創膏があり、そのことを訊ねられた雄二が、弁当屋での一悶着について答えている。
雄二はむしゃくしゃするとゲームセンターへ行き、ゲームに集中することで憤りを紛らわす描写がこの後も見られることから、冒頭の雄二の姿は、弁当屋で揉めた直後のむしゃくしゃしている雄二の姿だろう。
「から揚げが小さい」
不平等に雄二は憤っている。


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笹野高史扮するおしぼり工場の社長の藤原耕太は、どこにでもいるおじさんかもしれない。
本人曰く、若い頃はなかなかのもんだった全共闘世代は、雄二と守に娘の学習机を家まで運ばせ、そのお礼に夕飯をご馳走し、若い世代と気さくに交流をはかる。そして二人を玄関先まで見送って家族三人だけになると、一人黙々とテレビを見始める。
ある時は寿司を手土産に守の家を突然訪ね、玄関に煙草をポイ捨てして上りこみ、ビールを飲みながら若さについて語り、テレビをつけ、ひとときの安易なナショナリズムの昂揚をよくあるポジティブな振る舞いであると信じて疑いのない様子で、さぁ一緒に盛り上がろうと雄二と守をしきりにスポーツ観戦へと誘ってくる。
それは、モラトリアムを抜けた、どこにでもいる者の姿なのかもしれない。
守の家を出る間際、藤原はアカクラゲに興味を示し、水槽に手を入れる。雄二はとっさに声を掛け止めようとするが、守はそれを制し、じっと藤原の様子を伺う。
後日、家に帰って調べたらアカクラゲが毒を持つ危険なクラゲである事が分かったとして、藤原は守を問い詰める。
「若いってそういうことなんじゃないの」と、守や雄二を「把握し」ていたはずの藤原は、アカクラゲが毒を持つと知った途端、「何を考えているのかさっぱり分からん」と言い出し、まるで彼らが裏切り者であるかのような態度をとる。
全共闘世代のはずの藤原が、アカクラゲを知らない上に、アカクラゲを理由に彼らを責め立てるのである。



雄二は妹、美保(小山田サユリ)の恋人の高木ケン(はなわ)に会い、青年実業家らしき同い年の高木に、シューティングゲームでしつこく一騎打ちの戦いを挑むが、全然勝てない。高木は「僕、こういうの得意なんです」と、これ以上戦うだけ無駄だといわんばかりに勝負を切り上げ、そんな勝負に端から興味を示さず、退屈そうにしていた美保を連れて立ち去っていく。
この場面で暗に示されるように、資本主義社会というゲームで、雄二は高木の相手にもならない。
映画前半部において、雄二は憤ると決ってゲームに没頭するが、その様子は発散というより集中である。一人黙々とゲームに興じる雄二の姿と、高木とのゲーム対戦場面を併せて考えると、雄二はこの社会に上手く適応出来なくて、そんな自分自身に憤っている。そして憤りを抱えると、失敗を取り戻すために、「何が悪かったか」「どうすれば上手くいったか」「次に同じことがあったらどうしたらいいか」などの自問自答を延々と繰り返している。その様が、一人ゲームに興じる姿として描かれている。
それは雄二が、この社会で得ることが出来ない、成功体験の代償行為でもあるだろう。
「ちゃんとして」や「しっかりして」、「現実を見ろ」だったり、彼の言動を若さゆえのものだと断定してしまうこと。これらの言葉は雄二にとって、全て資本主義社会の中で「上手くやれ」と同等だろう。どれだけシミュレーションをしても、上手いやつは初見で出来るし、やっぱり雄二は上手くやることが出来ない。
守は雄二に「上手くやれ」とは言わない。守は雄二に、否定でも肯定でもない、「待て」と「行け」の合図を告げる。そして、雄二が憤る場面に居合わせた守は、いつも「待て」の合図を出す。
「待て」とは、そのままの状態のキープを意味している。守は雄二に対し、上手くやれない憤りを何ものにも転嫁せずに抱えた状態でいろ、と合図を出す。



「お前、そいつと気が合うと思うよ」
そう言って守は雄二にクラゲを託し、藤原夫妻を殺害した。
雄二が迷いを言葉にすると、守は決って「お前はお前の見る夢を信じろ」と言う。それに対し雄二は「最近は夢を見ない」と答えている。
だから雄二は、今何を信じればいいのか分からない迷いの中にいる。
藤原を殺して留置所に入れられた守を訪ねた雄二は、「俺もさ、行ったんだよ。すぐ後で、CD取り返しに。ついでに殺しときゃよかった」と興奮気味に話すが、雄二が藤原の家に行った時、藤原夫妻はとっくに死んでいたはずで、ついでに何を殺すつもりでいたのか不明瞭な言葉を口にする。実際のところ雄二は、死体を目撃すると一目散に藤原家を飛び出し、家に帰って窓を閉め切り、毛布に包まって怯えていた。留置所で守と面会した時、雄二にとっての第一は守への追従であり同調の表明であって、言動の整合性はとれていない。
その後も雄二は、守の出所が20年先でも待つからまた一緒にやろうよ、と具体性の無い追従と同調の表明を繰り返し、守に絶交を言い渡されてしまう。
守の「待て」の合図と、ゲームセンターの閉店により、雄二は憤りを何ものにも転嫁できずに長く抱えた状態になる。信じられる夢も見ない迷いの中で、雄二は守を信じる事で生きる指針のようなものを得ようともがくが、守に拒絶されてしまい、精神的な路頭に迷い込む。
「待て」の状態が耐え切れなくなった雄二は、アカクラゲを疎ましく思い、水槽に向かって怒りをぶつけ、その拍子に水槽を倒してアカクラゲを失くしてしまう。
アカクラゲを失くした雄二は、憤りも見せず、無感情で無気力に過ごし始める。

無感情で無気力な生活の中で、眠る雄二を映した場面に守の自殺場面が挿入される。
眠る雄二の場面に挿入される守の自殺場面は、まるで雄二の夢の中の出来事のように提示されている。そして、それが雄二の夢であることを示すかのように、守は針金で身体を固定し終わると、こちらに向かって「じゃあな」と別れを告げる。
しかし、その後に目覚めた雄二の様子からは、守が自殺をする夢を見ていたような素振り(例えば動揺しているような)は確認出来ないし、その後に有田真一郎(藤竜也)〔以下有田〕から守の最後の様子として「行け」の合図のことを知らされるまで、何も知らないようである。これはどういうことなのだろうか。
雄二は守が自殺する夢を見ていないのだろうか。それとも見た夢を覚えていないのだろうか。

守の自殺場面が眠る雄二の場面に挿入されていることや、カメラ目線の「じゃあな」によって、それを見ている者の存在が示唆されていることから、守の自殺場面は誰かの視点によって捉えられていると考えられる。また、守が気安く「じゃあな」と語りかける相手は、他の誰でもなく雄二のはずである。そうであるならば、雄二は夢で守の最期を見ているのに見た夢を覚えていないのだろうか。
夢を見ているのに、見た夢を覚えていないとすると、そのことと併せてもう一つ考えなくてはならないことがある。なにより、守の自殺は夢ではない。それは実際に起こったことである。後日有田が雄二に告げるように、守は夢の中と同じように、「行け」のポーズに身体を固定し自殺している。守の自殺場面は夢であり、実際の出来事でもある。
これらをまとめて説明するためには、『アカルイミライ』という映画が雄二の夢である可能性について考えなくてはならないだろう。雄二は夢を見ているが、夢を覚えていない、なぜなら夢を見ている(最中の状態にある)からだとすると、上記場面の説明がつく。
夢のように挿入される出来事の中で、それを見ている者に向かって告げられた守の別れの言葉は、夢からいつか目覚める者に向かって放たれている。守は雄二の夢の中(『アカルイミライ』という映画の中)で、いつか目覚める雄二に向かって別れを告げているのだ。
守は、この世界が雄二の夢だと知っている。
雄二が迷うと、守は決って「お前はお前の見る夢を信じろ」と言う。ここが雄二の夢の中だと知っている守は、いつか目覚める雄二に向けて「ここでお前が見たものを信じろ」と語りかけているのである。

しかし、そうだとすると気になる場面がある。不良青少年と盗みをはたらく前に、雄二は有田の工場で眠り、目覚めた後に今見た夢について語っている。あの場面はどう考えたらいいのだろうか。
雄二は椅子に座って眠っていて、有田が側で働いている。そこに守の幽霊が現れ、雄二が作ったアカクラゲの餌の培養装置のようなものを破壊して消える。
やがて目が覚めた雄二は、悪夢を見たような面持ちで、「ものすごい風が吹いてて、道は続いてるんですけど前は全然見えません。俺一人だけで周りの人はどこかへ行ってしまったみたいです。とにかく凄い風が吹いてて目が開けられなくて、こうやってかがみながら進んでくんですけど、どこに向かってるんだろう」と呟き、そこに、強い向かい風に吹かれ、ゴミが飛び散る荒廃した路地を、なんとか前に進んでいる雄二の姿が映し出された場面が重ねられる。これは、眠る雄二の場面に挿入された有田の自殺場面とは異なり、起きた雄二の語りに重ねられていることから、雄二の語りをイメージ化した映像だろう。
このことと、この時の雄二の口振りから、雄二は眠っていたのではなく、目が覚めていたのだ、とは考えられないだろうか。
眠っているように見えた雄二は、実はこの夢の世界から目覚めていた。そして再び夢の世界へ戻ってきた雄二は、起きて初めて語られる夢が、往々にして感情や目的が不明瞭で、全体のイメージが印象で語られるように、目覚めて見た世界を語っている。
もし雄二が眠っていたのではなく目覚めていたのだとすると、この夢から覚めた世界は、彼自身が苦しげに語るように、過酷なものなのかもしれない。

この時、雄二はアカクラゲを増殖させることに夢中で、なぜ増殖させるのかに思い至っていない。幽霊として現れた守は、雄二の行動を妨害することで、この夢には続きがあると暗に知らせているようだ。
「本当は俺の方が捕まってたのかもしれないんです。それを防ぐために守さん先回りして手を打った、俺はそう思ってます」
雄二は、守のことをまるで自己犠牲を遂げた英雄(ヒーロー)であるかのように有田に語って聞かせるが、有田に尋ねられた「行け」の合図の意味は分かっていないようである。

守の自殺により、有田に出会った雄二は、自分の身代わりに死んだ守の意志を踏襲し始め、資本主義社会の暗喩と思われる真水に、多くのアカクラゲを出現させることに熱中する。これは、思想の流布に相当する革命的な行動だが、雄二にそこまでの自覚は感じられない。
ただ、自覚があろうとなかろうと、革命には金がいる。
その為に不良青少年を唆し、資本主義社会の体制側にいる青年実業家から革命資金を奪おうとするが、その計画は呆気なく失敗する。この時も雄二は、警察に捕まることに酷く怯え、不良青少年を置いて逃げ出してしまう。歴史上の革命家がやった殺人や強盗などの行為が、それがたとえ革命のための行動だとしても、雄二には恐ろしくて出来ないのだ。
その後に、雄二が有田に言う「許して」は、世界を憂いて行動を起こそうとするも、その行動のどれも満足に出来ないために、たいした未来を築けそうもない事を許して欲しいという、未来を背負い込み、追い詰められた若者の言葉である。
雄二は未だ犯してもいない未来の罪を認め、未来の罪を悔いている。
これに対し有田は、「私は君たちを、許す」と答える。
ここで、有田の「許し」をドイツ出身の思想家、哲学者であるハンナ・アレント(Hannah Arendt;1906 - 1975年)の『人間の条件』より理解するならば、

「それは過ち(不正)を水に流したり忘れ去ったりすることではない。赦すことは、過ちの責任を共に担うことにより、行為に伴うリスクに対抗しようとする意志、行為という様式によって他者とともに生きようとする意志に基づいている」
(「行為と赦し : ハンナ・アレント研究(6)」亀喜信 2009年 大阪府立大学紀要(人文・社会科学). 2009, 57, p.23-34)
http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/bitstream/10466/11882/1/2009200027.pdf

となる。「許し」についての解釈は諸々あると思うが、ここではアレントの言う「許し」に倣って、有田の「私は君たちを、許す」の意味を、「君たちとともに未来を担い、ともに生きる」という、彼の意志を示した応答であると捉えたい。



その後、雄二はアカクラゲへの執着を見せなくなり、仕事に打ち込み始める。
その様子からは、以前アカクラゲを失くした時のような、無気力さや無感情さは感じられない。
それからどのくらい経ったのだろうか。
雄二は、少女がアカクラゲに刺され一時昏睡状態に陥ったと伝えるテレビのニュースを見る。アカクラゲは、今や社会問題として扱われるまでに東京の川に増殖している。アカクラゲは、完全に真水に慣れたのだ。
ニュースを見た雄二は、工場の屋根に登りテレビのアンテナを破壊する。そして、その場に居合わせた有田に、その乱暴な行動とは裏腹に、清々しい様子で「ここからは何も見えないことが分かりました。俺、何してたんでしょう。「行け」の合図はとっくに出ていたのに」と告げる。
この時、雄二は何かを悟ったようだが、「少女がアカクラゲに刺されて昏睡状態に陥る」というテレビのニュースから、何を悟ったのだろうか。これまで見てきたものを踏まえて、その意味するところを確認してみたい。
アカクラゲという赤い思想の被害者が少女であったことで、雄二はそれまで存在を忘れていた藤原夫妻の娘と、守の殺人の理由に思い至る。
雄二が藤原社長に対して抱いた反感は、雄二の反応を予測しているかのような守の言動から、守も抱いている、もしくは守も抱いた事のある反感だろう。しかし、守にとって、殺害の動機となる大きなきっかけは、藤原のアカクラゲに対するヒステリックな否定の態度である。ただ、そうであるならば、なぜ守は藤原の妻まで殺害したのだろうか。どうせすぐに捕まるつもりだったのなら、藤原だけでよかったのではないか。また、妻まで殺すのなら、なぜ娘は殺さなかったのだろうか。
アカクラゲに触りそうになった藤原を思わず止めようとしてしまう雄二に、殺人など出来るはずがないことは守も分かっていたはずである。だから、守は雄二の行動の先回りをして、雄二の代わりに藤原を殺害したわけではない。守はあの家族から、家族という社会における最小単位の体制から、存在が無いかのごとく囲われ、忘れられた無言の少女を解放するために夫妻を殺害したのだ。
雄二はアカクラゲに刺された少女のニュースから、赤い思想により解放された少女の存在に思い至る。少女にまつわる二つの出来事は、革命家が既存社会ではテロリストと呼ばれるように、同じ内容の事柄が、言葉が変わって伝えられているだけなのかもしれない。だから雄二は、ここからは何も見えないと、テレビのアンテナを破壊したのだろう。見過ごしていた少女の存在に気づいたことで、雄二は社会を意識する。そして、自身が抱えていた違和感や憤りと、あの少女の存在は無関係ではないことに思い至る。
雄二が赤い思想に自覚的になればなるほど、夢の中で夢を見ていることに気づくように、彼の意識は覚醒へと近づき、自分は革命の夢を見ているのだ、という自覚へと導かれていくことになる。
そして守の「行け」の合図が、夢の世界からの覚醒を意味していたことを悟る。


ここで確認しておきたいのは、雄二が目覚めた先の世界も、『アカルイミライ』という夢の世界も、やがて覚醒する先の世界も、全て同じ世界であるということだ。
アカルイミライ』には、アカクラゲを介したいくつかの意識レベルが存在している。そして、意識レベルに応じた世界への視座のようなものが想定されていて、その視座の切り替わりにより、目覚めや、夢を見るといった状態の変化が描き別けられている。
まず、アカクラゲを完全に忘れると目覚めている。また、アカクラゲを認識していても、アカクラゲが視界から消えると、無気力だったり無感情だったり、時として目覚めることもあることから、アカクラゲを忘れがちになり、意識レベルが不安定になっている。そして、アカクラゲが見えている時は夢を見ているが、直接触れると昏睡状態に陥る。
アカクラゲを介して描かれるこれらの意識レベルからは、アカクラゲが象徴する革命の夢が忘れられること、革命の夢を見ることと、革命の夢に冒されることの差異が見て取れるだろう。
守の「行け」の意味する覚醒とは、雄二が夢だと認識している強風で歩くのもやっとな荒廃した世界(アカクラゲのない世界)と、『アカルイミライ』という夢の世界(アカクラゲのある世界)という、2つの夢からの覚醒、いわば世界に対する弁証法的視座の獲得を意味している。
そのきっかけは、有田の「許し」によって訪れる。有田の「許し」により、雄二はただ夢を見続けることを肯定されている。このことにより、雄二は2つの夢のジレンマから解放され、目の前と向き合い新たに動き始めるという契機を得ている。有田の「許し」以降の雄二は、アカクラゲが視界から消えているにも関わらず、無気力でも無感情でもなく意欲的に働き、眠らない(アカクラゲの夢から目覚めない)といった、それまでの意識レベルに当てはまらない様子であることから、最終的に至ることが示唆されている覚醒に限りなく近づいた状態であることが伺える。


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ここで、車の運転をしながら有田が口ずさむ「星めぐりの歌」(作詞・作曲 宮沢賢治)が作中に登場する『銀河鉄道の夜』(1934年 宮沢賢治)と、『アカルイミライ』の符合について書いておく。
銀河鉄道の夜』には、空に輝く天の川が川面に反射した様を模して、川面に光を浮かべる「ケンタウル祭」という祭りが出てくる。この祭の描写は、夜の東京の川に現れた、光るアカクラゲの群れの場面とイメージが重なる。また、「星めぐりの歌」の歌詞にある「あかいめだまの さそり」は、『銀河鉄道の夜』の終盤に「蠍の火」のエピソードとして登場する。この「蠍の火」のエピソードは、無為に命を絶やすことになった蠍が、それを悔やんで「こんなに虚しく命をすてず、どうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。」と神に祈り、その祈りが天に昇ったことから、今でも夜空にアンタレスが赤く光り続けているというもので、生まれながらに毒を持ったものが、「みんなの幸」のために生きることを願って、赤く光り続けるという、革命思想を思わせる示唆的な内容となっている。
有名な童話なので詳細は省略するが、『銀河鉄道の夜』は、少年カンパネルラの冥府への旅に同行した友人のジョバンニが、そこで見た景色や旅人との交流を通して、命と引き換えに川で溺れそうになった同級生のザネリを助けたカンパネルラの行動の意味に気づいていき、自分も「みんなの幸」のために生きようと願う物語である。


ずっと「待て」の合図を送り続けていた守が、「行け」の合図に身体を固定し自殺することから、守の自殺と「行け」は不可分な事象であり、同じ意味を持っていると考えられる。
また、守は自殺をしなくとも、死刑判決が下されることが劇中で確定的に語られていることから、守の行動はカンパネルラと同じく、命と引き換えに行われている。
これらのことからは、死をもってしか伝えられない意志とその継承の物語が見えてくる。
そして、自分が既に死んでいることを悟っているカンパネルラの言動が、しばしば超越的なものに感じられるように、守の言動もまた、何かを既に悟っているかのように超越的である。
かつて歴史の中で繰り返されてきた暴力による革命は、守の自殺によってピリオドが打たれ、その意志だけが雄二に引き継がれていく。
歴史の中から蘇った死者(かつての革命家)=守は、雄二にアカクラゲを託し、暴力への同調と追従を拒んで死んでみせる。彼は、歴史の中に葬り去られた革命の使者として、ジョバンニと同じく覚醒へと至る雄二の夢に同行する。


現実でアカクラゲが川の流れに逆らえるとは思えないが、「彼らは海に向かってます」と有田に告げる雄二の口振りは、まるでアカクラゲが意志を持って海へ進んでいるかのようである。
アカクラゲが目指す海とは、無意識の象徴である海だろうか。
無意識から、夢で見ることが出来る意識レベルまで浮上し、姿を現したはずのアカクラゲは、再び無意識へと還って行こうとしている。
「昔から、俺は眠るとよく夢を見る。それは、いつも決まって未来の夢だった。夢の中で、未来は明るかった。希望と、それから平和に満ち溢れていた。だから俺は眠るのが楽しかった。ついこの間までのことだ」
冒頭の雄二のモノローグの、「昔」や「ついこの間」とは、一体いつのことだろうか。ずっと昔、青少年が革命の夢を見ることは、青少年期特有の流行り病と揶揄されるほどありふれたことだった。青少年は、「希望と、それから平和に満ち溢れ」た未来を想像し、革命の夢を見ていた。
その革命もほとんどが失敗して、『アカルイミライ』公開時には、なんとか歩みを進めていたキューバも、2019年現在では、なし崩し的に資本主義化が進行している。



海へと向かうアカクラゲを追って、雄二と有田が川沿いを走る。
「どうして海なんかに行っちゃうの」と納得のいかない様子の有田は、河口近くを漂う一匹のアカクラゲを見つけると川へ入って近づいていき、そのまま素手で掴んで高く掲げてみせる。その様子に、雄二は「危ない」と声を掛けるが間に合わず、有田は意識を失い、川の中に倒れこむ。
川の中で、アカクラゲを高く掲げ、硬直したポーズで倒れこむ有田を対岸から捉えたショットには既視感がある。これは、レーニン像の倒壊に象徴される、ソ連崩壊のイメージだ。このレーニン像倒壊のイメージは、有田にまつわる画面分割(スプリットスクリーン)場面について考えてみても分かるかもしれない。

この映画には、車(有田の社用車)の乗車場面で画面分割といわれる表現技法が用いられている。ただ、通常画面分割というと、別アングルないし別場面の2つ以上の画面が同画面上に映し出されるものだが、『アカルイミライ』では、ある特定の車(有田の社用車)をフロントガラス越しに真正面で捉えたショットのみに、日という文字を横に倒した形の黒いフレームが掛かり、運転席側と助手席側を個別に囲むように画面が2分割されている。厳密には、1つのショットにただ黒いフレームが重ねられたショットではなく、ショットは2つに切り離され、それぞれがフレームに納められ、文字通り分割されてはいるのだが、この1つのショットをわざわざ2つに割ってみせる画面分割に、一体どのような意味があるのだろうか。
画面分割は、弁護士事務所から出てきた有田がマスコミを避けるようにしてタオルで顔を隠して助手席に乗り込む場面から始まり、その後は有田が一人運転する場面や、アカクラゲを巡って分かり合えない会話をする有田と雄二を捉えた場面に登場する。最終的には、車外で休憩をしている有田と雄二を助手席側の1フレーム越しに捉えてから(空の運転席と助手席を映してみせてから)、有田が運転席に、雄二が助手席に座ることで、顔が隠されていたり、助手席が無人であったり、分かり合えない二人の距離としてあり、不完全に感じられていたそれまでの横並びの2つのフレームそれぞれに有田と雄二のバストショットが納まることで、完成をみたような印象を受ける。
画面向かって左の運転席側のフレームに有田が納まり、右の助手席側フレームに雄二が納まることと、有田が雄二と養子縁組をしようとすることもまた、無関係ではない。
正面から捉えた横並びのフレームに納まる人物のバストショットとは肖像である。戦時下の日本やソ連北朝鮮などで公共施設や住居の居間などに掲げられる御真影、あるいは肖像を思い浮かべて欲しい。このようなフレームには、向かって左に初代の肖像が納まり、その右隣に後継者が並んでいる。
有田が雄二と養子縁組をしようとすることや、画面分割に有田と雄二が並んで納まる場面に見られる継承の物語もまた、守と雄二の関係に見られたような、革命の歴史の流れを汲んでいると考えられる。
「私は君たちを、許す」という、どこか高みから発せられる有田の台詞や、レーニン像倒壊を模倣した転倒ショット、守の父であること、資本主義社会の中でリサイクル工場(再生産)を営む労働者であること、もっと単純に、雄二や守と同じような系統の装いをしている年配者であることなどから、有田は象徴的な初代であると同時に素朴なプロレタリアートとして、資本主義社会におもねることなく生きている。
アカルイミライ』を見ていると、雄二は有田の後を継げば良いのに、という気持ちになってくる。雄二が有田のような生き方を選べば、全てが上手く収まるように思えてくる。
ただ、有田もこの夢の住人なのだ。かつて存在した誰かなのだ。雄二の目の前で、それを歴史が証明したと言わんばかりに、真水に侵入した有田がアカクラゲを掲げて倒れていく。
雄二は、川の流れの中から有田を引き上げ抱え込む。そして、顔を上げて前を見つめる。何もかも叶わないアカクラゲの夢の中で、最期まで夢を見続けた青年が、その先の景色をただ一人見つめている。



その後の画面に雄二の姿はない。
有田と守は、繰り返し夢想される革命のガイドとして、共にリサイクル工場(ずっとここ)にいる。不良青少年は、雄二との思い出を懐かしんでいる。そして、彼らは表参道を歩き始める。
最先端のショッピング街で、段ボールを蹴ってぶらつく彼らは、世界に飽きている。世の中に迎合しない彼らが、揃いのゲバラTシャツを着て、やがて意志を持って前を見据えて行進していく。その様子を映し出す画面が白濁していく。
これは雄二の眼差し、彼の見る夢のヴィジョン。
そしてこの夢から、雄二は覚醒しようとしている。その眼差しはカメラと重なり、鑑賞者と重なっている。やがて雄二は目覚めるのだろうか。
映画を観終えた時、私たちも雄二と共に目覚めているだろうか。


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「個人の生活と同様、世代の生活にも行きわたっている一つの段階的過程としての目覚め。眠りは世代の一時的段階である。ある世代の青春期の経験は、夢の経験と多くの共通点をもっている。この青春期の経験の歴史的形態が夢の形象である。どの時代もこうした夢に興味を示すという側面を、つまりは子どもの側面をもっているものである。19世紀にとって、こうした側面がかなり明瞭に浮かび上がってくるのは、パサージュにおいてである。[K1,1]」

雄二が見た夢は、革命の夢(未来)であり革命の歴史(過去)でもあったわけだが、その夢から覚醒するとはどういうことを意味するのだろうか。ここからは、主に『パサージュ論―Ⅲ 都市の遊歩者』(1994年 ヴァルター・ベンヤミン今村仁司 三島憲一訳)の引用から、『アカルイミライ』に見られる様々なイメージの更なる理解を図っていきたい。

弁証法についてのまったく独自な経験というものがある。生成における「進行」をすべて否定し、見かけは「発展」に見えるすべてのものが、細部にいたるまできわめて精密な組み立てをもつ弁証法的転換であることを明らかにするような、有無を言わせぬ劇的な経験とは、夢から目覚めることである。(中略)歴史学の新たな弁証法的方法は、われわれが「既在」と呼ぶところの夢が、実はそれに関係しているような目覚めの世界としての現在を経験するための技法なのである。既在を夢の想起において経験すること!―してみれば、想起と目覚めはきわめて密接な関係にある。つまり、目覚めこそは、追悼的想起の弁証法的転換であり、そのコペルニクス的転換なのである。[K1,3]」

アカルイミライ』という夢の中で、雄二は過激な共産主義思想に倣い生きる世界と過酷な資本主義社会を眠りを介して行き来する。どちらが夢で、どちらが目覚めなのか、判別のつかない未分化な世界で彼はまどろんでいる。
ベンヤミンが19世紀のパサージュに見出した時代の夢を、21世紀の東京に再び見出し、そこからの覚醒について『アカルイミライ』は描いている。
これは、ゲバラのTシャツがファッションの一部になり、大都市のショッピング街を浮遊する21世紀の東京の青春期の夢である。

「われわれがこの時代には子どもだったという事実は、その時代についての客観的なイメージのうちにともに含まれている。この時代は、この世代をおのれのうちから生み出すためには、そうでなければならなかったのである。ということはつまり、われわれは夢の関連の中に、ある目的論的な契機を探し求めるということである。この契機とは待つということである。夢はひそかに目覚めを待っており、眠っている人は、ただ目が覚めるまで死に身をゆだねながら、策を弄してその爪からのがれる瞬間を待っているものである。夢見ている集団もまたそうなのであって、こうした集団にとっては、その子どもたちこそが自分が目覚めるための幸運なきっかけとなってくれるのである。■方法■[K1a,2]」

「長い時間あてどもなく街を彷徨った者はある陶酔感に襲われる。一歩ごとに、歩くこと自体が大きな力をもち始める。それに対して、立ち並ぶ商店の誘惑、ビストロや笑いかける女たちの誘惑はどんどん小さくなる。次の曲がり角、遥か遠くのこんもりした茂み、ある通りの名前などがもつ磁力がますます抗い難いものとなってゆく。やがて空腹に襲われる。だが、空腹を満たしてくれる何百という場所があることなど、彼にはどうでもいい。禁欲的な動物のように、彼は、見知らぬ界隈を徘徊し、最後にはへとへとに疲れ果てて、自分の部屋に――彼にとってよそよそしいものに感じられ、冷ややかに迎え入れてくれる自分の部屋に――戻り、くずおれるように横になるのだ。[M1, 3]」

「じつは遊歩とは「まどろみのリズム」であると表現したり(V:162[D2a,1])、遊歩者を「阿片使用者、夢見る人、陶酔した人」と同列に並べたり(II:307)するなど、ベンヤミンは遊歩者の陶酔経験を、しばしば夢を見ている状態と同一視している。」
(民博共同研究会「ストリートの人類学」2006年6月25日「遊歩者論・再考」近藤高明)

「待て」とは夢を見続けることであり、「行け」とは覚醒することである。
それは、『アカルイミライ』における少女の解放と、雄二に対する守の合図の転換(「待て」から「行け」)の重なりや、不良青少年と雄二の身振りの共通性などから、雄二を軸にした未分化な世代の連なりが、一つの時代となった夢である。
アカルイミライ』という夢が、革命の歴史をなぞるように進行することから、革命の歴史を経て辿り着いた現在から覚醒することが、明るい未来を眼差す視点を持ち得る方法であるかのようである。革命を夢見たものが、いつしか革命を夢見る者を夢に見て、やがて覚醒に至る。この未知なる覚醒が世界に弁証法的転換をもたらす希望となる。
ラストシークエンスは、覚醒間際の雄二が見た革命を夢見る者の夢であり、その夢に至るまでの青年(雄二)の歩みを凝縮したシークエンスとも言えるだろう。やがて不良青少年は雄二のように自身の遊歩のリズムにまどろみ、革命を夢見る者の夢を見て、彼らもまた覚醒へと至るのである。この眼差しは、夢見る集団である映画の鑑賞者にも重ねられている。雄二や不良青少年は目覚める当事者でありながら、「幸運なきっかけ」をもたらす使者でもある。

ベンヤミンは、この希望的な眼差しを獲得する覚醒者を「遊歩者(フラヌール)」または「歴史の主体」「歴史の天使」と呼んだ。
「遊歩者」とは、都市の中で退屈を持て余し、日常の生活や人間関係から遠ざかり、パサージュ、パノラマ、万国博覧会などの娯楽・商業施設により視覚的装置と化した都市をぶらぶらし、目にする様々な事物を観賞する者である。
ベンヤミンが『パサージュ論』の中でとりわけ注目した「遊歩者」は、『アカルイミライ』のラストのぶらぶら歩きからデモ行進へと、境界を越えていく不良青少年の姿と重なる。

ベンヤミンは遊歩者の元型を詩人のボードレールに見ていた。

「市中を彷徨するこの詩人は自分をごみを拾い歩く屑屋にたとえている。屑屋とはアレゴリカルにいえば蒐集家である。蒐集家はものを本来の機能から切り離し、有用性とは対立する突飛な新しい関係性に並べていく。事物がその文脈から切り離される引用(断片)のコラージュも、映像の組み合わせからなるモンタージュ写真と同様、それまで書かれたことにないような歴史像を視覚的なものによって構築しうるのである。」(伊藤 節 スーザン・バック=モース『ベンヤミンとパサージュ論―見ることの弁証法』(高井宏子訳、勁草書房、2014)https://www.jstage.jst.go.jp/article/woolfreview/31/0/31_117/_pdf

ここで遊歩者の原型が屑屋に重なる。リサイクル工場を営む有田が、やがて「歴史の天使」となる遊歩者の原型として彼らの系譜に連ねられている意味が見えてくる。
蒐集家が繰り返すコラージュやモンタージュに似た、未知の組み合わせによる数多の新たな関係性の構築は、弁証法的眼差しとしての覚醒に至るまでに繰り返される日々の細やかな営みとして市中に潜んでいる。

「無意識のもう一方の部分は、年齢を重ねるにつれて、あるいは生活を通じて習得された多くのことがらによって形成される。それらのことがらは、かつて意識されていたが、拡散して忘却のなかに入り込んでしまったものである。・・・・・・この無意識は海底を思わせる広大な底部で、そこでは、ありとあらゆる文化や研究、精神と意思のあらゆる歩み、あらゆる社会的反抗、あらゆる闘争の企てが、不定形の容器の中に集められている。・・・・・・諸個人の情熱にかかわる要素は後退し、消え失せている。外的世界から引き出されて、多かれ少なかれ変形され、消化されたもろもろの材料しか残っていないのだ。この無意識は外的世界から成り立っている。・・・・・・社会生活から生まれたこの腐蝕土壌は、諸々の社会に属している。人類とか個人はあまり関係がなく、諸人種と時代がその唯一の指標である。暗闇でなされるこの巨大な作業は、とりわけ重要な時期や社会的変動期に、夢や思想や決断の形をとって再び現われる。それは諸民族と諸個人が蓄えている偉大な共有財産である。革命や戦争は、熱病のようにこの無意識を活性化する。・・・・・・個人の心理学は乗り越えられてしまうので、火山活動のリズムや地下水の流れの博物学とでもいうべきものの力を借りなければなるまい。地球上には、かつて地下に存在していなかったものなど何一つ存在しない(水、土、火)。知性の中には、かつて深層において消化と循環の作用を受けなかったものなど、何一つ存在しないのである。 ピエール・マビーユ博士「『民衆の偏見礼讃』への序文」(『ミノトール』誌、二巻六号、1935年冬、二ページ)[K4,2]」

少々長い『パサージュ論』の中の引用の引用だが、ここで語られる無意識の在り様がアカクラゲを連想させる。
不定形の容器」(この映画ではクラゲとなって現われるもの)の中に集められた無意識は、とりわけ重要な時期や社会的変動期に、夢や思想や決断の形をとって再び現われるのである。海の底へ再び還ったアカクラゲは、いつかまたその時が来れば再び戻ってくるだろう。
「いつかきっと戻ってきますよ。俺はそう思います」
海へと還るアカクラゲに掛けた雄二の言葉は、変革や革命の概念をアカクラゲに投影していることを示唆している。


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文中で触れた宮沢賢治イデオロギーについて書いておく。賢治は、イギリスの詩人でマルクス主義者であるウイリアム・モリス(MORRIS, William;1834 - 96年)に強い影響を受けたとされるが、直接的には階級的イデオロギーにもとづいた思想の持ち主ではく、法華経の教えという宗教的イデオロギーにもとづいた作品を多く残した作家であり、『銀河鉄道の夜』に出てくる「蠍の火」のエピソードにも研究によって様々な解釈が存在するので紹介しておく。
ウィリアム・モリス宮沢賢治――「農民」の社会改革と芸術」(2015年 成田芙美) file:///D:/Users/020117d/Downloads/Tsuda_Journal_047_20150316_113-132_Narita%20(2).pdf
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する楊と炎の風景(前編)」(石井竹夫)
http://www.jsppr.jp/academic_journal/pdf/Vol14.No2_P17-20.pdf
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する楊と炎の風景(後編)」(石井竹夫)
http://www.jsppr.jp/academic_journal/pdf/Vol14.No2_P21-24.pdf


アカルイミライ』に見られる覚醒や革命のイメージについて言及している先行文章があったので以下に紹介しておく。
覚醒と転調――黒沢清アカルイミライ』(2003年 大沢浄)
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN6/osawa-mirai.html
アカルイミライ』論(原弘一)
http://abecasio.s23.xrea.com/toukou/07.html







アカルイミライ』の撮影は、全編HD24PとDVで行われたそうですが、この画面の質感は、夢の世界の質感なのでしょうか。そこに流れるPACIFIC 231の音楽は、たとえ雄二が切羽詰った状況にあっても、その状況に寄り添うことなく浮遊し、どこかのどかで幻想的です。

去年末から、新作『旅のおわり世界のはじまり』(2019年)までに記事を上げられたらいいかとのんびり書いていたのですが、途中で生活環境が変わってしまい時間が掛かってしまいました。そうこうやっているうちに阿部嘉昭著『黒沢清、映画のアレゴリー』(内容説明:黒沢清カフカベンヤミン?運動・機械・美人を徹底解析!寓話的映画作家全体論。)が出版されたりして、つらつら読んだりしていたら本当にいつまでたっても終りませんね。

そもそもこの映画のどこからベンヤミンが出てくるんだと思われる方もいるかもしれませんが、だいたい私のやり方は(いつもではありませんが)、映画からイメージするいくつかの事物を抽出して、その単語の組合せでネット検索をかけてヒットしたもので、映画を観た感覚と近いものを掘り下げていくという、ネットありきの映画鑑賞方法を採用していまして、今回その方法でヒットした以下の論文が映画を観た感覚と近い何かについて書かれている気がしたので、そこから探っていきました。
「遊歩者・記憶・集団の夢」(神谷英二 福岡県立大学人間社会学部紀要 2009,Vol.17,No.2, 67-79)
http://www.fukuoka-pu.ac.jp/kiyou/kiyo17_2/1702_kamiya.pdf

見直してみて一番印象に残ったのは、藤原の妻(白石マル美)が、『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)の高倉康子(竹内結子)に似ていることです。二人とも手の込んだ料理を作る気さくな専業主婦です。2003年にはあっさり殺されてしまった彼女(のような存在)が、13年の時を経て大きな存在になっています。この変化については、今の所、彼女(のような存在)をどうにか救えないか黒沢監督が模索しているのではないかと考えています。『クリーピー 偽りの隣人』で印象的に描かれていた少女の解放は、『アカルイミライ』から描かれていました。時を経て、少女の年齢が上っています。どこから彼女はいろんなことを諦めてしまうのか、どうすれば彼女を解放することができるのか。ただこれを考えるためには、手作りドーナツを作る『トウキョウソナタ』(2008年)の佐々木恵(小泉今日子)も見直さなければならないし、『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(2017年)の山際悦子(夏帆)も見直さなくてはならないような気がするので、今回はこの辺にしておきます。

『運び屋』(2018年)感想・ネタバレ

監督:クリント・イーストウッド


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グラン・トリノ』(2008年)の時も思ったのですが、ニック・シェンクの脚本は本筋以外のフックが強くて、観た直後は少し混乱してしまうのですが、今回は2日ほど経過したところで、なんとなく感想がまとまってきました。


感傷的な劇伴と病床の妻とのやや語りすぎなやりとりなどを観ていると、メロドラマみたいだなと意外に思ったり、噂の運び屋の正体がアールだとバレる終盤で、対峙するコリン刑事にサングラスをつけさせて、表情の変化を分かりにくくしている場面を観ると、相変わらずクールだなと思ったりして、ウエットなのかドライなのかも判断しかねていたのですが、やっぱり容赦ないというか、ドライな眼差しが根底にあります。


デイ・リリーの栽培にのめり込んで、家族を蔑ろにしてきた男が仕事を失くし、家族からも疎まれて孤独な晩年を過ごしているという触れ込みで映画は始まるのですが、アールはいつもパーティやセレモニーや大会などに顔を出していて陽気にしているし、唯一一人になる車内では機嫌よく歌なんか歌って、孤独な老人の姿は最後の最後まで出てきません。
アールは、「家族より大切なものなんてない」と、今までの自身の行いに対する後悔を口にするのですが、トレビーノには「自分のすきなことをして生きろ」と伝えます。「自分を救ってくれたファミリーを裏切る事はしない」と彼に反発され、アールは今にいたっても考え方を変えられない自分自身に気づいてうろたえてしまいます。

アールの人生は何もかもが遅すぎました。
家族と向き合い、裏社会の者達と触れ合うことで様々な事に気づき、その過程で自身のそれまでの行いに対する後悔を深めていくのですが、アールが自身の罪に気づく頃には、皆わだかまりと何とか折り合いをつけていて、結局アールは許されてしまう。最後まで妻への罪は償えずに、簡単に許されて先に死なれてしまう。
「運び屋」のルールを破り妻を看取ったアールは、組織の者に「殺してくれ」と懇願します。他者に断罪を求めますが、誰も彼を裁こうとしない。「運び屋」の仕事は、そのことを象徴するかのように、好き勝手にやる爺さんは最後まで許されて、止まることなくアールは走り続けることを余儀なくされてしまう。
許されてしまう残酷さというのは、生きていかなくてはならない残酷さです。走り続けなくてはならない、止まることは許されない。

いつの間に痛めつけられていたのか、血を流しながらアールは、車を走らせます。
ハレとケでいうところの、ずっとハレの側面しか見せていなかったアールの本当の孤独の姿、惨めな男の姿は、痛めつけられ血を流しながら、それでも車を止められない男の姿です。
この時、アールがスーツを着ているのが凄くいいんですよね。『悪魔のいけにえ』(1974年)のレザーフェイスも最後の場面で、白のカッターシャツにスラックスという若干正装っぽい装いだったのですが、テンションの高い場面がある個人にとって重要な儀式に相当する何かであるがゆえの正装のようでもあるし、惨めさとそれに伴う焦燥感との対比が効いています。Tシャツの人が痛めつけられているより、スーツの人が痛めつけられているほうが見ていて辛い感じしませんか。

孤独の理解者であるコリン刑事に最後は捕まり、アールは裁判にかけられます。
「組織は彼が老人であることにつけこみ・・・」と、情状酌量の余地を弁護士は訴えますが、アールは自ら「私は有罪です」と訴え、その場にいる者達をギョッとさせます。誰にも裁いてもらえない彼は、自ら罪を告白することしかできません。「全ての罪において有罪を認めるということですか」との裁判長の質問に「はい」と答えるアール。抽象的な質問ですが、全ての罪とは、アールがこれまでの時間で負った罪なのでしょう。
アールにとっての贖罪とは、取り戻せない時間によって許されてしまった罪を見つめる孤独の中で生き続けることです。生きて懺悔し続けることです。
彼が罪に気づいた時には、すでに罪は許され、彼は間に合わなかった。全てが遅すぎた。
ラストの、老いを受け入れるなと歌う歌が、自らを許すなと言っているように聞こえてきます。



「ジェームズ・ステュアートに似ている」という台詞が何回出てきたかなと振り返るのですが、思い出せません。12年前の場面と「運び屋」になってからの場面の2回だったように思うのですが、というかそうだとしたら意味が分かる台詞なのですが。
12年前のアールは、娘の結婚式にも出席せず、デイ・リリーの品評会に出席して軽口を叩き調子よく振る舞っています。これらの様子から、家庭を顧みず自身の趣味的な仕事に没頭する奔放な男の生き様を肯定している姿に見えるのですが(それが彼の生きた時代のジェンダー的価値観に起因するのかどうかは不明)、非家庭的に振る舞うことを肯定している男にとって「アメリカの良心」と呼ばれたジェームズ・ステュアートに似ていると言われることは、若干面白くない印象を持つ言葉だと思うのですが、これが仕事を失くし家族に疎まれ、孤独を抱えながら「運び屋」という危険な仕事、謂わば本当のワルになった時に言われると、皮肉に響くと思うんですよね。人から掛けられていた何気ない言葉が、実は重要な意味を持っていたではないですが、12年前にこの言葉の意味に気づいていたら、まだ取り戻せていたかもしれないのに、その時の自分は大事なことに気づかず、内心(ジェームズ・ステュアートなんて面白みのない男に似ているだなんてやめてくれよ)と思っていたのに、今となってはその面白みのない男に憧れている男の姿が浮かび上ると思うのですが、どこに何回出てきた台詞か確認できてないので全然違うかもしれません。


許されてしまう男の惨めさや孤独、傍から見ていると罪を自覚した人に対する残酷な仕打ちのようにも見えるこの感じ...黒沢監督の『叫』(2006年)みたいだな、とちょっと思いました。自分だけ許されてみんないなくなるやつ。
イーストウッドのマゾヒスティックな部分って、自罰的な意味合いがやっぱり強かったのかなとは思いましたが、劇中の濡れ場や最後の刑務所でのうのうとデイ・リリー育てている描写などを見ると、恥を晒すというか自身を痛めつける方向性が少し変わってきたようにも感じました。

『マングラー』(1995年)感想・ネタバレ

監督:トビー・フーパー

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ペンタゴン・ペーパーズ』(2017年)の輪転機ならぬ洗濯プレス機の登場に笑ってしまいました。
先に観ておきたかったな。
ペンタゴンでも輪転機が動き出した瞬間に、絶対強い。と思ったけど、同時にフィルム映画を力強く称揚する姿勢に切なくなるというか、「映画は強いんだ」と言い続けるスピルバーグに、何て答えたらいいのか、見続けますとしか言えないのだけれど、そうとしか言えないのがもどかしいです。


マングラー』は、『A.I.』(2001年)のような、映画の持つ両義性を描いています。でもずっと単純で、プロレタリアートが資本家にプレスされるという、身もふたもない描きかたですけどね。ここまで即物的に...とは思いますが、悲惨な映画を観ると、どこかでこれで儲けてるのかって思うし、やっぱりそうだよなとは思うのですが、素知らぬふりして撮り続けてもいいのに、フーパーはそれは出来なかったんでしょうね。


マークの庭にキラキラ光って音の鳴る小物がいっぱい飾られていて、『悪魔のいけにえ2』(1986年)でも、このイカれたやつらのどいつがちまちま飾りつけてんだと思うような、キラキラした小物らがあったのですが、画面の異化のさせ方が身近で独特です。
大きな洗濯プレス機も見るからにおかしいのですが、誰もが知っている小さな異化がそこにあって、手作りパーティー感というか、ホラーなのにもてなされてる気がして、この世界に行きたいなと思いました。

『AKIRA』(1988年)感想・ネタバレ

監督:大友克洋

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2018年の年末ということで、『AKIRA』を久しぶりに観ました。
来るべき2019年。ネオ東京。ドーン。


前々から思っていたのですが、金田って何者なんでしょうか。
金田は主人公なので、あらゆる場面に登場して行動を起こしますが、彼の行動によって事態が決定的に変化するようなことはないし、あれだけのことが起こっても、金田自身にも事態の影響が見られないというかなんというか、かなり透明な存在です。

主人公でありながら、俯瞰的な立ち位置のストーリーテラー狂言回し的な役どころのようでもあるのですが、金田の傍若無人な度胸と、そこから生じるエモーションが終始物語を支えているように見えるので、当事者なのか、傍観者なのかよく分からない存在です。

映画終盤に至って、タカシとキヨコとマサルに「あの人(金田)は(この事態に)関係ない」と言われていて、思えば、序盤で捕まった軍にも、途中で捕まるゲリラにも事態に関係のない存在と見做され、何度も事態から追放されています。しかし、金田は事態に能動的に関わり続け、最終的に事態を見届ける役目を担います。
事態に影響を及ぼさないから、序盤から終盤まで一貫して関係ない人扱いを受けるわけですが、だからなのか、なのになのか、事態の起こりから終わりまでを見届ける唯一の者になります。


影響を持たない透明な存在でありながら、事態を見届けるって、天使みたいですよね。
(『天使とデート』(1987年)ではなくて、『ベルリン・天使の詩』(1987年)のような天使です。)
久しぶりに『AKIRA』を見直した後、(金田ってベンヤミンの「新しい天使」っぽいな)と思い、『AKIRA』好きの人に以下のベンヤミンの文章を読み聞かせたのですが、全然ピンときてもらえなかったので、この記事を書いています。

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており 、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのようにも見える。かれの目は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が天に届くばかりに高くなる。僕らが進歩と呼ぶのは〈この〉強風なのだ。

ウォルター・ベンヤミン「歴史の概念について」より

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パウル・クレー「新しい天使」(1920年

ベンヤミンの「新しい天使」も金田と同様に、事件を見つめるだけで、事件に影響を持たない存在のようです。ベンヤミンは、楽園から吹く強風を進歩と呼んでいます。その進歩に押されながら後ろ向きに飛ばされていく天使は、眼前(過去)のカタストロフのみを見ています。
2020年に開催される東京オリンピックに向けて開発が進むネオ東京には、最後のカタストロフを待たずして、事態の進行とともに瓦礫や廃墟が積み重ねられていきます。
進歩という強風に押し進められながら、「そこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたい」という思いを抱き、瓦礫や廃墟が積み重なっていく様を見つめる天使からは、焦燥というかもがきというか、認識者であり観察者でありながら、目の前の事態に対する、金田同様の当事者意識が感じられます。

そうなるとってこともないのですが、金田が天使なら、アキラとは進歩なんですかね。
アキラが核のメタファーとして描かれているとする文章は過去に読んだような気がするのですが、東京という舞台設定や、劇中のケイの台詞などからも、核というよりも進歩の象徴として捉えたほうが、アキラが両義的(一方で恐れられ、一方で待ち望まれる)な存在として扱われることに納得がいきます。

『恐怖の報酬』(1977年)感想・ネタバレ

監督:ウィリアム・フリードキン


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暴走列車ものもそうですが、ニトロをトラック輸送となると広義の意味でアクション映画だと思うのですが、フリードキン監督はアクションが撮れないですね。『エクソシスト』(1973年)のショットが、決まってるけど静的なものが多かったので、アクションはどうなのかな、とは思っていたのですが駄目でした。


冒頭の爆破テロで派手な爆発があり、ニトロ爆発のハードルを上げるなぁ、気合い入ってるなぁと思って、その後の油田火災爆発も更に派手だったので、これどうするんだろう?と思ってたら、肝心のニトロ爆発に何の工夫もなく、当然ショボく感じられてしまいます。
こういう映画は緩急の緩の見せ方が肝だと思うのですが、フェイント的な緩がなく、取って付けたように緩が出てきて、こっちが構えたところで爆発するのでまったく驚けないです。


クルーゾー監督版と比べてどうこうじゃなく、他にも色々まずいです。

4人の男が2人ずつトラックに乗り込み、2台のトラックで油田火災現場までニトログリセリンを運ぶのですが、3人はそれぞれ別の土地で犯罪がらみのトラブルを起こして南米奥地に逃亡してきていて、そこで金が尽きて逃れられなくなり、劣悪な環境で生活をしています。ただ後の1人は、映画の冒頭に出てきてマンションだかホテルだかで男を銃殺して悠々と立ち去っただけのシンプルな描かれ方をしていて、3人が暮らす南米奥地にも遅れて現れ、金に困っている様子もなく、かなり謎の多い男です。こうなるとこの男は3人の内の誰かを殺しに来た殺し屋かと思ったら、そのような展開は一切なく、たまに拳銃をぶっ放す人、ぐらいで死んでしまいます。
他にも、出発前に4人(1人は出発直前に殺し屋みたいな男に殺される)で乗り込むトラックの整備なり改造を黙々とやるのですが、内1人は冒頭の個別描写で詐欺師セレブみたいな男として描かれていたのに、逃亡先で肉体労働に従事したとはいえ、やたら手慣れた様子でトラック整備をします。ここだけではなく、全体的に人物描写が前日譚で済んだことになっていて、逃亡後の場面に個別の行動原理みたいなものが無く、逃亡前のそれぞれのやたら派手な前日譚が大した振りになっていません。


油田火災を止めるために必要なニトログリセリンは一箱だけど保険のために六箱運ぶ、という説明台詞が出発前にあり、倒木で道が塞がれて先に進めなくなった時に、爆破テロをやった男がニトロを一箱使って倒木を爆破するのですが、それがトラック一台分の幅の空間が倒木に空く程度の爆発で、地面が抉れるようなものでは全然なく、油田火災ぶっ飛ばすぐらいのやばい爆発が来るぞ!と思っていた気持ちの持って行き場がない。
肝心のニトロ爆発がショボくて、緩急の急もぼやけています。
そもそも運搬する4人がニトロのヤバさを確認する場面がありません。放置されていたニトロを石油採掘会社の人達が確認する場面で、指先に着いたニトロを払うと地面に落ちた数滴が派手に爆発する音がして、それを観た観客はニトロのヤバさを確認するのですが、観ていない犯罪者の4人が「刺激を与えると危ないぞ」という会社の言いつけだけで神妙にトラックを運転するのが解せない。


あとは、トラックが揺れて危ない場面で荷台のニトロの箱がズレるショットを入れるのは本当に余計です。それは想像させるもので映されると興ざめします。このことと関係していると思うのですが、崖の際を走行する危ないトラックの様子だとか、見せ場の橋の場面もそうですが、大概ニトロを積んでいなくても充分見た目で危ない状況です。そしてその橋の場面が、後発のトラックが渡るバージョンとしてもう一回出てきたのを見た時、どうもフリードキン監督は、映らないニトロがどうなっているのか想像すると怖いだとか、ニトロを積んでいるせいで普通なら何でもない所がやたら怖く感じられる、などといった感覚が分からないから描けないのではないかと思ったのですが、それで何でよりによってこの映画のリメイクをしたのでしょうか。もし、この演出が観客の想像力を低く見積もったものだとしても、どちらにしても想像させる演出が出来ないことに変わりはありません。


得意の静的な決まったショットも、アクション映画でアクションが機能していない上で頻繁に観ると、やたらクドく感じられます。
時系列をバラバラにしたら『ダンケルク』(2017年)みたいに出来たかもしれませんが、だからといって映画が良くなるかというとそうではなく、誤魔化せる、かもしれないだけなのでどうしようもありません。
エクソシスト』に出てきた悪魔的で原始的な混沌を、随所で記号的に描いているのですが、アクションと繋がっていないので意味を汲みようがない。


ずっとオラついてるのが怖いと思ってるチンピラみたいな映画です。こういう映画は、緩い場面が怖いという認識が足りないと思う。
あと、ニトロを舐めてる。ニトロの運搬一番勝負なんだから化物みたいにニトロを描かないと!

ということで読んでいただいた通り、ダメ出しで盛り上がる系映画なので、誰かと一緒に観るのをオススメします。

『恐怖の報酬』(1953年)感想・ネタバレ

監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー


前回の『エクソシスト』(1973年)を観た後に、フリードキン監督の他作品も観てみようと思ってフィルモグラフィを眺めていたら、『恐怖の報酬』という面白そうなタイトルが目に止まり、あらすじを読んだら、「男たちが命懸けでニトログリセリンをトラック輸送する」物語だったので、これ絶対観よう!と思ってレンタルして観始めると、明らかにフリードキン監督作とは思えない古さだったので調べました。そして理解しました。

1953年のアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画を、1977年にフリードキン監督がリメイクしたんですね。
そのリメイク版は、公開にあたって北米以外では短縮版が上映され、以降も短縮板のTV放映数回と、1991年に短縮版のセル・ビデオが発売されたのみで、ほぼ観られない状態にあったのが公開から40年を経て、オリジナル完全版が今月公開されるそうです。
なんてタイムリー。
というか、レンタルしよう!の時点で間違っていました。
無知ゆえにアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の『恐怖の報酬』を観る事が出来たようです。

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主人公のマリオとジョーのペアと、マリオの友人ルイージとビンバのペアが、それぞれトラックに乗り込んで、2台のトラックがニトログリセリンを油田火災現場まで運ぶことになるのですが、この展開からルイージとビンバペアの爆発は確定しているようなもので、見るからに危ない時は爆発しなくて大丈夫そうな時に爆発するんだろうな、などと大上段に構えていたら、ビンバが走るトラックの中で急にヒゲを剃り始めて、ルイージが何をしているのかと聞くと、「俺の親父は処刑される前に風呂に入らせてくれと頼んで身奇麗にして死んだから、俺もそうしてる」と言い始めてギョッとしました。
爆発の前振りのようなのですが、よくネタになる洋画の死亡フラグとは明らかに違い、ビンバには自分の死が分かっています。
こちらを見透かしたようなビンバのメタ的な言動に、現実と虚構の感覚が揺さぶられて動揺したまま、すぐに場面はのんびりとした様子で会話を交わすマリオ・ジョーペアへと切り替わります。
二人のやり取りをなぞるように追っていると、ジョーがマリオに煙草を吸うかと訊ねて、運転しているマリオが「巻いてくれ」とジョーに頼みます。煙草を巻く手元を捉えたジョーの視点ショットが映り、自然と意識が視点に同調して、一点凝視のような、ぼんやりとした集中状態になると、そこに突然風が吹いてタバコの葉が飛び散り、手元を映すショットに小さな爆発のようなものが見えた瞬間、ハッとして我に返りました。
気がつくと目の前には爆煙が上がっていて、さらに追い討ちをかけるように遅れて爆音が響き、ルイージとビンバが死んだことが分かるのですが、予め承知していたはずの二人の死が、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の術にはまり、予想外のショッキングな出来事のように感じられて、もうこれ催眠術とどう違うのか分からないぐらいコントロールされた気がしてしょうがないです。

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思い返すと、爆風が爆音より先に来るとは考えられないので、タバコの葉を散らしたあの風は爆風じゃなくて、ただ風が吹いただけなんですよね。
今まで映画の中で意味ありげに吹く風を、漠然と予感や予兆のようなものだと思っていたのですが、この映画を観て、出来事や物事というか、その根本となる揺らぎなんじゃないかと思いはじめています。
ルイージとビンバが死んだ原因は示されていないのですが、風が吹いたから死んだんでしょうね。



フリードキン版、どうなんでしょうか。オリジナルが凄すぎて、ただ観るだけなのにプレッシャーを感じてしまいそうです。