映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『エイリアン:コヴェナント』(2017年)感想・ネタバレ

監督:リドリー・スコット

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ピエロ・デラ・フランチェスカ「キリスト降誕」
ミケランジェロダビデ像
カルロ・ブガッティの玉座
リヒャルト・ワーグナー「ヴァルハラ城への神々の入場」

(だめだ、覚えてられん。後はオタクに任せよう)
ということで、初っ端から意味深な芸術作品の羅列で、謎解きは早々に諦めました。
でもこれ、エイリアン、人類、エンジニア、アンドロイド、それらの謎解きのピースを早々に飽和させ、この映画が描く終末後の景色を見せるためのリドリー・スコット監督の作戦だと思うんですよ。
わからないから、そう思うしかないんですが。

シネフィルでもオタクでもない、私のような鑑賞者は、ただただこの映画の終末後の景色を見つめることしかできません。終末後の世界を描いたものをポスト・アポカリプスというらしいのですが、圧倒的な描写です。お金が掛かっているというのもあるでしょうが、リドリー・スコット監督の美意識が隅々まで行き届いています。
世界の終末後の景色なんて、当然生きてお目にかかれないものが、今映画館に行けば見れます。
宇宙船のクルーは、バカだから死ぬわけでも、運が悪くて死ぬわけでもない。ただ見た目が地味だから死んでいくのです。物語が始まる前から、皆わかっていたはずです。マイケル・ファスベンダー相手に、地味な人達が適うはずないって。加えて生きている方が場違いな世界です。だから、人間側の物語を追うのも止めましょう。

圧倒的な終末後の景色や、これでもかと細部まで埋め尽くされた宇宙船をとにかく楽しみましょう。
諸々大好きな人、いると思うので是非。

終末後の景色は、人類が獲得した多くのイメージによって彩られています。

クレメンテ・スシニの人体解剖蝋人形

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アルノルト・ベックリン「死の島」

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ジョン・エヴァレットミレー「オフィ―リア」

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ポンペイ

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ズジズワフ・ベクシンスキー

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気づいたのは以上ですが、他にも色々あると思います。

様々な終末後のイメージの他に印象に残っているのは、不自然に長い(&長回し)デヴィッドとウォルターの笛を吹く場面。女性クルーを殺害した後、デヴィッドと意思疎通をするネオモーフの惨めな佇まい。惑星から逃げ出そうとする船に、犬のように必死に駆け寄って飛びつくゼノモーフです。エイリアンにとって、デヴィッドは神なんでしょうが、神と相対するエイリアンは、とても惨めな生き物に見えます。神と相対する人間の様でしょうか、見ていて気が滅入ります。
神もアンドロイドという体のモンスターです。趣味は種の創造と繁殖。生まれた後の種や、その個には全く興味が無い。あとは笛を吹いたり、人間(クルーのキャプテン)がゼノモーフの幼体に襲われ、気を失い、気がついて、食い破られて死ぬまでを傍でじっと見ている。いや、ゼノモーフの成体化を確認していただけかもしれない。
つまり、リドリー・スコット監督の近作を思うに、「エイリアン」シリーズを踏み台にしているわけですが、一つの独立した作品だと、終末までは何とか辿り着けても、今作のように終末後を思う存分描くまでに至るのは難しいと思うので、今までの「エイリアン」シリーズは、この終末後の世界に辿り着くための布石だったのかもしれません。
あと、惑星にデヴィッドが現れる場面、かっこいいです。