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映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『雨月物語』(1953年)を観ました。

監督:溝口健二


初めて溝口健二監督の映画を観ました。
言い訳ではないのですが、子供の頃から集中すると音が聞こえなくなる質で、ついつい一番見やすい洋画の字幕版に流れていってしまって邦画を全然観ていないのです。

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黒沢清監督作品についてブログで記事を書く際に、大体頭の中で書くことを決めてから本などに当たっているのですが、『叫』(2006年)でも『岸辺の旅』(2015年)でも、この『雨月物語』に言及した文章があったので、観ないとなぁ、とは思っていました。

どれも幽霊譚なのですが、『岸辺の旅』は、画面の奥から行灯を順に灯していく演出や、岸辺が舞台として頻繁に登場するところが似ています。『叫』には、それよりも多くの共通点が見受けられました。どちらも主人公と主人公に関わる二人の女が出てきますが、映画の最後にある幽霊のモノローグが入れ替わっています。『雨月物語』を観ていて『叫』を観たら、そっちのモノローグ?!と驚いただろうと思います。私は順番が逆だったので、普通はそうだよな、こっちのモノローグだよな、と思いました。そもそも幽霊のモノローグで映画を終わろうとするのが凄い発想です。黒沢監督はわかります。溝口監督が既にやっているので前例があるし、いいだろう、と思うのはわかります。問題は溝口監督ですよね。なんの問題だかわかりませんが。

そもそもモノローグって映画内の人物は誰も耳にしない、こちら(観客)に向けて発せられている言葉です。『雨月物語』の死んだ妻のモノローグは、残された夫に対するものとして語られていますが、観客が抱くであろう「あなた(妻)はそれでよかったのか」という思いに答えたものになっています。対して『叫』のモノローグは、みんなに向けて発せられた死者の総意とでもいうような不気味なものでした。これは、『雨月物語』に出てくる、そもそもの動機が不明な死霊の女のモノローグとしても機能する言葉です。わたしとあなた(『雨月物語』においては妻と夫)、という関係性の中から発せられる言葉は物語の延長線上で理解することが出来るのですが、わたしとみんな、になると途端にわからなくなりますね。幽霊の言動が物語の延長線上で理解することが出来ないのは、幽霊がみんなを相手にしているからなのかもしれません。そもそも、こちらも一括りに幽霊としてしまうのですから、あちら(幽霊)も一括りにみんな(生者)としていてもおかしくないように思います。だから『叫』では、「私は死にました。だからみんなも死んでください」という言葉なのかもしれません。モノローグとは、みんなに向けて発せられる前提の言葉だから、みんなと相対しているもの(幽霊)が、みんなに向けた言葉を発するのが道理にかなっているのかもしれません。

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つらつらと思いついたことを書いていたら、長くなりました。
雨月物語』の感想を書いておきます。
すごく面白かったです。観ているだけで楽しい映画でした。
印象に残っているのは、主人公夫婦とその子供と弟夫婦が、船で陶器を売りに旅立つのですが、その途中に湖上で海賊にやられた船頭に出会い、この船旅が危険だと判断した夫が、妻と子供を岸に下して家に帰って待つように指示する場面です。十日前後したら自分も戻る、と言って船を出す夫に、妻は岸辺に沿って見送りながら「気をつけてくださいね」と大きな声で2回言います。一旦の別れの場面を描いているのですが、その岸辺の妻と子供を捉えたショットが長いために、観ている者は、これが今生の別れだと気づかされます。母親に負ぶわれながら子供も「お父ちゃーん」って3回言うんですよ。もう凄く悲しい場面です。そのショットが終わらないことがどんどん悲劇を確定的なものにしていきます。

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他にも、若狭という姫の死霊が主人公の前で、姫の乳母の琵琶一本に合わせて歌と舞を披露する場面があるのですが、その場面に途中から鼓と笛と男の歌声が重なります。重なった後もしばらくそのままなので、雰囲気を出すための演出かと思ったら、若狭が急に怯えだし、「この声は、亡くなった父の声なんです」と言うので、そっちにも聞こえていたのか、と驚きました。その後も凄くて、ゆっくりカメラが左に移動して何があるのかと思ったら床の間に据えられた鎧兜がドーン!途切れない鼓と笛と男の歌声に合わせて琵琶を持った乳母がゆっくりと立ち上がり、家にまつわる忌まわしい過去を語り出す。というのがですね、光と音の巧みな演出で流れるように繋がっていきます。
陶工の夫が金儲けにとりつかれて妻と共にろくろを回す(そういえば『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990年)にもろくろが出てきましたね)場面も、抜け出せない執着の中をぐるぐると焦燥感に追われる気持ちにさせられます。わけのわからない夫の焦燥感に翻弄される妻に子供が2回ほどまとわりついて、より一層ままならない焦燥感が掻き立てられます。

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他にも色々あるのですが、『叫』との共通点で興味深いのは、主人公の妻が死んで幽霊になった後に夫の前に現れた場面で、色々あった長旅に疲れ切った夫は、妻と再会後すぐに眠ってしまうのですが、その後にも妻の幽霊はその場面に居続けて、行灯を灯して針仕事を始めます。妻の幽霊は夫の幻ではないのです。『叫』でも幽霊であるはずの春江が、一人で外を歩く場面がありました。黒沢監督は水の中の世界という道理をつけていましたが、溝口監督がこのような描写をしたのはなぜなのでしょうか。このように描いた理由はわからないのですが、とても感動する場面です。妻が幻として夫の視覚の世界にいるわけではなく、見えているのに、視覚の外の世界が表現されているから感動するんでしょうか。ちょっと今のところわからないですが、妙に感動します。
翌朝、村の者に妻が落ち武者に殺されていたことを聞かされた夫は、昨晩会った妻が座っていた囲炉裏に近づき、不思議そうな面持ちで昨晩見た妻の背中があったであろうあたりに手をあてる仕草をします。死霊の若狭が主人公の背中に縋り付いて執着する様を表していたように、また、その背中に魔除けの文字を施し、若狭の執着を断ち切ったことから、この仕草に夫の妻に対する執着が見えて悲しくなります。
すごく面白く、観ているだけで楽しい映画なのですが、悲しくなる映画です。