映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『ウンベルト・D』(1952年)感想・ネタバレ

監督:ヴィットリオ・デ・シーカ

GYAO!の無料配信で『ウンベルトD』を見た。
※無料配信は6/25まで

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暗い話だ。
ウンベルト·D·フェラーリは、30年間公務員として真面目に勤め上げ、現在は年金暮らしである。しかし、受け取れる年金額は少なく、その半分以上が家賃に消えてしまう。ウンベルトは、苦しい暮らしゆえに家賃を滞納してしまい、大家の女将から立ち退きを迫られている。
飼い犬のフライクを連れ、金策の為に老人は街を彷徨う。
不幸な老人は、落着くことがない。

暗い話は苦手で、「深い」「人間が描けている」などと言いながら不幸な人の話を好む者の気が知れないというか、たぶん物好きなんだろうと思っているけど、『ウンベルトD』は、家賃を滞納して立ち退きを迫られた老人が金策に奔走するという、どう考えても地味な物語を、迫力のロケーションで、電車から女の片足まで、動くもの全てを印象的なショットで描き出すのだから、どうしても観てしまう。
この物語を見進めるのは正直辛い。ウンベルトが救われるには、魔法か何かが必要だろう。
救われることの無い老人を見続けなければならないという苦痛があるにも関わらず、カットが変わる度に現れる、素晴らしいショットに感嘆するという、とてもアンビバレントな観賞体験を得た。

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そして、この映画の最後について、あれはどういう意味なのだろうかと考えている。

ずっと不幸な物語を生きていたウンベルトが、公園で飼い犬と戯れている。憩いの場でのひと時がずっと続くかのように、最後のショットは、ウンベルトが飼い犬と共に画面の奥へと駆けて行くのを固定ショットで撮り続けている。まるで彼が不幸な物語から解放され、刹那的な時間の中の住人になったかのようだ。

フェードアウトしていくリフレインのように、ウンベルトの姿は小さくなっていく。例えばエンドロールと共に流れる物語のその後のイメージ場面のように、何か楽しげな雰囲気を漂わせて。
「そして彼は犬と楽しく遊びました。」そんな訳あるだろうか。
生活の中の心安らぐひと時が、ずっと続くなんてことはない。そしてこの安らぎは、もう彼が手にする事の出来ない時間だったはずだ。お金があり、住むところがあり、時間がある健康な老人なら、公園で飼い犬と遊ぶだろう。そのどれも持たないウンベルトが(まぁまぁ健康かもしれないが)、公園で飼い犬と遊んでいる。
やがて画面の手前を楽しそうに子供たちが走り抜けて行く。その頃には、ウンベルトは遠くにいて、風景の一部となっている。


アパートの階段で、公園のベンチで、ウンベルトと目が合った女たちは、ギョッとした顔をする。ウンベルトに旧友の死を告げられた男のように、取り立てて特徴の無い老人であるウンベルトを見てギョッとするのだ。まるでウンベルトが死と同じように、社会の外に存在する、なにか触れ難い存在ででもあるかのように。
そんなウンベルトが、楽しげな公園の風景の中に溶け込んでいる。誰も彼を見てギョッとしたりはしないだろう。楽しげな風景の中に、モブのように溶け込んでいる人は幸せなのだろうか。それともウンベルトのように、不幸の中の束の間、溶け込んでいるだけなのだろうか。ウンベルトが電車の窓から見る閉ざされた家々の窓のように、その奥にある生活を窺い知ることは出来ない。

公園の入口付近にある踏切で、ウンベルトは自殺を図った。犬と共に駆けて行く公園の向こう側で、今度は本当に死んでしまわないだろうか。いや、いつかは死ぬのだ。そのままウンベルトは画面の奥へと消えて、その向こう側でいつか死ぬ。
犬と共に駆けて行くウンベルトの姿が、そんな死に至るまでの刹那に思えてならない。

デモ行進の人の群れに混ざり、ウンベルトは風景の一部として登場した。そのウンベルトが、風景の一部になって消えていく。
風景の中から現れて消えていくこの老人の物語は、ふと過ぎる死や不幸の予感のようだ。この先何度でも映画の記憶は予感となって蘇り、予感とともに映画の記憶は蘇るだろう。