映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『エイリアン:コヴェナント』(2017年)感想・ネタバレ

監督:リドリー・スコット

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ピエロ・デラ・フランチェスカ「キリスト降誕」
ミケランジェロダビデ像
カルロ・ブガッティの玉座
リヒャルト・ワーグナー「ヴァルハラ城への神々の入場」

(だめだ、覚えてられん。後はオタクに任せよう)
ということで、初っ端から意味深な芸術作品の羅列で、謎解きは早々に諦めました。
でもこれ、エイリアン、人類、エンジニア、アンドロイド、それらの謎解きのピースを早々に飽和させ、この映画が描く終末後の景色を見せるためのリドリー・スコット監督の作戦だと思うんですよ。
わからないから、そう思うしかないんですが。

シネフィルでもオタクでもない、私のような鑑賞者は、ただただこの映画の終末後の景色を見つめることしかできません。終末後の世界を描いたものをポスト・アポカリプスというらしいのですが、圧倒的な描写です。お金が掛かっているというのもあるでしょうが、リドリー・スコット監督の美意識が隅々まで行き届いています。
世界の終末後の景色なんて、当然生きてお目にかかれないものが、今映画館に行けば見れます。
宇宙船のクルーは、バカだから死ぬわけでも、運が悪くて死ぬわけでもない。ただ見た目が地味だから死んでいくのです。物語が始まる前から、皆わかっていたはずです。マイケル・ファスベンダー相手に、地味な人達が適うはずないって。加えて生きている方が場違いな世界です。だから、人間側の物語を追うのも止めましょう。

圧倒的な終末後の景色や、これでもかと細部まで埋め尽くされた宇宙船をとにかく楽しみましょう。
諸々大好きな人、いると思うので是非。

終末後の景色は、人類が獲得した多くのイメージによって彩られています。

クレメンテ・スシニの人体解剖蝋人形

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アルノルト・ベックリン「死の島」

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ジョン・エヴァレットミレー「オフィ―リア」

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ポンペイ

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ズジズワフ・ベクシンスキー

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気づいたのは以上ですが、他にも色々あると思います。

様々な終末後のイメージの他に印象に残っているのは、不自然に長い(&長回し)デヴィッドとウォルターの笛を吹く場面。女性クルーを殺害した後、デヴィッドと意思疎通をするネオモーフの惨めな佇まい。惑星から逃げ出そうとする船に、犬のように必死に駆け寄って飛びつくゼノモーフです。エイリアンにとって、デヴィッドは神なんでしょうが、神と相対するエイリアンは、とても惨めな生き物に見えます。神と相対する人間の様でしょうか、見ていて気が滅入ります。
神もアンドロイドという体のモンスターです。趣味は種の創造と繁殖。生まれた後の種や、その個には全く興味が無い。あとは笛を吹いたり、人間(クルーのキャプテン)がゼノモーフの幼体に襲われ、気を失い、気がついて、食い破られて死ぬまでを傍でじっと見ている。いや、ゼノモーフの成体化を確認していただけかもしれない。
つまり、リドリー・スコット監督の近作を思うに、「エイリアン」シリーズを踏み台にしているわけですが、一つの独立した作品だと、終末までは何とか辿り着けても、今作のように終末後を思う存分描くまでに至るのは難しいと思うので、今までの「エイリアン」シリーズは、この終末後の世界に辿り着くための布石だったのかもしれません。
あと、惑星にデヴィッドが現れる場面、かっこいいです。

『散歩する侵略者』(2017年)感想・ネタバレ

監督:黒沢清


ブログ記事が黒沢清監督作品ばかりになっています。新作は、出来れば公開中に書きたいと思い、気負って鑑賞に臨むのですが、そんな必要なかったです。
北朝鮮が電磁パルス攻撃を仕掛けてくるかもしれない、というニュースを見て家を出ました。MOVIX京都がシアター3(365席)で上映してくれたので、SFだし、大画面で見てきました。

盛大にネタバレしつつ、感じたことをつらつら書きます。

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冒頭、金魚すくいから、女子高生の太もものアップで意外なカットだなぁ、と思っていたら、よく見つけるよなと毎度感心する丁度よく引きで撮れる一軒家が映って、その全景に風が吹きます。まるで落語のまくらのようだ、と思っていたら、その家のドアから逃げ出そうとするおばあさんが現れて直ぐに中へ引きずり込まれ、閉まったドアの前に光源のよくわからないレンズフレアが映ります。よく見るSF的な、光彩を用いた表現なのですが、これも意外でした。こういうよく見るやつをやるイメージが黒沢監督に無かったのですが、この後も何度かサラッとやってます。この後、大変な状況の家の中が映り、外でも派手に事が起こります。

何が起こっているのかよく分からないまま場面は変わります。
病院に置いてある健康ネタ雑誌を逆さに読んで混乱している夫の加瀬真治(松田龍平)に、その妻、加瀬鳴海(長澤まさみ)は、いい加減にして!と怒っています。脳の機能障害的な、結構深刻な事を医者に言われるのですが、この事態の前に、真治は出張と偽って不倫をしていて、それをうやむやにしたまま、すっかり人が変わってしまったことに鳴海は腹を立てています。
実は真治は宇宙人に身体を乗っ取られ、中身が宇宙人になっているのですが、脳の機能障害にしろ、宇宙人にしろ、どっちにしろ鳴海は怒っていて、実はどうなのかは問題じゃないようです。宇宙人は地球を侵略するためにブラブラ歩き、そうして出会った人の概念を奪い、侵略の為の下調べのような事をしています。
どうも身体を奪ったばかりの宇宙人は、人間の身体を上手く扱えないようで、野外でコケて倒れ込んだりします。仕事に向かおうとしていた鳴海は、近所の空地の草むらに倒れ込んでいる真治を見つけ、助け出そうと草むらの中に入り、こう言います。
「もう、いやになっちゃうなぁ!」
鳴海のこの台詞が、とてつもなく良いです。なんだかよく分からないけど、鳴海に対して、一気に愛おしさみたいなものが沸き起こります。この台詞は、真治が宇宙人に乗っ取られていることを知らない場面と、知った後にも出てきます。
事の真相のようなものが、鳴海には影響しないことを示しているのでしょうか。

物語には、この加瀬夫婦のパートともう一つ、ジャーナリスト桜井(長谷川博己)のパートがあります。桜井は、宇宙人に乗っ取られた天野(高杉真宙)に出会い、物語冒頭の事件と関係がありそうな天野の言動に興味を覚え、天野と、冒頭の事件を引き起こした宇宙人の立花あきら(恒松祐里)と行動を共にする内に、宇宙人が地球を侵略しようとしていることに気づいていきます。

日常に宇宙人の侵略という非日常が入り込む鳴海に対し、桜井は、宇宙人の侵略という非日常に自ら入っていきます。
この二人の対比で見えてくるのは、出来事に対する当事者感の違いです。事態が少しづつ進み、明らかになっていく桜井に対し、日常を軸に、事態がどこまでも広がっていく鳴海。
事態は、世界と言い換えてもいいです。
桜井は当事者になりたい人ですよね。桜井が天野に乗っ取られたかどうかがはっきり描かれないのは、彼が当事者になりたい人だからです。世界には飢えて死んでいる人がいる。世界では、今もどこかで戦争が起こっている。被災地、被災者。世界の出来事は、此処ではないどこかで起こっている。世界が誰か他人のもののような感覚。世界の外にいるような感覚。彼にはそのような感覚があり、ジャーナリストとして、そのような世界と関わろうとしていたのではないでしょうか。死んでいく天野に、桜井はまるでそそのかすかのように、「俺が必要なんだろう?」と問いかけます。どちらにしろ桜井は戦場に赴き、生き生きと戦ったでしょうから、乗っ取られたかどうかを描くことに意味はないのです。

一方、鳴海には多層的に世界が重なっていきます。日々の近景と世界の終わりの遠景、その間のグラデーションが彼女のいる画面に重なっていきます。彼女のいる此処が、何処ででもあるような重なりと、重なることによって生じる世界の広がり。
真治の症状がウイルスによるものとの連絡を受けて行った、あの病院のただならぬ状況は、三人の宇宙人がブラブラして概念を奪ったために引き起こされているとは到底思えません。
あれなんだと思いますか。
クリーピー 偽りの隣人』(2017年)にも風車やファンが映っていて、風力発電の風力タービンも以前どこかに出ていたように思うのですが、何の意味があるのかよく分かっていませんでした。仕事で湿度管理をやっていて気がついたのですが、湿度だまり(湿度の偏り)を無くすために、サーキュレーターなどを用いて空気の攪拌を行うのですが、黒沢監督の映画に出てくる風車や風力タービンも同じでした。
丸尾(満島真之介)家の庭先や、彼が駆け出てきた住宅街の一角にあった風車や、海岸沿いの風力タービンは、空気を攪拌しているのです。それは、世界の空気の攪拌です。
世界の空気は攪拌され、次々と画面に流れ込んできます。あの病院の、わけの分からない非常事態ぶりは、空気が攪拌された事により、世界のあらゆる出来事でごった返しています。世界の空気は、鳴海の日々に流れ込み、世界は彼女に重なり、彼女のいる画面に多層的に現れます。
隣のシアターの「戦争映画」が、こちらの画面の「高校生恋愛もの」に重なっていくような奇妙な透過は、鳴海の現実感というか生活感というか、彼女の「いやになっちゃうなぁ!」に集約される、日々の実感のようなものを軸に展開されます。透過が展開する、という無茶苦茶な日本語ですが、私にはこれが表現の限界です。
桜井には、この日々の実感が無く、自分が世界の当事者だと思えない。鳴海には日々の実感がある。世界の当事者かどうかなんて鳴海は気にしたことも無いでしょう。

医者(小泉今日子)曰く、世界の空気が流れ込んできた、「あのタイミング」で起こった宇宙人の侵略は、なぜか完遂せず終わりを迎えます。
それは、鳴海が真治に愛の概念を与えたからなのでしょうか。愛の概念を与える事が、愛することとどう違うのか、違わないのかを考えているのですが、まだ分かりません。「愛を与える」って言いますよね。「愛(の概念)を与える」となると、どうなるのでしょうか。

そして二ヶ月後、真治は、ちょっとだけHPが回復する実(みかん)の入った段ボールを抱えて、画面を分断する亀裂をたぶん跨いで越え、『CURE』(1997年)で文江が預けられた病院のような外観の建物に入っていきます。
中にいる人々は皆生き生きとしていますが、概念を奪われた後遺症として、特殊な症例の鳴海は、「いやになっちゃうなぁ!」とは、もう言ってくれそうにありません。
「いやになっちゃうなぁ!」は、鳴海の内の声が漏れている言葉ですが、「ずっとそばにいる」という真治の内の声が聞こえて映画は終わります。


愛を継ぐ者が、宇宙人という、スピルバーグの『A.I.』(2001年)のような終わり方です。印象は全然違いますが。
もう、黒沢監督は培った技法で何でも撮れますね。今作はとてもlightな感じがします。以前なら桜井パートや仕事の概念を奪われる社長の場面なんて、もっとシニカルに怒りを込めて描いたように思うのですが、最近はそんなに怒りを感じなくなりましたよね。
東出昌大さんが牧師役でドアを開けて登場するのも楽しかったです。東出さんの事を黒沢監督はどう思ってんのかなぁ、と気になります。
あと、満島さん凄かったですね。本当にああいう人が映画に紛れ込んでしまった、映り込んでしまった、と感じさせる不穏さ。最後のアップが怖い。彼の衣装もすごい。

ダゲレオに続き、今回も鳴海が真治の傷を手当てする場面がありましたが、あの場面から二人は並んで歩き始めます。クリーピーで康子が高倉の口に直接食べ物を運ぶような、世話を焼く行為を、抱擁やキスやセックスといった非日常の関係でもあり得るラブシーンとは異なった日常のラブシーンとして描いていて、男女の関係の変化のきっかけにしています。今作では、真治が鳴海に言った台詞きっかけとも取れるのですが、そこは分かり易さを意識したのかな、と思っています。
二ヶ月後の表現も意外でしたね。そんなの入れずにつないでましたよね。
鳴海が仕事を貰っていた事務所から、真治と二人で出ていき、その後、延々と街を歩くシークエンスで、昼中の街を歩く鳴海に当たる光がくるくる変わるところも鮮烈でした。
何かlightな映画ですよ、本当に。
今までの作品を見てきたから楽しめるのか、黒沢監督の作品を見たことない人にも同じように楽しい驚きがあるのか、もうよく分からなくなっていますが、シネスコ感も今まで以上に感じられて、色々楽しかったので、大きなスクリーンで見れて良かったです。

『ダゲレオタイプの女』(2016年)感想・ネタバレ

監督:黒沢清

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6月に精華大学で行なわれた黒沢清監督のトークイベントに行って来た。そこで黒沢監督が見せてくれた小津安二郎の『風の中の牝雞』(1948年)の一場面を見て、『ダゲレオタイプの女』を思い出した。
なので、何か書いておこうと思う。

古い写真や映画を見ていると、ふと、「この人は今、生きているのだろうか、死んでいるのだろうか」と思うことがある。かなり古いものだと「この世にいない人を見ている」と不思議な気持ちになる。
古風なドレスを着た女性のモノクロ写真を見たら、そこに写る人は既に死んでいると思うだろう。でも、それが色あせて、ぼんやりと不明瞭な像が写る所謂古ぼけた写真ではなく、超高解像度で、驚くほど細部までその姿を映し出していたとしたらどうだろうか。

その写真を見て、「170年前の人が、ずっと生きてるみたいだ」とジャンは呟く。ダゲレオタイプ写真に写るマリーは、時間を超越して生きているようにジャンには見えたのである。

このダゲレオタイプ写真撮影に、マリーの父ステファンは取り憑かれている。売れっ子写真家だったらしいステファンは、かつては妻ドゥーニーズを被写体にダゲレオタイプ写真撮影を行なっていたが、妻が亡くなった今は娘のマリーを被写体にして、金に困りながらも、金にならない写真を撮り続けている。このマリーの写真は、一枚だけ登場するが、彼は露光時間を延ばしながら娘を撮り続けている。

もし、あの撮影がずっと続いていたらどうなっていたのだろう、と思う。再び撮影中にマリーが意識を失い、誰もそれに気づかず、彼女が拘束器具に固定され続けたらどうなっていたのだろう。露光時間が延びるにつれ量を増す筋弛緩剤を服用させられたマリーは、いつか固定されたまま生と死の境を越えたかもしれない。「父親が娘を撮るのは自然だ」と言いながら、娘の身体を危険に晒し、凡そ異常な行為にステファンは取り憑かれている。

ステファンは屋敷から離れようとせず、階段から落ちたマリーを助けようとしない。階段から落ちたマリーの死を早々に断定し、娘の写真を妻の写真に見せ、その写真に語りかける。
ステファンの写真に語りかける行為を、遺族が遺影に語りかけている、と端的に言い換えてみよう。

若い夫婦に依頼され、ステファンが死んだ赤ん坊の写真を撮った事にマリーは動揺し、怒りを露にする。この死んだ赤ん坊の写真は、明らかに遺影として撮られている。
たぶん撮影中にマリーが死んでも、赤ん坊のように死んだ直後に撮影しても、生きている時の写真と違いはない。カメラは細密に、ただレンズの前のものを写し取るだけである。そして、このダゲレオタイプ写真の細密さが、実物を強く喚起させる表象として、まるでそこに写る者が生きているみたいに生々しく人の目に迫る。
離れている時や死んだ後など、直接目視できない状態にある人を思う時、必要になってくるのが、思い描く他者のイメージだ。日常においても、人は他者の実物を常に見ているわけではない。マリーの登場場面でステファンが鏡越しに彼女を見るように、実物や鏡像や写真などから、その存在を認識している。他者が生きていてその姿を確認できるうちは、思い描く他者のイメージは、実物や、他者を表象するあらゆるものによって補完されるが、死後は実物が損なわれ、遺影のような代替物だけとなる。
マリーは、この表象しか見ようとしないステファンに憤る。生きているということが、存在が、細密な表象に取って代わるとは彼女には思えないのだ。

生きている時と変わらず、愛する者を思い描きたい。
ステファンは、この代替物をより細密にすることで、愛する者のイメージを生前と同じにしようとしている。

これは推測だが、ドゥーニーズを失うことを恐れるあまり、いつでも彼女を思い描けるように、そのドゥーニーズの表象が、色あせたり古ぼけたり不明瞭になったりしないように、彼女を被写体にダゲレオタイプ写真撮影を行なった。しかし、彼女を亡くしてからステファンが見る彼女の幻影は不明瞭だ。ステファンは彼女を上手く思い描くことができない。その原因を、露光時間が短かったために、生きている時と同じように思い描けるだけの細密さがドゥーニーズの写真には無かったからだと彼は考えた。
だから、愛する娘マリーのダゲレオタイプ写真撮影は、露光時間を延ばし続けているのではないだろうか。屋敷に現れたマリーの幻影は、彼の目にどう映ったのだろうか。限界まで露光時間を延ばしても、それでも不明瞭なマリーの幻影が現れたのではないだろうか。ステファンの眼前に迫る幻影のピントはぼやけていく。彼はその表情を読み取ることが出来ない。
ダゲレオタイプ写真では、死という境目を越えて、愛する人を思い描くことができないと悟り、彼は自ら命を絶ったのだろうか。

ステファンに写真を撮影してもらいに屋敷を訪れた老婆は、「死は幻」だと言った。この老婆の言葉を、マリーが植物について語った言葉と一緒に考えてみたい。
ダゲレオタイプ写真撮影の被写体を続けるマリーは、薬液に蝕まれる庭の温室の植物のように、その撮影によって生命を蝕まれていく。
「植物の動きは見えません。石とおなじように思われがちです。でも地中深くに根を張り― 環境を制御します。献身的なんです。」
彼女が植物について語った言葉は、そのまま被写体として写真に納まる自分自身について語られた言葉のようだ。
マリー、ドゥーニーズ。写真に納まる彼女たちは植物のように、あの屋敷深くに根を張り、その環境を制御している。

あの屋敷では、愛する者を失うという普遍的な事象が、階段を上るドレスを着た女の姿となって反復されている。それは普遍的な事象であるが故に、共有される幻影として誰の目にも映る。

ステファンはリアリストだ。だから彼は、愛する者を失うという普遍的な事象に対し、ダゲレオタイプ写真撮影という、現実的な方法で挑んだ。でも、「死を幻」だと思えず、ドゥーニーズの幻影に向き合うことが出来ずに苦しむ。このことは、死という現実に向き合わなくてはならないと思い苦しんでいた。と同じことである。

映画冒頭、初めて屋敷を訪れたジャンは、螺旋階段を上るドレスを着た女の幻影を見る。それは、この時点ではまだ出会ってもいない、愛するマリーを失うという予感である。金が欲しい、という現実的な欲望にすりかえているが、その予感から逃れたいが故に、屋敷の売却に向けて彼は躍起になる。
ステファンは、マリーの死を認識しないジャンに対し、「都合よく現実をねじまげるのか、想像の世界に逃げ込むな」と言う。ジャンはマリーに制御され、その献身を受けることで、彼女と共にある。それは、ジャンにとって彼女が生きていることと同義となる。これは、死を否定し、想像の世界に逃げ込んでいるのとは違う。ジャンはマリーに制御され、献身を受けているから、彼女が死んだと思えないのだ。愛する者とのあらゆる記憶や表象の一つである屋敷から離れられないステファンに対し、ジャンは階段から落ちてマリーが死んだ後もなお、マリーを失う恐怖に怯え、屋敷を売却しようとしている。
ジャンが、マリーと共にある現実を選ぶことで、ステファンが生きる現実と齟齬が生じる。マリーが生きている事を告げても、ステファンは自殺してしまう。ジャンは無意識にステファンを殺害したように振る舞い、マリーが生きている現実と辻褄を合わせようとする。そして、どんなマリーの表象も存在しない、ジャンの現実だけの旅に出る。

教会でマリーが消えたのは、あの指輪がマリーを表象し、彼女に取って代わってしまったのではないか、と思うのだけどどうだろうか。
最後は、車を止め、姿を消した助手席のマリーに向かって、彼女の制御と献身を受けようと、泣きながら会話をするジャンの姿を捉えて映画は終わる。



マリーがジャンの血を拭って世話を焼く場面は、2回見て2回とも動揺しました。『叫』(2006年)で、あんな冷め切った膝枕シーンを撮っていた監督が、こんな感傷的な世話焼きシーンを撮るとは!こんなの撮るんだなぁ、って。『ダゲレオタイプの女』は、珍しくウェットな作品ですね。

『CURE』(1997年)を見直してみよう No.4 最後に高部はどうなったのか

黒沢清イングマール・ベルイマンに似ているとよく思う。
黒沢清の著作物や、黒沢清について書かれた本の中で、ベルイマンについての記述を読んだ覚えはないが、(『恐怖の対談―映画のもっとこわい話』(青土社 2008年)で、テオ・アンゲロプロスベルイマンについて言及するが、インタビュアーの黒沢清は反応していない)意識的に触れないようにしているのではないか、と疑うぐらいには似ていると思っている。
まず、『CURE』(1997年)は『第七の封印』(1957年)に似ている。

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海岸に突如現れる神の御使い「死神」。登場といい、神の不在と神と御使いの関係といい、神と「死神」、伯楽陶二郎と間宮には共通点が多い。『CURE』について調べていた時、『怪人マブゼ博士』(1932年)との類似を述べた文章を数多く見かけたが、いくつかの文章を読む限り、マブゼと伯楽陶二郎にまつわるガジェットの類似の指摘と、マブゼと間宮の行為をテロリズムと位置づけ、その共通点について述べているものが多かった。私には間宮の行為がテロリズムとは思えない。彼に目的があると思えない。間宮は何らかのイデオロギーに属していない。彼は超人的であり、空っぽであり、振る舞いは自動的で、その様子は『第七の封印』に出てくる神の御使い「死神」に似ている。(「死神」が死を擬人化したものなら、間宮は何の擬人化だろうか。人に人を殺させるのだから殺意の擬人化だろうか。)そして似姿を残し、御使いを寄越す伯楽陶二郎の不在は、『第七の封印』における神の不在に似ている。
『怪人マブゼ博士』では、カーテンの向こうのマブゼの姿と声が、カーテンを開けて見てみると実は人型の模型と蓄音機の音だった、という場面があるそうだ。『CURE』との類似として挙げられる場面だが、『CURE』では、半透明のビニールカーテンを開けると写真があった。蓄音機は別の部屋、空飛ぶバスでしか行けないと思われる廃墟となった病院のシークエンスの最後に登場する。
『怪人マブゼ博士』で同時に現れた人型の模型と蓄音機の音、そのような似姿や録音された音が、『CURE』では時間差で現れる。なぜ音が後なのか。

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廃墟の病院の中で、半透明のビニールカーテンを開け、伯楽陶二郎らしき人物の、薄ぼんやりとした写真を見た高部は落胆した様子だった。その後、壊れたベッドに腰掛けて脱力したように笑った。そこに間宮が現れる。
間宮「やっと来たね、刑事さん。どうして俺を逃がしてくれたの」「わかってる。俺を逃がして俺の本当の秘密を突き止めたかったんだ。あんた一人だけで。そんなことしなくてもよかったのに。本当の自分に出会いたい人間はいつか必ずここへ来る。そういう運命なんだ」
うなだれていた高部はおもむろに立ち上がり、間宮を拳銃で撃つ。倒れこむ間宮。
高部「思い出したか。全部、思い出したか」頷く間宮。「そうか。これで、お前も終わりだ」
掲げられた間宮の指が、それを見下ろす高部に向かってXのような模様を描く。その直後、高部は間宮を撃ち殺す。

この場面で何より気になるのは、高部と間宮が似たようなトレンチコートを着ていることだ。

『CURE』の冒頭で文江の持つ『青髭―愛する女性(ひと)を殺すとは?』(新曜社 1992年)の提示によって示された、高部の文江に対する殺意。高部の殺意は、この映画の一番初めにあった。間宮の登場より前にあった。だから、間宮は高部の殺意の擬人化かもしれない。高部の殺意が人の姿をとって、動いて話せるぐらいに具象化したのだとしたら。間宮は高部の内にあった。高部から発生した。だから二人の衣装は似ている。
ただ、ことはそう単純ではない。
もし「死神」があなたの目の前に現れたら、それはあなたの死を司る「死神」。あなたの死が具象化されたものだろう。死や殺意といった普遍的な事象は誰のものでもある。目の前に現れたその時に、それと対峙した人に事象として現れる、そういう類いのものだろう。それが誰の殺意であろうと、それは誰の殺意にもなる。
だから、間宮と対峙した者は人を殺す。

『CURE』は、ある男が妻に対して殺意を抱き、その殺意と相対する物語だ。
その殺意は見知らぬ男の姿で街を徘徊する。
妻を殺したい。妻を失いたくない。相反する欲望が男の中で渦巻いている。
この状態から救われたい。
男は、見知らぬ男を調べていくうちに形而上的な存在を知る。
男は救いを求め、その存在へと迫っていく。

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『CURE』で、形而上的な存在として示されるものに「邪教」がある。映画の世界はキリスト教が圧倒的一大勢力なので、この「邪教」とはキリスト教以外の宗教、という意味だと解釈した。その場合、『CURE』における形而上的な事象を、キリスト教と相対化させて捉えればいいのではないかと思う。
『CURE』(1997年)を見直してみよう No.3沢山の病院とタイトルCUREの意味
の中で、高部が最後に辿り着く廃墟となった病院に関して、「高部がバスに乗り、林を歩いて辿り着いたことから、遠くにあり、またその荒廃の様子から古い建物であることが分かる。これらが、古いものは遠くにある、遠くにある古いものに根本がある、という宇宙論的表現ならば、」と書いたが、この廃墟となった病院の、抽象的な距離や荒廃の表現が宇宙論的表現ならば、この廃墟となった病院に全ての根本、始まりがあるはずである。
前置きが長くなった。
「『怪人マブゼ博士』で同時に現れた人型の模型と蓄音機の音、そのような似姿や録音された音が、『CURE』では時間差で現れる。なぜ音が後なのか。」
という疑問について書いていく。
全ての根本、始まりがある廃墟となった病院で、最後に高部が辿り着いた部屋で聞く、蓄音機から鳴る音。それは全ての始まり、キリスト教でいうところのロゴスである。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。―『創世記』1:3

はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった。―『ヨハネによる福音書』1:1

ロゴスは哲学用語としても使われ、解釈も多様なようなので、理解が満足に及ばないが、神が光をもたらす、創造するのではなく、「光あれ」というロゴスによって光があることから、ロゴスこそ神の本質だという理解のようだ。
「邪教」における、はじめにあるロゴス。神とともにあり、神であるロゴス。それは、廃墟となった病院で、最後に高部が辿り着いた部屋で聞く蓄音機から鳴る音である。その音は、複製された神そのものである。ロゴスは蓄音機からの音として表され、複製物の神であることが強調されている。このことを単純に解釈するなら、写真と蓄音機は映画という複製物の隠喩として用いられていると考えられるだろう。映画は、光から音の順に成り立ってきた歴史を持つ。しかし『CURE』では、映画における光より前にあるものとしてロゴスが示されている。

蓄音機から鳴る音を高部が聞いているショットが切り替わると、怯えとも怖れともつかない表情で振り返り、こちらを見つめる看護婦が映る。次に、Xに切りつけられ、何かに固定され移動している文江のバストショットが短く映る。そして最終場面冒頭、ファミレスで食事を終え、タバコに火を付ける高部へとつながる。
ファミレスで食事を終えた高部の様子は、それまでとは打って変わって旺盛で快活で落着いている。なにもかもが上手く片付いたかのようだ。左の薬指には結婚指輪が見える。数秒前には、とても生きているとは思えない文江の姿が映ったというのに、これはどういう事なのだろうか。
この最終場面で気になるのはカメラワークだ。
高部の右側から、ファミレスのガラス壁をバックに、腰掛ける高部の全体とそこに出入りするウェイトレスを固定カメラで撮っていたのが、食後のコーヒーを持ってきたウェイトレスがフレームアウトしたあたりで切り替わる。その後カメラは、高部の左側から画面右側にある高部の頭部越しにファミレスの内部を捉えるが、そのまま固定されることなく動き続け、やがて高部はフレームアウトする。このフレームアウト後も、高部が吸っている煙草の煙が画面に干渉していることから、高部が映っていない最終ショットは、限りなく高部の視点に近いものだと思われる。
この最終ショットは、高部の視点と観客の視点を重ねたものだ。観客と同じものを、観客と同じように高部は見ている。つまり、観客も高部も映画を見ている。高部は自分のいる世界が、映画の中であることを知っている。どうも高部は、映画のロゴスとの遭遇により、それが分かったようだ。
『CURE』の約2年後に公開される映画『マトリックス』(1999年)。この『マトリックス』の主人公ネオと殆ど同じことが、映画のロゴスとの遭遇により高部に起きている。
妻を殺したい。妻を失いたくない。相反すると思われた欲望が満たされている。
最終ショットの視点の重なりによって、すっかり高部がこの映画の主導権を握ってしまったようだ。物語が始まるある出来事。例えば殺人。そういった出来事を、間宮のように催眠術など用いず容易く起こすことが出来るようになっている。それはあたかも、映画を見る観客のように、映画館の椅子に腰をかけスクリーンを見つめるだけで、自動的に出来事に遭遇するかのように起こるのである。

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文頭で触れたベルイマン黒沢清について、上記文中で触れられなかった他の類似を補足しておく。ベルイマンの『魔術師』(1958年)の主人公は、メスメルの動物磁気を用いて魔術を操る旅芸人である。またこの『魔術師』には、『岸辺の旅』(2015年)に出てくる「怖い夢を見た」(どんな夢かは語られない)という何かしらの告白のような台詞も出てくる。
海岸に突如現れる登場人物、メスメルの動物磁気、「怖い夢を見た」(どんな夢かは語られない)という台詞。私は黒沢清ベルイマンも全作品見ているわけではないので、まだ他にもあるかもしれない。ただ、この3つの類似に気づいて思うのは、偶然似るにしては特殊な表現である、ということだ。ヒッチコックにしてもリチャード・フライシャーにしても、黒沢清は元映画が判るような、目を引く表現を模倣する。なので、ベルイマンとの類似もそうではないのかと思うが、模倣する監督について大概言及している黒沢清が、ベルイマンについては何も語っていない。私が知らないだけだろうか。

『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)について

監督:黒沢清
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ネタバレあります。

お正月休みに『ヴァンパイア/最期の聖戦』(1998年)を見ていて、『クリーピー 偽りの隣人』が吸血鬼映画だったことに遅ればせながら気づいたので書いておく。

以下は、『クリーピー 偽りの隣人』と吸血鬼映画の分かりやすい類似点を箇条書きしたもの。
・高倉(大学教授。専門は犯罪心理学)と西野、ヴァン・ヘルシング(大学教授。専門は精神医学)とドラキュラの対立構図。
・短い階段のアプローチから地下、または半地下に至る死にまつわる空間。西野家の監禁・殺害部屋と吸血鬼映画の地下墓所
・康子の腕の注射痕のショットと、吸血鬼映画の首元の牙痕のショット。
・ドラキュラを思わせる西野の黒ずくめの装い。
・多くの吸血鬼は住居込みの存在である(ドラキュラ城、西野家)。

クリーピー 偽りの隣人』の観賞直後の印象は、"民間伝承だか都市伝説だかを見ているような映画"だった。物語の舞台が郊外と田舎の境界であることや、物語が断定的に進行する様、田中が西野を指して言う「鬼」という言葉がそう思わせた。
なので『クリーピー 偽りの隣人』を吸血鬼映画と捉え、いくつかの吸血鬼映画を確認がてら鑑賞するとともに、民間伝承として語られる吸血鬼も知りたかったので、『吸血鬼伝承』(平賀栄一郎2000年)を読んでみた。
この本で吸血鬼は以下のように定義される。

「それは「生ける死体」である。死したのち墓処からふたたび肉体のまま現れて(亡霊〈亡魂〉でなく)、人々に、とりわけ近親者に害をなし、死に引きこむ死者である」「死して葬られたのち、葬処より起き上がって親族や隣人を襲う死者。生と死の境界を暴力的に侵犯する凶々しく肉体的な危険。」

まずは「吸血鬼」の名称について、混乱を避けるために先に断っておく必要があるだろう。上記の定義に含まれていない吸血行為についてだが、『吸血鬼伝承』では以下のように説明されている。
「一般に血を吸うのがヴァンパイアVampireの特質と考えられ、日本語の「吸血鬼」などまさにその性質のみに基づく命名だが、東欧の「吸血鬼」が血を吸うことは決して多くない。―「吸血」は「吸血鬼」の本質ではないのだ。血は体液のひとつであり、―「生気を奪う」の比喩的具象化と考えてもいい。」

この本によると、ヨーロッパにおける吸血鬼の故郷は、東欧・バルカン地方の伝承にあるそうだ。
「「東欧」というのは、―ヨーロッパ文明の中心である西欧と、それと異質な、あるいは異質な面の多いトルコやロシアへの移行の場、グラデーションの空間、ヨーロッパ文明の辺境。」
上記の定義に当てはまる怪異・妖怪の存在は「移行の場」「グラデーションの空間」、特定の文明の辺境に現れ、それらは呼称は違えど吸血鬼と括られる。
吸血鬼伝承が伝わる場所の特徴(「移行の場」「グラデーションの空間」、特定の文明の辺境)に『クリーピー 偽りの隣人』の物語舞台の特徴「郊外と田舎の境界」との重なりがあるように思える。

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そもそも東欧・バルカン地方の土俗的信仰であった吸血鬼は、西欧に「発見」され、17世紀から18世紀にかけてドイツ・フランスの学界や有閑人士たちの間で一大吸血鬼ブームを巻き起こした。その後、1897年にイギリスで刊行されたブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』のヒットによって広く知られるようになり、これを原作とした映画(『吸血鬼ドラキュラ』1958年)もヒットしたことから、「若い女性の生血を吸う黒マントの長身で上品な紳士」という現代の吸血鬼のイメージが形成されたようである。

以上のことを踏まえて、
クリーピー 偽りの隣人』を吸血鬼映画のフォーマット(そのようなものがあるのかどうかは知らないが、いくつかの吸血鬼映画に共通して見られる演出やモチーフはある)を踏襲しながら、伝承される吸血鬼「生ける死体」の存在を現代に見出している吸血鬼映画だと捉えてみよう。

西野は吸血鬼映画に登場する吸血鬼である。
吸血鬼映画に登場する吸血鬼とは、吸血鬼として登場し、人々を恐怖に落としいれ、人々と対立する存在である。
クリーピー 偽りの隣人』から離れてしまうが、黒沢清フィルモグラフィーに目を向けると、西野役の香川照之は、『トウキョウソナタ』(2008年)に佐々木竜平役で登場しており、この佐々木竜平という人物には、自動車にはねられ、路肩に横転した状態で動かなくなり、やがて動き出すという場面がある。この場面は、「意識を失った人間が意識を取り戻した」とも「死んだ人間が動き出した」ともとれる。どちらにしろ映像に違いはない。同じ理屈で西野昭雄と佐々木竜平にも映像に大きな違いはない。どちらも香川照之である。この場面を、「死んだ人間が動き出した」とした場合、黒沢清フィルモグラフィーに吸血鬼「生ける死体」として香川照之が登場する流れはあるのだが、吸血鬼映画に吸血鬼が登場するのに理由などいらないので過去作品は無視してかまわない。
西野は吸血鬼である。
西野はまず、何らかの条件に見合った家を見つける。その家をターゲットに、そこに暮す者に取り入り、何か常習性のあるものを注射して家人を操り、家と金を手に入れて暮しているようである。その暮しに障害となる者は殺害され、利用できる者は生かされる。西野は生存というよりも社会の中で暮すために人々を利用し、必要であれば何かしらを注射して生気を奪い、その者を操る。
『ヴァンパイア/最期の聖戦』では、ヴァンパイアに咬まれた者は、体力・意識レベルが下がり、時間が経つにつれ自身を襲ったヴァンパイアと意識がつながり始め、およそ48時間が経過するとヴァンパイアになる。劇中で「吸血により何らかのウイルスに感染しヴァンパイアになる」という吸血鬼ハンターの台詞があったが、吸血と同時にウイルスが注入されているのだろうか。ウイルスでも注射でも、どちらにしろ被害者の体力・意識レベルが下がり操られるのは『クリーピー 偽りの隣人』と同じである。

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この吸血鬼の手口に康子はなぜ落ちたのだろうか。
康子は新天地に越してきた主婦だ。手の込んだ料理を作り、ペットをしつけ、愛想よく近所付き合いをしようとする。しかし、近所の田中からは近所付き合いはしないと言われ、隣人の西野からは、ここら辺の人は近所付き合いをしないと言われ、彼女にとっての社会がすっかり西野だけになってしまう。康子の何気ない会話を歪める西野の反応が、彼女にとっての社会の反応になってしまう。彼女の主婦としての模範的な振る舞いが社会との相対化によるものだったとしたら、その社会が西野に取って代わったことで、彼女の振る舞いが狂いだすのも無理はない。
アンダーパスで握手を求める西野に手を差し出す康子。握手を求める隣人に対し、康子は断る術を持たない。彼女の模範的な振る舞いが形骸化された自動的なものであること。そこに自由意志などないこと。「私もうとっくに諦めちゃったのよいろんなこと」と康子は高倉に言う。康子はもうずっと前から形骸化され、自由意志を持たず、自動的に振舞っていたのだろうか。西野はそのことを暴いただけなのだろうか。
だとしたら西野という『クリーピー 偽りの隣人』が描く吸血鬼は、形骸化された人間を暴く触媒なのかもしれない。

高倉はどうだろうか。
映画冒頭、高倉は警察署内で連続殺人鬼と面談をする。間も無く、その連続殺人鬼は署内を逃亡し、人質を取り、高倉が事態を収めようと連続殺人鬼に説得を試みる。しかし、その説得は失敗し、高倉はフォークで刺され倒れこむ。
このフォークによる刺痕が映されることは無いが、想像するに牙痕や注射痕と良く似たものだろう。高倉はこの時「生ける死体」になった。そう考えると、高倉が西野の監禁・殺害部屋にある死者が入れられる穴、または入ると生きては出られない穴(谷本刑事の最期)に入り、腕の力だけでヒョイッと上がってくることや、注射により操られなかったことの説明がつく。高倉はとっくに「生ける死体」だったのだ。彼には生と死の境が存在しない。
またこのことから、劇中で用いられた「鬼」という言葉が「殺人鬼」や「吸血鬼」といった秩序・無秩序混合型に共通する概念であることも見えてくる。イメージの吸血鬼ではなく、伝承される吸血鬼「生ける死体」は、日本ではただ「鬼」と呼ばれるのかもしれない。

映画終盤、西野は同じ「鬼」である高倉を操れていると思い込み、高倉に拳銃を渡し犬を殺すよう指示を出す。その好機に乗じ、高倉は西野を撃つ。撃たれた西野はその場に倒れこみ動かなくなる。劇中の高倉家のカレンダーが6月だったことから、倒れ込んだ西野に枯葉が吹きつけるショットは、倒れ込んだずっと後の出来事、もしくは西野の肉体が滅ばない暗示だろう。西野は吸血鬼「生ける死体」だから、また動きだすかもしれない。
そのショットに康子の叫びが重なる。彼女の叫びもずっと続いているのだ。西野家に乗り込んだ高倉に、「あなたまでここにくる必要なかったのに」と言った康子は、夫が「生ける死体」だとは気づいていなかった。康子が形骸化した理由は分からないが、高倉にその理由があるのだとしたら、例えば、高倉を生かすために彼女が形骸化したのだとしたら、とっくに高倉が「生ける死体」だったという事実に絶望し、叫び続けているのかもしれない。

長くなりました。ここらへんでやめます。
混乱するかもしれませんが、「吸血鬼」「鬼」「生ける死体」という言葉は、ほぼ同義で使用しています。
公開当初、黒沢監督がこの映画をダークファンタジーと言っていて、全く意味が分からなかったのですが、吸血鬼映画ならダークファンタジーですね。

『ハドソン川の奇跡』(2016年)感想・ネタバレ

監督:クリント・イーストウッド

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冒頭、企業ロゴに重なる音。市街地で衝突する旅客機。そして恐怖に驚き目覚めるサリー。この時、サリーの瞳にだけ照明が当たり、他は影になってよく見えません。この場面と次のシャワーを浴びる場面は、目覚めた後にシャワーを浴びた、というようにつながっているのでしょうか。サリーは、悪夢で目覚めてシャワーを浴びたのでしょうか。

2001年9月に起こったアメリカ同時多発テロ事件。私は世界貿易センタービルに旅客機が衝突する、あの象徴的な映像で記憶しています。事件当時の映像で繰り返し見たのか、その後に取り上げられた映像が積み重なり脳裏に焼き付いたのか、曖昧です。
あの時、現役旅客機パイロットの人達は、事件にまつわる映像をどのように見たのでしょうか。飛行機操縦経験の有無は、あの事件の映像に対する視点に何か影響を与えるのでしょうか。

サリーが悪夢を見て恐怖に驚き目覚めるかのように見える冒頭の場面は、USエアウェイズ1549便不時着水事故の前なのか後なのか、サリーの白髪が確認出来ないように撮られているため分かりません。この場面は、まるで砂埃のように白く蒸気が舞う浴槽の場面へとつながることから、USエアウェイズ1549便不時着水事故の前であり、アメリカ同時多発テロ事件後のサリーの心象を表しています。市街地での旅客機衝突という悪夢。それを目撃した恐怖。そしてアメリカ同時多発テロ事件でNYの街に降り注ぎ舞い上がった砂埃のような蒸気の中、現在のサリーはスクリーンに登場するのです。これは、サリーの中にアメリカ同時多発テロ事件で生じた恐怖が、USエアウェイズ1549便不時着水事故により顕在化したことを表しています。
国家運輸安全委員会の追及にサリーは、アメリカ同時多発テロ事件以降自身の中に生じた市街地での旅客機衝突という恐怖のビジョンを回避しようとして、事故に際して冷静な判断が下せなかったのではないか、という不安を覚えます。

この不安はサリーだけのものではありません。
サリーの判断に疑いを持つ人。サリーをヒーロー視し熱狂する人。サリーと同じように戸惑い不安を抱える人。これらの人々の反応の元に、アメリカ同時多発テロ事件があるのです。「NYは飛行機に良いイメージがないから」という台詞に、アメリカ同時多発テロ事件の同義や反義としてUSエアウェイズ1549便不時着水事故を捉える人々の心情が表されています。

2016年に発生した熊本地震の映像を連日ニュースで見ていた時、私は南阿蘇村の阿蘇大橋付近で発生した大規模な斜面崩壊の映像と、熊本城崩壊の映像、どちらが後世に熊本地震の様子を伝える象徴的な映像として残るのだろうか、と考えていました。死者や負傷者、被害に遭った人々、変わってしまったもの、壊れて消えたもの、全ての細部が一つの象徴的な映像になり、象徴的な出来事が語られ、単純化されていきます。
USエアウェイズ1549便不時着水事故が起きたのは2009年。アメリカ同時多発テロ事件から約8年が経過し、事件の細部が映し出され、その様子が詳細に語られることは無くなっていたはずです。事故をきっかけとして、自身や多くの人の内に蘇った恐怖と不安に、サリーは細部を明らかにすることで応えていきます。何度も繰り返される事故当時のフラッシュバックは、回を重ねるごとにより詳細さを増していきます。何があったか。誰がいたか。誰がどうしたか。何を思ったか。そしてその細部の果てで真実は明らかになります。サリーが飛行機乗りとして積み重ねてきた数々の経験や教訓は、アメリカ同時多発テロ事件により負った傷で汚されてはいなかったのです。
サリーがヒーロー視を拒むのは、ヒーロー視という行為そのものが、人々の恐怖や不安からくる出来事への拒否反応としての象徴化や単純化だからなのかもしれません。詳細に真実を見つめることは強靱な精神力を要することですが、根本的な恐怖や不安に立ち向かうために、サリーは冷静に真実を追い続けました。
USエアウェイズ1549便不時着水事故の乗客や管制塔などの様子は、サリーのフラッシュバックとして出てきますが、サリーが知りえないことです。あれはアメリカ同時多発テロ事件にも及ぶ想像力ですね。アメリカ同時多発テロ事件の時はどうだったのだろうか、と思わずにはいられません。


イーストウッドの出来事の単純化や象徴化に対する姿勢は、この後の映画に影響を与えそうです。『岸辺の旅』(2015年)の黒沢清監督はこの方向性ですね。

この内容で、映画は無茶苦茶お洒落なんですよ。全てが洗練されてます。何気ない乗客のエピソードも感傷的過ぎず、印象的にサラッと描いてます。
コクピットパイロットの後方からフロントを撮ってる画が若干左後方よりで、何か意図的にアングルを外すというか、そういった不思議な撮り方をするのですが、全体になると凄く洗練されて見えます。前作との対比が見えるBARの場面とか、色々書き出したらきりがない映画です。87歳にこんな映画撮られたらもうぐうの音も出ません。

『BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』(2016年)感想・ネタバレ

監督:スティーヴン・スピルバーグ


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キャラクターや物語世界の説明に時間を使うつもりはない。観賞者にビジョンが残ればそれでいいんだ。
と、スピルバーグが言ったかどうかは不明ですが、そんな印象の映画です。
映画の中に有名なランドマークを登場させることを意図的に避けてきた感のあるスピルバーグですが、冒頭からビッグ・ベンとロンドンバスが映り、何だかいつもと違う始まり方をします。

思いっきりネタバレになるのですが、キャラクターや物語世界が曖昧なまま、これまた曖昧に場面が繋がり、宮殿のベッドでソフィーが目覚め、起き上がって窓辺に近づきBFGを思うラストの場面で、この映画は冒頭からずっと夢で、裕福な少女が孤児の少女の夢を見ていたのだ。と思ったのですが、窓辺に佇むソフィーの足元に「ソフィーの夢」の空瓶があることで、よく分からなくなってしまいました。
孤児のソフィーとBFGの物語は全て裕福なソフィーの夢だったと捉え、尚且つこの空瓶があるということは、裕福なソフィーの世界にもBFGがいて、大統領と電話で話した少年の夢のように、BFGの手によって、裕福なソフィーは孤児のソフィーの夢を見たのだと捉えると、水面の向こうの世界で美しく輝き、蛍のように浮遊し色とりどりに光る夢の中でも一際特別で素敵な「ソフィーの夢」は、BFGの手によるもので、その「ソフィーの夢」をこしらえるために、美しく輝き、蛍のように浮遊し色とりどりに光る夢を、BFGは水面の向こうの世界で採取し、一際特別で素敵な夢の夢としてソフィーに見せたことになるわけです。
どうですか。こんがらがりませんか。
どこからどこが夢だとか夢じゃないとか、結局全部映画じゃねえか、と投げ出したくなります。
A.I.』(2001年)のラストの2000年後の世界で、デイビッドとモニカが幸せな一日を過ごす様子をテーブル型のディスプレイで未来のロボットが見ている場面も、未来のロボットがデイビッドに見せているプログラムしたデータを平面に映しているのか。どこかにかつての家のセットがあって、そこにいるデイビッドとモニカをカメラで撮影した様子を、未来のロボットがモニターしているのか。そもそも2000年後の世界など存在せず、デイビッドの機能停止直前に起こった不具合から生じた、まるで夢のようなバグではないのか。などと考えていると、結局全部映画じゃねえか、と思ってしまいます。
私はこの、結局全部映画じゃねえか現象を、スピルバーグが誘発していると思っているのですが、ただの思考停止なのでしょうか。

以前、このブログで『未知との遭遇』(1977年)について書いた時に、『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド出版局、2000年)を引用して、『未知との遭遇』に登場するUFOは映画のメタファーで、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)の聖櫃も映画のメタファーだと書いたのですが、『BFG』に登場する、夢と呼ばれる色とりどりの光は、水面の向こうの世界の色とりどりの光なわけですから、やっぱりこれも映画のメタファーなのです。
思いが光になり、その光が光を生み、さらにその光が思いを生み、といった反復が描かれています。色んな思いで皆が映画を作って、その映画から新たに映画が生まれて、さらにその映画を見て皆が色んな思いを抱いて、みたいな。
言葉にすると陳腐ですが、どこにも辿り着かない、延々と反復する光の物語は、まるで夢のようです。