読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『黒衣の刺客』(2015年)感想・ネタバレ

監督:侯孝賢ホウ・シャオシェン

f:id:stevenspielberg:20160524205030j:plain

この映画は、白黒のスタンダード、カラーのスタンダード、カラーのビスタビジョンという3つの画面フォーマットを使い分けています。白黒のスタンダートは過去を、カラーのスタンダードは現在を表し、カラーのビスタビジョンは記憶を表しているようです。
映画は過去から現在へ、それに伴い画面は白黒からカラーへと切り替わり、そのどちらにも隠娘(インニャン)と女道士(嘉信:ジャーシン)は登場します。黒と白の装束を纏った2人は、白黒からカラーへの画面変化の影響を受けません。
女道士の白装束は、彼女が嘉誠(ジャーチャン)の双子の姉であり、白牡丹が嘉誠を象徴する花であることから、嘉誠の白を表しています。隠娘の記憶として描かれる、嘉誠が青鸞の故事を語る場面は、後に隠娘が青鸞は嘉誠のことであると語ることから、嘉誠の無念を表すものであり、その記憶がカラーのビスタビジョンで大きく鮮やかに表されることで、隠娘がその無念に強く囚われていることが分かります。
白と黒は、単純に光と影と捉えることもできます。隠娘は女道士の影であり、生前の嘉誠の無念を晴らす怨霊のような存在なのです。
隠娘が囚われている嘉誠の無念とは、歴史の犠牲となった女の無念です。女は歴史の表舞台に上がることなく、権力に近づき歴史に干渉するか、歴史の犠牲になるか、どちらかの運命の中にいます。歴史という長い時間の中で、それはずっと繰り返されています。隠娘は、歴史と同じ長さで在る、女の営みの影であり怨霊だとも言えます。
隠娘は女の無念を晴らすために登場したわけですが、その無念を晴らすことなく、映画は終わります。
それはなぜなのでしょうか。
男たちは話し合い、歴史を決めていきます。中央権力や周辺勢力といった人々の動向をどう解釈し動くかを決めています。そして女たちは、決定に干渉し、決定の犠牲になります。それが人々の営みで、その蓄積が歴史となり、人々の営みはやがて歴史として包括され消えていきます。しかし、その話し合いに参加している聶鋒(ニエ・フォン)の呆けた顔や、映画終盤の男たちの話し合いの白けた雰囲気などから、男たちですら何をやっているのかよく分かっていないのです。誰もよく分かっていない営みが蓄積し、それが歴史となり、人々はそこから消えていく。
このような歴史に対して、より包括的に在り、この映画に終始作用するものがあります。それが、あの美しい自然です。歴史を矮小化する説得力を持った自然が映し出され、風が吹き、音が鳴ります。そして、自然は隠娘に作用し続け、隠娘を感化していきます。
「田季安(ティエン・ジィアン)を殺しても、何も変わらない」という隠娘の言葉は、歴史よりも俯瞰的な視点から出たものですが、女道士は「汝、術は成せれども 情は未だ断てず」と、映画冒頭の台詞を繰り返します。未だ女道士は歴史の円環の中にいて、隠娘が田季安を殺さないのは、未熟さゆえだと思っています。その後、隠娘は嘉誠(ジャーチャン)への憐憫を振りほどいて(追って襲い掛かる女道士をかわして)立ち去ります。そして、歴史の円環の外へ、自然を湛えた風景の奥へと隠娘は消え去って行きます。



ラストに軽快な音楽が流れ、風景の奥へ隠娘が消えていくのを見て、これは活劇のそれだから、この映画は活劇なんだな、と驚きました。何の情報も無い状態で見たので、スタンダード白黒始まりにも驚きましたが。侯孝賢ホウ・シャオシェン)って凄い人ですね。画面フォーマットまで表現に組み込んで、この映画を108分で終わらすのは凄いです。
同じ台湾で、全く違うテイストの映画ですが、隠娘役のスー・チーも出ているチャウ・シンチー監督の『西遊記〜はじまりのはじまり〜』(2013年)も、過剰な暴力でコメディをシリアスに語るという間接技を決めていたのですが、映画の要素の一つが過剰であることで物語に影響を与えるという描き方が似ているなと思いました。これは中国のせいでしょうか。
仮面の女は誰?というレビューが散見されますが、唯一の露出部分である首に目立つ黒子があることから、田季安の正妻の元氏(ユェンシ)のようです。庭先から隠娘を見て、「敵意は感じられない」と手練れのようなことを言っていましたね。