映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『ローズマリーの赤ちゃん』(1968年)を見ました。

監督:ロマン・ポランスキー

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ローズマリーの赤ちゃん』『ポランスキーの欲望の館』のネタバレあります。

Amazonビデオで観た『ナインスゲート』(1999年)が初ポランスキーで、その後GYAO!で『ポランスキーの欲望の館』(1972年)を観て、それから少しずつポランスキー監督映画を観始めています。

巷では、実は人間には自由意志が無いだとか、いや自由意志は僅かながら存在するだとか、自由意志についての新たな認識に関する言説が飛び交っていますが、ことポランスキー監督の映画を3作品ほど観て思うのは、映画の中の人間に自由意志は無いということです。

何かしら重大な、或いは神秘的であったり、ショッキングであったりする映画の結末は、観る前から予め決っています。すべてが動かせない過去として映画は現前するので、当然その中で動いて話している人間に自由意志はありません。
それら全ては承知の上で映画は観賞されます。
そして観客は、映画がドラマチックな結末に至ると、それは運命であり、予め決っていたことなのだと感得します。
しかしこの、映画の結末は予め決っているという事実と、観客がこの結末は運命として予め決っていたのだと感得することは、言葉にすると似ているようでもまったく違うものです。観客は、目の前に映る人間が動いて話していることから、今この瞬間に彼らが自由意思を持って出来事に遭遇しているかのように錯覚し、ドラマチックな結末を運命だと思うのです。

私自身、今そこで出来事が起きているかのように映画を観ますし、ドラマチックな結末をまるで運命のようだと思うのですが、なぜかポランスキー監督の映画を観ると、承知はしていたけど意識していなかったところの、映画の結末は予め決っていてその中の人間に自由意志など無いという事実にはっきり思い至ります。
今のところ観たポランスキー監督の映画3作品全てそうなので、何かしらそう思わせるからくりがポランスキー監督の映画にはあるのだと思います。

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ポランスキーの欲望の館』は、映画の結末は予め決っていてその中の人間に自由意志などないという事実について、かなりメタ的な視点で撮られた作品だと思うのですが、この映画は、『悪魔のいけにえ』(1974年)と『悪魔のいけにえ2』(1986年)によく似ています。
館(家)の中では、異常なことが起きているのだけれど、それがそこでは繰り返されている日常な感じだとか、その館(家)へ行くと繰り返されている異常な日常に必ず取り込まれてしまう感じだとか、トラックに乗り込み物理的に距離を取って逃げるしか手がない最後だとか、自由意志によって進行を変えていくかのように錯覚させる物語に相当するものが、無機的な仕組みだとか仕掛けだとか機構みたいなものに取って代わっています。「それはそのように出来ていて、くり返しそうなる」といった仕組みが、錯覚を取っ払った映画の姿なのかもしれません。
もしかしてトビー・フーパー監督の「悪魔のいけにえ」シリーズは、『ポランスキーの欲望の館』に触発されて撮られたのかもしれないと思っているのですが、この思いつきはどちらの支持層からも怒られたりするのでしょうか。

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ローズマリーの赤ちゃん』も、ローズマリーがミニーから貰ったチョコレートムースに違和感を覚えて全部食べないだとか、タニス草入りのペンダントを貰っても付けないだとか、タニス草入りのドリンクを飲まないだとか、医者を勝手に変えるだとか、与えられた錠剤を飲まないだとか、他にも色々抗うわけですが、あのマンションに越して来たのが元凶以外の何ものでもないぐらい早い段階でローズマリーは悪魔の子どもを身籠りますし、悪魔の子どもを身籠ったローズマリーの抗いが何一つ効果を持たない(根本的な解決には至りそうもない)ことを何度も見るうちに、なんかこう、この先どうなるのだろうか?といった物語の進行への関心が薄れ、ラストのナイフを持って悪魔のしもべたちの集まりの中へ向かうローズマリーを見るころには、このナイフと行動が何の意味も成さない事を知っていて、やはり何の意味も成さず、悪魔の子を受け入れるローズマリーをいつものことみたいな感覚で眺める、といった境地に達するわけです。
悪魔の子の姿が登場しないので、悪魔のしもべたちの妄想にローズマリーが取り込まれたのか、全てがローズマリーの妄想なのか、事実なのか、観ている者が共有出来ない曖昧なラストを迎えますが、ローズマリーが何をどうしようと、彼女に自由意志があろうとなかろうと、決定済みの過去、あるいは結末に向かって正確に動く機構を観ている気持ちになるので、酷いだとか、可愛そうだとか、どうしようもないといった何かしらの感情が湧くわけでもなく、これはこうなるのだ、とラストを確認して終ることになります。
決定済みの過去、あるいは結末に向かって正確に動く機構に取り込まれていくローズマリーや登場人物が映画の進行に干渉できないのは、彼ら・彼女らにとっても、それは過去、機構であり、彼ら・彼女らは観客と同じく映画に干渉できない現在に属する存在なのかもしれません。というか、映画と観客の関係性をそのまま当てはめているのでしょうね。


映画の中で、爆弾の赤と黒の導線のどちらを切るか必死で考える場面(今どきない)などを観ると、ふと我に返って、どっちを切るかは既に決っているのに本当にバカみたいだと思ったりしますが、そうやって我に返ったら映画なんて楽しめないものだとも思っていたのですが、我に返った状態から映画を撮っている監督は結構いるのかもしれません。