映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『散歩する侵略者』(2017年)感想・ネタバレ

監督:黒沢清


ブログ記事が黒沢清監督作品ばかりになっています。新作は、出来れば公開中に書きたいと思い、気負って鑑賞に臨むのですが、そんな必要なかったです。
北朝鮮が電磁パルス攻撃を仕掛けてくるかもしれない、というニュースを見て家を出ました。MOVIX京都がシアター3(365席)で上映してくれたので、SFだし、大画面で見てきました。

盛大にネタバレしつつ、感じたことをつらつら書きます。

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冒頭、金魚すくいから、女子高生の太もものアップで意外なカットだなぁ、と思っていたら、よく見つけるよなと毎度感心する丁度よく引きで撮れる一軒家が映って、その全景に風が吹きます。まるで落語のまくらのようだ、と思っていたら、その家のドアから逃げ出そうとするおばあさんが現れて直ぐに中へ引きずり込まれ、閉まったドアの前に光源のよくわからないレンズフレアが映ります。よく見るSF的な、光彩を用いた表現なのですが、これも意外でした。こういうよく見るやつをやるイメージが黒沢監督に無かったのですが、この後も何度かサラッとやってます。この後、大変な状況の家の中が映り、外でも派手に事が起こります。

何が起こっているのかよく分からないまま場面は変わります。
病院に置いてある健康ネタ雑誌を逆さに読んで混乱している夫の加瀬真治(松田龍平)に、その妻、加瀬鳴海(長澤まさみ)は、いい加減にして!と怒っています。脳の機能障害的な、結構深刻な事を医者に言われるのですが、この事態の前に、真治は出張と偽って不倫をしていて、それをうやむやにしたまま、すっかり人が変わってしまったことに鳴海は腹を立てています。
実は真治は宇宙人に身体を乗っ取られ、中身が宇宙人になっているのですが、脳の機能障害にしろ、宇宙人にしろ、どっちにしろ鳴海は怒っていて、実はどうなのかは問題じゃないようです。宇宙人は地球を侵略するためにブラブラ歩き、そうして出会った人の概念を奪い、侵略の為の下調べのような事をしています。
どうも身体を奪ったばかりの宇宙人は、人間の身体を上手く扱えないようで、野外でコケて倒れ込んだりします。仕事に向かおうとしていた鳴海は、近所の空地の草むらに倒れ込んでいる真治を見つけ、助け出そうと草むらの中に入り、こう言います。
「もう、いやになっちゃうなぁ!」
鳴海のこの台詞が、とてつもなく良いです。なんだかよく分からないけど、鳴海に対して、一気に愛おしさみたいなものが沸き起こります。この台詞は、真治が宇宙人に乗っ取られていることを知らない場面と、知った後にも出てきます。
事の真相のようなものが、鳴海には影響しないことを示しているのでしょうか。

物語には、この加瀬夫婦のパートともう一つ、ジャーナリスト桜井(長谷川博己)のパートがあります。桜井は、宇宙人に乗っ取られた天野(高杉真宙)に出会い、物語冒頭の事件と関係がありそうな天野の言動に興味を覚え、天野と、冒頭の事件を引き起こした宇宙人の立花あきら(恒松祐里)と行動を共にする内に、宇宙人が地球を侵略しようとしていることに気づいていきます。

日常に宇宙人の侵略という非日常が入り込む鳴海に対し、桜井は、宇宙人の侵略という非日常に自ら入っていきます。
この二人の対比で見えてくるのは、出来事に対する当事者感の違いです。事態が少しづつ進み、明らかになっていく桜井に対し、日常を軸に、事態がどこまでも広がっていく鳴海。
事態は、世界と言い換えてもいいです。
桜井は当事者になりたい人ですよね。桜井が天野に乗っ取られたかどうかがはっきり描かれないのは、彼が当事者になりたい人だからです。世界には飢えて死んでいる人がいる。世界では、今もどこかで戦争が起こっている。被災地、被災者。世界の出来事は、此処ではないどこかで起こっている。世界が誰か他人のもののような感覚。世界の外にいるような感覚。彼にはそのような感覚があり、ジャーナリストとして、そのような世界と関わろうとしていたのではないでしょうか。死んでいく天野に、桜井はまるでそそのかすかのように、「俺が必要なんだろう?」と問いかけます。どちらにしろ桜井は戦場に赴き、生き生きと戦ったでしょうから、乗っ取られたかどうかを描くことに意味はないのです。

一方、鳴海には多層的に世界が重なっていきます。日々の近景と世界の終わりの遠景、その間のグラデーションが彼女のいる画面に重なっていきます。彼女のいる此処が、何処ででもあるような重なりと、重なることによって生じる世界の広がり。
真治の症状がウイルスによるものとの連絡を受けて行った、あの病院のただならぬ状況は、三人の宇宙人がブラブラして概念を奪ったために引き起こされているとは到底思えません。
あれなんだと思いますか。
クリーピー 偽りの隣人』(2017年)にも風車やファンが映っていて、風力発電の風力タービンも以前どこかに出ていたように思うのですが、何の意味があるのかよく分かっていませんでした。仕事で湿度管理をやっていて気がついたのですが、湿度だまり(湿度の偏り)を無くすために、サーキュレーターなどを用いて空気の攪拌を行うのですが、黒沢監督の映画に出てくる風車や風力タービンも同じでした。
丸尾(満島真之介)家の庭先や、彼が駆け出てきた住宅街の一角にあった風車や、海岸沿いの風力タービンは、空気を攪拌しているのです。それは、世界の空気の攪拌です。
世界の空気は攪拌され、次々と画面に流れ込んできます。あの病院の、わけの分からない非常事態ぶりは、空気が攪拌された事により、世界のあらゆる出来事でごった返しています。世界の空気は、鳴海の日々に流れ込み、世界は彼女に重なり、彼女のいる画面に多層的に現れます。
隣のシアターの「戦争映画」が、こちらの画面の「高校生恋愛もの」に重なっていくような奇妙な透過は、鳴海の現実感というか生活感というか、彼女の「いやになっちゃうなぁ!」に集約される、日々の実感のようなものを軸に展開されます。透過が展開する、という無茶苦茶な日本語ですが、私にはこれが表現の限界です。
桜井には、この日々の実感が無く、自分が世界の当事者だと思えない。鳴海には日々の実感がある。世界の当事者かどうかなんて鳴海は気にしたことも無いでしょう。

医者(小泉今日子)曰く、世界の空気が流れ込んできた、「あのタイミング」で起こった宇宙人の侵略は、なぜか完遂せず終わりを迎えます。
それは、鳴海が真治に愛の概念を与えたからなのでしょうか。愛の概念を与える事が、愛することとどう違うのか、違わないのかを考えているのですが、まだ分かりません。「愛を与える」って言いますよね。「愛(の概念)を与える」となると、どうなるのでしょうか。

そして二ヶ月後、真治は、ちょっとだけHPが回復する実(みかん)の入った段ボールを抱えて、画面を分断する亀裂をたぶん跨いで越え、『CURE』(1997年)で文江が預けられた病院のような外観の建物に入っていきます。
中にいる人々は皆生き生きとしていますが、概念を奪われた後遺症として、特殊な症例の鳴海は、「いやになっちゃうなぁ!」とは、もう言ってくれそうにありません。
「いやになっちゃうなぁ!」は、鳴海の内の声が漏れている言葉ですが、「ずっとそばにいる」という真治の内の声が聞こえて映画は終わります。


愛を継ぐ者が、宇宙人という、スピルバーグの『A.I.』(2001年)のような終わり方です。印象は全然違いますが。
もう、黒沢監督は培った技法で何でも撮れますね。今作はとてもlightな感じがします。以前なら桜井パートや仕事の概念を奪われる社長の場面なんて、もっとシニカルに怒りを込めて描いたように思うのですが、最近はそんなに怒りを感じなくなりましたよね。
東出昌大さんが牧師役でドアを開けて登場するのも楽しかったです。東出さんの事を黒沢監督はどう思ってんのかなぁ、と気になります。
あと、満島さん凄かったですね。本当にああいう人が映画に紛れ込んでしまった、映り込んでしまった、と感じさせる不穏さ。最後のアップが怖い。彼の衣装もすごい。

ダゲレオに続き、今回も鳴海が真治の傷を手当てする場面がありましたが、あの場面から二人は並んで歩き始めます。クリーピーで康子が高倉の口に直接食べ物を運ぶような、世話を焼く行為を、抱擁やキスやセックスといった非日常の関係でもあり得るラブシーンとは異なった日常のラブシーンとして描いていて、男女の関係の変化のきっかけにしています。今作では、真治が鳴海に言った台詞きっかけとも取れるのですが、そこは分かり易さを意識したのかな、と思っています。
二ヶ月後の表現も意外でしたね。そんなの入れずにつないでましたよね。
鳴海が仕事を貰っていた事務所から、真治と二人で出ていき、その後、延々と街を歩くシークエンスで、昼中の街を歩く鳴海に当たる光がくるくる変わるところも鮮烈でした。
何かlightな映画ですよ、本当に。
今までの作品を見てきたから楽しめるのか、黒沢監督の作品を見たことない人にも同じように楽しい驚きがあるのか、もうよく分からなくなっていますが、シネスコ感も今まで以上に感じられて、色々楽しかったので、大きなスクリーンで見れて良かったです。