映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『運び屋』(2018年)感想・ネタバレ

監督:クリント・イーストウッド


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グラン・トリノ』(2008年)の時も思ったのですが、ニック・シェンクの脚本は本筋以外のフックが強くて、観た直後は少し混乱してしまうのですが、今回は2日ほど経過したところで、なんとなく感想がまとまってきました。


感傷的な劇伴と病床の妻とのやや語りすぎなやりとりなどを観ていると、メロドラマみたいだなと意外に思ったり、噂の運び屋の正体がアールだとバレる終盤で、対峙するコリン刑事にサングラスをつけさせて、表情の変化を分かりにくくしている場面を観ると、相変わらずクールだなと思ったりして、ウエットなのかドライなのかも判断しかねていたのですが、やっぱり容赦ないというか、ドライな眼差しが根底にあります。


デイ・リリーの栽培にのめり込んで、家族を蔑ろにしてきた男が仕事を失くし、家族からも疎まれて孤独な晩年を過ごしているという触れ込みで映画は始まるのですが、アールはいつもパーティやセレモニーや大会などに顔を出していて陽気にしているし、唯一一人になる車内では機嫌よく歌なんか歌って、孤独な老人の姿は最後の最後まで出てきません。
アールは、「家族より大切なものなんてない」と、今までの自身の行いに対する後悔を口にするのですが、トレビーノには「自分のすきなことをして生きろ」と伝えます。「自分を救ってくれたファミリーを裏切る事はしない」と彼に反発され、アールは今にいたっても考え方を変えられない自分自身に気づいてうろたえてしまいます。

アールの人生は何もかもが遅すぎました。
家族と向き合い、裏社会の者達と触れ合うことで様々な事に気づき、その過程で自身のそれまでの行いに対する後悔を深めていくのですが、アールが自身の罪に気づく頃には、皆わだかまりと何とか折り合いをつけていて、結局アールは許されてしまう。最後まで妻への罪は償えずに、簡単に許されて先に死なれてしまう。
「運び屋」のルールを破り妻を看取ったアールは、組織の者に「殺してくれ」と懇願します。他者に断罪を求めますが、誰も彼を裁こうとしない。「運び屋」の仕事は、そのことを象徴するかのように、好き勝手にやる爺さんは最後まで許されて、止まることなくアールは走り続けることを余儀なくされてしまう。
許されてしまう残酷さというのは、生きていかなくてはならない残酷さです。走り続けなくてはならない、止まることは許されない。

いつの間に痛めつけられていたのか、血を流しながらアールは、車を走らせます。
ハレとケでいうところの、ずっとハレの側面しか見せていなかったアールの本当の孤独の姿、惨めな男の姿は、痛めつけられ血を流しながら、それでも車を止められない男の姿です。
この時、アールがスーツを着ているのが凄くいいんですよね。『悪魔のいけにえ』(1974年)のレザーフェイスも最後の場面で、白のカッターシャツにスラックスという若干正装っぽい装いだったのですが、テンションの高い場面がある個人にとって重要な儀式に相当する何かであるがゆえの正装のようでもあるし、惨めさとそれに伴う焦燥感との対比が効いています。Tシャツの人が痛めつけられているより、スーツの人が痛めつけられているほうが見ていて辛い感じしませんか。

孤独の理解者であるコリン刑事に最後は捕まり、アールは裁判にかけられます。
「組織は彼が老人であることにつけこみ・・・」と、情状酌量の余地を弁護士は訴えますが、アールは自ら「私は有罪です」と訴え、その場にいる者達をギョッとさせます。誰にも裁いてもらえない彼は、自ら罪を告白することしかできません。「全ての罪において有罪を認めるということですか」との裁判長の質問に「はい」と答えるアール。抽象的な質問ですが、全ての罪とは、アールがこれまでの時間で負った罪なのでしょう。
アールにとっての贖罪とは、取り戻せない時間によって許されてしまった罪を見つめる孤独の中で生き続けることです。生きて懺悔し続けることです。
彼が罪に気づいた時には、すでに罪は許され、彼は間に合わなかった。全てが遅すぎた。
ラストの、老いを受け入れるなと歌う歌が、自らを許すなと言っているように聞こえてきます。



「ジェームズ・ステュアートに似ている」という台詞が何回出てきたかなと振り返るのですが、思い出せません。12年前の場面と「運び屋」になってからの場面の2回だったように思うのですが、というかそうだとしたら意味が分かる台詞なのですが。
12年前のアールは、娘の結婚式にも出席せず、デイ・リリーの品評会に出席して軽口を叩き調子よく振る舞っています。これらの様子から、家庭を顧みず自身の趣味的な仕事に没頭する奔放な男の生き様を肯定している姿に見えるのですが(それが彼の生きた時代のジェンダー的価値観に起因するのかどうかは不明)、非家庭的に振る舞うことを肯定している男にとって「アメリカの良心」と呼ばれたジェームズ・ステュアートに似ていると言われることは、若干面白くない印象を持つ言葉だと思うのですが、これが仕事を失くし家族に疎まれ、孤独を抱えながら「運び屋」という危険な仕事、謂わば本当のワルになった時に言われると、皮肉に響くと思うんですよね。人から掛けられていた何気ない言葉が、実は重要な意味を持っていたではないですが、12年前にこの言葉の意味に気づいていたら、まだ取り戻せていたかもしれないのに、その時の自分は大事なことに気づかず、内心(ジェームズ・ステュアートなんて面白みのない男に似ているだなんてやめてくれよ)と思っていたのに、今となってはその面白みのない男に憧れている男の姿が浮かび上ると思うのですが、どこに何回出てきた台詞か確認できてないので全然違うかもしれません。


許されてしまう男の惨めさや孤独、傍から見ていると罪を自覚した人に対する残酷な仕打ちのようにも見えるこの感じ...黒沢監督の『叫』(2006年)みたいだな、とちょっと思いました。自分だけ許されてみんないなくなるやつ。
イーストウッドのマゾヒスティックな部分って、自罰的な意味合いがやっぱり強かったのかなとは思いましたが、劇中の濡れ場や最後の刑務所でのうのうとデイ・リリー育てている描写などを見ると、恥を晒すというか自身を痛めつける方向性が少し変わってきたようにも感じました。