映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』(2016年)感想・ネタバレ

監督:スティーヴン・スピルバーグ


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キャラクターや物語世界の説明に時間を使うつもりはない。観賞者にビジョンが残ればそれでいいんだ。
と、スピルバーグが言ったかどうかは不明ですが、そんな印象の映画です。
映画の中に有名なランドマークを登場させることを意図的に避けてきた感のあるスピルバーグですが、冒頭からビッグ・ベンとロンドンバスが映り、何だかいつもと違う始まり方をします。

思いっきりネタバレになるのですが、キャラクターや物語世界が曖昧なまま、これまた曖昧に場面が繋がり、宮殿のベッドでソフィーが目覚め、起き上がって窓辺に近づきBFGを思うラストの場面で、この映画は冒頭からずっと夢で、裕福な少女が孤児の少女の夢を見ていたのだ。と思ったのですが、窓辺に佇むソフィーの足元に「ソフィーの夢」の空瓶があることで、よく分からなくなってしまいました。
孤児のソフィーとBFGの物語は全て裕福なソフィーの夢だったと捉え、尚且つこの空瓶があるということは、裕福なソフィーの世界にもBFGがいて、大統領と電話で話した少年の夢のように、BFGの手によって、裕福なソフィーは孤児のソフィーの夢を見たのだと捉えると、水面の向こうの世界で美しく輝き、蛍のように浮遊し色とりどりに光る夢の中でも一際特別で素敵な「ソフィーの夢」は、BFGの手によるもので、その「ソフィーの夢」をこしらえるために、美しく輝き、蛍のように浮遊し色とりどりに光る夢を、BFGは水面の向こうの世界で採取し、一際特別で素敵な夢の夢としてソフィーに見せたことになるわけです。
どうですか。こんがらがりませんか。
どこからどこが夢だとか夢じゃないとか、結局全部映画じゃねえか、と投げ出したくなります。
A.I.』(2001年)のラストの2000年後の世界で、デイビッドとモニカが幸せな一日を過ごす様子をテーブル型のディスプレイで未来のロボットが見ている場面も、未来のロボットがデイビッドに見せているプログラムしたデータを平面に映しているのか。どこかにかつての家のセットがあって、そこにいるデイビッドとモニカをカメラで撮影した様子を、未来のロボットがモニターしているのか。そもそも2000年後の世界など存在せず、デイビッドの機能停止直前に起こった不具合から生じた、まるで夢のようなバグではないのか。などと考えていると、結局全部映画じゃねえか、と思ってしまいます。
私はこの、結局全部映画じゃねえか現象を、スピルバーグが誘発していると思っているのですが、ただの思考停止なのでしょうか。

以前、このブログで『未知との遭遇』(1977年)について書いた時に、『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド出版局、2000年)を引用して、『未知との遭遇』に登場するUFOは映画のメタファーで、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)の聖櫃も映画のメタファーだと書いたのですが、『BFG』に登場する、夢と呼ばれる色とりどりの光は、水面の向こうの世界の色とりどりの光なわけですから、やっぱりこれも映画のメタファーなのです。
思いが光になり、その光が光を生み、さらにその光が思いを生み、といった反復が描かれています。色んな思いで皆が映画を作って、その映画から新たに映画が生まれて、さらにその映画を見て皆が色んな思いを抱いて、みたいな。
言葉にすると陳腐ですが、どこにも辿り着かない、延々と反復する光の物語は、まるで夢のようです。