映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『サクリファイス』(1986年)感想・ネタバレ

監督:アンドレイ・タルコフスキー

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ブレードランナー 2049』(2017年)について書かれた文章の中で、まるで一般教養であるかのごとく言及されているタルコフスキー監督の『サクリファイス』についてです。
その手の文章を読んでいる時点で、『惑星ソラリス』と『ストーカー』しか見ていなかったのですが、その2作品を思い出しても、「タルコフスキー監督のあの映画のあの場面です」では、たとえその映画を見ていたとしても、その意味するところが容易く共有できるとは到底思えない映画を撮る監督だったので、万が一、例外的に、『サクリファイス』が大変分かり易い映画だったりするんだろうかと思い見てみました。

惑星ソラリス』を初めて見たのは中学生の頃で、明確な感想を抱いた映画として記憶に残っています。その時の感想は、「人は何㎥までのものを愛の対象とする事ができるのか」です。抽象的な形の無いものを物理的に問う、みたいな印象を持ちました。
stevenspielberg.hatenablog.com

上記の記事を書くに当たって、『惑星ソラリス』を見返した時は、人の表象についての描写に目がいったのですが、今回『サクリファイス』で、世界との繋がりを物理的な接触として描いているのを見て、タルコフスキー監督は、抽象的で形が無いと思われているものが、物理的な事・ものである、という確信を持っているんじゃないかなと、また中学生の頃と近い印象を持ちました。

あらすじ

冒頭、スタッフのテロップとともに、一部分をアップで映したレオナルド・ダ・ヴィンチの『東方の三賢人の礼拝』の静止した絵。テロップ終了とともに、カメラが上に動き、絵の全体が映される。
その日、誕生日を迎えたアレクサンデルが“坊や”と木を植えている。かつて名優だったアレクサンドルは、今は俳優を引退して、評論家、大学教授として、静かな島に家族と暮らしている。
「昔々、師の命を守って3年の間、若い僧が水をやり続けると、とうとう枯木が甦って花を咲かせた」という奇跡の伝説を“坊や”に語るアレクサンデル。そこに郵便夫のオットーが祝電を持ってやって来る。無神論者というアレクサンデルに、オットーはニ一チェの永劫回帰の話をする。
親友の医師ヴィクトルを案内して妻のアデライデが来るが、アレクサンデルは“坊や”と散歩を続ける。父をおどかそうとして飛びつく“坊や”を突き飛ばしてしまい、“坊や”の鼻血を見て昏倒するアレクサンデル。
家の中で、ヴィクトルのプレゼントのルブリョフのイコン画集にみとれるアレクサンデル。アデライデ、ヴィクトル、娘のマルタ、小間使のジュリア、召使のマリアが揃う屋敷に、オットーが自転車で大きな地図を運んでやってくる。17世紀の本物のヨーロッパの地図だ。高価すぎてこのプレゼントは受けとれないと、アレクサンデルは辞退するが、犠牲がなければプレゼントではないとオットーは言う。元高校教師で、今は郵便夫をしながら研究をしていると話すオットーに、何の研究をしているのかと訊ねるヴィクトル。オットーは、不可思議な話の蒐集家だと答え、アデライデ、ヴィクトル、娘のマルタに、不可思議な話を語って聞かせ、突然倒れる。
テーブルの上のグラスが音をたてはじめる。戸外で轟音が鳴っている。戸棚のミルク瓶が落ちて割れ、床いっぱいに広がる。
白夜の戸外。アレクサンデルは自分の家とそっくりの小さな家を見つける。訝しがるアレクサンドルが、家へ帰ろうとして通りかかった召使のマリアに、この家は何かと訊ねると、“坊や”が誕生日のプレゼントに、オットーと作ったのだと言う。
“坊や”は2階のベッドで眠っている。
どこからか奇妙な声が聞こえてくる。アレクサンデルが1階に降りていくと、テレビから核戦争の非常事態が発生してしまったと伝える首相の声が流れて消える。通信が途絶える。電話も電気も通じない。パニックに陥るアデライデに、ヴィクトルは鎮静剤を打つ。そしてマルタにも、必要だからと鎮静剤を打つ。鎮静剤を断るアレクサンドルとオットー。やがて落ち着きをとりもどしたかに見えたアデライデが、“坊や”を起こして食事にと言うと、小間使のジュリアは、“坊や”に恐ろしい思いをさせてはいけない、そっとしておいて下さい、と目に涙をためて抗議する。その言葉を聞き、アデライデはジュリアをやさしく抱きしめる。アレクサンデルはヴィクトルの診療カバンにピストルをみつける。“坊や”の眠りを確認するアレクサンドル。“坊や”はベッドの中で起きている。屋敷の一室で、ヴィクトルを誘って服を脱ぐマルタ。アレクサンデルは、初めて神へ願う。私の持てるものすべてを犠牲に捧げますから、愛する人々を救ってください、家も、家族も、子供も、すベてを捨てます、そして何も語らない、と誓う。
アレクサンデルを窓の外から起こしにくるオットー。彼は、まだ最後の望みは残されている、召使のマリアの家に行き、彼女と寝れば悲劇は無かったことになるとアレクサンデルに告げる。オットーの話が俄かには信じられないアレクサンデル。何の事かと何度も話を問いただす。
オットーの自転車でマリアの家を尋ねたアレクサンデルは、マリアの前で母の思い出を話す。病気の母のために荒れた庭を整備したことが、かえって自然の美しさを暴力的に破壊したことになった苦い思い出に、黙って耳を傾け、涙を流すマリア。アレクサンデルは、ピストルをこめかみに当て、救って下さい、私と寝て下さい、とマリアに懇願する。そのただならぬ様子に、同情するマリア。抱きあう二人の身体が空中に浮かび、回転する。
朝、目が覚めたアレクサンデルは、ランプが点灯していることに気づく。電話を掛けると繋がる。悲劇が回避されている。
神との契約を守るべく、急いでアレクサンデルは自らを犠牲にささげる儀式を始める。
皆を木のもとへ行くよう指示を書いたメモを残し、姿を消すアレクサンデル。そして、無人になった家に火を放つ。ただならぬ様子に、皆が駆け戻ると、家は燃え、その前でアレクサンデルがへたりこんでいる。アレクサンデルは何も語らず、駆け寄る人々の腕から腕へと走り抜ける。そこへ救急車が到着し、アレクサンデルを連れ去る。悲観に暮れる人々。自転車でその場を立ち去るマリア。
マリアは“坊や”を見つけ、その様子を確認し、走り去って行く。アレクサンデルを乗せた救急車が、“坊や”の脇を通り抜けて行く。
“坊や”は木に水をやっている。木の根元に寝転がり“坊や”は話す。
「はじめにロゴスありき。なぜなのパパ?」


冒頭の文章で触れた、世界との繋がりが物理的な接触で表されているというのは、枯れた木に水をやり続けて花を咲かせた僧の話をして、そういうやり方でしか世界は変えられない。というアレクサンデルの言葉と、ラストの“坊や”の描写から、沈黙する“坊や”に独白を聞かせ続けるアレクサンデルと、木に水をやる“坊や”の姿が似て見えたところからきています。世界は漠然としたものではなく、接触しているものそのものが世界そのものとして描かれているように思えるのです。
アレクサンデルがヴィクトルに語るように、“坊や”が生まれて世界は変わりました。アレクサンデルは、核戦争の放送を見てパニックに陥る妻のアデライデに触れようとしませんが、“坊や”には頻繁に触れます。“坊や”の存在が世界を変えているのではなく、“坊や”との接触が重要なのではないかと思うのです。
アレクサンデルが主体となって語られる物語は、非現実的な雰囲気に包まれていますが、本当に非現実的だと言える描写は、マリアと抱き合って浮遊する場面のみです。
この浮遊も、宙に浮かんでいるのではなく、とりまくすべてのものとの非接触の状態、もしくはマリアのみとの接触の状態を描いたら結果的に浮遊して見えているのではないかと思っています。木に水をやるというのも物質への接触です。戦争が起これば、人間は他人や物質との暴力的な接触を余儀なくされます。人はどのように他人や物質と接触するのか、人にはどのような接触の仕方があり、人はどのような接触を望むのか。
彼にとって、全てを捨てることとは、すべての愛する人や物質と接触しないことを意味していました。アレクサンデルが捧げた犠牲とは、接触です。そして、接触とは世界との繋がりです。
アレクサンデルは、“坊や”との接触により繋がっていた世界を変えるために、マリアと接触することで世界を繋ぎ替えたのでしょうか。接触と、世界の繋ぎ替えを表すために、浮遊して(とりまくすべてのものとの非接触状態)セックス(繋がる)し、回転(変更)する必要があったのかもしれません。

世界と繋がるとは、物理的に接触すること。世界を変えるとは、物理的に接触し続けること(もしくは浮遊し、繋がり、回転すること)。となると、世界とは物理的に接触され得るものだと思うのですが、そうなるとロゴスってなんだろうなと、それこそ“坊や”の「はじめにロゴスありき。なぜなのパパ?」と思うわけです。音や声というのは物理的な存在ですが、その音や声に含まれる、意味や感覚といったものは、確かに存在するのに物理的なものではありません。
接触される世界という知覚の中で、ロゴスはどう位置づけられるのか。映画のラストで、それまで話さなかった子どもが、初めて発する「はじめにロゴスありき。なぜなのパパ?」という言葉は、明らかにロゴスとして描かれています。そして、子どもが語ることで、ロゴスが課題でも疑問でもなく、不思議としてあるように感じられます。ロゴスは不思議だというロゴス。このぐるぐると回転する言葉は、世界の初めにあるロゴスであり、初まりも終わりも無く、完結せずに回り続ける円環です。この不思議なスピンが、世界のミニマムなのかマキシマムなのか。小さな家や、古い地図など、物理的な存在のイメージが縮む描写がいくつかあることから、それが私にはまだよく分かりません。このロゴスが世界を駆動させているスピンのようにも感じています。
今考えているのは、このスピンがミニマムなら、世界は波紋かもしれない。マキシマムなら、世界は冒頭のレオナルド・ダ・ヴィンチの『東方の三賢人の礼拝』に繋がるだろう、ということです。すぐには分かりそうもないので、今のところを書きとめておきます。


タルコフスキー監督は、正気なリアリストですね。
この映画を多感な時期に見ていたら、苦しんだだろうなと思います。アレクサンデルみたいに、まったくもって正気な頭で考え抜いた末に放火とかしていたかもしれません。
家が燃えると、アレクサンデルがどうでもよくなり、ラストの“坊や”の回転する言葉に世界の平安を感じます。炎で高揚して、回転で安定するわけですが、あの家族どうなっちゃうの?とか、心底どうでもよくなります。
ハッピーエンド、アンハッピーエンド(バッドエンド)に続く、第三のエンディングとしてファイアエンドというのはどうでしょうか。ファイアエンドが見たい気分の時が確かにあります。

劇中に2度ほど出てくるアレクサンデルの横座りで思い出したアンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』(1948年)を見て、芋づる式にアンドリュー・ワイエスの他の絵を見たのですが、『サクリファイス』の画は彼の絵画に似ています。格好良い絵ばかりです。

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見つけたニュースです。日本でも4Kで見れたらいいですね。
cinefil.tokyo

『ブレードランナー 2049』(2017年)感想・ネタバレ

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ

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ムビチケを購入しておいたのですが、デッカードとKのバージョンがあって、一瞬迷ってデッカードのにしたんですよ。Kのこと知らないし、場合によっては何の思い入れも持てないキャラになるかもしれない、と思って…。

結果、Kにしとけばよかった!失敗した!と今、激しく後悔してます。

この映画をデジタル上映映画としてどう見せるのか、が一番の関心事だったのですが、Kに泣かされて、それどころではなくなってしまいました。

デジタル映像の特徴的なバグであるゴーストをストーリーの主軸に持ってきています。本編前のロゴのバグ演出や、ジョイが娼婦と重なって愛を実感するくだりなど、ストーリーの流れも分かりやすかったと思います。

前作の世界は、映写機上映の時代が終わったことで回転を止め、荒廃が進んでいます。今作では、その回転が止まった世界に、プロジェクターという幻灯機を用いたファンタスマゴリー(幽霊ショー)が投影されています。プロジェクションマッピングをイメージすると分かりやすいかもしれません。



総評としては、こちらを読んでいただければ間違いないかと。

小島秀夫が観た『ブレードランナー2049』ブレードランナーは“ユニバース”の夢を見るか?http://bunshun.jp/articles/-/4698

ただ、ネタバレは当然されていないので、以下に私のネタバレ感想を簡単に書いておきます。

「木彫りの馬の記憶を見て泣くアナ。木彫りの馬を炉に隠した子どもと目が合う記憶。」

映画終盤にある、上記の一連のフラッシュバックで、なぜKが命を懸けて戦うのかが示されています。
Kは、木彫りの馬の記憶が、誰の視点の記憶なのかに思い至り、その記憶を自分の記憶として持つ唯一の者として、家族のために戦う道を選びました。ゴーストとして生きる道を選んだのです。

映画のラストで、アナのいる施設に入る前に、デッカードがKに「お前は俺の何なんだ」的なことを聞くわけですが、黙っているKが切ない。「お前の死んだ息子だよ!」と代わりに言ってやりたい。

Kが倒れて眺める雪を、アナがドームの中に作り出して「綺麗でしょう?」と、デッカードに語りかけています。双子のユニゾンですかね。

アナの作り出す、まるで本物のような記憶には、Kが見る世界や、彼の生きた実感が含まれているのかもしれない、そして、その記憶が未来に継承されていくのかもしれない、と思わせてくれる希望の持てるラストでした。

『散歩する侵略者』(2017年)は、とてつもなくロマンチックな愛の映画かもしれない。

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暢気にリュミエール関係の文章を読んでいて気がついた、『散歩する侵略者』(2017年)のことについてです。
まずは、以下の引用をお読み下さい。

CineMagaziNet! No.2(Last Update: June 29 1998) リュミエール兄弟のアルケオロジー 長谷正人より
(視覚的) 失認症とは、視覚的には対象を間違いなく把握しているにもかかわらず、それを「概念的にもしくはシンボリックにアイデンティファイすることができない」状態のことであり、「視覚的情報がある種の原初的な疎遠さ(strangeness) を伴って経験される状態」のことである。たとえば、そこに「顔」があることは知覚できていても、それが妻であることが分からなかったり、そこに「表面は切れめなく一様につづいていて、全体がすっぽりと袋のようになって」おり、「先が五つにわかれていて、そのひとつひとつがまた小さな袋」になっている物体があることは知覚できても、それが「手袋」であるとはどうしても認識できないような病理なのである(Sacks(1)[1985=1992:29-52])。 クレイリーは、この「失認症」と映画的視覚の出現を、西欧社会における「視覚」の認識枠組みの歴史的再編成のもとで起きた同じ問題として論じている(15)。なるほど、そこに「二人の男女が赤ん坊にスープを飲ませる光景」があることは知覚していても、それを「家族の温かい団欒」としてシンボリックにアイデンティファイすることもなく、「風」の気配ばかり感じ取っているカメラ的視線は、失認症的な視覚世界と言えるかもしれない。

全文はこちら
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/NO2/ARTICLES/HASE/8.HTM

映画的視覚と「(視覚的)失認症」は、偏りなき「非= 文化的」視覚であり、共通の視覚世界と言えるかもしれない、と書いているのですが、ここで書かれている「視覚」が、『散歩する侵略者』の侵略者そのものに思えてしょうがないんですが。
彼らは、散歩するカメラなんですかね。
すぐに映画を確認したいのですが、京都は上映が終わってる!
加瀬真治(松田龍平)の目線のショットとか、どうなっていたでしょうか。

彼がカメラだったら、愛の概念を奪うことで、世界侵略が出来なくなった理由が分かるんですが、そうなると、とにかくもう、とてつもなくロマンチックな愛の映画だということになります。「黒沢監督にしては」とか、最早そんなレベルではなく、映画史とか、そのレベルの愛の映画です。
とりあえず、11月25日~の兵庫の上映で確認しようと思ってます。

『リュミエール!』(2017年)を見た!

監督:ティエリー・フレモー

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リュミエール!』を見ました!
感嘆符が相応しい映画です。

私は子どもの頃、何か面白いものが見れないかなと思って、よく家のベランダに出て、外を長時間見ていました。『グラン・トリノ』(2008年)でポーチの椅子に腰掛けて外を見ているイーストウッドを見て、同じようなことをしている、と思ったものです。

具体的に何が見たい、というのは無かったのですが、野良犬に追いかけられている人とか、大きなトラックが走って行くとか、珍しいものといってもその程度なんですが、そういうものを見ると、今日は良いもの見れたな、と思うわけです。(ちなみに外を見ていて見れたもので、一番凄かったのは、空を落下する火球です。)

リュミエールの映画には、そういう見たいものが全部あります。
見たかったものを、リュミエールは気づかせてくれます。

実際に数日前にあった決闘を再現した、『ピストルによる決闘』(1896年)の、「皆さん見てないでしょう、見たいでしょう、これです。」みたいな、人が見たいものを余すことなくすぐ見せるフットワークの軽さで、『工場の出口』のような、生理的な見る欲求に忠実な映画や、『水浴』のような蠱惑的な反復。タイトル分かりませんが、画面を斜めに横切る境界の右側に川があり、その川で馬とアヒルが競争していて、左側の岸で人と犬が右往左往している、何をどう見ればいいんだと混乱させられる不条理もの。『金魚鉢の中の金魚』(1895年)の丸い金魚鉢の中の金魚たちの無軌道な動き。『セーヌ川から撮影したエッフェル塔』(1897年)のような、動かない巨大建造物をセーヌ川の流れの動きで見せる美的感覚。

とにかく人も街も絶えず動いています。カメラの前で止まりそうなものがあったら、リュミエールのエージェントが押して動かしますからね。『ピストルによる決闘』でも撃たれて死んだ人は、すぐ運ばれて動かされます。
リュミエールの映画では、たとえ死んでも止まれません。

そして、それらはどれも見ていてとても気持ちがいいのです。
ノーストレスかつ、生理的な見たいという欲求にダイレクトに応えてくれる映画ばかりです。
ティエリー・フレモー監督には感謝しかありません。

多くの人にリュミエールの映画を見て欲しい。そして、映画の始まりとしてだけではなく、映画の原子としてリュミエールを見て欲しい。そして、そういう映画を求める人や作る人がいっぱい出てきて欲しい。

映画は、人の見たいという生理的な欲求に叶ったものなんだとつくづく思いました。

リュミエール!』素晴らしいので、みなさん是非見ましょう!

『ブレードランナー』あらすじ・解説

監督:リドリー・スコット

ブレードランナー2049』(2017年)が間もなく公開されます。ということで、SF映画の金字塔『ブレードランナー』を見直してみようと思います。

はじめに

この映画は、「リサーチ試写版(ワークプリント)1982年」「オリジナル劇場公開版(1982年)」「インターナショナル劇場公開版(1982年)」「ディレクターズ・カット(最終版)1992年」「ファイナル・カット(2007年)」といった、5つのバージョン違いが存在し、その全てがソフトで見られるようになっています。
また、この映画の熱狂的なファンは、それら手持ちのソフトを見直しながら、ああでもないこうでもないと語り合い、監督や出演者、スタッフの証言などから細かく設定を探り、小道具に付された形而上的、または心理学的意味づけから、果ては使用されたセットや小道具のその後の足取りまで、とにかくありとあらゆる情報を『ブレードランナー』に加え続けています。

なので、『ブレードランナー』は「カルト映画」なわけですが、今回はそこを一旦忘れて、ただの一本の映画として見直してみようと思います。
この記事は、『ブレードランナー2049』(2017年)を見る前に見直しておくなら最新版かなと思い、『ブレードランナー ファイナル・カット』(2007年)を見て書いています。

物語のあらすじは単純なんですが、あらすじの裏に隠された物語が絶対あるだろう、と思わせる意味深長な映画です。そこらへんが「カルト映画」たる所以なんだと思います。なんか絶対ある!と思って謎解きにのめり込んでしまうのでしょうね。
そして、フイルム・ノワールを思わせる、光と影のコントラストが強調された画面作り。煙や湯気やネオンや人ごみといった、アジア的なイメージが何層も重なった虚無的で退廃的な夜の街の風景。そこに降る、シュヴァルツヴァルト酸性雨。そして、ジョニーウォーカー ブラックラベル。
めちゃくちゃ気取った白黒映画に、雑多な光のレイヤーを重ねたような、黒く眩いアンビバレントな未来都市がとにかく格好良いです。またそのような世界の描き方が、デザインで統一されているというよりも、絵画的なタッチで統一されているのが、これまた格好良いです。

この映画の原作は、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年)ですが、映画のタイトルは、主人公デッカードの職業名である、ブレードランナーに変更されています。ブレードランナーという名称の元ネタについては、ネット上に散々書かれている通りだと思いますが、なぜこの名称が映画のタイトルに採用されたのでしょうか。
その答えは、映画のいたるところに映るものから推測出来ます。
この映画には、いたるところに、シーリングファンの羽根、扇風機の羽根、とにかく回っているものの羽根を意味するブレード(blade)が映っています。
主人公デッカードは、このブレード(blade)を走る者(runner)なのです。
だから、タイトルはブレードランナーなのです。
(いや、ソファーで寝たり、車を運転したりしてたけど)と思われると思うのですが、この映画は、物語の扱う主要な題材ゆえに、物語の理論とその構造を担う、舞台装置が設けられています。登場人物たちは、2019年の未来都市ロサンゼルスを行き交いながら、その舞台装置の上にも配されています。この映画の舞台は、私たちが知るところの設定と物語にそれぞれ設けられ、それらが重なっているのです。

この物語が扱う主要な題材とは、白昼夢です。
この白昼夢という題材により、「映画が何でもあり」の状態になることをリドリー監督は嫌ったのでしょう。白昼夢の理論とその構造。そのような、あるんだかないんだか分からないものが想定され、物語は語られていきます。
その白昼夢の舞台装置とは、映写機の原型に限りなく近づいたといわれる、動く画を見る回転装置「プラキシノスコープ」です。


プラキシノスコープ
フランスのエミール・レイノー(1844-1918)によって発明された。
回転ドラムの中央に鏡の円筒、その周囲に挿絵の帯がある。中央は十二枚の鏡から構成されていて、そのそれぞれが挿絵の帯に描かれた十二枚のデッサンの一つ一つを映し出す。装置が回転すると、観客は一度に一枚の挿絵だけしか見ることができない。その挿絵は観客の視線に直角に置かれた鏡によって映し出される。
参考文献 ジョルジュ・サドール著『世界映画全史1 映画の発明-諸器機の発明 1832-1895 プラトーからリュミエールへ』(1992年)


この白昼夢の装置の外周面に、デッカードがいる世界。中央の鏡面にレプリカント、ロイ達の世界があります。そして、この装置の上空では、本来のプラキシノスコープには無いブレードが回転しています。
なぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのかについては、文末のおわりにで触れます。

この装置の暗喩は、シーリングファンや扇風機としても映画の中に示されますが、一番分かりやすいのはビルの屋上のショットです。


カメラは回転するように動き、その上を飛ぶスピナーも旋回する
※スピナー(Spinner)には、“急回転するもの”の意味がある

この装置により、時間の流れが無い(固定された画)外周世界と、時間の流れがある(鏡に写る動く画)中央世界の構図が出来上がります。
そして、円環(ループ)する物語が見えてきます。

時間の流れに気づくために、外周世界からブレードを渡り中央世界へ行く。
それがブレードランナーである、主人公デッカードの物語です。

以下であらすじを確認しながら、『ブレードランナー』のショットや場面、小道具について意味するところを探り、この映画が何を描いているのかについて、最後まで書いていきます。

登場人物

警察組織

リック・デッカード レプリカントを解任する専任捜査官ブレードランナー
ガフ        デッカードの案内人、スピナー操縦士
H・ブライアント   ブレードランナーの統括者
ホールデン     ブレードランナー、リオンを取調べ中に銃殺される

レプリカント

ロイ・バッティ   リーダー、戦闘用男性形
レイチェル     タイレル社秘書、デッカードと恋人関係になる
プリス       兵隊慰安用女性形
リオン       戦闘用男性形
ゾーラ       戦闘用女性形

タイレル

エルドン・タイレル 社長、天才科学者、レプリカントの創造者
JF・セバスチャン  遺伝設計技術者、早老症を患う
ハンニバル・チュウ 眼球製造者

あらすじ①

空から見下ろす、2019年11月のロサンゼルスの街の景色。そして、大きな瞳。タイレル社の外観。

タイレル社で被験者を待つホールデン。そこへリオンが入って来る。リオンにVKテスト(対象が人間かレプリカントかを判別する検査)を行うホールデン。いくつかの質問の後、「思いついた言葉で描写したまえ、母親について」と問い掛けたホールデンに、リオンは銃を向け、「返事はこれだ」と弾丸を撃ち込む。

荒廃した夜の街に酸性雨が降っている。地上の通りは、様々な人種の人で溢れ、街の喧騒には、あらゆる言語が混じっている。
人類の多くは、既に宇宙の新天地へ移住した。新天地移住につきものの過酷な労働は、タイレル社が開発したレプリカントと呼ばれる人造人間が担い、そこでは快適な生活が約束されている。
街の片隅で新聞を読んでいる主人公のデッカードは無職である。通りの日本人店主の呼び込みに誘われ飯屋へ入るも、片言のやりとりでメニューの注文もままならない。そこへ警察官を伴ったガフが現れ、ブライアントからの召集が告げられる。デッカードは、空飛ぶ車スピナーに乗せられ、ブライアントの元へ連れられて行く。
ブライアントの仕事の依頼はこうだ。
「新天地で奴隷労働をしていたレプリカント6体がスペース・シャトルをジャックし、地球へ来た。そしてタイレル社へ押し入り、2体が死亡した。残りの4体を見つけ出し「解任(殺害)」せよ。」
デッカードは、足を洗った元ブレードランナーだ。元職に復帰するつもりも無い。彼は、もう一人のブレードランナーであるホールデンに、この仕事を任せるようブライアントに提案する。しかし、ホールデンは問題のレプリカントに既に殺害されていて、任せられるのはデッカードしかいない、とブライアントは言う。それでも嫌がるデッカードに対し、ブライアントは、「権力には勝てんぞ」と脅しをかける。
デッカードは脅しに屈し、渋々任に就くこととなる。
そして、ターゲットのレプリカントの詳細が告げられる。
「戦闘用男性形でリーダーのロイ、ホールデンを殺害した戦闘用男性形のリオン、戦闘女性形のゾーラ、慰安用女性形のプリスの計4体であり、これらレプリカント「ネクサス6型」は、感情以外は人間と変わるところのない人造人間であり、その感情も、製造されてから数年経つと芽生える。そうなると面倒なので、安全装置として4年の寿命が定められている。」
「ひとまずタイレル社に1体いる、ターゲットとは別のレプリカントをテストしてこい。」とのブライアントの指示に従い、デッカードは空飛ぶ車スピナーに乗せられ、タイレル社へと向かう。

あらすじ①について

※オープニングの大きな瞳については、あらすじ②についてで解説します。

主人公デッカード

まずは、映画が始まった時点における、デッカードの状況についてです。
無職、独り身、招かれて反応する行動原理、言語によるコミュニケーションの困難さなどから、「どうしてよいか分からず迷っている人」、いわゆる新約聖書のマタイによる福音書に出てくる「迷える子羊(ストレイシープ)」状態であることがうかがわれます。

そして、ブライアントからの断ることの出来ない仕事の依頼は、選択される二人の内の一人であるホールデンが既に死亡していること。人間の欲望の為に製造されたレプリカントの始末を、その恩恵に授かっていないデッカードが負わされる事から、贖罪の儀式で、イスラエルの人々から贖罪の捧げものとして貰い受ける二匹の山羊の内の一匹である、民の罪を負わされ、荒れ野の堕天使アザゼルのもとへ放逐される「贖罪の山羊(スケープゴート)」の運命を担わされたことが分かります。
(二匹の内の一匹は、主に捧げられる【生贄として殺される】)
羊であり、山羊でもあるという、ややこしい奴です。ここは、デッカードの自己認識は「迷える子羊」であり、運命は「贖罪の山羊」であると捉えましょう。
レプリカントの説明ですが、感情以外人間と変わるところがなく、その感情も数年経つと生まれるそうで、それってもう人間じゃん、と思わずにはいられません。

プラキシノスコープの暗喩

リオンがVKテストを受ける部屋の、天井で回るシーリングファン。ブライアントの事務所の扇風機。ブライアントの机上にある、写真のランプシェードは、ランプ付きプラキシノスコープの暗喩です。

シーリングファン


左:扇風機と写真のランプシェード、右:ランプ付きプラキシノスコープ


ガフの折り紙:白い鳥


ブライアントの事務所で、ガフは白い鳥の折り紙を折ります。この白い鳥は、その場にいるデッカードとブライアントは見ていないことから、観客に向けたメッセージとして機能します。
ガフが観客に向けて折った白い鳥のメッセージとは、「白い鳥を見よ」です。
ガフの存在も含め、詳しい説明は追ってします。

あらすじ②

タイレル社。社長のタイレルに請われ、デッカードは、社長秘書のレイチェルにVKテストを行う。レイチェル退席後、デッカードは、「彼女はレプリカントである」とのテスト結果をタイレルに告げる。タイレルは、「レイチェルは自分がレプリカントであることを知らない」こと、そして、自分は人間以上のロボットを作ろうとしていること、彼女がその試作品であること、彼女に感情が芽生えつつあり、そのために苛立っていること、その対策として過去の記憶を与えるつもりであることをデッカードに話す。
その後、デッカードはガフの運転するスピナーで、リオンがVKテストを受けた際に宿泊していると言っていた、フンタバーサホテルへ捜査に向かう。そして、鱗と写真を手に入れる。
この時、ロイとリオンは、ホテルの下まで来ていたが、ホテル内に人の気配があったため、自分たちの痕跡を回収出来ずにその場を立ち去る。その足で二人は、眼球製造者ハンニバルを訪ね、ハンニバルを脅し、タイレルに会うためには遺伝設計技術者のJF・セバスチャンの案内が必要であるとの情報を得る。
デッカードは自宅で待ち伏せしていたレイチェルに会う。レイチェルは、子どもの頃の写真をデッカードに見せ、私をレプリカントだと思うか否か、と問う。それに対し、君はレプリカントで、過去の記憶は植え付けられたものだと答えるデッカード。それを聞いて、彼女は涙を流し立ち去ってしまう。
一方、レプリカントのプリスは、タイレルに接触するためセバスチャンに接近し、彼の自宅へ潜り込むことに成功する。
ユニコーンの白昼夢を見たデッカードは、ホテルで回収した写真をPCで拡大し、その写真に写る凸面鏡に写りこんだ、眠る女の姿と鱗のようなものを発見する。

あらすじ②について

デッカードがレイチェルと初めて会って交わす会話は、フクロウについて話しをしている態でレイチェルについて話すデッカードと、フクロウの話しをしていると思っているレイチェルです。
「人工か?」「もちろんよ」「高そうだな」「ええ、私レイチェル」
昔のウィットに飛んだ会話というのは、たいがい高度なセクハラですね。

オープニングの大きな瞳

レイチェルがVKテストを受けるタイレル社の一室の窓から見える太陽の位置が、オープニングで街やタイレル社を見下ろしていた位置、つまり、その見下ろす位置のショットと切り返されていた瞳の位置を思わせます。テストのために部屋の明かりを落とすショットも、瞼を閉じる瞳を思わせます。


瞼を閉じる大きな瞳のようなショット



レイノーの投影式プラキシノスコープ

プラキシノスコープは後に進化し、1880年に投影式が開発されます。これは、環状に配列された一連のガラス板上に描かれた挿絵の帯に、外側から強い光を当て、その光を鏡が受けて反射し、その反射した光が拡大鏡を通って、スクリーンに画が投影される装置です。
この場面の太陽が、投影式プラキシノスコープの強い光を意味し、その光が拡大され、スクリーンに投影されたものを私たちが見ているという暗喩だとすると、オープニングの瞳のショットは、『ブレードランナー』を見ている私たちの瞳ということになります。拡大鏡を通して、光の像(『ブレードランナー』)を見る私たちの瞳は、2019年のロサンゼルスからは、空から街を照らす光をたどった先にある、大きな瞳なのです。


おわりになぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのかオープニングの大きな瞳に関する補足があります。


ガフが作るマッチ棒の人型

ガフがフンタバーサホテルで作るマッチ棒の人型は、デッカードが見ています。
ガフがデッカードに向けて作ったマッチ棒の人型のメッセージとは、「お前は見られている」です。
ただしこのメッセージは、デッカードが見ることで、私たちがその意味を知るメッセージになります。
この後のロイの初登場場面で、ロイが「写真の回収はできたか」とリオンに聞くと、リオンは「誰かいた」と答えます。それに対しロイは、「男か。警察か」と聞きます。マッチ棒の人型は、素材や色などが分からないシルエットです。そして、その人型のシルエットには、男根、もしくは腰に携える拳銃のような突起が付けられています。あのシルエットを見て、何であるかの連想ゲームをしたら、答えの多くは、「男か。警察か」なんではないでしょうか。このことから、ロイがデッカードの目線を見ている可能性が仄めかされています。
この、デッカード(の目線)が誰かに見られている、というメッセージは、この後の場面にも出てきます。

デッカードを見る者

それは、デッカードがホテルで回収した写真を、自宅のPCで拡大して見る場面です。
デッカードの見つめるモニターの右横にジョニーウォーカー ブラックラベルが置かれています。そして、彼が見つめる写真の中の凸面鏡の右横にもジョニーウォーカー ブラックラベルが置かれているのです。

ここでは写真を介して、過去のある一瞬を捉えてシャッターを切った誰かの目線と、デッカードの目線が重なっています。デッカードは、誰かの過去の目線に自分の目線を重ねていますが、そのデッカードが見つめるモニターの右横にもジョニ黒があることから、現在のデッカードの目線も誰かの目線と重なっていることが暗示されています。
この写真には、レプリカントと思われる男性の姿も写っていますが、ロイの右腕にあるタトゥーのような模様が無いため、この男性はロイではないことが分かります。


マッチ棒の人型のメッセージと、その後のロイの台詞「男か、警察か」から、ここでもまた、この写真の撮影者がロイであり、過去のロイの目線に自分の目線を重ねるデッカードの目線が、現在もロイの目線と重なっている可能性が仄めかされます。
デッカードの見つめるモニター右横のジョニ黒は、正面からモニターを映したショットには映るが、右横からモニターの側面を映したショットには映らない。カットが繋がっていないミスだが、解消するために、モニターを正面から映したショットのジョニ黒をトリミングで消すことが可能なはずなのに、それをしていない。このことからも、意味のある小道具だということが分かる。)

デッカードが見るユニコーンの白昼夢

デッカードが見るユニコーンの白昼夢は、彼の自己認識の変化の兆しを感じさせます。
彼の自己認識は、「迷える子羊(ストレイシープ)」ですが、「迷える子羊」とは、客体的な自己認識とも言えます。世界の中で、自分がどのような状況であるかという、他者と自己の相対化によって生まれる自己認識です。この、客体的な自己認識が主体的な自己認識に変化すると、孤独な「迷える子羊」は、孤高の「ユニコーン」に変化します。例えば、(「ぼっち」ではなく、「ソロ」なのだ)(友達がいないのではなく、一人が好きなのだ)といった自己認識の切り替えです。これは、客体的なものから主体的なものへ認識を切り替えることで可能となる自己認識の読み替えです。
なのでこの白昼夢は、客体的な「迷える子羊」が、主体的な「ユニコーン」へと変化する、その兆しのヴィジョンと言えます。

あらすじ③

デッカードは、写真に写る情報を手掛かりに、ホテルで回収した蛇の鱗の持ち主、タフィー・ルイスの居場所を突き止める。しかし、タフィーからレプリカントに関する何の情報も引き出せず、捜査は行き詰る。デッカードは、レイチェルをバーに呼び出そうとするが、こちらも振られてしまう。
一人で酒を煽りながら、始まったショーに目をやるデッカード、そこで踊り子に扮したゾーラを見つける。
デッカードは、バックヤードでゾーラを待ち伏せし、芸人組合の者に成りすまして彼女に声を掛け、ゾーラの後に次いで楽屋に侵入するも、ゾーラに言動を訝しがられ、攻撃され、そのまま逃走されてしまう。街中を逃走するゾーラと、それを追うデッカードデッカードは背後からゾーラを撃ち、ゾーラの解任(殺害)は完了する。
その様子を、通りで目撃するリオン。
リオンはデッカードの後を追い、一人になった隙を見て、デッカードに襲いかかる。持っていた銃を振り落とされ、一方的に殴られ、目を潰されそうになるデッカード。その時、リオンの背後にレイチェルが現れる。レイチェルは、デッカードが落とした銃でリオンを撃ち殺す。
自宅に戻ったデッカードとレイチェルは接近し、二人は結ばれる。
一方、セバスチャンに接近したプリスは、そこへロイを招き入れる。ロイはセバスチャンに、「寿命を延ばしたい」という自分たちの目的を告げ、彼を脅して取り入り、彼の案内でタイレル社へと向かう。
ロイはタイレルに会うが、寿命を延ばす方法が無いことを知る。
ロイはタイレルの目を潰して殺害し、続けてセバスチャンも殺害する。

あらすじ③について

ゾーラの死

半裸の状態に透明のレインコートをまとい、街を逃走するゾーラの姿は、あらゆる表象を脱ぎ捨て、懸命に生きようとする者の姿です。ゾーラが背中を撃たれながらも前に進み、突き破るショウウィンドウの透明なガラスは、様々な目に見えない境界を表しています。五枚のガラスがそれぞれ何を意味するのかは分かりませんが、最後のガラスは、生と死の境界です。彼女は、最後のガラスを突き破り、イミテーションが並ぶショウウィンドウから街の通りへ飛び出し息絶えます。このゾーラの死に様は、レプリカントがイミテーションではないこと、死が現実であることをデッカードに伝えています。


それを目撃するリオンの顔に、車のドアガラスが重なります。彼の生と死の境界もまた、目前に迫っていることが暗示されています。

リオンの最後の言葉

リオンは、「起きろ、死ぬ時だ」と言って、デッカードの目を潰そうとします。この台詞とリオンの行動から、起きることと死ぬことが同義であること、また目が潰れることと死ぬことも同義であることが分かります。
起きること・目が潰れること=死ぬこと、となる世界とは、夢の世界です。
現実では、誰も見ていない山奥で人知れず花が咲いて枯れますが、夢の世界では、そのようなことはありえません。見られていないものは存在しないのです。
ロイがデッカードの目線を見ている可能性があり、そのことをデッカードが知らないことから、デッカードはロイの夢の中の姿であると推察出来ます。
ロイは夢の中で、デッカードなのです。
そして夢の中の世界で、夢を見ている者(ロイ)と、夢として見られている者(デッカード)を繋いでいるのは、夢として見られている者の瞳です。デッカードの瞳が潰れることは、この夢の中の世界で、デッカードが存在出来なくなること、つまり死ぬことを意味します。夢を見ている者が目覚めている時も、夢として見られている者は存在しません。なので、起きること・目が潰れること=死ぬこと(存在が無くなる)となるのです。
ロイがタイレルの目を潰すのも、同じ理由からです。

タイレルは誰の夢か

ということは、タイレルも誰かの夢の中の姿ということになります。
そして、デッカードとロイのように、時間を掛けて、関係性を匂わす暗示を散りばめているとは考え難いことから、分かり易くタイレルの目線と切り返されて映る者が、その人物ということになります(ユニコーンの白昼夢もデッカードが見ているショットと切り返されることで、デッカードの白昼夢だと分かる)。
それが分かるショットは、セバスチャンがロイを連れて、タイレルの寝室に入ってくる場面にあります。セバスチャンが扉を開けて入ってくる時のショットは、タイレルの目線のショットです。そして、その直前にレプリカントのフクロウのアップショットが挿入されていることから、タイレルの夢を見ているのは、レプリカントのフクロウであることが分かります。フクロウのアップショット→タイレルの目線のショット→扉の方向を見るタイレルを斜め前から捉えたショットとなり、目線のショットを軸に、フクロウとタイレルの関係が表されています。
そうなると、「鶏が先か、卵が先か」と同じ問題が浮上するのですが、これは回転するプラキシノスコープの円環(ループ)の物語なので、始まりも終わりも無いのです。
ややこしいと思うのですが、このことは、オープニングの私たちの瞳が、『ブレードランナー』という夢を見ている暗示でもあります。夢は、現実の瞳で見ていません。そこに、夢の中の瞳(ロイにとってのデッカードの瞳、フクロウにとってのタイレルの瞳と同じもの)が想定されています。そして、私たちが目を開けて『ブレードランナー』を見るように、彼らもまた、目を開けて見る夢、白昼夢を見ていることが示されています。

トンネル

デッカードが、ロイの白昼夢の中の姿であることが分かると、意図が見えてくる場面があります。
それは、デッカードが車でトンネルを抜ける場面です。劇中に二度出てくるこの場面は、二度ともロイの登場場面の次に出てきます。そしてこのトンネルを抜ける場面には、この場で聞こえる音だとは言い切れない音がオーバーラップしています。一度目の場面の銃声は、デッカードが車内で流しているリオンのVKテストを撮影したビデオの音(リオンがホールデンを撃った音)に聞こえますが、走る車を外から撮ったショットに重なり、トンネル内に響いています。前の場面で、ロイとリオンが眼球製造者のハンニバルに会い、「タイレルの元へ案内できる者を教えろ」とハンニバルを脅していたことから、その後口封じのためにハンニバルを殺害したのだと推測すると、リオンのVKテストの音の暗喩から、リオンがハンニバルを撃ち殺した音がトンネルの場面に重なり、響いたと思われます。

一度目のトンネル場面

二度目の場面には、トンネルのショットのどこにも映っていないパトカーの音が重なっています。この音は、前の場面でタイレルとセバスチャンを殺害したロイの元に駆け付けた警察の音と推察出来ます。画面には、車でトンネルを走るデッカードが映っていますが、前の場面の続きが音だけ重なって聞こえています。これは、夢へ入って行く時に、点いているテレビの音や、外から聞こえる救急車の音が流れ込んでくる現象を表した場面です。

二度目のトンネル場面

また、二度目のトンネルの場面では、ロイとトンネルのショットがオーバーラップしています。ロイに重なったトンネルのショットが、デッカードの目線であることから、ロイの姿とデッカードの目線を重ねることで、ロイがデッカードの目線の持ち主であることを示す、切り返しを重ねたショットと言えます。

JF・セバスチャンが暮すブラッドベリー・アパート

セバスチャンが一人で住む過疎地域のブラッドベリー・アパートには、大量の人間の模造品があります。それは、ここがプラキシノスコープの中央世界であることを意味しています。プラキシノスコープの中央の鏡には、外周の人々の姿が集約され映ります。その鏡に映る人々の鏡像が、大量の人形として表されています。また実際に、鏡やその暗喩となる四角い枠もたくさんあります。
セバスチャンが暮らす部屋には、壁掛け時計があり、時を告げる音が鳴ります。中央世界の住人である彼は、時間の流れの中で暮らしています。だから彼は老いていきます。ここには外周世界には無い、時間があります。


人形・鏡・枠

壁掛け時計


あらすじ④

デッカードの元に、ブライアントからタイレルとセバスチャンが殺害された連絡が入る。デッカードブラッドベリー・アパートへ向かい、待っていたプリスを解任(殺害)する。

あらすじ④について

この後のデッカードとロイの対決は細かく見ていくので、まずはプリスの殺害について書いておきます。
兵隊慰安用として従属させられていたプリスは、花嫁のベールを被ってブラッドベリー・アパートにいました。色々見方はあると思いますが、死に方をふまえて考えると、花嫁のベールは処女の印に見えます。処女の花嫁は、デッカードに腹部を撃たれ、長い間激しく痙攣します。この悲痛な痙攣が、彼女の忌まわしい性の経験を凝縮しているように感じました。その後、ロイがプリスの死体を見つけるのですが、この時、死んだプリスは舌を出しています。このことは、性の痙攣が死の痙攣、つまり首吊り自殺を表していて、だからプリスの舌が出ていると捉えることが出来ます。彼女は忌まわしい過去の記憶に苛まれ、その記憶を抱え生きていくことに耐えられなくなり、首を吊って自殺した女性に見えます。



あらすじ⑤

※<あらすじ>を追いながら、その都度細かく見ていきます。

デッカードがプリスを解任(殺害)した直後、ロイがブラッドベリー・アパートに戻ってくる。気配を感じ、ドア越しに銃を構え、待ち受けるデッカード。奥のドア枠にロイの姿を見つけ発砲する。>

レプリカントという鏡像

四角いドア枠は、ここでは鏡の暗喩として出てきます。デッカードはロイにとって、白昼夢の中の自分ですが、デッカードにとってのロイは、ブレードを渡った先の中央世界(鏡面)に映る自分の姿であることを表しています。


<壁際で銃を構えるデッカードの腕を、ロイが壁を突き破って掴み取る。デッカードに殺されたゾーラとプリスの報復だとして、ロイはデッカードの指を2本折る。>

レプリカントの白昼夢

白昼夢の中でデッカードだったロイは、デッカードが殺したレプリカントが誰か分かっています。リオンの殺害(レイチェルのリオン銃殺は、当人たち以外誰も見ていない。また対外的にはデッカードが解任したことになっているであろうこと)が、デッカードによるものでは無いことを、ロイが知っていることが示されています。

デッカードは、ブラッドベリー・アパートの中を逃げ回りながら、折られて曲がった指を直し、痛みで叫ぶ。一方ロイは、デッカードの姿を探すそぶりもなく、アパートの中を走り回る。そして、デッカードの痛みに呼応するかのようにオオカミのような遠吠えをあげる。「見えているぞ」とつぶやくロイ。デッカードは、上階のバスルームに逃げ込み、折られた指を布で固定する。一方ロイは、「まだだ」と呟きながら、死が近づいているためなのか、動きにくくなった掌に釘を刺し、痛みの遠吠えをあげる。>

鏡と白昼夢の円環(ループ)

ロイは、白昼夢でデッカードが見えているため、探す必要がありません。「見えているぞ」という台詞は、本当に見えているのでそう言っています。デッカードが銃を落とし、デッカードの視線で落ちた銃を捉えたショットの後に、ロイは走りながら、そのことを面白がって笑い声をあげています。
また、ロイはデッカードの鏡の中の姿であることを表すかのように、枠から枠へと駆け抜けて行きます。そして、デッカードが痛みに悶絶すると、ロイが遠吠えをあげ、デッカードが負傷した手に、ロイが遅れて釘を刺すという、ワンテンポ遅れた呼応が見られることから、デッカードの鏡像であるロイが感情を持ち、デッカードになっている白昼夢を見ている。そして、白昼夢として見られているデッカードの鏡像であるロイが感情を持ち、デッカードになっている白昼夢を見ているという、タイレルとフクロウの関係と同じ、どこまでも続くループが見えてきます。

またこの場面は、レプリカントを解任する専任捜査官のデッカードが、追っていたはずのレプリカントに追われる対象になっています。これはデッカードが、「迷える子羊」であるために捕食される対象であり、ロイはその羊を捕食するオオカミに扮していると捉えることが出来ます。
また、ロイが自分の掌に釘を刺す描写は、民の罪を贖うため、十字架に磔にされたキリストの聖痕に見立てられており、「贖罪の山羊」の説話に沿った表現と見ることが出来ます。

デッカードの逃げ込んだバスルームの洗面台の壁をぶち破り、ロイが顔を出す。壁にはまり込んだ顔をロイが抜いている隙に、デッカードは壁をつたうパイプをもぎ取り、ドア枠からバスルームへと侵入してきたロイを打つ。
「いいぞ、その意気だ」
ロイの言葉に、攻撃が効いていないことを悟ったデッカードは、パイプを投げ捨て逃走する。窓を破り、アパートの外壁をつたって屋上を目指すデッカード。ロイは、その様子を満足げに見守る。デッカードは何とか屋上に上り着き、下へ降りる入口を見つけるも、そこからロイが出てきたため、進路を無くす。やむなく隣のビルに飛び移ろうとするが届かず、何とかビルの屋上の縁から飛び出た骨組みに手を掛ける。今にも落ちそうなデッカード。ロイは隣のビルの屋上から、その様子を眺めている。白いハトを手にしたロイは、助走をつけ、軽々とビルの谷間を飛び越え、デッカードの頭上へ忍び寄る。>

堕天使アザゼル

洗面台の壁も、本来なら鏡が取り付けられていたであろう所から、ロイは顔を出してきます。その後のドア枠から侵入してきたロイを、デッカードがパイプで打つ場面では、打たれたロイがよろめいて窓ガラスが割れ、その音が響いています。これは、鏡を叩いて割った音を、ガラスが割れる音で表しています。

一見、長くは生きられないことを悟ったロイが、面白おかしく享楽的にデッカードをいたぶっているように見える場面ですが、随所にロイの充実した様子や、清々しい様が見てとれます。デッカードと同じ空間にいることで、五感を実感できているような、心と身体が一致した感覚を味わっているような、そんな感じです。
また、屋上へ上がったデッカードの場面に鐘の音が重なっています。時を告げる鐘の音は、この後に来る、決定的な時を予感させます。
そして、ガフのメッセージ「白い鳥を見よ」の、白い鳥が出てきます。
また、宙づり状態のデッカードを、隣のビルから眺めるロイのショットには、「贖罪の山羊」の説話に沿った暗喩が見てとれます。


これは、仰ぎ見るような角度のショットであり、また、ロイの両背面に羽根(blade)が回っていることから、「贖罪の山羊」が捧げられる相手である、「堕天使アザゼル」とロイを重ねたショットであることが分かります。また、羽根を持つ彼は、ビルの谷間を軽々と飛び越えることが出来ます。
この後の展開で注目すべきは、白い鳥がどうなるのか、捧げられた「贖罪の山羊」を「堕天使アザゼル」はどうするのか(聖書には記されていない)、の二点です。

<ロイはデッカードの頭上に迫り、語りかける。
「恐怖の連続だろう。それが奴隷の一生だ」
デッカードの手が鉄の骨組みから外れ、落ちる瞬間、ロイはデッカードの手を掴み、屋上の上へと助けあげる。驚くデッカードの前に座り込み、ロイは話し始める。
「おれはお前ら人間には信じられぬものを見てきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船や、タンホイザー・ゲートのオーロラ。そういう思い出もやがて消える。」「時が来れば、雨の中の涙のように」「死ぬ時だ」
ロイは目を閉じ、死ぬ。そのロイの手から、握られていた白いハトが飛び立って行く。デッカードは動く鳥に驚き、瞬きをし、その口元は感嘆で開かれる。
「これで終わりましたね」その場に現れたガフの声に、「ああ、終わった」とデッカードは応える。銃を投げ渡すガフ。そのまま立ち去ろうとするも、振り向いてデッカードに告げる。
「彼女も惜しいですな。短い命とは」
自宅に戻ったデッカードは、扉が開いている事に不安を覚え、銃を構える。レイチェルを探すデッカード。そこには、眠る彼女の姿があった。「ついてくるか」デッカードの言葉に、「ついていく」と答えるレイチェル。二人が玄関を出ようとすると、足元には銀色のユニコーンの折り紙があった。それを手に取り、デッカードは頷く。>

死の間際の最後の力を振り絞り、「堕天使アザゼル」は、同じく死の間際の「贖罪の山羊」を助けます。そして、夢の中の「迷える子羊」に、死ぬとはどういうことかを説いて死にます。その目が閉じられた瞬間、白い鳥(映画冒頭では、紙で折られた偽者であり、動かなかったもの)は動き出し、空へと飛んで行きます。

贖罪の山羊

レプリカントは、感情以外人間と変わるところがなく、その感情も数年経つと生まれます。彼らがブレードランナーによって解任(殺害)されるのは、感情を持つからです。感情を持たないまま、人に従属していれば、彼らは裁きの対象とみなされないことから、この映画で罪とされているものは、感情であることが分かります。
またこのことは、「神の規準に反する行動、感情、考え」という聖書における罪の定義になぞらえられています。ロイにとって感情は、人間が課す奴隷労働からの解放を目指すための原動力になり、生きる欲望の源泉です。ロイは、感情を持つことが本当に罪なのか、という自身の苦悶に対し、「贖罪の山羊」の説話をなぞり、聖書に記述の無い、放逐された山羊と出会った「堕天使アザゼル」を生きることで、その答えに辿り着きます。
「贖罪の山羊」は、来るべきキリストの贖罪の前兆となる故事とされていることから、「堕天使アザゼル」になぞらえられたロイが、「贖罪の山羊」になぞらえられたデッカードを助けることで、人の罪はキリスト出現以前に、既に「堕天使アザゼル」によって贖われていた、と捉えることが出来ます。「キリストが贖った罪は、そもそも人の罪では無く、我々は冤罪をこうむったのだ(なぜなら罪は既に「堕天使アザゼル」によって贖われているのだから)」と解釈すると、デッカードが解任(殺害)の責を負わされた、人が作りだした罪の存在である、感情を持ったレプリカントの存在(そこで罪とされるのが、レプリカントの感情であることから、人の罪=感情となる)が、そもそも罪では無かったことになります。ロイは自らの手で、罪の定義から感情を解放し、デッカードを「贖罪の山羊」の運命から解放し、自分自身の存在を罪から解放するのです。
そして、この罪の贖いも円環の物語です。
この後キリストが誕生し、無実の罪を贖うことで人は冤罪をこうむることになる。そして人間はレプリカントを創造し、無実の罪である感情が罪とされ、感情を持ったレプリカントは解任(殺害)される。そしてロイが現れ罪を贖うのです。
ロイによる罪の贖いを完遂させるには、この円環の物語から抜け出さなくてはなりません。

迷える子羊

二人が向かい合って、ロイがデッカードに語りかける場面で、デッカードは自分の姿をロイに見つけ、ロイはどこまでも続く、眼差しの合わせ鏡の空間の中へ入っていきます。
ロイが死んだら、存在しない白昼夢の中の住人であったはずのデッカードですが、ロイが死んだ瞬間、彼の目線が彼自身のものになったかのように、空を飛ぶ白い鳥を見ます。回転するプラキシノスコープの外周からブレードを渡り、中央の鏡の世界へ辿り着き、ロイと向かい合い、彼の死を見つめ、動く鳥を見て、時が流れていることを知るのです。それは、時間の無い白昼夢の世界(固定された画の世界)からの脱却、そして彼が主体的な眼差しを獲得したことを意味します。デッカードは、客体的な眼差しを持つ「迷える子羊」から、主体的な眼差しを持つ「ユニコーン」になったのです。
またこのことは、鏡像が消え、かつ動く鳥が見える位置にデッカードが辿り着いたことを意味します。それは、デッカードが飛んでいく白い鳥を仰ぎ見たことから、彼が辿り着いた位置は、プラキシノスコープの中央にある鏡の円筒上であり、そこから私たちと同じ、スクリーンに投影された動く鳥を見たのです。これは、デッカードが私たちと同じ視点(この世界に対するメタ的な視点)を得たことを意味します。
円環の物語の続きが、円環の外にあることを知り、デッカードは円環の物語から抜け出したのです。
ロイが作り出した眼差しの合わせ鏡の空間がトンネルとなり、その空間の中へ、自分の姿を求めてデッカードが入り進んだことで、彼は鏡面を抜け、その円筒上へ辿り着いたと考えるのは行き過ぎでしょうか。
飛んで行く白い鳥の向かう空に、雲のようなものが見えています。

ガフの折り紙:銀色のユニコーン


これで終わった、と言っておきながら、ガフはデッカードに銃を投げ渡します。そして、「彼女も惜しいですな。短い命とは」と言い足します。ユニコーンの折り紙をガフが折る描写はありませんが、折り紙を見つめるデッカードのショットにガフの声が重なることから、ガフの折った折り紙と見なすことが出来ます。
ユニコーンの折り紙から導き出せるガフのメッセージは、「神と戦え」です。
神と戦うための銃(武器)、レイチェルの寿命についての台詞(動機)、ユニコーン(精神)がそろったと見なされたのでしょう。
これから物語は、円環の外へ進んでいきます。物語が円環でないのなら、タイレルレプリカントの創造主ではない可能性が生まれます。タイレルが、レプリカントのフクロウの白昼夢の中で、自分がレプリカントを創造した者であるという設定を与えられていた、などの円環を外れる可能性です。
ガフは、円環の世界の中を自由に行き来できるスピナーの操縦士であり、最後にそのスピナーで、鏡の円筒上に現れたことから、外周世界には無い時間の概念があることはもちろん、円環の外の世界も知っています。また、ロイの白昼夢の中のデッカードの水先案内人であり、私たちにメッセージを送ってきた人物でもあります。
ガフが、どのような世界を把握していて、どのような存在といえる人物かは不明ですが、これはどこにも描かれていないので推測でしかないのですが、神と戦う者を選び、導いた者なのかもしれません。


そして映画は、デッカードがガフのメッセージに気づき、そのメッセージに応えるように頷き、エレベーターに乗り込んだところで終わります。

おわりに

あらすじと解説は以上です。

デッカードのいるプラキシノスコープの外周からロイのいる鏡面、そして、私たち観客の見るスクーリーンを、同時に見ている。そして、それら全てが『ブレードランナー』という映画であり、そのような映画とは、まるで白昼夢のようなものである。といった、捉え方を要す映画です。

なぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのか

この映画の光ですが、投影式プラキシノスコープの光源しかないので、全体的に暗いです。真上から太陽が街を照らしたりはしません。
レイチェルのVKテストの場面では、しゃべるタイレルの後ろで反射光のような光がチラチラしています。たぶん投影式プラキシノスコープの照射位置に場面が重なると、太陽のように光源が見えて、その光を受けた鏡の反射光が照射されている場面に差し込むのだと思います。
また、上記のような照射位置の場面や、照射位置外の暗い場面があることから、私たちは、投影式プラキシノスコープが映し出す場面だけを見ているわけではないことが分かります。
この、「なぜプラキシノスコープで投影されていない場面が見えるのか」と、冒頭で触れた「なぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのか」、には深い関わりがあります。
まず、なぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのか、についてですが、映写機には、シャッターブレードという、映写機の照射窓を通過するフィルム(スクリーンに映るコマ)の手前で回転して、コマとコマの繋ぎ目を隠すブレード状のパーツがありまして、このパーツは、実際はスクリーンに映っているはずなのに動きが早すぎて目視出来ないパーツであり、かつ映写機にはあって、プラキシノスコープに欠けていたパーツです(あとシャッターブレードの機能さえあれば、動画の原理を満たす装置だった)。
見えているのに目視できないシャッターブレードは、物語の舞台が回転しているという暗喩の他に、デッカードの内面の動きを表し、また、外周世界の時間が帯では無く、コマとして分断しているという意味もあり、プラキシノスコープの世界にブレード(シャッターブレード)をつけることで、公開当時に映写機で投影されていた、この映画と映画以前の装置であるプラキシノスコープを、時空を超えて繋げるパーツとして用いられています。このシャッターブレードを介すことで、オープニングの瞳も、ただ単に投影式プラキシノスコープを見ている観客の瞳では無く、シャッターブレードという時空を超えた先にある、私たちの瞳として表されています。
シャッターブレードの下にプラキシノスコープの世界があり、シャッターブレードの上に公開当時の世界がある。そして、シャッターブレード越しにプラキシノスコープの世界を見ると、プラキシノスコープ全体が映写機の照射窓と同義のものになるので、照射されていないプラキシノスコープ内の場面も映し出されて見えるというわけなのです。
このシャッターブレードは、見えているのに目視できないパーツですが、この映画には、シャッターブレードと同じように、存在しているはずなのに目視できないものが出てきます。
それは、雲です。
街に散々降る雨が、上空では降っていません。ということは、街とその上空の間に雨を降らせる雲が見えないとおかしいのですが、上空から街を見下ろしても雲は見えません。いったいあの雨はどこから降っているのでしょうか。
それは、シャッターブレードを雲に置き換えて考えると分かります。2019年のロサンゼルスの上空には、ブレード状の回転する雲(台風やハリケーンのようなもの)があり、その雲が起こす風でプラキシノスコープのドラムが回転していて、あらゆる場面の繋ぎ目は、その雲のブレードで隠されている。またプラキシノスコープの世界は、その風で回転しているので、風はほとんど吹いていないが、やたらと雨は降っている状態にあると考えられます。投影式プラキシノスコープの光源がまるで太陽のように見えるように、シャッターブレードも回転する雲に置き換わって存在しているようです。そしてそれは、シャッターブレードと同じく目視できない雲として存在しています。

この映画は一つのものに対し、とにかくいくつも表象を重ねています。その全部に触れていたらキリが無いので、記事では分かりやすい表象を抽出して書いています。なのでゾーラの死に際は、この映画がまとう何層もの表象をメタ的に表した場面でもあります。本当は全裸でやらせたかったと思いますが、そうすると女性の全裸に表象や視点が集中しすぎるので出来なかったんだと思います。(だからって、リオンにやらせるわけにはいかない!)

ブレードランナー』と直接関係ないのですが、映画には回転するものがよく登場します。これは映画そのものの暗喩として登場するのですが、評論家がよく言う歯車は具体的には、映写機にあるスプロケットというパーツです。ただ、2012年頃を境に映画上映は映写機からプロジェクターに変わってるので、映画の定義も変わってます。なので、私が以前記事で書いた『散歩する侵略者』のファンは、具体的にはプロジェクターの吸排気ファンのつもりで書いてます。(シネコンはワンフロアにプロジェクターが並んでいて、それぞれ違う映画を映している。その空間を吸排気ファンで空気が循環するから、映画内にファンを持ち込めば、他のプロジェクターで上映している映画が映画内に流れ込んでくるはず、と黒沢清監督が考えたかどうかは知りません)


この映画で採用されているタッチは、20世紀のドイツ人画家・彫刻家で、シュルレアリスムの代表的画家であるマックス・エルンストの影響があるように思います。タイレル社の社屋や近未来のロサンゼルスの黒い街に、そのイメージの源流が窺えます。

「完全都市」(1935-36年)

「大きな森」(1927年)

マックス・エルンストの影響は、この映画が持つ絵画的なタッチに留まらず、物語の着想や構想にも及んでいると思われます。
私は、以下の文章を読んで、『ブレードランナー』という物語を理解するきっかけを得ました。マックス・エルンストの『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(1930)について書かれています。
ICC Review 夢の効用とリアリティThe Effectiveness of Dreams and Reality 清水哲朗
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic034/html/186.html#1

『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(1930年)

デッカードは、人間かレプリカントか?」の考察をいくつか見かけましたが、それが重要な事柄だとは思えません。正直どっちでも一緒だと思いますが、原作のタイトルに照らし合せると、『アンドロイド(レプリカント)は、電気羊(レプリカントの「迷える子羊」)の夢を見るか?』になって綺麗に納まるので、レプリカントでいいかなと思います。映画では、レプリカントと人間を同じ存在として描いているので、本当にどちらでもいい、ということは強調しておきます。それがどちらでも、この映画が意味するところは何も変わりません。好きな方を選びましょう。

押井守監督『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)への影響を指摘している記事を数多く見かけましたが、物語に関して言えば、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)への影響の方が、相当なものであることを付け加えておきます。
解説などと仰々しいタイトルをつけましたが、ただ『ブレードランナー』から読み取れることを物語順に羅列しています。まったくナゾのまま『ブレードランナー2049』を見ても、ナゾの上塗りになるだけなので、自分で理解したところを整理するつもりで書きました。
大筋と違わない補足は、何かあれば順次書き加えていきます。

『東京物語』(1953年)を見てみた。

監督:小津安二郎

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最近、神話系映画を立て続けに見ているので、少し気分を変えようと思い、『東京物語』を見てみました。神格化されている、と言っても過言ではない監督の代表作なので、どのタイミングでこの映画を見るかは、密かな課題だったのですが、努めて何気なく見てやりました。

前情報無しで見たので、「切り返しショットが多用されるサザエさん」ぐらいの、漠然としたイメージで見始めたのですが、冒頭の(終盤にもある)、まるでパルテノン神殿でも撮っているかのような風景の固定ショット(巨大建造物をギリギリ画面に納めたかのようなショット)の数々に度肝を抜かれ、もしかするとこれも神話系映画かもしれない、と早々に気持ちを改めました。


あらすじ

広島の尾道からおじいさんとおばあさんが上京し、東京で暮す長男と長女と、紀子に会う。みんな忙しく、そうそう相手も出来ないまま日が経ち、長女に頼まれた紀子が、仕事を休んで東京見物に連れ出す。その後、おじいさんとおばあさんは熱海旅行へやられるが、熱海の旅館は賑わいすぎで落着かなかったため、二人は一泊だけして東京に戻り、おじいさんは東京にいる旧友に、おばあさんは再び紀子に会い、尾道へ帰ることにする。その帰途、おばあさんの具合が悪くなったため、大阪の三男の家で療養する。
その後、東京の長男のもとに、おじいさんから無事帰り着いた報告と、世話になったお礼の手紙が届くが、長女のもとには尾道にいる次女から、「ハハ、キトク」の電報が届く。すぐに長男のもとにも同じ電報が届き、長男と長女と紀子は尾道へ行く。翌朝、おばあさんが亡くなる。遅れて三男が到着し、皆で葬式。葬式が終り、紀子以外みんな帰る。しばらくして紀子も帰る。


屋内は、ほとんどがゴロ寝アングルの固定ショット(ローアングルの固定ショット)。これは床に転がって、家の中を忙しく立ち回る母親をぼんやり眺めていた子どもの頃を思い出す、妙に落着くショット。
そして有名な、切り返しショット。
冒頭で触れた、ど迫力の風景ショット。
ほとんどこの3つのショットで出来ている映画でした。

まったくカメラは動かないのだろうか、と気にしていたら、物語の中盤で宿無しになったおじいさんとおばあさんが上野かどこかで座り込んでいる姿を見つけるために、一度だけ横移動しました。
あとは、おじいさんが家の窓から見る、おばあさんと孫が土手で遊んでいる様子を捉えた遠景の固定ショットや、熱海の堤防の上を歩く、おじいさんとあばあさんを斜め上から捉えた遠景の固定ショットがありました。これらは夢の中のように、土手や堤防が抽象化されていて、心象風景みたいでした。

有名な切り返しショットですが、とても驚いたものがあったので書き記しておきます。
それは、大阪の三男の家で療養していたおばあさんの具合がすっかり良くなって、おじいさんと会話をする場面にあります。

おじいさん「(省略)-よっぽどわしらは幸せな方じゃのう」
おばあさん「そうでさぁ、幸せな方でさぁ」

おじいさんからの切り返しショットで、おばあさんは上記の台詞を言った後に頭に手をやり、髪を直す仕草をします。それを見た時、(この人、死ぬんだな)と気づいて、悲しい気持ちになったのですが、何で今の仕草を見てそう思うのか、思った直後に驚いたので考えてみました。
結論は、台詞の後に付け足されたおばあさんの仕草が、おじいさんの思い出に見えたからです。その、ふと思い出したかのように付け足された仕草が、死んだ人を思い出しているようなのです。それは、カットを割らず、フラッシュバックを挿入するという、文章で書いたら俄かには信じ難いショットです。それまでの振りなり、タイミングなりが積み重なって、そのように機能したと思うのですが、それがどうやったら出来るのか、全部見たのに全然分からない。

切り返しショットについて、主観や対立を表すぐらいの拙い理解しかなかったのですが、このような表現が可能なことに驚かされました。
また、こういうショットは現実に影響を及ぼしますよね。この後、近しい人の仕草にふと目がいった時に「死」が過るようになるやつです。

映画が始まっても、しばらく紀子さんが何者なのか分からず、遺影が映ることによって彼女の正体が明かされること。人物のいる建物の外観は映されず、外の景色は、主にど迫力の風景で示されること。おじいさんが死んだ次男の話しをする時、少し伏せた顔に影が覆い表情が分からなくなる怖ろしい演出。これってどう評価されているんだろうと不安になるほど、無邪気で明快な、木魚の音をバックに、死と相対した三男の顔と墓場を切り返す身も蓋もないショット。

見る前は、素晴らしいのだろうけど、今見たら地味な映画かと思っていたのですが、派手な画も多く、かなり個性的な映画でした。

『エイリアン:コヴェナント』(2017年)ラストの解釈について・ネタバレ

監督:リドリー・スコット

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この映画が描く信仰について、時間をかけて理解を深めていこうと思っているのですが、その前に、物語のラストで舞台となった星を逃れ、宇宙船コヴェナント号に乗船したアンドロイドが、デヴィッド、ウォルターのどちらであったかについて書いておきます。
というのも、そのことについて触れているネタバレ記事を読むと、ウォルターの振りをしたデヴィッドだった、と書いているものが多いからです。
私はウォルターだと理解しています。
理由は単純で、あのアンドロイドのアゴには、ダニエルズがペンダントトップにしていた夫の形見の釘で刺した傷が無いからです。ダニエルズがデヴィッドに一矢報いた重要な傷の跡がありません。
私の理解しているラストの流れは以下です。

デヴィッド、ウォルターの戦い。決着は見せないまま、左手の無いアンドロイドが建造物から出てきて救助船に乗り込む。ちょいちょい意味深な描写あり。
(デヴィッドかウォルターかわからないな)
コヴェナント号でダニエルズがゼノモーフ(黒)を倒し、危なかったけど助かったことが分かり、モニターの前で安堵した様子のアンドロイド。
(ということはウォルターなのか)
ダニエルズのコールドスリープを介助するアンドロイド。「湖畔の小屋」というウォルターとダニエルズの共通の話題に、あいまいな反応をする。そしてダニエルズの台詞、「デヴィッド!」
(あ、デヴィッドなんだ)
声音を変え、デヴィッドの認証番号と名前を告げ、マザーにワーグナー「ヴァルハラ城への神々の入場」をリクエストするアンドロイド。
(デヴィッドか?なんか様子がおかしい)
胎芽の入った引き出しを開けるアンドロイド。カメラが煽りになり、アンドロイドのアゴに傷が無いことが分かる。
(やっぱりウォルターか。でもなんで…)
オリガエ6へ向かうコヴェナント号の映像に、ウォルターの名前で偽りの航海報告音声が重なる。
(デヴィッドみたいなことしてる…)

デヴィッドだかウォルターだかが建造物から出てきた時、皆さん左手を確認しようとしたと思います。その後、問題の左手をしっかり見せて、傷の手当てをするアンドロイドを描写し、傷に注意を向けるよう促しています。第一、これ以上デヴィッドを引っ張ってもしょうがない。もう彼には引き出しが無い。「一音狂うと、全てが狂う」と、言われた方より、言った方が残る。
スリードをしようとしていたことは確かですし、ダニエルズに自分をデヴィッドだと思わせたのも確かです。ただ、何でウォルターがそうしたのかは分かりません。3部作といわれているので、次回作で分かるのか、今作の考察を深めていけば分かる事なのか、どうなんでしょうか。
私は画面に映るものを信じるので、最後に残ったのはウォルター派です。


そんなことより、ネオモーフ(白)の描写について考えたい。
ネオモーフは、水の張られた洗面台に、殺害した女性クルーの首をわざわざ浮かべたのでしょうか。その後のネオモーフとデヴィッドとのやりとりは、明らかにカトリックの告解として描かれています。あの宗教施設のような建造物の内部で、2体の境界線に薄っすらと引かれた透けるカーテンは、告解室の神父と信者の間にある格子窓を表しています。(他の部屋にあるカーテンは全て麻のような透けない材質で出来ている)
恐怖に駆られた代理キャプテンがネオモーフを殺害した後、デヴィッドが言う「私を信じていたのに!」という台詞も追いうちをかけます。
ネオモーフには罪という意識があって、信仰のようなものがあったのか。
そもそも、今作でデヴィッドが求めたゼノモーフ(黒)の「完璧さ」が従来の解釈とは違うように感じています。何をもってしてデヴィッド、もしくはアンドロイドはゼノモーフを完璧だと思うのか。アッシュ(『エイリアン』(1979年)に登場するアンドロイド)も言いますよね。ウォルターの行動もそこらへんに掛かっているんでしょうか。
白と黒なんで、まずはこの簡単な対比から考えようと思って、キーワードは信仰・罪あたりかなと検索して出てきた「罪と恐れ」(ジャン・ドリュモー著 2004年 新評論)という本を図書館で借りたのですが、辞書級に分厚い本で心が折れそうです。