映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

時代が違えば映画監督だったかもしれない人 浮世絵師:小林清親(1847~1915年)

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冐雪我軍援威海衛之堅壘図

リュミエール兄弟により映画が発明される1895年以前に、映画のようなものを志向した人は世界中にいたのでしょうが、浮世絵師の小林清親はその一人だと勝手に思っています。

アジア歴史資料センター大英図書館共同インターネット特別展「描かれた日清戦争~錦絵・年画と公文書」http://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/gallery/gallery001.html
で、小林清親の「冒弾雨単身開玄武門」「平壌激戦我軍大勝利之図」や、その弟子の田口米作 (1864-1903)による「大雪ヲ冒シテ我将校単身敵地ヲ偵察之図」「斉藤少佐之恩愛二促テ捕虜軍内之実ヲ吐ク図」など、映画のワンシーンのような戦争絵を見ることが出来ます。大判3枚続きのビスタサイズに近い縦と横の比率も、まるでスクリーンのようです。

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冒弾雨単身開玄武門

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平壌激戦我軍大勝利之図

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大雪ヲ冒シテ我将校単身敵地ヲ偵察之図

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斉藤少佐之恩愛二促テ捕虜軍内之実ヲ吐ク図

小林清親は、1876年に版元の松木平吉から版行した「東京名所図」シリーズで、「光線画」と呼ばれる手法が受けて人気を博した絵師です。
この「光線画」について清親は、遠近、明暗、陰影に注意して描くもの、と絵画教本『教化適用 毛鉛画独稽古 附教授法』(1895年)の中で説明しています。
「光線画」という聞き慣れない名称の由来は諸説あるようですが、wikiに「当時市中にガス灯が灯りはじめ、人々が光は線条をなすのに気づいたため「光線」という言葉が流行したと言われる。」とあり、この流行にあやかり版元が名付けた説があるようです。
実際、清親の絵はJ・J・エイブラムスより光源が意識されています。
また、水平線を画面中央より下に置き、目線を意識した構図がとられていることが多く、まるでカメラを固定したショットのように見えます。これは他の錦絵風景画には無い特徴のようです。
しばしば、西洋の印象派を引き合いにして語られることもある清親の「光線画」ですが、ここまでは日本における写実的な絵の先駆者といったところかと思います。
しかし、清親には写実的に対象を捉えるのみならず、その変化、あるいは動きの表現にまで意識が及んでいたのではないかと思わされる節があります。

以下、田淵房枝(2015).小林清親の「光線画」をめぐって:その表現の成立と展開の一試論 人文論究,64/65(4/1):59-77より引用
「風景における色の移り変わりは、時間の経過、天候の変化によって起こるという点も大きいが、清親はそれすら作品で表現しようとした可能性もある。現存するスケッチ帳には、夜空の月と、それにかかる雲を連続で写生している箇所がある。時間の経過で次々に変化していく色彩を研究する意味も感じとれる。加えて清親の風景版画作品には、摺違いが数多く確認されている。両国の大火の際には、作品自体が非常に人気で何度も重版をおこなったようであるが、刻々と変化する炎の様子をこの摺違いによって表現しているように見える」
記述にある両国の大火とは、1881年の錦絵「両国大火浅草橋」のことで、論文中に摺違いの4枚が示されているのですが、これが本当に変化の表現ならば、映画のコマをバラして世に送り出し、いくつかの摺違いを見た者の頭の中で動きにしようとしたとも考えられます。

浮世絵師という職業自体、版元の依頼を受けて彫師や摺師といった技術者とやり取りして作品を、しかも複製品を世に送り出すわけですから、映画監督とよく似ています。浮世絵で描かれる、時事や風景、気象や風俗など、その時代の他の視覚的な表現形態ではあまり見られないモチーフも映画と重なります。

小林清親は、「両国大火浅草橋」を世に送り出した1881年以降画風を変え、「光線画」を捨てた、と言われているようですが、それ以降に作成された戦争絵を見る限り、変わらず遠近、明暗、陰影は意識されています。これら戦争絵は、スケッチを元にした「光線画」とは違い、伝え聞いた戦況から絵師がその様子を想像して描くそうなのですが、その中に、戦場をカメラで撮影する場面を描いた、「我軍牛荘城市街戦撮影之図」があります。

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我軍牛荘城市街戦撮影之図

戦況を伝える戦争絵において、このような場面を描いた錦絵は他にはありません。この絵から分かるのは戦況ではなく、写真の登場が清親に与えた影響の大きさです。清親が「光線画」を捨てたとされる理由のいくつかに、写真の登場について書かれたものはなかったのですが、理由として充分考えられると思います。
カメラで撮影する者を捉えた目線は、まるで監督のようでもあり、その先の景色が見えながら、今一歩時代が届かなかった清親を表しているようにも見えます。