映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

東日本大震災の津波と黒沢清映画-『リアル~完全なる首長竜の日~』(2013年)、『岸辺の旅』(2015年)を見て-

2011年3月11日14時46分、職場で同僚に「めまいがする」と話していたら、少し離れた席の女性が、「私も何かくらくらします」と言ってきて、その後は多分「疲れてるんですかね」とかなんとか女性に言おうとしたような気がする。でもその前に無線が鳴って、上階がかなり揺れたという連絡が入り、それからすぐに物凄い地震が起きていて、その後に津波がきて大変な事になっていることが分かり、その時から今までずっと、断片的な情報が伝えられている。
震災の発生から1週間ぐらいは、ほとんど寝ないでニュースを見ていた。何がどうなっているのかを把握したかったのだと思う。とにかくニュースを見ていた記憶しかない。ある時津波のニュース映像を見ていたら涙が出てきて、そこから津波の映像を見るたびに涙が出るようになった。自覚できる感情は無い。感覚的には平常心で涙だけがなぜか出てくる状態になった。よくわからないけれど、何かが飽和状態に達したような気がして、ニュースを見るのを止めた。

アメリカなんかは、災害や事故・事件が起こると、すぐ映画にするけど、あの津波は映画で描けないと思った。描けないけど、映画が描かないわけにはいかないものだろうとも思っていた。
現実で目に映るものは全て不条理だ。意味なんてない。その不条理を切り取り、同じものを見るという同時代的行為によって幻影を共有し、そこに意味を見つけることが出来るのが映画だと私は思っている。震災で目の当たりにしたあの津波は何なのか。私が目にしたものは何なのか。誰かに切り取って欲しいと願っていた。

象徴化することでしか描けない津波『リアル~完全なる首長竜の日~』


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震災により、非現実的だと思っていた景色が現実の中に出現した。現実だと思っていた景色が、非現実的な気がした。漁船が地上に現れ、一軒家が沖へと流されていく。何の変哲もない毎日が得難いもののように思えた。私たちは混乱していた。
この全ての始まりは、津波の発生にあった。

東日本大震災から約2年3ヵ月後に封切られた『リアル~完全なる首長竜の日~』は、現実と意識の中の非現実的な世界が不自然なまでに差異無く描かれる。映画の中で描かれる現実でも非現実でも、たとえそれが映画の外の私たちの世界でも、目の前の人がフィロソフィカルゾンビかどうかを見分ける術は無い。浩市(佐藤健)の世界はひどく混乱していて、その混乱の始まりは首長竜にあった。

このように書くと、震災を描いた話のような気がすると思うが、あれこれ説明しなくても、海から首長竜が出てきて人を襲うことをもってして、これは約2年3ヵ月前に発生した震災の津波を象徴しているとしても、乱暴な話ではないと思う。こういった事象の象徴化は、実際の震災や事故・事件などを描く時によく用いられる手法だ。

浩市と淳美(綾瀬はるか)は、最新脳外科医療機器のセンシングを使って、意識の中の世界に入り、意識の中の過去へ行き、首長竜が象徴する出来事である、海にのまれるモリオの死の記憶を蘇らせる。浩市は記憶を蘇らせる前からモリオの存在に怯えていたが、その根本には、ただ見ていることしか出来なかった死に対する怯えがあった。そして、ただ見ていることしかできなかった死に伴う、見殺しの罪悪感に苛まれていた。この映画では、海に人がのまれるのを見ていることしか出来なかった者の、恐怖と罪悪感が描かれている。
「あの時モリオが流されて、俺たちは結局何も出来なかった。ただ一つやったのは、首長竜の絵を描いて、全部首長竜のせいにして、見殺しにした罪を封印することだった。」

私は東日本大震災に際して、浩市と同じように、モニター越しに津波にのまれる人をただ見ていることしかできなかった。津波にのまれる人を見殺しにした。だから、浩市が抱いた恐怖と罪悪感を知っている。海岸でうずくまり、見ず知らずのずぶ濡れの少年に打ち据えられて黙って耐えている浩市の気持ちが分かるような気がする。

海にのまれるモリオを、見ていることしか出来なかった少年と少女は、あまりの恐怖と罪悪感に出来事を首長竜に象徴化する。そして、象徴化することで実際の出来事は時と共に形骸化し、忘却され、そこから生じる恐怖と混乱が描かれる。そのように物語を語りながら、この映画は、東日本大震災のあの津波を、海から這い上がり襲ってくる首長竜に象徴化することでしか描き得なかった。映画の中と外からの異なる方向から成された象徴化は、この映画が抱えるアンビバレントな葛藤そのものだと思う。このアンビバレントな葛藤の提示が、震災の津波を描くことの不可能性の提示のように思えた。

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首長竜は、首長竜に見えるタツノオトシゴの死骸が入ったペンダントを受け取り、全ての象徴は海へと消えていく。しかし、この約3年後に、再び海から象徴はやってくる。死骸で出来たドラゴン、『シン・ゴジラ』(2016年)だ。恐怖と罪悪感に沈黙していた人々は、象徴化された怪獣に熱狂し、饒舌になった。アメリカでは、同じような人々の熱狂に包まれ、象徴化されたサリーが、『ハドソン川の奇跡』(2016年)の中で、真実を追い求める様が描かれていた。

描けない津波を描く『岸辺の旅』


『リアル~完全なる首長竜の日~』から約2年後、東日本大震災から約4年7ヵ月後に封切られた『岸辺の旅』は、描けない津波を描かずに描くという、まるで禅問答のような問いを解いた奇跡的な映画だ。

ビルから人が飛び降りる様をワンショットで見せる。銃で人が撃ち殺される様もワンショットで見せる。出来事をワンショットで見せるのが、黒沢映画の特徴だとよく耳にする。このワンショットでの見せ方は、現実の私たちの眼差しに近い表現だ。私たちは事故を目の当たりにして、次の瞬間に、横たわる被害者の顔をアップで見たりはしない。だからワンショットで見せられる出来事は生々しく感じるし、ショットが割られれば虚構だと安心する。
では、人が消える場合はどうだろうか。ワンショットで人が消える。これは生々しいだろうか。そもそも人が目の前で消える非物理的な現象を目の当たりにすることが無いので、ワンショットで人が消えた場合、それはイリュージョンになる。メリエス以降の映画によって育まれてきた、イリュージョンとしての映画なら、ワンショットで人が消えるだろう。
現在の映像機器を用いれば、ワンショットで人を消すことは容易くできる。アングルを固定しておき、一旦録画を止めて画面から消す人物をカメラの外に移動させた後に再び録画を開始すれば、ワンショットで人が消える映像は撮れる。
この映画では、人が消える時、必ずショットが割られる。なぜ敢えてショットを割るのだろうか。ワンショットじゃないから、イリュージョンではない。ショットを割るから生々しさでもない。
何か意味があるのだ。

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映画冒頭、瑞希深津絵里)の家のカレンダーは2014年4月。優介は3年前に富山の海で死に、幽霊となって瑞希の前に現れる。優介の死は、限りなく東日本大震災の発生と、そこでの死に近く設定されている。
「みっちゃん、俺と一緒に来ないか。」「あちこち綺麗な場所があるんだ。」
優介(浅野忠信)の誘いに乗り、瑞希は旅に出る。
『岸辺の旅』というタイトルから、優介と瑞希は、岸辺を旅しているのだろう。そして、時折映る月のショットから、二人の旅が、その満ち欠けが影響する岸辺の波間の旅であることが窺われる。
しかし、二人の旅の景色に波は映らない。何度か海は遠くに見える。穏やかな海だ。近づけば小さな波がそこにはあるのかもしれない。

二人が最初に訪れた場所で、世話になる島影(小松政夫)は幽霊だ。本人は自分が死んだことに気づいておらず、生きていた頃と変わらない生活を送っている。町の商店で瑞希が夕飯の買い物を済ませ通りに出ると、夕刊を配達している島影に出くわす。瑞希は島影に声を掛けるが、島影はまるで聞こえていない様子で、バイクに跨り行ってしまう。瑞希が島影を見送っていると、ショットが割れ、いたはずの島影の姿だけそこから消えてしまう。それを見て、瑞希は慌てて駆け出し、優介を探す。
ここに、描かれない津波がある。
ここは波間で、この時、島影は水の中にいる。瑞希は水の外にいる。そしてカメラは、両者の中間にある。瑞希は水の外から島影に声を掛けるが、水の中の島影には聞こえない。島影が行ってしまう。ショットとショットの合間で水は引き、水の中にいた島影は攫われる。そして両者の中間にあったカメラは、水の影響を受けてアングルを変えている。
穏やかな波は人を攫う事は無い。でも津波は人を攫う。ここで攫われるのが幽霊だということは、彼らを攫った津波が、かつての津波、彼らをこの世から消した過去の津波だということだ。だからカメラは、彼らを消したかつての津波と現在の合間にも位置している。
この津波は、この映画に出てくる幽霊たちの死因が様々であることから、彼らがもういないという事実を表すものに他ならない。彼らがもういないこと。ショットが割れ、彼らが消える度に気づかされるのは、描かれない津波の存在ではなく、彼らがもういないという事実だ。それに気づき、もういないわけなんてないと、瑞希は駆け出し、優介を探すのだ。
この映画は、幽霊を画面からショットを割って消すことで、目の前の幽霊が、消えてしまったもういない人だという事実をくりかえし描く。瑞稀と波間を旅する優介は、波に攫われる小石のように、かつての波の影響を受け、何度も消えて、位置を変えて現れる。その度に、瑞希は喪失をくりかえす。
波間の旅は、繰り返される喪失の旅だ。
喪失を繰り返した旅の果てで、瑞希は聞けなかった優介の最期の言葉を聞き、言えなかった最期の言葉を伝える。それでも喪失は、海の波のように、生きている限り永遠にくりかえされるものであるかのように、穏やかな波が打ち寄せる岸辺が最後に映り、映画は終わる。


津波は自然現象で、東日本大震災で目にした津波そのものに意味はない。でも、あの津波がただの自然現象で、そこに意味なんてないと思うことが出来ない。何も意味がないと思うことが辛い。『岸辺の旅』が描かずに描いた津波は、彼らがもういないという事実に気づかせ、生きている者は、消えてしまった人の喪失をくりかえすという、辛い現実を意味している。でも、生きている者にとって、あの津波はそういう意味だと思う。そして、喪失という普遍的な事象を、生きている者は、共有し生きていくのだと思う。