映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『AKIRA』(1988年)感想・ネタバレ

監督:大友克洋

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2018年の年末ということで、『AKIRA』を久しぶりに観ました。
来るべき2019年。ネオ東京。ドーン。


前々から思っていたのですが、金田って何者なんでしょうか。
金田は主人公なので、あらゆる場面に登場して行動を起こしますが、彼の行動によって事態が決定的に変化するようなことはないし、あれだけのことが起こっても、金田自身にも事態の影響が見られないというかなんというか、かなり透明な存在です。

主人公でありながら、俯瞰的な立ち位置のストーリーテラー狂言回し的な役どころのようでもあるのですが、金田の傍若無人な度胸と、そこから生じるエモーションが終始物語を支えているように見えるので、当事者なのか、傍観者なのかよく分からない存在です。

映画終盤に至って、タカシとキヨコとマサルに「あの人(金田)は(この事態に)関係ない」と言われていて、思えば、序盤で捕まった軍にも、途中で捕まるゲリラにも事態に関係のない存在と見做され、何度も事態から追放されています。しかし、金田は事態に能動的に関わり続け、最終的に事態を見届ける役目を担います。
事態に影響を及ぼさないから、序盤から終盤まで一貫して関係ない人扱いを受けるわけですが、だからなのか、なのになのか、事態の起こりから終わりまでを見届ける唯一の者になります。


影響を持たない透明な存在でありながら、事態を見届けるって、天使みたいですよね。
(『天使とデート』(1987年)ではなくて、『ベルリン・天使の詩』(1987年)のような天使です。)
久しぶりに『AKIRA』を見直した後、(金田ってベンヤミンの「新しい天使」っぽいな)と思い、『AKIRA』好きの人に以下のベンヤミンの文章を読み聞かせたのですが、全然ピンときてもらえなかったので、この記事を書いています。

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており 、天使は、かれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのようにも見える。かれの目は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が天に届くばかりに高くなる。僕らが進歩と呼ぶのは〈この〉強風なのだ。

ウォルター・ベンヤミン「歴史の概念について」より

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パウル・クレー「新しい天使」(1920年

ベンヤミンの「新しい天使」も金田と同様に、事件を見つめるだけで、事件に影響を持たない存在のようです。ベンヤミンは、楽園から吹く強風を進歩と呼んでいます。その進歩に押されながら後ろ向きに飛ばされていく天使は、眼前(過去)のカタストロフのみを見ています。
2020年に開催される東京オリンピックに向けて開発が進むネオ東京には、最後のカタストロフを待たずして、事態の進行とともに瓦礫や廃墟が積み重ねられていきます。
進歩という強風に押し進められながら、「そこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたい」という思いを抱き、瓦礫や廃墟が積み重なっていく様を見つめる天使からは、焦燥というかもがきというか、認識者であり観察者でありながら、目の前の事態に対する、金田同様の当事者意識が感じられます。

そうなるとってこともないのですが、金田が天使なら、アキラとは進歩なんですかね。
アキラが核のメタファーとして描かれているとする文章は過去に読んだような気がするのですが、東京という舞台設定や、劇中のケイの台詞などからも、核というよりも進歩の象徴として捉えたほうが、アキラが両義的(一方で恐れられ、一方で待ち望まれる)な存在として扱われることに納得がいきます。