映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『サクリファイス』(1986年)感想・ネタバレ

監督:アンドレイ・タルコフスキー

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ブレードランナー 2049』(2017年)について書かれた文章の中で、まるで一般教養であるかのごとく言及されているタルコフスキー監督の『サクリファイス』についてです。
その手の文章を読んでいる時点で、『惑星ソラリス』と『ストーカー』しか見ていなかったのですが、その2作品を思い出しても、「タルコフスキー監督のあの映画のあの場面です」では、たとえその映画を見ていたとしても、その意味するところが容易く共有できるとは到底思えない映画を撮る監督だったので、万が一、例外的に、『サクリファイス』が大変分かり易い映画だったりするんだろうかと思い見てみました。

惑星ソラリス』を初めて見たのは中学生の頃で、明確な感想を抱いた映画として記憶に残っています。その時の感想は、「人は何㎥までのものを愛の対象とする事ができるのか」です。抽象的な形の無いものを物理的に問う、みたいな印象を持ちました。
stevenspielberg.hatenablog.com

上記の記事を書くに当たって、『惑星ソラリス』を見返した時は、人の表象についての描写に目がいったのですが、今回『サクリファイス』で、世界との繋がりを物理的な接触として描いているのを見て、タルコフスキー監督は、抽象的で形が無いと思われているものが、物理的な事・ものである、という確信を持っているんじゃないかなと、また中学生の頃と近い印象を持ちました。

あらすじ

冒頭、スタッフのテロップとともに、一部分をアップで映したレオナルド・ダ・ヴィンチの『東方の三賢人の礼拝』の静止した絵。テロップ終了とともに、カメラが上に動き、絵の全体が映される。
その日、誕生日を迎えたアレクサンデルが“坊や”と木を植えている。かつて名優だったアレクサンドルは、今は俳優を引退して、評論家、大学教授として、静かな島に家族と暮らしている。
「昔々、師の命を守って3年の間、若い僧が水をやり続けると、とうとう枯木が甦って花を咲かせた」という奇跡の伝説を“坊や”に語るアレクサンデル。そこに郵便夫のオットーが祝電を持ってやって来る。無神論者というアレクサンデルに、オットーはニ一チェの永劫回帰の話をする。
親友の医師ヴィクトルを案内して妻のアデライデが来るが、アレクサンデルは“坊や”と散歩を続ける。父をおどかそうとして飛びつく“坊や”を突き飛ばしてしまい、“坊や”の鼻血を見て昏倒するアレクサンデル。
家の中で、ヴィクトルのプレゼントのルブリョフのイコン画集にみとれるアレクサンデル。アデライデ、ヴィクトル、娘のマルタ、小間使のジュリア、召使のマリアが揃う屋敷に、オットーが自転車で大きな地図を運んでやってくる。17世紀の本物のヨーロッパの地図だ。高価すぎてこのプレゼントは受けとれないと、アレクサンデルは辞退するが、犠牲がなければプレゼントではないとオットーは言う。元高校教師で、今は郵便夫をしながら研究をしていると話すオットーに、何の研究をしているのかと訊ねるヴィクトル。オットーは、不可思議な話の蒐集家だと答え、アデライデ、ヴィクトル、娘のマルタに、不可思議な話を語って聞かせ、突然倒れる。
テーブルの上のグラスが音をたてはじめる。戸外で轟音が鳴っている。戸棚のミルク瓶が落ちて割れ、床いっぱいに広がる。
白夜の戸外。アレクサンデルは自分の家とそっくりの小さな家を見つける。訝しがるアレクサンドルが、家へ帰ろうとして通りかかった召使のマリアに、この家は何かと訊ねると、“坊や”が誕生日のプレゼントに、オットーと作ったのだと言う。
“坊や”は2階のベッドで眠っている。
どこからか奇妙な声が聞こえてくる。アレクサンデルが1階に降りていくと、テレビから核戦争の非常事態が発生してしまったと伝える首相の声が流れて消える。通信が途絶える。電話も電気も通じない。パニックに陥るアデライデに、ヴィクトルは鎮静剤を打つ。そしてマルタにも、必要だからと鎮静剤を打つ。鎮静剤を断るアレクサンドルとオットー。やがて落ち着きをとりもどしたかに見えたアデライデが、“坊や”を起こして食事にと言うと、小間使のジュリアは、“坊や”に恐ろしい思いをさせてはいけない、そっとしておいて下さい、と目に涙をためて抗議する。その言葉を聞き、アデライデはジュリアをやさしく抱きしめる。アレクサンデルはヴィクトルの診療カバンにピストルをみつける。“坊や”の眠りを確認するアレクサンドル。“坊や”はベッドの中で起きている。屋敷の一室で、ヴィクトルを誘って服を脱ぐマルタ。アレクサンデルは、初めて神へ願う。私の持てるものすべてを犠牲に捧げますから、愛する人々を救ってください、家も、家族も、子供も、すベてを捨てます、そして何も語らない、と誓う。
アレクサンデルを窓の外から起こしにくるオットー。彼は、まだ最後の望みは残されている、召使のマリアの家に行き、彼女と寝れば悲劇は無かったことになるとアレクサンデルに告げる。オットーの話が俄かには信じられないアレクサンデル。何の事かと何度も話を問いただす。
オットーの自転車でマリアの家を尋ねたアレクサンデルは、マリアの前で母の思い出を話す。病気の母のために荒れた庭を整備したことが、かえって自然の美しさを暴力的に破壊したことになった苦い思い出に、黙って耳を傾け、涙を流すマリア。アレクサンデルは、ピストルをこめかみに当て、救って下さい、私と寝て下さい、とマリアに懇願する。そのただならぬ様子に、同情するマリア。抱きあう二人の身体が空中に浮かび、回転する。
朝、目が覚めたアレクサンデルは、ランプが点灯していることに気づく。電話を掛けると繋がる。悲劇が回避されている。
神との契約を守るべく、急いでアレクサンデルは自らを犠牲にささげる儀式を始める。
皆を木のもとへ行くよう指示を書いたメモを残し、姿を消すアレクサンデル。そして、無人になった家に火を放つ。ただならぬ様子に、皆が駆け戻ると、家は燃え、その前でアレクサンデルがへたりこんでいる。アレクサンデルは何も語らず、駆け寄る人々の腕から腕へと走り抜ける。そこへ救急車が到着し、アレクサンデルを連れ去る。悲観に暮れる人々。自転車でその場を立ち去るマリア。
マリアは“坊や”を見つけ、その様子を確認し、走り去って行く。アレクサンデルを乗せた救急車が、“坊や”の脇を通り抜けて行く。
“坊や”は木に水をやっている。木の根元に寝転がり“坊や”は話す。
「はじめにロゴスありき。なぜなのパパ?」


冒頭の文章で触れた、世界との繋がりが物理的な接触で表されているというのは、枯れた木に水をやり続けて花を咲かせた僧の話をして、そういうやり方でしか世界は変えられない。というアレクサンデルの言葉と、ラストの“坊や”の描写から、沈黙する“坊や”に独白を聞かせ続けるアレクサンデルと、木に水をやる“坊や”の姿が似て見えたところからきています。世界は漠然としたものではなく、接触しているものそのものが世界そのものとして描かれているように思えるのです。
アレクサンデルがヴィクトルに語るように、“坊や”が生まれて世界は変わりました。アレクサンデルは、核戦争の放送を見てパニックに陥る妻のアデライデに触れようとしませんが、“坊や”には頻繁に触れます。“坊や”の存在が世界を変えているのではなく、“坊や”との接触が重要なのではないかと思うのです。
アレクサンデルが主体となって語られる物語は、非現実的な雰囲気に包まれていますが、本当に非現実的だと言える描写は、マリアと抱き合って浮遊する場面のみです。
この浮遊も、宙に浮かんでいるのではなく、とりまくすべてのものとの非接触の状態、もしくはマリアのみとの接触の状態を描いたら結果的に浮遊して見えているのではないかと思っています。木に水をやるというのも物質への接触です。戦争が起これば、人間は他人や物質との暴力的な接触を余儀なくされます。人はどのように他人や物質と接触するのか、人にはどのような接触の仕方があり、人はどのような接触を望むのか。
彼にとって、全てを捨てることとは、すべての愛する人や物質と接触しないことを意味していました。アレクサンデルが捧げた犠牲とは、接触です。そして、接触とは世界との繋がりです。
アレクサンデルは、“坊や”との接触により繋がっていた世界を変えるために、マリアと接触することで世界を繋ぎ替えたのでしょうか。接触と、世界の繋ぎ替えを表すために、浮遊して(とりまくすべてのものとの非接触状態)セックス(繋がる)し、回転(変更)する必要があったのかもしれません。

世界と繋がるとは、物理的に接触すること。世界を変えるとは、物理的に接触し続けること(もしくは浮遊し、繋がり、回転すること)。となると、世界とは物理的に接触され得るものだと思うのですが、そうなるとロゴスってなんだろうなと、それこそ“坊や”の「はじめにロゴスありき。なぜなのパパ?」と思うわけです。音や声というのは物理的な存在ですが、その音や声に含まれる、意味や感覚といったものは、確かに存在するのに物理的なものではありません。
接触される世界という知覚の中で、ロゴスはどう位置づけられるのか。映画のラストで、それまで話さなかった子どもが、初めて発する「はじめにロゴスありき。なぜなのパパ?」という言葉は、明らかにロゴスとして描かれています。そして、子どもが語ることで、ロゴスが課題でも疑問でもなく、不思議としてあるように感じられます。ロゴスは不思議だというロゴス。このぐるぐると回転する言葉は、世界の初めにあるロゴスであり、初まりも終わりも無く、完結せずに回り続ける円環です。この不思議なスピンが、世界のミニマムなのかマキシマムなのか。小さな家や、古い地図など、物理的な存在のイメージが縮む描写がいくつかあることから、それが私にはまだよく分かりません。このロゴスが世界を駆動させているスピンのようにも感じています。
今考えているのは、このスピンがミニマムなら、世界は波紋かもしれない。マキシマムなら、世界は冒頭のレオナルド・ダ・ヴィンチの『東方の三賢人の礼拝』に繋がるだろう、ということです。すぐには分かりそうもないので、今のところを書きとめておきます。


タルコフスキー監督は、正気なリアリストですね。
この映画を多感な時期に見ていたら、苦しんだだろうなと思います。アレクサンデルみたいに、まったくもって正気な頭で考え抜いた末に放火とかしていたかもしれません。
家が燃えると、アレクサンデルがどうでもよくなり、ラストの“坊や”の回転する言葉に世界の平安を感じます。炎で高揚して、回転で安定するわけですが、あの家族どうなっちゃうの?とか、心底どうでもよくなります。
ハッピーエンド、アンハッピーエンド(バッドエンド)に続く、第三のエンディングとしてファイアエンドというのはどうでしょうか。ファイアエンドが見たい気分の時が確かにあります。

劇中に2度ほど出てくるアレクサンデルの横座りで思い出したアンドリュー・ワイエスの『クリスティーナの世界』(1948年)を見て、芋づる式にアンドリュー・ワイエスの他の絵を見たのですが、『サクリファイス』の画は彼の絵画に似ています。格好良い絵ばかりです。

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見つけたニュースです。日本でも4Kで見れたらいいですね。
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