映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『散歩する侵略者』(2017年)は、とてつもなくロマンチックな愛の映画かもしれない。

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暢気にリュミエール関係の文章を読んでいて気がついた、『散歩する侵略者』(2017年)のことについてです。
まずは、以下の引用をお読み下さい。

CineMagaziNet! No.2(Last Update: June 29 1998) リュミエール兄弟のアルケオロジー 長谷正人より
(視覚的) 失認症とは、視覚的には対象を間違いなく把握しているにもかかわらず、それを「概念的にもしくはシンボリックにアイデンティファイすることができない」状態のことであり、「視覚的情報がある種の原初的な疎遠さ(strangeness) を伴って経験される状態」のことである。たとえば、そこに「顔」があることは知覚できていても、それが妻であることが分からなかったり、そこに「表面は切れめなく一様につづいていて、全体がすっぽりと袋のようになって」おり、「先が五つにわかれていて、そのひとつひとつがまた小さな袋」になっている物体があることは知覚できても、それが「手袋」であるとはどうしても認識できないような病理なのである(Sacks(1)[1985=1992:29-52])。 クレイリーは、この「失認症」と映画的視覚の出現を、西欧社会における「視覚」の認識枠組みの歴史的再編成のもとで起きた同じ問題として論じている(15)。なるほど、そこに「二人の男女が赤ん坊にスープを飲ませる光景」があることは知覚していても、それを「家族の温かい団欒」としてシンボリックにアイデンティファイすることもなく、「風」の気配ばかり感じ取っているカメラ的視線は、失認症的な視覚世界と言えるかもしれない。

全文はこちら
http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/NO2/ARTICLES/HASE/8.HTM

映画的視覚と「(視覚的)失認症」は、偏りなき「非= 文化的」視覚であり、共通の視覚世界と言えるかもしれない、と書いているのですが、ここで書かれている「視覚」が、『散歩する侵略者』の侵略者そのものに思えてしょうがないんですが。
彼らは、散歩するカメラなんですかね。
すぐに映画を確認したいのですが、京都は上映が終わってる!
加瀬真治(松田龍平)の目線のショットとか、どうなっていたでしょうか。

彼がカメラだったら、愛の概念を奪うことで、世界侵略が出来なくなった理由が分かるんですが、そうなると、とにかくもう、とてつもなくロマンチックな愛の映画だということになります。「黒沢監督にしては」とか、最早そんなレベルではなく、映画史とか、そのレベルの愛の映画です。
とりあえず、11月25日~の兵庫の上映で確認しようと思ってます。