監督:黒沢清
無謀にも『LOFT』について考え始めてしまい、行き詰っている。
なんとなく『LOFT』を見直して、吉岡(豊川悦司)の回想場面前のショットのつなぎの奇妙さと、礼子(中谷美紀)が東京と郊外の屋敷を簡単に行き来していることが気になり、考え始めたら沼にはまってしまった。
回想場面(と思われる)前に、吉岡は黒い服の女(安達祐実)を埋めたかもしれない場所を必死に掘り返している。その様子をカメラは下からのぞき込むように撮っている。そして何となくそのショットが感覚的にある一定の時間を超えたところで、次は回想だなと思う。ハリウッド映画なら吉岡の荒い息遣いをオーバーラップさせながら回想へ入るだろう雰囲気のショットだ。そして、なぜこんなことになったのかが明かされたりする。
しかし、なぜかそうはならない。
次のショットは回想ではなく、その日の夜で、これから家へ帰るのか施設から出てきた吉岡が車に乗り込むショットになり、車に乗り込んだ吉岡を正面から捉えたショットの後、回想へ入る。そして回想場面が終わり、車に乗り込んだところでぼんやりしている吉岡のところへ礼子がやってくる。
回想前の、車に乗り込むショットはいるのだろうか。土を掘り返している場面から回想に入って、回想が明けたら夜の車の中でぼんやりしていても良いのではないか。あそこで回想に入らないのなら掘り返しショットのあのためはなんなのか。
文章で書いているのを読んでもピンとこないかもしれないが、ここは実際に見て確認してほしい。おかしいから。
こういう違和感を覚える場面は、黒沢監督の場合たいがい何かセオリーがあって、驚くほどあからさまにセオリー通りに撮った結果であることが感覚的に多いので、なんなのだろうかと考えている。
今のところわかるのは、このショットのつなぎかたの理屈は、時間の方向性が過去→未来ではなく、未来→過去ならありえるかもしれないということ。この映画の逆再生用のショットの可能性がある。自分で書いておいて何それ状態だが。
今のところ『LOFT』は、結果から遡って語られる女の死とスクリーンの機能が密接に絡んでいる映画なのだろうと考えている。
「建築映画 マテリアル・サスペンス」(2013、鈴木了二)の中で建築家の鈴木了二氏は『LOFT』のあのミドリ沼に設置された吊り上げ滑車装置を確かゲートと言っていた。ゲートというのも暗喩的な言葉だが、より具体的に言うならばあれはどう見てもスクリーンだろう。
映画終盤の吉岡と礼子が吊り上げ滑車装置へ向かうところを捉えた引きのショットでは、装置の像が水面に映って装置とその水面の像により、スクリーンを思わせる長方形の枠が出現する。私の『回路』(2000年)の記事を読んでもらえれば分かるが、黒沢監督はスクリーンを水面とほぼ同じものと考えている。それはハーフミラーの特性を備えていて、2つの面を持ち、一方は透過してあちらを見ることができ、もう一方は鏡のようにこちらを反射する。
なので、半分は水で半分は空間が見える長方形の枠は、スクリーンの特性を一目で表したショットと言える。ここまで明確ではないが、黒沢映画によく登場する半透明の遮蔽物も水面を模したものだと私は考えている。
『岸辺の旅』(2015年)の滝つぼや、『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)の西野家の壁に映る四角い反射光や、『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(2017年)の山際家のマンションの窓から見える向かいの建物の壁に映る四角い反射光なども、スクリーンの存在を仄めかした表現だろう(スクリーンはあちらでは鏡面となって見えるため、映画内の光源の角度によっては四角い反射光として画面に映りこむこともあり得る)。『CURE』の水の無い回る洗濯機などもスクリーンに穿たれた穴として境界の崩壊の始まりを描いていたのだろう(ここでは回転という映写機の暗喩もみてとれる)。
私も折を見て、少しずつ黒沢清の映画に頻出する表現について考えをまとめてブログに書いていこうとは思っているが、いつになるかわからないので、なぜ黒沢監督が水面をスクリーンと同じもののように表現するのかについては、「21世紀の映画を語る」(2010年、黒沢清)を読むのが一番わかりやすいと思うので紹介しておく。
『ジョーズ』(1975年)もあわせて鑑賞するとより分かるかもしれない。
水面というと、地面に垂直に設置されたプールのようなものとしてスクリーンをイメージするかもしれないが、こちらからはあちらが見えていて、あちらからは鏡面として認識されているということは、私たちは水中から水面(スクリーン)を見ていることになる。
『回路』でもそうだったが、死があるのは私たちのほうで、どうもあちらでは死がものすごく曖昧なものとして認識されているようだ。それはあちらが視覚でしかあらゆるものごとを認識できない世界であることに起因している。
死を視覚的に認識するのは結構難しい。『LOFT』の黒い服の女の描かれ方が顕著だが、生きているのか、死んでいるのか、気絶しているのか、死体なのか、幽霊なのか、こちらから見るだけでは、それらの境界線が極めて曖昧な存在である。そしてそれは黒沢監督の作品に登場する人物全般に言えることだろう。
『回路』(2000年)で幽霊みたいな存在と目が合って彼らが驚愕しているのも、完全に瞳孔の開いた瞳という視覚的に認識できる明らかな死をそこに見たからなのかもしれない。
視覚でしか死を認識できない世界において、ミイラという存在は私たちが想像する以上にインパクトのあるものなのかもしれない。
『CURE』でもサルのミイラを見たことで妻の死が連想されたように、ミイラはあちらの世界で死を喚起させる存在として登場しているふしがある。ミイラが登場することで、誰かが死んでいるんじゃないかという予感が映画に立ち込め始める。
『LOFT』ではその上に美しい女の死のオブジェとしてのミイラが描かれている。たぶん本当は美しい女の死ではなく、女の美しい死のオブジェだろう。私はあのミイラを一見して美しいとは思わない。生前美しい人だったとしても、ミイラになった状態を美しいとは思えないが、その姿が投影されたときに沸き起こる、称賛のような感嘆のような男のどよめきは、『スパイの妻』(2020年)で夫の自主映画に女スパイとして登場する聡子(蒼井優)のアップが投影された時にもあった。あれは美しいものを見た時の男のどよめきだ。
上記の場面もそうだが、セリフなどからも『LOFT』では一貫してあのミイラを美しいものであるかのように扱っている。
あれは概念化された女の死のオブジェである。それは男にとって美しいものである。ミイラに翻弄される吉岡がどことなく酔いしれている様子なのはそういうわけなのだろう。なんなら日野(大杉連)まで自分もミイラに翻弄されているのだと主張してくる。魔性の女に魅入られたのだとでも言いたげな口ぶりで。
なのであの唐突なラストは、概念としての女の美しい死に陶酔する男達に冷や水をぶっかけているように見える。
女の美しい死という概念化したオブジェ(ミイラ)は、変容することなく水面(スクリーン)を通過し、甘美な死を喚起する。しかし、映画ラストで水中(こちら側)より引き揚げられた黒い服の女はまるで土左衛門だ。彼女はスクリーンを通過することで変容した。あの瞬間、彼女の死は暴かれ、彼女は死んだ。それまでの彼女の状態はシュレーディンガーの猫と同じで、生死が重ね合わさった状態にあった。
その前から彼女の幽霊は出ていたのだから、それはおかしいと思うかもしれないが、私の見立てでは、あのまるで幽霊のような彼女は幽霊ではない。あれはこちら側にいる彼女の姿があちら側の鏡面に映りこんだ鏡像だ。
まるで幽霊のような彼女の描かれ方として、特徴のある場面が2つある。
一つ目は、大人の背丈二人分ほどの位置にある高い窓から彼女が覗き込む場面で、もう一つは彼女が吊り上げ滑車装置を前に水中を指さしてじわじわと消えていく場面だ。高い窓から覗き込む場面は、志村けんの鏡を使ったコントを思い出してもらえれば分かりやすいかもしれない。半身を鏡に映し、浮いているように見せたり、一つ目のように顔貌を変容させるあれと同じ理屈が適用できる。もう一つは、あのように黒い斑点が広がり、じわじわと消えていくのが鏡面の腐食する様と似ていることから推測した。鏡が腐食するとシケと呼ばれる黒い斑点が発生し、それが広がって鏡面は失われていく。なのであのように消えるものは幽霊ではなく鏡像である。
彼女の着ている服の色が常に黒いこともこの仮説に加担している。
黒沢監督は、『回路』で劇場の観客を黒い幽霊のようなものとして描いた。
『回路』の記事でも書いたが、彼の映画において劇場は水中と同じく、死角として描かれる。そしてスクリーンはその死角の一面に存在する境界面である。
黒い服とは、暗いところにいて色の判別ができなくなり、総じて黒い服のように見える観客の服装であり、それは死角に存在する者を象徴的に表している。
鏡像としてあのように見えたということは、おそらくこちらの世界で、黒い服の女は生物学的には死んでいない。彼女は世の中の死角に存在している女性の誰かだろう。その姿が、スクリーンの鏡面に映し出されると、まるで幽霊のように見え、スクリーンを通過すると死んでいるように見えるということだ。そしてそれが黒沢監督の考えるスクリーンの機能なのだろう。
思いつくままに書いたが、今のところここまで。
「結果から遡って語られる女の死とスクリーンの機能」について明確に書いてはないが、現時点で書ける範囲は書いた。というか、書いてる途中でシュレーディンガーの猫が出てきたため、始めの方に書いた時間の方向性が未来から過去なのではないかという推測とあいまって、この物語を語るには、「ウィグナーの友人」と呼ばれる思考実験を持ち出す必要があるのかもしれないと今は考えている。
礼子が東京と郊外の屋敷を簡単に行き来していることについてはまだ分からない。他にも色々と分からないところがあるので引き続き考える。
共通する要素が多々ある『叫』と一緒に見ていくほうがよりわかるのかもしれない。