映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『ダゲレオタイプの女』(2016年)感想・ネタバレ

監督:黒沢清

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6月に精華大学で行なわれた黒沢清監督のトークイベントに行って来た。そこで黒沢監督が見せてくれた小津安二郎の『風の中の牝雞』(1948年)の一場面を見て、『ダゲレオタイプの女』を思い出した。
なので、何か書いておこうと思う。

古い写真や映画を見ていると、ふと、「この人は今、生きているのだろうか、死んでいるのだろうか」と思うことがある。かなり古いものだと「この世にいない人を見ている」と不思議な気持ちになる。
古風なドレスを着た女性のモノクロ写真を見たら、そこに写る人は既に死んでいると思うだろう。でも、それが色あせて、ぼんやりと不明瞭な像が写る所謂古ぼけた写真ではなく、超高解像度で、驚くほど細部までその姿を映し出していたとしたらどうだろうか。

その写真を見て、「170年前の人が、ずっと生きてるみたいだ」とジャンは呟く。ダゲレオタイプ写真に写るマリーは、時間を超越して生きているようにジャンには見えたのである。

このダゲレオタイプ写真撮影に、マリーの父ステファンは取り憑かれている。売れっ子写真家だったらしいステファンは、かつては妻ドゥーニーズを被写体にダゲレオタイプ写真撮影を行なっていたが、妻が亡くなった今は娘のマリーを被写体にして、金に困りながらも、金にならない写真を撮り続けている。このマリーの写真は、一枚だけ登場するが、彼は何度も露光時間を延ばしながら娘を撮り続けている。

もし、あの撮影がずっと続いていたらどうなっていたのだろう、と思う。再び撮影中にマリーが意識を失い、誰もそれに気づかず、彼女が拘束器具に固定され続けたらどうなっていたのだろう。露光時間が延びるにつれ量を増す筋弛緩剤を服用させられたマリーは、いつか固定されたまま生と死の境を越えたかもしれない。「父親が娘を撮るのは自然だ」と言いながら、娘の身体を危険に晒し、凡そ異常な行為にステファンは取り憑かれている。

ステファンは屋敷から離れようとせず、階段から落ちたマリーを助けようとしない。階段から落ちたマリーの死を早々に断定し、娘の写真を妻の写真に見せ、その写真に語りかける。
ステファンの写真に語りかける行為を、遺族が遺影に語りかけている、と端的に言い換えてみよう。

若い夫婦に依頼され、ステファンが死んだ赤ん坊の写真を撮った事にマリーは動揺し、怒りを露にする。この死んだ赤ん坊の写真は、明らかに遺影として撮られている。
たぶん撮影中にマリーが死んでも、赤ん坊のように死んだ直後に撮影しても、生きている時の写真と違いはない。カメラは細密に、ただレンズの前のものを写し取るだけである。そして、このダゲレオタイプ写真の細密さが、実物を強く喚起させる表象として、まるでそこに写る者が生きているみたいに生々しく人の目に迫る。
離れている時や死んだ後など、直接目視できない状態にある人を思う時、必要になってくるのが、思い描く他者のイメージだ。日常においても、人は他者の実物を常に見ているわけではない。マリーの登場場面でステファンが鏡越しに彼女を見るように、実物や鏡像や写真などから、その存在を認識している。他者が生きていてその姿を確認できるうちは、思い描く他者のイメージは、実物や、他者を表象するあらゆるものによって補完されるが、死後は実物が損なわれ、遺影のような代替物だけとなる。
マリーは、この表象しか見ようとしないステファンに憤る。生きているということが、存在が、細密な表象に取って代わるとは彼女には思えないのだ。

生きている時と変わらず、愛する者を思い描きたい。
ステファンは、この代替物をより細密にすることで、愛する者のイメージを生前と同じにしようとしている。

これは推測だが、ドゥーニーズを失うことを恐れるあまり、いつでも彼女を思い描けるように、そのドゥーニーズの表象が、色あせたり古ぼけたり不明瞭になったりしないように、彼女を被写体にダゲレオタイプ写真撮影を行なった。しかし、彼女を亡くしてからステファンが見る彼女の幻影は不明瞭だ。ステファンは彼女を上手く思い描くことができない。その原因を、露光時間が短かったために、生きている時と同じように思い描けるだけの細密さがドゥーニーズの写真には無かったからだと彼は考えた。
だから、愛する娘マリーのダゲレオタイプ写真撮影は、露光時間を延ばし続けているのではないだろうか。屋敷に現れたマリーの幻影は、彼の目にどう映ったのだろうか。限界まで露光時間を延ばしても、それでも不明瞭なマリーの幻影が現れたのではないだろうか。ステファンの眼前に迫る幻影のピントはぼやけていく。彼はその表情を読み取ることが出来ない。
ダゲレオタイプ写真では、死という境目を越えて、愛する人を思い描くことができないと悟り、彼は自ら命を絶ったのだろうか。

ステファンに写真を撮影してもらいに屋敷を訪れた老婆は、「死は幻」だと言った。この老婆の言葉を、マリーが植物について語った言葉と一緒に考えてみたい。
ダゲレオタイプ写真撮影の被写体を続けるマリーは、薬液に蝕まれる庭の温室の植物のように、その撮影によって生命を蝕まれていく。
「植物の動きは見えません。石とおなじように思われがちです。でも地中深くに根を張り― 環境を制御します。献身的なんです。」
彼女が植物について語った言葉は、そのまま被写体として写真に納まる自分自身について語られた言葉のようだ。
マリー、ドゥーニーズ。写真に納まる彼女たちは植物のように、あの屋敷深くに根を張り、その環境を制御している。

あの屋敷では、愛する者を失うという普遍的な事象が、階段を上るドレスを着た女の姿となって反復されている。それは普遍的な事象であるが故に、共有される幻影として誰の目にも映る。

ステファンはリアリストだ。だから彼は、愛する者を失うという普遍的な事象に対し、ダゲレオタイプ写真撮影という、現実的な方法で挑んだ。でも、「死を幻」だと思えず、ドゥーニーズの幻影に向き合うことが出来ずに苦しむ。このことは、死という現実に向き合わなくてはならないと思い苦しんでいた。と同じことである。

映画冒頭、初めて屋敷を訪れたジャンは、螺旋階段を上るドレスを着た女の幻影を見る。それは、この時点ではまだ出会ってもいない、愛するマリーを失うという予感である。金が欲しい、という現実的な欲望にすりかえているが、その予感から逃れたいが故に、屋敷の売却に向けて彼は躍起になる。
ステファンは、マリーの死を認識しないジャンに対し、「都合よく現実をねじまげるのか、想像の世界に逃げ込むな」と言う。ジャンはマリーに制御され、その献身を受けることで、彼女と共にある。それは、ジャンにとって彼女が生きていることと同義となる。これは、死を否定し、想像の世界に逃げ込んでいるのとは違う。ジャンはマリーに制御され、献身を受けているから、彼女が死んだと思えないのだ。愛する者とのあらゆる記憶や表象の一つである屋敷から離れられないステファンに対し、ジャンは階段から落ちてマリーが死んだ後もなお、マリーを失う恐怖に怯え、屋敷を売却しようとしている。
ジャンが、マリーと共にある現実を選ぶことで、ステファンが生きる現実と齟齬が生じる。マリーが生きている事を告げても、ステファンは自殺してしまう。ジャンは無意識にステファンを殺害したように振る舞い、マリーが生きている現実と辻褄を合わせようとする。そして、どんなマリーの表象も存在しない、ジャンの現実だけの旅に出る。

教会でマリーが消えたのは、あの指輪がマリーを表象し、彼女に取って代わってしまったのではないか、と思うのだけどどうだろうか。
最後は、車を止め、姿を消した助手席のマリーに向かって、彼女の制御と献身を受けようと、泣きながら会話をするジャンの姿を捉えて映画は終わる。



マリーがジャンの血を拭って世話を焼く場面は、2回見て2回とも動揺しました。『叫』(2006年)で、あんな冷め切った膝枕シーンを撮っていた監督が、こんな感傷的な世話焼きシーンを撮るとは!こんなの撮るんだなぁ、って。『ダゲレオタイプの女』は、珍しくウェットな作品ですね。