映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『15時17分、パリ行き』(2018年)感想・ネタバレ

監督:クリント・イーストウッド

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公開2日前に、(新作はまた実話らしいし、実際の事件の確認でもしとくか)と、当時の事件のニュース記事と映画の宣伝記事を読んでいたら、「事件の当事者であるアンソニー・サドラー、アレク・スカラトス、スペンサー・ストーンを主演俳優に起用し-」との文面が。
驚きすぎて、二度見ならぬ二度読みをして、それでも頭に入ってこなくて、もう一度事件の記事を読み、当事者の名前を一から確認しました。
じけんのとうじしゃがしゅえん…
これって、どういうことなんでしょうか。


実話をもとにした映画を、役者ではなく当事者が演じること。
このことは、直接映画の良し悪しに関わることではありません。また、実話の再現がいくら正確でも、実話における出来事の発生とその撮影が同時に進行しない限り、それはドキュメンタリーでは無いので、映画のジャンルにおいても、この場合はフィクション映画となります。
ハドソン川の奇跡』(2016年)のフラッシュバックが供述調書作成のための聞き取り調査を軸に展開されていることや、事故時の飛行の再現シミュレーションにより、サリーの判断への疑惑が晴れるといった前作の流れから、実際の事件を当事者に演じさせる今作は、事件の再現実況見分調書に添付される再現映像資料(捜査官が被害者や被疑者等に被害・犯行状況を動作等で再現させ、その様子を撮影したもの)に近いもののように思えます。
このような再現実況見分調書は、視覚化することで事件内容を分かりやすくするためや、再現されたとおりの犯行事実の存在の立証のためなどに作成されるようですが、事件内容を分かりやすくするためなら、当事者より訓練された俳優の方が表現力は高いので、当事者起用の意図は、再現されたとおりの犯行事実の存在の立証のためだと考えられます。
とするとこの映画は、事実の存在の立証のため、捜査官のクリント・イーストウッドが、2015年8月21日に発生したタリス銃撃事件の当事者に状況を動作等で再現させ、その様子を撮影したもの、ということでしょうか。

まるで映画を観ているかのような状況が、映画の中に描かれることはままあるのですが、『ハドソン川の奇跡』の飛行再現シミュレーションを査問会で見る場面が、実話をもとにした映画を鑑賞しているようだ、とは思っていませんでした。思い返してみると確かにそうで、味も素っ気もない事象の相似ですが、再現映像を集まって皆で見るというのは、事実確認の資料として、それらが用いられる場における状況とよく似ています。
ぼんやりしている私が悪いのですが、鑑賞直前に知った当事者の起用という情報に翻弄され、映画如何よりも、前作からの流れを受けて、事件の証拠資料のような再現映像を集まって見る我々観客とは何なのだろうか、これはどういう心づもりで観賞したらいいのだろうかと大いに悩みながら見てきました(あと、この場合のエンディングはどうなるんだろうという興味を持って)。

15時17分発パリ行きの電車内で、彼らが遭遇する事態の前兆が差し込まれながら、ある事件により犯人の成育環境が明らかになり、それを私たちが知るように、タリス銃撃事件において英雄的な行動を取った彼ら3人の幼少期の様子が、スペンサーを軸に映し出されます。

彼らは落ちこぼれの苛められっ子で、学校から問題児扱いされています。何かというと校長室へ行くように言われ、母親たちも頻繁に学校へ呼び出されますが、それなりに楽しく暮らしています。「他の子どもは窓から外の景色を見ないんですか?!」という母親の台詞、とってもいいですよね。ああいう状況でそれらしく言われてしまうと、窓から外の景色を見ることが、何だか異常な行動のように感じてしまうものですが、母親の正気な返しに笑ってしまいます。
森の中のサバイバルゲームの場面なんて、森もキラキラしてるし、子どもは楽しそうに遊んでるしでまるで楽園のようです。大概こういう場面は、過去の美しく楽しい一時として描かれ、その後の苦難とコントラストを成す場面になるのですが、彼らはその後も仲良く楽しそうです。
スペンサーはミリタリーオタクから軍人を目指しますが、彼の信仰を持ち出さずとも、その背景には、正しいタイミングで成すべきことをしたい、人生を無駄にしたくないといった、問われれば誰しもが持っているであろう思いがあったことが伺えます。

彼らが事件に遭遇する発端となったヨーロッパ旅行も、素描のような気軽さで、休暇を満喫する様子が映し出されます。日常系アニメを見ているように、楽しそうにしているのを見るのが楽しい、そんな気持ちになります。そうした旅行の一過程として、彼らは15時17分発パリ行きの電車に乗り込みます。車内サービスのコーラ缶がすごく小さいことにはしゃぐ3人には、それまでと何も変わらない時間が流れています。
そして、連絡通路のドアが開き、入って来た人が撃たれ、その後ろから拳銃を持った人がこちらへ向かって来るのです。
その時は、突然訪れます。
「スペンサー、go」
確信に満ちた、落着いたトーンの号令を合図に、スペンサーは犯人に向かって突進します。
この号令には鳥肌が立ちました。
この号令の声の主は一体誰なのでしょうか。この号令の声の主は、彼が成すべきことをする正しいタイミングが今だと、なぜ分かったのでしょうか。シンプルな言葉が、とても神秘的に響きます。

電車が駅に到着し、警察と救急が乗り込んできます。状況を引き継いだスペンサーは、応急処置を施され、点滴をぶら下げて降車します。ホームに腰掛けるスペンサーの背後から撮られた彼の目線のようなショットは、気を張った面持ちで他の乗客に付き添うアンソニーや、警察と連れ立って呆然と歩き去るアレクを追う事も無く、流れる川でも見つめているかのように、ただ行き交う人々をじっと捉えています。
そして、フランスで表彰を受ける彼ら乗客のニュース映像と、再現映像が混ざり合います。
アメリカン・スナイパー』(2014年)で、クリスを導いたニュース映像が、『ハドソン川の奇跡』で、サリーの正しさを証明した再現映像と混ざり合います。
当事者起用の再現映像によって、イーストウッドが立証したかった存在の事実とは、人は正しいタイミングで成すべきことが出来る、でしょうか。
私たちが集まって見る、再現映像に映し出されたごく普通の人たちの行いは、正しいタイミングで成すべきことをしたいと願う人々の正しさを立証し、立証されたその存在の事実が、私たちの導きになるかのようです。


エンドロールは幼馴染3人のパレードで感慨深いですよね。なにがどうなって、幼馴染3人が『ミスティック・リバー』(2003年)のようにバラバラになるのか、今作のように一緒にパレードの主役になるのか分かりませんね。
アメリカン・スナイパー』の時はそこまで思わなかったのですが、前作から見るのが本当に楽です。以前から彩度が低く、目に優しい映画ではあるのですが、的確で、映画におけるドローイングみたいなものに相当する何かとしか形容出来ないショットが、短くパッパッと繋がっていくのがこんなに楽だとは。映画を見るのがしんどい人にもオススメです。